足立右馬允遠元館跡 一本杉根元 石祠 石の神明宮  埼玉県桶川市  竹内正道著作集 家族の源流 足立氏ものがたり
足立右馬允遠元館跡 一本杉根元 石祠 石の神明宮  埼玉桶川市

  竹内正道著作集
家族の源流 足立氏ものがたり

第三章
 
 
鎌倉時代の足立氏
 
足立遠元  源頼朝  比企尼の一族  足立藤九郎盛長  頼家と実朝  足立遠元の子孫
鎌倉時代と宗教  北条氏と足立の関係  足立(安達)藤九郎盛長の子孫  もののふの道
源氏将軍たちの信仰  北条泰時  時頼の信仰  安達泰盛と時宗  弘安合戦と平禅門の乱
 
 

Adachi Family of the Kamakura period

 
   
 
     


 
     
 

vol.18  2001.2.9

 

 

足立 遠元
 Toomoto Adachi 

 

 足立氏は平安末期から歴史の舞台に登場するようになり、源頼朝の鎌倉幕府創立に主導的な役割をはたしています。武勇に優れ、忠義、礼節、信義、質実剛健を重んじ敬神崇仏の念厚い文武両道の勇士」であり「武士の鑑」でもあるとされています。

 足立氏の祖とされている足立遠元とはどんな人物だったのでしょうか。

 

 遠元の父は小野田三郎兼広の長男遠兼で、祖父より武蔵足立郡に住んでいました。またの名を小野田六郎といい民部丞に任ぜられており、藤原氏を名のる足立郡領で、その弟に安達家の祖といわれています足立藤九郎盛長がいます。

 遠元の母は豊島康家の娘で、祖父常家は源義朝に従って保元の乱に参戦し討死しております。康家は、豊島、平塚、足立、多麻、新倉、児玉の六郡を領掌しており、康家の死後足立郡は遠兼にゆだねられています。両親の家はいずれも源氏ゆかりの一族であり源義朝の家人として武蔵の名族でありました。

 遠元の生年、没年とも正確に記したものはありません。足立四郎左衛門尉と号していましたが、これは建久元年(1190)11月頼朝の推挙により任ぜられてからのことであり、それまでは平治の乱(1159)で大活躍をして右馬允に任ぜられていることから右馬允遠元と記されています。右馬允として任官していますので30歳頃と考えますと、1120年代の生まれということになります。

 さらに藤原光能に嫁いだ遠元の娘の子知光の生年が仁安元年(1168)生まれであることから、もう少し前の生まれかもわかりません。また没年は「吾妻鏡」承元元年(1207)3月3日の幕府鶏闘会に参加した記事が最後でありますのでこの年ぐらいに死没したようですがそれはすでに80歳を越えていたことになります。

 

 足立遠元の遺跡は大宮市、桶川市に残されています。「新編武蔵風土記稿」に、大宮市植田谷の旧家勘太夫屋敷について「この勘太夫屋敷は先祖が在城した城址といわれるが、今も西方に堀をめぐらし、北の方には大沼があって、すこぶる要害の地であることは確かで、ずっと古いことはともかくとして、中世には相当の人が居住していたことは疑いない所である。この家にはいまでも国俊の刀、及び先祖が用いたという馬の鞍、長刀、鎗、刀、脇差等が沢山ある」と書かれています。

 遠元館址は、昔は三町歩の広大な敷地に土塁を廻らし、その中に足立神社があったといわれていますが、足立神社は明治の初期に飯田の足立神社に合祀されております。この屋敷址には勘太夫の子孫が住んでおられます。この子孫の小島家も元は足立氏で家紋は足立氏の家紋のケンカタバミ五本骨日の丸扇で古文書が多く残されています。

 次に桶川市の足立館について「足立右馬允遠元館跡」と「三ツ木城址」があります。

 「足立右馬允遠元館跡」は桶川市末広二丁目にあり、現在は桶川市総合福祉センターになっている住宅地の一帯です。かつては老杉があり一本杉といわれていました樹齢幾百年のものだったそうで根株が残っています。

 「新編武蔵風土記稿」桶川宿に「旧蹟、屋敷跡、足立右馬允カ居住ノヨシ、今ハ林トナリ、其中ニ石ノ祠ヲ立レトモ、文字ナケレバ其由ヲ知リカタシ。昔、屋敷跡トオホシキ所ヨリ武器陶器ナト掘出セシコトモアリ」と記されています。老杉の根元に安置されていた石の神明宮(高さ70㌢)は現存していますが、右側に足立右馬允の家紋を刻し、左側に「神明宮建久三歳城主足立右馬允建之 文化六巳歳再建 府川甚衛門尉義重」と刻されています。府川氏というのは桶川宿本陣の主人であった人物です。

