黒尾神社 兵庫県丹波市青垣町小倉 黒尾大明神&諏訪大明神  竹内正道著作集 > 家族の源流 足立氏ものがたり
黒尾神社 黒尾大明神諏訪大明神 古城主 足立氏 勧請神社  兵庫県丹波市 2002.4.28

  竹内正道著作集
家族の源流 足立氏ものがたり

第二章
 
 
足立の元祖をもとめて
 

姓名  青垣町と足立姓  青垣町の足立史跡  家の永続性
足立氏 ふるさとの風土  武蔵武芝  小野田三郎兼広(兼盛)  足立遠兼(小野田六郎)

 

In Search of
the original ancestor of Adachi
 
   
 
     

 

 
 

vol.10  2000.12.15

 

姓名
 First and last name 

 

 

 一人の人間が誕生してから死亡に至るまで、その人の人格のよりどころとなるのは姓名であります。子供が生まれると親は、その子の名前をつけるのに悩みます。現在でも姓名判断の伝承があり、健康で豊かな一生を送ってほしいと名付けに苦労します。

 しかし、姓だけは先祖から子孫へと連綿として受け継がれ、子は親の姓以外を選択することはできません。古い家には系図が伝承されていますし、新しい家でも本家を訪ねると先祖がわかり、それぞれの姓氏には歴史的背景があります。

 

 数の多い姓は佐藤、鈴木、高橋、伊藤、渡辺、斎藤、田中、小林、佐々木、山本だといわれていますが、これらの姓は鈴木以外すべて地名から来ているといわれています。名字というのは中世の豪族の土地支配(名田経営)からきています。

 つまり名田の地名を家名にして、その土地の支配権を表明し、名田経営を承認さすものであったとされています。更に苗字がありますが、これは近世になってから使用されるようになり、祖先を同じくするものの家名として区別されていましたが、現代では姓氏として名字も苗字も同一視されています。

 

 『日本苗字事典』によりますと、苗字は27万余もあるそうですが、その9割は地名からとられているとされています。また明治8年に国民皆苗となり、苗字をつけることが義務化されました。江戸時代は、人口3,000万人くらいですが苗字を公称できたのは120万人と推定され、4%だったのですが、明治8年にすべての人に苗字をつけたのです。

 日本の人口を推定した研究によりますと、鎌倉時代の人口は690万、江戸初期で1,200万人、江戸中期で3,100万人程度であり、明治10年で3,650万人、20世紀初頭で4,440万人、そして半世紀前で8,389万人、昨年の総人口は1億2,668万人となっています。

 昨年の統計では14才以下の年少人口が前年度より31万人減少し、逆に65才以上の老年人口が67万人増加していますので少子高齢化が急速に進展します。

 昨年の人口増加は20万人でしたから、日本の総人口が1億3,000万になる見込みはなく、逆に50年先は半減しそうな状況です。そうした動向のなかで今後消滅する苗字も増えてくると思います。

 

 さて、苗字のことなら、私の生まれた町は不思議に足立姓が多く、ものごころがついてから周囲の姓は足立ばかりで、同姓同名も多くとまどうことが多くあり、それは現在まで続いています。おそらく500人近くの足立さんと交流していますので「足立です」と電話がかかるともう大変で、どの足立さんか特定するのに苦労しています。それほど丹波氷上郡、とくに青垣町は「足立姓」が多いのです。

 寛政6年(1794)に完成した『丹波志』に氷上郡内の足立・安達姓は本家42軒、分家273軒とありますので、200年前にすでに足立を名のる人は相当数あったのです。佐久間英氏著『日本人の姓』によりますと、足立氏は約6万人あり姓氏別人口の244番目にあたるとされ、安達氏は約5万人で姓氏別人口の329番目であるとされています。

 

 足立姓の分布をみますと、東海地方(美濃、尾張、三河、遠江、駿河、伊豆)岐阜、愛知、静岡県と近畿地方(丹波、京阪神)兵庫県、京都府、大阪府、更に山陰地方(伯耆、出雲)鳥取、島根県、九州地方(豊前、豊後)福岡、大分県に偏在しています。

