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丹波人物志
 
 


   


   


     


 
 
 
 

2015.1.29

 

 

丹波人物志
 Tanba biography 

  

 

大和時代

 

    伊賀古夜比売

 伊賀古夜比売丹波神野神の女で鴨建角命に婚して、多久須、玉依比古、多久須玉比売を生み、この鴨氏は大和葛城に蕃衍した一族で、建角身命は、神武天皇の東征に熊野から大和路の苦戦に際し八咫烏に化して皇軍を道案内したという武勇絶倫の軍神であって、その第二女玉依比売は、丹波山城地方を開拓して洛西松尾神社に祭られ、大山咋命と婚して、京都上賀茂神社の祭神である別雷神を生んだ。

 

    竹野媛

 竹野媛は丹波の大県主の女で開化天皇の妃となって第一皇子彦湯産隅命を生み、第二皇子の御真木入日子印恵命は天下を治めて崇神天皇と称し、第八皇子の日子坐王丹波道主命の父である。

 

    丹波道主命

 丹波道主命開化天皇の第八皇子日子坐王の子である。四道将軍に命ぜられて丹波を平定して教化を布かれ、子孫が丹波に蕃衍した。

 

    日葉須媛

 日葉須媛丹波道主命の女で、母は丹波の河上之麻須郎女で五女を生み、皆大和の宮中に召されて、長女の日葉須媛は垂仁天皇の皇后に上げられて景行天皇を生んだ。丹波道主命の弟、山代の大筒木真若王迦邇米雷王は丹波の阿治佐比売を娶って息長宿禰王を生み、息長宿禰王は丹波の遠津臣の女高材比売を娶って息長帯比売、即ち神功皇后を生んだ。

 

 

平安時代

 

    和泉式部

 和泉式部は越前守大江雅致の女で、和歌を善くし、和泉守橘道貞に嫁し、女小式部を生み(一説には藤原保昌に嫁して生むという)藤原道長に召されて上東門院に仕えた。この間に為尊親王に通じ、因って道貞と隙ありて終に離縁した。親王の薨後はその弟敦道親王と通じ、その絶えない間に再び藤原保昌に嫁した。かつて僧性空というのが播磨書写山に住み、世は挙ってこれを崇信した。式部は和歌を贈って曰く「暗きより暗き道にぞ入りぬべき遙に照す山の端の月」世は以って精妙と称した。元暦四年丹但の間に遊び、帰京の途に檜山駅にて偶ま病に罹り二月廿一日歿し、里人がこの地に葬った。

 

    丹波康頼

 丹波康頼南桑田郡矢田村の人で、その先は漢の霊帝五世の孫阿智王という。応神天皇の時に乱を避けて母子と郎党七人を伴れて帰化した。天皇はこれを大和国檜隈郡に封じて使主とした。その子が都賀に至り、姓直を賜い、二子あって長を山木、次を志努といい、志努は別に族阪上を賜って丹波に居り、子孫は駒子、弓束、首名、孝子、大国を歴て康頼に至る。康頼は医を学び、技術に精しく、姓丹波宿禰を賜い、官鍼博士左衛門丹波介を歴て、天元五年、医心方三十巻を著わした。この書は隋唐方書百余家捃摭し、毎門発するに巣元方病源候論を以てし、主療諸方これにつぎ、本草薬性明堂孔穴養生服石食餌等に至るまで具載しないものなく、称して、本邦方書の府庫とし、永観二年書成り奏進して、以て諸生課試した。子孫が奉じて家法とした。子は二人、長は重雅、次は清雅である。長徳元年四月十九日歿した。年八十四。

 

 

                              松井拳堂

 

 

 

 
 
         
     
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