 足立右馬允や安達藤九郎盛長の居館とされているものに「三ツ木城址」が桶川市大字川田谷字城山にあります。

 川田谷の大宮台地の標高19.6㍍にあり三方が泥深い湿地で自然の要害の地でその範囲は東西120㍍、南北110㍍の地で、現在は「城山公園」として整備されています。城跡は山林で周囲には土塁、壕の跡があり、高台より四方一望でき川越方面を見渡せるところです。林の中に木造の小祠社2つがあります。

 居住者には前記の2人の他に石井丹後守の名もありますが、この人物は15世紀後半に活躍した岩槻太田氏の家臣です。

 

 

埼玉県桶川市末広二丁目 足立右馬允遠元 館跡  2005.3.13  竹内正道著作集 > 家族の源流 足立氏ものがたり
足立右馬允遠元 館跡石碑 桶川市総合福祉センター  埼玉県桶川市

 

 

vol.19  2001.2.16

 

 足立郡の豪族として、また郡司として最も有名なのが遠元ですが、郡衙大宮市におかれ、現在の埼玉県北足立郡と東京都足立区を含む広大な地域を領有していました。藤原中納言山蔭の子孫が東国に下って土着し、遠兼の時に足立郡に居住して足立郡領となったともいわれています。

 郡領というのは、国に国司があり、郡には郡司が任命されて、それぞれの地方行政を担当しましたが、郡司には郡領・主政・主帳・書生・案主等の役職があり、郡領は長官として最も権力をもっていました。郡領は地方豪族終身、世襲の職となっており、国司の推薦で太政官から任命されております。足立氏も源氏を棟梁として仰ぐ武士集団を支配していましたので足立郡一円を領掌しました。

 当時の武士が平生居住していた所がであり、その地域の有力な私営田経営者であったり、荘園荘司として荘園管理をしていますので広大な館をもち、家の子、郎党を従え、労働力としての下人、所従を使役して館内に住まわせていたのです。その上、治安が悪かったので、常に外敵の侵入を防ぐという防衛策を講じ、自衛していました。館の周囲にはをめぐらし、その内側には土塁を設けていたのです。

 

 足立氏は源氏の家人として、源義朝には、遠兼、遠元父子ともに従い、戦乱には一族と共に参戦しております。

 保元3年(1158)8月、後白河天皇は親政わずか2年で二条天皇に譲位し院政を再開しますが、これにより陰湿な動きがでてきました。後白河院信任で実権をもった信西と、それと結んで頭角をあらわした平清盛に対しまして、出世の道を封じられた藤原信頼と平氏に先をこされた源義朝が信西打倒の策謀をすすめます。

 平治元年(1159)12月清盛が嫡男重盛とともに熊野詣に出た隙をついて9日の夜、義朝は院御所三条烏丸殿を包囲して後白河院を内裏の一本御書所に幽閉して院御所に放火、同時に姉小路西洞院の信西屋敷を焼き一族を追放、追いつめられた信西は自害するというクーデターを起こしました。

 14日にはその成功を祝し除目を行い左馬頭義朝播磨守に、その子頼朝右兵衛に任官、足立四郎遠元右馬允に任ぜられます。

 ところが清盛が入京しますと藤原信頼を見放した公卿たちが、天皇を六波羅の清盛邸後白河法皇仁和寺へ脱出させます。天皇、上皇の不在となった内裏で信頼、義朝は完全に政治的敗北となり、あとは源氏の意地をかけた戦闘だけとなり、せっかく遠元ら武蔵武士の勇戦奮闘も役に立たず、信頼、義朝の首級東獄の門の樹に梟される結果となりました。

 武蔵には頼義、義家時代からの源氏ゆかりの家人も多く、この敗北で武蔵武士は東国に帰りましたが平氏の時代となり、遠元も足立郡に帰り蟄居しております。

 