 福知山鉄道病院長であった安酸睦博氏の研究によりますと、足立氏は「その殆ど約95%は、中世武蔵国足立郡の豪族、足立遠元を遠祖としている。足立遠元は、藤原氏で、祖父の代より源家家人となり、父、藤原遠兼のとき、初めて武蔵国足立郡に在住、遠元のとき初めて、地名より足立氏を名乗っている」とされています。

 

 

 

 

vol.11  2000.12.22

 

青垣町と足立姓
 Aogaki town and Adachi last name 

 

 

 小学校に入学した時、一番不思議だったのはクラスの中に足立姓があまりに多かったことです。70名の同級生のうち28名が足立姓で同姓同名もあり、足立姓の子は地区名と名で呼んでいました。平成10年の青垣町の電話帳によりますと848世帯が足立姓です。

 足立姓の多い理由は、武蔵国足立郡の足立遠元の孫、遠政が承元3年(1209)に鎌倉幕府より佐治庄地頭に補せられ、山垣の万歳山に城を築いたのが足立氏扶植の始まりであります。

 青垣町小倉妙法寺所蔵の『足立氏丹州領地並由緒書』によりますと足立氏の所領は次の地区にありました。

    小倉、小和田、中佐治、佐治、遠阪、山垣、
    市原、稲土、文室、惣持、小稗、大稗、大名草、
    桧倉        以上拾四ヶ村

 『青垣町誌』の「部落誌」より足立関係の地区を調べ、その足立姓数をみると次の通りです。

   小倉(森)            41   稲土(菅原、西山、日向)   70
   小和田(寺内、奥塩久)    59   文室             19
   中佐治(杉谷、平野、岡見)  56   惣持             14
   佐治(新、中、本、荒神、          小稗             23
      上、大正、愛宕、東) 102   大稗             25
   遠阪(徳畑、和田、今出)     80   大名草            81
   山垣(向、下地、上地、平地) 89   桧倉             35
   市原(岩本)         44   口塩久            36

計 774

 

 この地区のうち山垣に本城を、小倉、小和田、奥塩久、遠阪、徳畑、稲土に出城をおいて、現在の佐治、神楽、遠阪を支配すると共に、この出城に一族を配置していたので、その子孫がそれぞれの地区に足立姓を名のり増加していったのです。

 伝承によりますと山垣城には150人ほどの武士がいたといわれていますが、平時は城下の山垣、徳畑、中佐治一円に居住して農耕していたのです。天正の乱で山垣城が落ち、明智光秀に従った武将も滅亡し、それぞれ帰農したとされますが、それぞれの地区に遠政末孫の家系があり、農業をいとなんでいました。

 

 

 

 

vol.12  2000.12.29

 

青垣町の足立史跡
 Adachi historic site in Aogaki town 

 

 