 平治の乱により清盛は一門と共に栄進し、7年後には太政大臣に就任しました。その政治は「平家にあらざらむ人は皆人非人」という状況で、平氏敵対者を徹底して抑圧する弾圧政治が展開されます。武蔵も平知盛が国司となりました。そして、12歳の頼朝は清盛の継母の池禅尼に助けられ、伊豆蛭ヶ小島に流され、平家に属した伊東祐親北条時政の監視下に20年をすごすことになりました。

 

 伊豆流人時代の頼朝を扶助したのは武蔵比企郡少領比企掃部允の妻で頼朝の乳母、比企尼で、常に頼朝を庇って20年間仕送りをして保護してきました。

 比企尼は3人の娘がいましたが、長女は安達藤九郎盛長、二女は河越太郎重頼、三女は伊東祐親の二男伊東九郎祐清の妻です。

 足立遠元の叔父盛長は頼朝蟄居の間忠実に頼朝に近侍していました。後に盛長の娘は範頼の妻に、河越太郎の娘は義経の妻に、つまり比企尼の孫娘は頼朝の弟と結婚していることから、この3人の聟との関係は深いものでした。

 また盛長の妻の妹は伊東祐清の妻であり、祐清の妹が八重姫で頼朝との間に千鶴が生まれています。

 さらに足立遠元の姻戚を見ますと娘が畠山重忠と結婚しており畠山小次郎重秀が寿永2年に生まれています。遠元のもう一人の娘は藤原光能と結婚し、知光が仁安元年(1168)に生まれています。

 また光能の妹は後白河院の皇子以仁王との間に真性が生まれていることから、遠元と叔父の盛長、そして頼朝とは深い縁で結ばれており、遠元をめぐり頼朝と以仁王も姻戚関係にありました。

 

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足立遠元館跡一本杉 竹内正道著作集 > 家族の源流 足立氏ものがたり

足立遠元館跡一本杉

 

 

vol.20  2001.2.23

 

 こうした東国武士間の身内関係、比企、足立氏とのつながり頼朝の幕府成立に重要な役割をすることになります。足立遠元の娘が後白河院近臣の藤原光能の妻であり、その縁には以仁王もつながっていましたので、後白河院政の中枢に直結していたのです。

 比企尼が頼朝の日常生活を扶持し、盛長は日常近侍していたというだけではなかったのです。東国のかつての御家人というだけでなく甥足立遠元により後白河院政の動向は盛長を通じて頼朝に伝達されていたのです。頼朝にとって足立遠元こそ、最も信頼できる支持者であったことはいうまでもありません。

 足立遠元もまた、平治の乱後単に逃げ帰った義朝の家人としてかくれていたわけではなく、常に京洛貴顕との交流で政治の動向をみて源氏再興の時をさぐっていたので、頼朝の文武両道師範たりえたのです。

 頼朝挙兵の治承4年10月2日に「足立右馬允遠元 兼日依受命 為御迎参上」とあるのは当然で鎌倉入りをした10月8日に「足立右馬允遠元 日者有労之上 応最前召参上之間 領掌郡郷事不可有遺失之旨 被仰」と「吾妻鏡」にあるように東国御家人の第一人者として異例の恩賞をうけていることから、どれほど頼朝が頼りにしていたかを明白にするものであります。

 

 武蔵国は1160(永暦元)年に平知盛が国守となって以来、平氏が一貫して国勢を掌握していました。それを足立遠元の参陣と共に1180(治承4)年10月に畠山重忠河越重頼江戸重長の帰参により反平氏軍へと武蔵の豪族を決定的に転向させます。ここで10月5日国衙に入城し武蔵国を簒奪、秩父一党の長老重長総検杖職に据えて新体制を樹立します。

 これも足立遠元女と畠山重忠の婚姻による武蔵雄族の秩父一党嫡流と足立氏嫡流との身内関係により成功したのです。重忠は頼朝近臣として鎌倉幕府創立に登場してきます。

 頼朝は平家討伐軍をおこすためには、関東諸豪族の協力が必要でありました。当時の諸豪族の権利を安堵して国衙や郡衙機構を利用して武家政権樹立を考えていました。そして治承4年(1180)に侍所をおき、元暦元年(1184)には公文所を設置して武家政治の機構を整備しました。

 鎌倉幕府の公文所は、貴族の家政機関にならってつくられた重要な行政機関で、分国や御家人を統治するための行政事務を担当していました。公文所設置のとき、別当には中原広元を、寄人には中原親能藤原行政、足立遠元、甲斐四郎大中臣秋家藤原邦通等が選ばれましたが、これらの人々は京都の公家たちで実務官僚として堪能な士であり、遠元一人が御家人の代表として参画しています。