 『青垣町誌』に記してある足立氏関連の記述をまとめますと次のようなものです。

  佐治  八柱神社     地侍足立氏の霊をまつる
      西往寺      足立庄次郎持の庵なり
      足立遠政の二男遠信、小和田城を築きこの地を領す
      佐治、小倉、市原は岩本城、足立宗次入道の領下
  小倉  黒尾大明神 諏訪大明神…古城主足立氏勧請の神社
      瑞岩山高源寺   開山遠谿和尚(足立光基三男)の建立
      立正山妙法寺   足立左衛門太夫というもの足立氏の下屋舗に建立
      日が谷黒尾神社前に岩本城主足立宗次入道の居城あり
      足立遠政来丹時初めて居を構えたのが光明寺跡、下屋敷が妙法寺境内
  市原  正平22年(1367)3月16日
                 佐治庄岩本城主足立宗次入道大明寺へ黒川郷御寄進
      元禄3年(1690) 足立嘉光、山名矩豊に仕う
      元禄4年(1691) 宗次入道の大位牌を黒川大明寺に納む ‐ 足立嘉光
      享和元年(1801) 岩本足立弥三郎娘つな但馬池田弥左衛門
                 (但馬聖草庵の父)に嫁す
  小和田 小和田城址    古城主は遠政二男の足立左衛門遠信、三代の居城跡
      石仏山大通寺址  足立氏所持仏なり、足立氏の菩提所
      八幡神社     若宮神社と称し天正11年10月15日足立遠宗を祀る
      薬師堂      足立氏母開基、五輪塔あり
      足立三郎兵衛旧栖 三郎兵衛を祭る神社、本屋敷は八幡の森となる
  桧倉  西天目山高源寺  山垣城主足立光基の子遠谿祖雄創立の中峰派本山
  大名草 足立氏が但馬、黒川を支配していたころは往還の村として重要
  小稗  城山       天正の頃足立又三郎南麓に住む
  稲土  八幡神社     足立氏先祖の鎮守八幡
      大灯寺      足立馬之助政重が建立、一休を開山とする
      足立修理太夫旧栖 山垣の分家、当谷を領し足立午之助相続す
      足立大和守旧栖、足立三太夫旧栖、足立主殿旧栖等あり
  遠阪  不遠山西方寺   足立彦助開基
      遠阪城熊野神社の南に足立伊豆守の居城あり、子孫は熊野神社の神官
      足立彦助政秀   秀吉の高麗陣に供奉す
      田の口城址    足立遠政が、田の口と今出奥に出城をつくる
               足立右近光永、天正の丹波攻めで善戦す
  山垣  山垣城      古城主鎌足公末葉久保田左衛門尉遠政居城とす
      万歳山報恩寺   足立遠政の先祖を祭る
  中佐治 紫雲山清涼庵   足立氏持庵
  口塩久 玉林庵      足立丹後守基家邸跡

 

 

 

 

vol.75  2002.8.9

 

家の永続性
 Persistence of family 

 

 

 高度経済成長期に日本の永い伝統が崩壊し日本はあらゆる分野で変わってしまいましたが、その中でも最も重要なのが家の永続ということを考えなくなってしまったことです。

 「家」にほこりをもち、「家名」を大切にし、「家の永続」を願って生きて来ました生活の基本が崩壊してしまいました。「家」にたいするほこりがなくなり、家族も変質してしまい離婚も毎年増加し、昨年の離婚は29万2,000組で過去最多を更新しています。

 結婚式も変わってきました。家と家との婚姻の形式は過去のものとなって、親族の参加しない友人達の会費制で済ませるものが増加していますし、結婚式を省略することも増えています。愛がなければ結婚しないでしょうが、愛の永続は保障できませんので、2人の愛情のみでは離婚が増えるのもやむを得ないことなのです。

 

 日本の婚姻は、平安時代末期まで、夫が夜に妻のもとを訪れて明け方まで共にすごすという「通い婚」で、夜明けになると夫は自分の家へ帰って生活をしていました。

 男性は恋仲になった彼女のもとへ通いましたので、熱がさめたり、別の女性を求めるようになると女性のもとから去ります。女性に子供ができると、女性の血縁集団の中で育てられましたので子供は誰の子かは問題にされませんでした。

 平安末期に藤原氏の摂関政治となり、成功の制度が一般化します。土地を寄進することにより地位や権力を藤原氏より保障されるということですが、これまで共同体の共有財産でありました土地が、有力者の私有財産となり私領と化したのです。10戸ほどの家が集まり70~80人で構成された血縁集団の共同体が崩れてしまいましたので、成人した女性は男性のもとへ嫁入りするようになりました。

 

 子供は特定される父母に育てられ、家の後継者として父の財産や地位をうけつぎます。有力者は名字を使用し排他的な「家」が成立し、「家」が集まって「家族」集団ができたのです。この頃から戦闘する時には「家名」を名のり自分の地位や家柄を相手に伝えてから戦いました。

 11世紀に関東で先祖伝来の本領を名字の地とし、そこを守るのは武士団の惣領で、先祖より継承した墓地や、一族の祭神の神社や寺院を建立し祭祀するようになりました。惣領は先代の子供のうちすぐれたものが嫡子として選ばれ、武士団の代表となり、その他の一族衆を「家の子」とし、更に非血族者を「郎党」として引きつれ武士団を形成しました。