 

 遠元は元暦元年の志水冠者義高(木曽義仲の嫡子)残党の討伐、文治5年(1189)の藤原泰衡追討の際にも従軍し軍功をたてています。建久元年(1190)に頼朝が上洛した時、布衣侍十二人の内に選ばれて参院の供奉をしており、遠元は頼朝の推挙で左衛門尉に任ぜられております。頼朝の遠元に対する信頼は厚いもので、頼朝の姉の一条能保夫妻が鎌倉に来たときは鎌倉の遠元邸に宿泊していますし、頼朝夫妻も遠元邸で迎えているほどです。

 頼朝の死後、頼家恣意的な傾向が強かったので、御家人の不満も高まってきました。そこで北条時政政子の意見がいれられ、頼家が訴訟を親裁することができなくなり、北条時政など御家人と将軍側近の十三人の合議制がとられるようになりますが、このうちの一人に足立遠元も選ばれ、依然として幕政の重鎮であったのです。

 「吾妻鏡」によりますと、足立遠元は承元元年(1207)ごろまで活躍しています。「丹波志」に「足立と号し、足立郡地頭職一円之を領す。頼朝公実朝公御両代武勇の師範たり」法名天福寺殿霊覚樹大居士とあります。

 遠元の嫡子は八郎元春であり左衛門尉となって足立家を継承しますが、他に遠光がおり、その子の足立遠政は勲功により丹波氷上郡佐治郷を賜ります。この子孫は代々佐治郷に住んで万才城城主として佐治郷の領主となりました。

 

 

 

 

vol.21  2001.3.2

 

源 頼朝
 Yoritomo Minamoto 

 

 

 平治元年(1159)頼朝の父、源義朝は源氏勢力の巻き返しを図りましたが、平清盛に敗れ源氏の衰退を決定的にしてしまいました。このころはどんな社会であったのでしょうか。

 前九年の役の始まった1051年というのは、その当時の人びとが「末法の時代に入った」と思いこんだ時期です。末法というのは釈迦が入滅されてより正法、像法を経て末法となるということで、正法の時は教(釈迦の教え)、行(正しい教えの実践)、証(実践の結果得られるさとり)の三つが具わった時代であるが、像法になると教・行しかなく、証が得られない時代で、末法になると教しかない時代となり、末法は万年続くという思想です。

 平安時代の中期頃より藤原氏の勢力は地におち、貴族政治は惰性に流れ、世の中は物情騒然となり治安は悪く「皇居に放火するもの」さえあり、地方では中央政府に反抗するものが多くなりました。

 

 頼朝の代からさかのぼること四代で八幡太郎義家に至りますが、河内源氏の嫡流でその出身は大阪です。義家は7歳の時石清水八幡宮で元服し、八幡太郎を名のりますが、これから源氏は代々八幡神を氏神としました。このことから八幡社は全国に広まっていきます。義家は13歳で初陣ですが、東北で謀叛を起こした安倍一族との戦いでこれが前九年の役です。

 安倍一族はことの外強く、黄海の戦いでは源氏方が大敗、義家の奮戦で虎口を脱したといわれ、この戦は清原一族の援軍で安倍一族を滅ぼすことができ、この功により義家は出羽守に任じられました。さらに義家45歳、陸奥守鎮守府将軍として清原氏の内紛を鎮圧しますが、これが後三年の役です。

 この戦は義家の私事とみなされ、中央から恩賞もでなかったので義家は、私財を投じて、部下に報いましたので一層の信望を集める事になりました。この天下第一の武勇の士といわれた義家の孫が為義であり、その子が義朝です。

 

 さて、藤原氏が全盛を極められたのは天皇の外戚という地位を利用して摂関政治を行ったからですが、白河天皇は摂関政治では恵まれない受領たちに支持されて院政を始めます。白河天皇は後三条天皇の遺志を継ぎ、上皇になってもその御所で政治を行います。

 当然のことながら、院と摂関家とが対立し、天皇と上皇が政治の実権をめぐり争いとなり、それに公家も二派になり、それぞれに武士団がついて保元の乱を起しました。

 保元の乱崇徳上皇側に藤原頼長、源為義らがつき、後白河天皇側に源義朝、平清盛がつき、戦は一夜で決まり、上皇は讃岐へ流され、頼長、為義は殺されます。しかし、この乱後、清盛が勢力をもちましたので源義朝、藤原信頼は、平清盛、藤原通憲(信西)と対立してしまいます。

 平治元年(1159)清盛が熊野詣に行った留守に源義朝は兵を挙げ通憲を斬りますが、清盛に討たれ信頼も斬首されてしまいました。義朝の長男、悪源太義平も清盛父子を狙って捕えられ殺されました。

 13歳で平治の乱に父に従って初陣をつとめた頼朝も捕えられましたが、清盛の父忠盛の後妻池の禅尼の助命で助かり伊豆へ配流されます。

 

 頼朝が流された伊豆の蛭が小島は伊豆半島中央を流れる狩野川の中州に近いところであったようで、地もとの豪族北条時政(伊豆の国府に仕える役人で山木判官平兼隆の配下)や伊東祐親(伊豆の土豪)らの監視のもとに34歳まで20年間この地に過ごしています。

 頼朝はもっぱら読経三昧の生活法華経を読誦しています。箱根権現の住僧に師事して仏教信仰に励む毎日でありましたが以仁王と姻戚でむすばれていた足立遠元により都の情報は正確につかんでいたようです。

 そして時々狩にもでかけており、伊豆の山越で伊東の豪族伊東祐親の屋敷にもしのんで行って娘に千鶴という男子を出生させています。この子は伊東祐親に殺され、頼朝もあわやのところ走湯権現に逃れ助かっています。また北条時政の娘政子とも仲が親密になり大姫が生まれている様で生活は自由であったようです。

 

 

源頼朝の墓 竹内正道著作集 > 家族の源流 足立氏ものがたり
鎌倉幕府初代征夷大将軍 源頼朝公の墓 笹竜胆の紋章  神奈川県鎌倉市

 

 

vol.22  2001.3.9

 

 頼朝の身を遠くから心配してくれたのが乳母比企尼で、この尼の長女の婿が安達盛長であり、常に頼朝のそばに仕えていましたし、平治の乱で所領を失った佐々木四兄弟もおり、また頼朝の生母の実家は熱田大神宮といわれ、ここからも援助を受けていました。

 当時の武士は国府の役人として、知行国主代官の目代の下で働いていましたが、そのうちに国府の有力者となり、治安が悪いとその地位は向上しています。

 また荘園の管理者でもあり、庄司・下司と呼ばれ次第に広大な地域を勢力下におき開拓して田畑にしたり、子弟と共に所領内の要地に館を建て、土地の護保拡大につとめました。しかし、地方の豪族であっても中央から来る目代の力は強大で自分の土地を安堵してくれる人物を求めていたのです。

 

 治承4年(1180)、後白河法皇の皇子以仁王源頼政とともに平氏打倒の挙兵を4月に起こします。以仁王は第二皇子で親王でありましたが母は藤原成子で摂関家でなかったので親王宣下を得られず王にとどまり、二条、高倉と天皇になり、高倉天皇の子安徳天皇が即位すると、以仁王はこの即位を認めず新王朝を宣言しました。

 東国では以仁王を「新皇」と呼んでいましたので、足立遠元の娘が藤原光能の室であり、光能の妹が以仁王との間に真性を生んでいましたので、遠元は「新皇」の姻戚でありました。

 頼朝の叔父の親家行家が令旨を届けに来ますが、頼朝はこれを勅令として奉じます。清盛の源氏追討計画も頼朝に届きましたが、8月17日夜ついに目代山木判官を奇襲して伊豆国府の実権を押えました。

 世は平氏全盛の時代でありましたから源氏につくか、平氏につくか、この挙兵は東国の豪族に厳しい選択をせまることになりました。

 

 挙兵から平家滅亡までの4年半、頼朝は鎌倉を動かず、専ら東国支配を強化し、義経追討をきっかけに朝廷や、貴族の支配にも介入して全国的な軍事・政治の権限を強化していきました。建久3年(1192)後白河法皇の崩御により、征夷大将軍となって「天下の政道」を樹立します。

 頼朝の政道は理不尽を排除した道理を治国の基本とするものでありました。また終生仏教信仰に励み、法華経を座右の経典として読誦、書写していたといわれています。比叡山の霊威を尊崇し、重源の東大寺再建にはその復興を援助し、東大寺建立供養法会には後鳥羽上皇と同座して参拝しています。

 