 名字というのは、先祖伝来の所領支配権を継承する「」につけられた名称でありましたので千年の歴史をもっています。

 

 一人の人の生命は過去にさかのぼると遥か彼方の先祖から親から子、子から孫へと伝承されていますので、永遠の生命とのつながりに到達してしまいます。今、いきている自分は永遠の生命から生かされていると気づくことこそ、人間の尊厳の基本なのです。永遠の生命から生かされている二人の男女が縁により夫婦となって家庭をつくりますので、それぞれの親、祖父母、曽祖父母と先祖につながって生まれてきて結婚したことを考えてみることも大切です。

 先祖のことを無視し、永遠の生命とのかかわりを反省しないでいると、家庭の聖域も精神性も失われ生きるよりどころがなくなってしまいます。家の永続のことなど問題外となってしまいます。

 高度経済成長期に多くの若者が単身で都市に職場を得て核家族をもつようになりました。郷里には老父母や祖父母をおいたまま後継者が転出した家族は悩みが多く、苦労しましたが、近年自分も退職して第2の人生へ再出発しなければならなくなりました。そして長い老後の生き方、先祖のこと、郷里の墓のこと、家の将来のことなどで悩んでいるものが増えています。まさに少子高齢化社会で、家族の崩壊は多くの人びとを生きる希望のないような不幸におとしいれています。

 

 「家」は平安末期の武士たちの社会で成立し、家名や家紋を重んじる生き方を現在まで伝えています。名字から家の永続のために身を賭した先祖達の生き方を知ることができます。

 家の永続性を考えるとき、鎌倉幕府成立に深くかかわっていた「足立氏」の存在があります。「足立氏」はあまり知られていない家名であり、権力者の陰で献身的な生き方をする人の多い歴史の表に登場することの少なかった一族であります。

 常に自利利他の精神で多くの人々の生きる幸せのために身を賭した人物が多い家であったようで、「足立」と「安達」をつかいわけながら家の存続につとめています。

 遠祖「足立遠元」に対する尊敬と崇拝の念が信仰となって一族の精神的バックボーンを形成したから、その生き方は今日まで伝えられているのです。

 足立氏の群像を調査して「」の問題を考えていきます。

 

 

 

 

vol.14  2001.1.12

 

足立氏
ふるさとの風土

 Adachi family Natural features of hometown 

 

 

 足立氏の「ふるさと」は坂東で、いまの関東地方を坂東というのは、足柄、碓氷の坂より東ということで、二つの峠によって外から隔てられ、大和朝廷への服属もおくれ、異域とされていまして、坂東の北方は蝦夷の住む「みちのく」であり、相模、武蔵、安房、上総、下総、常陸、上野、下野の八国があり、これを坂東八カ国といいます。

 足立氏の先祖は、この坂東の地、武蔵国の足立郡に本拠をおく坂東武者武蔵武士でありました。この地域は律令制が衰えると国家権力の統制がきかなくなり、秩序が崩れて内乱が頻発するなどして独立の気風がありました。足立郡の足立氏を考えるには、平将門の乱(天慶3年、940)ころまでさかのぼらなければなりません。それは「国史大辞典」(吉川弘文館)で平将門にしたがった武蔵武芝の流れが足立氏の先祖だとされていることを調査してみなければならないからです。

 

 平将門(903~940)は坂東を根拠地として、天慶の乱をおこし、古代貴族国家に対し初めて本格的に武装反乱に立ちあがった武将です。出身は桓武平氏、祖父高望王は上総介、父良将は鎮守府将軍をつとめた家柄でありましたが、下総を基盤に勢力をひろげ、叔父国香を殺して、常陸、上野、下野の国府を攻め落とし、未曾有の戦いを国家に挑んでしまったのです。

 この乱以降、関東地方に源氏の勢力がのびてきます。11世紀前半、平忠常の乱を鎮めた源頼信、11世紀後半の前九年の役、後三年の役を平定した源頼義・義家と相模、武蔵、上総、下総の坂東武者との関係が強いものとなってきます。