 安房国東条郷に東条御厨がおかれていますが、これは一の谷合戦で再挙することができた記念に伊勢外宮へ寄進した神領です。「天照大神の御くりや、右大将家の立て給いし日本第二のみくりや、今は日本第一なり」と日蓮聖人はこの安房御厨のあるところに生まれたことを果報といわれております。

 日蓮聖人は伊豆に流罪されますが、この時もこの地が「兵衛介頼朝のながされてありしところ」と縁の深さを記されています。

 日蓮聖人は、頼朝が平家を討って亡父の願いをはたし征夷大将軍になったことを「法華経の利生」であるとされ「成親父の御くびを太政入道に切られてあさましというばかりしに、いかなる神仏にか申すべきとおもいしにいづ山の妙法尼より法華経をよみつたえ、千部と申せし時、たかおのもんがく房、おやのくびをもて来りてみせたりし、かたきを打つのみならず、日本国の武士の大将を給いてあり、これひとえに法華経の御利生なり」と「南条殿御返事」に記されています。

 更に、頼朝が賢人なのは法華経を読誦し、法華経のご利生をたえず心に刻みつけていたことにあるとされ「現世の祈祷は兵衛佐殿の法華経を読誦する現証なり」とされています。そして謗法の人は天から守護されることはない。頼朝は不妄語の人であり、不妄語の釈迦仏、法華経の化身である八幡大菩薩を信じ、法華経を読誦したので勝利したといわれています。

 

 

【源氏系図Ⅱ】 竹内正道著作集 > 家族の源流 足立氏ものがたり

源氏系図Ⅱ】

 

 

 

 

vol.23  2001.3.16

 

比企尼の一族
 Hiki Ama family 

 

 

 源義朝が鎌倉にいましたころ、比企掃部允は義朝の家人となっていたようで、やがて義朝が武家の棟梁として都で活躍するようになりますと、比企掃部允夫妻も京都へのぼり義朝の側近として奉公することになります。側近の中でも最も信頼されていたようで、久安3年(1147)に頼朝が生まれますと妻の比企局がその乳母に選ばれています。武家社会では、子女が生まれると家人の中で最も信頼できる側近の妻に乳母を命じています。

 比企局には3人の娘がありました。長女二条天皇に仕えて丹後の内侍とよばれていましたが、すぐれた歌人として知られており、惟宗広言に嫁ぎ島津家の先祖として有名な島津忠久を生んでいます。この女性は平治の乱後比企掃部允、比企局に従って武蔵に下り、足立遠元の叔父安達藤九郎盛長と再婚していますが、盛長との間に生まれた女子は源範頼の室となりました。また、比企局の二女河越重頼の妻となり、その娘は源義経の妻となっています。三女は伊東祐清に嫁いでいましたが伊東祐清が討たれてから、平賀義信と再婚して朝雅を生んでいます。

 

 平治の乱で頼朝が伊豆に流されると比企掃部允は京都を去って武蔵国比企郡中山郷に住んで頼朝の扶助につとめます。そして安達盛長、河越重頼、伊東祐清の3人の娘婿はいずれも頼朝の側近として配流時代の頼朝に仕えています。比企掃部允は比企郡が国衙領でありましたから請所となって受領の支配を受けていた比企郡の小領主であったといわれており、猶子となっていたのが比企藤四郎能員です。比企尼のことについては、「吾妻鏡」に「武蔵国比企郡を以って請所となし、夫掃部允と相具して下向し、治承四年の秋に至るまで廿年間、御世途を訪ひたてまつる」とあります。

 鎌倉に幕府をひらいた頼朝は比企尼(夫は逝去していた)に酬いるため鎌倉に住まわせますが、その地が比企谷で、その邸宅を比企谷殿とよんでいました。また比企能員は御家人として側近に命じ、比企、入間、高麗の三郡を所領にして遇しております。比企能員も有力な御家人で、木曽義仲の残党が甲斐信濃で叛逆を企てたのを討伐したり、平氏追討軍に加わって九州遠征をしたり、奥州藤原氏征討のときには北陸道の大将軍として活躍しております。

 

 寿永2年(1182)8月に北条政子が嫡男頼家を出産しますが、その産所となったのが比企谷殿であり、乳母になったのが比企能員の妻でありましたので、頼朝、頼家との絆は強固なもので、頼朝夫妻もしばしば比企谷殿を訪れております。比企の娘、姫前北条義時の妻となり、能員の長女若狭局は頼家に愛され建久9年には一幡が生まれており頼家と比企一族の関係が強まり、北条氏と対立が深まりました。