 安倍貞任(1019~62)は奥州の豪族で、父頼時とともに陸奥を押領して貴族国家に対抗して国司と争います。朝廷は源頼義(998~1075)を陸奥守に任命して安倍の反乱を鎮圧しましたが東京都足立区の白旗塚には源義家の奥州遠征の伝説がのこっています。

 

清和源氏略系図 竹内正道著作集 > 家族の源流 足立氏ものがたり

清和源氏略系図】

 

 

 

 

vol.15  2001.1.19
vol.76  2002.8.11

 

武蔵 武芝
 Takeshiba Musashi 

 

 

 足立氏のルーツは武蔵の国にあった足立郡にあります。足立郡埼玉県南東部と東京都足立区全域にあたる地域で東は古隅田川より埼玉、葛飾両郡に接し、西と南は荒川により大里、横見、比企、入間、新座、豊島郡に接した66ヵ郷で広大な地域です。

 足立郡の郡名は「続日本紀」神護景雲元年(767)12月の条に初見があり、足立郡の人丈部(はせつかべ)直不破麻呂らが武蔵宿禰の姓を賜わり、不破麻呂が武蔵国造となったという記事がみられます。そして、この郡を治めていたのは、大化改新以来西角井家であります。平将門の乱で活躍した「足立郡司判官代」の武蔵武芝は不破麻呂の後裔であるとされています。

 太田亮の「姓氏家系大辞典」には「将門記に足立郡司判官代武蔵武芝と見ゆるものの子孫が足立氏だとされており、吉川弘文館発行の「国史大辞典」にも「足立氏は平安時代以来源氏の家人で、この家は足立郡司武蔵武芝の子孫であり、鎌倉時代には藤原氏と称している」と書かれています。

 

 武蔵武芝は治郡の名の高い名郡司で、国衙からも住民の百姓からも信頼されて郡内に良政を施し精勤していました。ところが、武蔵権守(仮の国守)になった興世王(桓武天皇五世の孫)が、正式な着任をまたずに足立郡にはいろうとしましたので、武芝はその様な慣例はないと入部を拒否したのですが、興世王は強引に入部して武芝の舎宅や民家に押入り財物を奪い取り封印してしまいました。

 武芝は不法を訴え押収した財物の返還を申し入れますが興世王は耳をかさないどころか、武蔵介の源経基とともに合戦の準備をはじめました。この争いは平将門の仲介でおさまるかに見えましたが、武芝一派が経基の営所を包囲したことから、経基は京都に逃げ帰り、彼らが反乱を企てていると報告します。

 この事件は天慶元年(938)のことですが、この翌年常陸の土豪藤原玄明と国守の紛争に介入した将門は、国府を焼きはらい公然と国家に反抗します。以来関東の諸国に出兵して国守を追い、弟や一族のものを国守に任命して、自分は新皇と称して関東の自立をはかりました。将門に武蔵も支配されましたので、平将門の乱に武芝も渦中にひきずりこまれてしまいます。

 

 この乱は天慶3年2月に下野の豪族藤原秀郷と従兄の平貞盛らの軍に攻められ、平将門は討伐されて終わりますが、武蔵武芝も足立郡司を退任し、氷川神社の祭事からも退いています。

 西角井家系図によりますと、氷川社務は武芝の娘によって継承されています。この娘は菅原正好が武蔵介として下向してきましたのでその妻となって、その子正範が外祖父にあたる武芝の跡をついで氷川社務司となったことになります。氷川神社の祭祀権武蔵家から菅原氏に移ったということは足立郡司職武蔵家から菅原氏に移ったと考えられますので、武蔵武芝の子孫として足立氏が、足立郡司職をついでいたということはなかったことになります。

 

 武蔵菅原氏は、武芝の娘を母として正範が生まれていますが、兵部少丞であり、その子が行範で足立郡司権大夫となり、以後、行基、行永、正見、宗基、正家と代々続いて足立郡司を歴任しています。そして菅原家は正家以降は内倉と称するようになり、氷川神社の祭祀権は菅原氏より内倉家へと移り、足立郡司も豊島氏、そして足立氏へと移りました。

 豊島氏は祖の秩父武常のころから武蔵で勢力をもっていました。足立区の史跡公園になっています白旗塚には、源義家の奥州遠征豊島武常が附会したとの伝説があり、北区の上中里の平塚神社に居館があったとされ、足立郡を早くから支配していたとされます。

 2代目の常家は義朝にしたがって保元の乱に参加して討死しています。3代目康家は足立、多麻、新倉、児玉の四郡を領有したとされていますが、治承2年(1178)正月に逝去していますので、頼朝の挙兵以前に死亡していました。


 

【西角井家略系図】 竹内正道著作集 > 家族の源流 足立氏ものがたり

西角井家略系図】

 

 

 

 

vol.16  2001.1.26

 

小野田三郎兼広
(兼盛)

 Saburou Kanehiro Onoda (Kanemori) 

 

  

 丹波青垣町妙法寺に所蔵されています『足立家丹州領地並由緒書』によりますと、足立氏の先祖は、元祖藤原鎌足であり、十七代の孫小野田三郎兼広の二男が遠兼であり、右大将源頼朝公家人で祖父より武州足立郡に住し足立藤九郎と名のり、民部凾に任ぜられたとなっています。

 また、佐治庄地頭足立氏系図では遠兼の父は忠兼、祖父は定忠となっていて忠兼は蔵人と注記されています。この系図は高藤流藤原氏を先祖とし、遠兼の妻が豊島平傔伏泰家の女とあり「外祖泰家譲與足立郡地頭職仍一円知行之」の注があります。

 更に『尊卑分脈』には山蔭流で下総掾、出羽介国重の男、小野田兼盛が遠兼の父となっています。このように遠兼の父については、兼広、忠兼、兼盛となっていますが、いずれも兼の字があり、小野田三郎の注がありますので同一人物と思えます。

 

 また藤原北家の二つの流れの問題についても、妙法寺文書は「十七代孫小野田三郎」として系統を重視していませんので、今更7世紀以来の系図を推理する必要もないと思われます。

 『与野市史』には「平将門の乱後、氷川社務司および足立郡司職は武蔵氏から菅原氏に移っていたことが知られる。下って平安末期には氷川社務司は菅原氏が、足立郡司職は足立氏が継承しており」とありますが、郡司に任用するのは在地の土豪でなければ無理なことだとすると、遠兼以降郡司になるためにはその父、小野田三郎兼盛はすでに足立郡内で有力な土豪であったとするのが自然であります。

 このことについては『大宮市史』に「足立氏は大宮市内殖田谷郷に本拠を有する在地豪族」であったとし、「あだちとのの屋敷」と称される場所もあり、古代以来の式内社足立神社の存在もそれを裏付けるものとされています。

 さらに金沢正大氏は「兼盛は無官の『小野田三郎』と称するのみ」で、彼が藤原「国重の実子として土着したのか、在地豪族なのか、国重との婚姻関係等で、養子関係に入ったのか、いずれとも判断出来」として足立氏が山蔭流とはいえないとされ、「小野田系」の嫡系とされています。

 

 しかし、兼盛の孫の遠元の娘藤原光能と結婚し、知光(1168生)、光俊(1179生)を生んでいますので藤原氏とは極めて深い縁で結ばれていたと思えます。
 ちなみに藤原光能は後白河上皇の近臣で蔵人頭として院旨を伝える近臣の最高位に任ぜられていました。

 関東には11世紀の源頼義、義家以来源家との主従関係をもつ在地武士が多かったのですが、武蔵の在地武士が保元・平治の乱で主流をしめ他を圧倒しており、その中には頼義、義家時代からの譜代の家人も多くあったことから、遠元の祖父兼盛は源家譜代の有力武士であったとされています。

 

【藤原氏略系図】 竹内正道著作集 > 家族の源流 足立氏ものがたり

藤原氏略系図】

 

 

 

 

vol.17  2001.2.2

 

足立遠兼
(小野田六郎)

 Tookane Adachi (Rokurou Onoda) 

 

 

 足立家の先祖は一般に足立遠元とされていますが、妙法寺文書では「遠兼右大将源頼朝公家人也自祖父住武州足立郡仇名足立藤九郎任民部丞」とあります。足立藤九郎については後に記しますが、先にみた様に祖父の代以前より足立郡に住居をもっていた地方豪族であり、国衙行政につとめた従六位くらいの人物であったと考えられます。「曽根本足立家代々由来」には「足立元祖民部丞藤原遠兼」という表現もされており、足立遠兼を足立家の先祖とする記述もあります。

 「丹州足立氏系図」には、遠兼について「武蔵国足立郡住」とあり、遠元について「足立と号す。母は豊島平傔伏泰家女、外祖父泰家、足立郡地頭職を譲与す、依て一円知行」と注記されています。これについて安田元久氏が「泰家が実際に足立郡地頭職を有していたというのは、はなはだ疑わしい。それ以上に、彼の時代に『地頭職』という名称が行われたとも考えられない。」とされているようにこの系図も後世の創作であります。

 

 しかし、康家の娘が足立遠兼の妻であったこと、そして遠元の母であったことは疑問の余地はありません。また足立区の史跡公園になった白旗塚には源義家の奥州遠征の伝説があり、奥州へ義家を案内した豊嶋氏の居館の跡が平塚神社になったという記述もあります。

 「豊嶋氏系図」には保元の乱で討死した常家のこと、足立、多麻、新倉、児玉の四郡を領有していた三代目康家(泰家)のことも記述がありますが、その康家も治承2年(1178)病死していることから、豊嶋氏から足立氏へ嫁いだ遠兼の妻へ足立郡の所領が譲られたということは充分考えられることです。しかしもしそうなら何時のことか、どの領域であったか不明です。

 

 「尊卑分脈」について金沢正大氏の安達藤九郎盛長についての考究によりますと、「基春」が「安達」とあり、「延慶本平家物語」に安達盛長が「足立藤九郎盛長」となっていて同訓異字である。又「兼盛」と「遠兼」、「盛長」は通字性により親子関係で、これが兄弟となると遠元と盛長は甥と叔父となる。しかし、この系図では盛長が小野田藤九郎とされ遠兼が右大将家家人安達藤九郎民部丞となっていることに疑問をもたれています。

 ところが、盛長は正治2年(1200)に66歳で死去していますので、その生年は保延元年(1135)となり、遠兼の生年は不明ですが、息子の遠元が平治の乱(1159)に参戦し右馬允に任官していること、遠元の娘が仁安元年(1168)生まれの知光、治承3年(1179)生まれの光俊の母であることから推定すると盛長より遠兼が年長で兄となり「尊卑分脈」の序列は逆であり傍注も入れかわることになりますから、遠兼が安達(足立)六郎となり、盛長は右大将家家人の安達藤九郎盛長となるとされています。

 鴻巣市糖田の放光寺には同市の文化財、鎌倉期の等身大の坐像、足立藤九郎盛長像があり、同所に盛長館址がありますので、安達藤九郎盛長は足立六郎遠兼の弟とすべきであります。盛長は文治5年(1189)に安達郡を賜っていますので、それから安達姓を使用したとみるべきで、すでに55歳になっていましたし、それは遠元が治承4年(1180)10月8日に頼朝より足立郡の領掌権を安堵されてからかなり後のことです。

 

 以上のことから妙法寺本の「遠兼右大将源頼朝公家人也」とありますが、遠兼は戦乱の続く東国にあって、小野田氏の嫡系として源義家以来の源氏家人として足立郡内に勢力をもち姻族を通じて武蔵の有力武士となり、一族の発展する基礎をつくり、「足立神社」を中心に敬神崇仏を大切に一族の結束をかためた人物でありました。

 

 

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足立藤九郎盛長像

 

 

【藤原足立系図】  竹内正道著作集 > 家族の源流 足立氏ものがたり

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