 

 比企能員は北条氏に謀殺されてしまいますが、能員の末子能本は京都に落ちのびて学問で身をたてます。のちに姉の若狭局の長女竹の御所(四代将軍藤原頼経の室)のはからいで鎌倉に帰って来ますが、この時日蓮聖人に逢い「立正安国論」の校訂にあたって居り日蓮聖人に深く帰依いたしました。そして比企大学三郎能本は日蓮聖人に自邸を捧げて法華弘道の根本道場を創建しますが、これが日蓮門下最初の寺です。

 寺号を長興山妙本寺といいますが、父の比企能員の法号を「長興」といい、母の比企尼の法号が「妙本」であり、いづれも日蓮聖人より授かったもので、これから山号・寺号がうまれています。この寺へ日蓮聖人は佐渡から帰還されて初めて立ち寄られたのですが、「三大秘法最初転法輪道場」とされています。山の谷間にある境内は杉木立にかこまれ閑静な寺院で、宋の陳和卿の作の釈迦如来像、日蓮聖人の大曼荼羅が残されています。この曼荼羅は日蓮聖人の御入滅の時に枕頭に掲げられたという大型の本尊で日蓮宗の宗定本尊とされているものです。

 大学三郎は文永8年の竜の口の法難の時には命を投げだして聖人を救うことに奔走しました。御家人の代表でありました安達泰盛とは書を通じての友人でありました。このことを日蓮聖人は「大学三郎御書」に「城殿と大学殿は知音にてをはし候。其の故は大がく殿は坂東第一の御てかき、城介殿は御手をこのまるる人也」と書かれています。

 

 

比企一族の墓 竹内正道著作集 > 家族の源流 足立氏ものがたり
比企一族の墓

 

 

 

 

vol.24  2001.3.23

 

足立藤九郎盛長
 Toukurou Morinaga Adachi 

 

 

 藤九郎盛長は頼朝の乳母比企局の娘、丹後の内侍と結婚して、頼朝が配流生活をしていた時から近侍として身のまわりを世話しておりました。

 「新編相模国風土記稿」には次のように記されています。

 「盛長は備前守相継の曾孫、小野田三郎兼広が子なり。頼朝蛭島にあって窃に兵を挙げんと欲せし時、盛長其の謀をたすく。……頼朝盛長旧臣たるを以って親任せらる」とありますから、藤九郎盛長は伊豆流人時代の頼朝に近侍していただけでなく、甥の足立遠元の娘が後白河院近臣の藤原光能と婚姻関係にあり、光能と以仁王も姻戚でありましたので後白河院の院政中枢と直結していたことになり、光能と遠元ラインにより中央の情報を直接頼朝につたえていたのです。

 藤九郎盛長は頼朝が挙兵する時、諸国の武将を歴訪して覇業成就のため武士団の参入を説いて廻ったということです。頼朝が挙兵した治承4年(1180)8月17日に伊豆の山木判官平兼隆を討たんとしたとき、三島神社神事奉幣使として参向していますし、富士川の戦でも活躍しました。

 同年10月23日相模の国府で頼朝が家人に勲功を行った際には本領安堵されましたが、相模、武蔵、下総の各地に所領をもっていたとされています。陸奥の安達郡にも所領があり、安達氏を名のるとされていますが、北足立郡糠田がもともと盛長の領地であったようです。

 それは北足立郡糠田に安達盛長館があり、桶川市末広二丁目に足立遠元館があったとされていますし、この糠田に真言宗放光寺があり、足立藤九郎盛長の創建とされており、この放光寺には鎌倉期の木像「足立藤九郎盛長蓮西法体像」が所蔵されています。

 

 盛長は頼朝の信任が厚く、奥州征討に参戦したり、京都への使者をつとめたり、建久5年(1194)12月には鶴岡八幡宮の奉行人となって八幡宮造営を行っています。この時には鎌倉に館をもっておりました。その館は鎌倉の字長谷の甘縄神社の前にありましたが、頼朝、政子夫妻をはじめ歴代の将軍がたびたび訪れています。

 「吾妻鏡」によりますと治承4年(1180)12月24日に頼朝が初めて訪れたので、馬一疋を献上したとか、文治2年(1186)6月10日に盛長の妻の病気見舞に訪れていたり、建久3年(1192)には頼家が来臨したので剣一口を献上したとかの記録あり、建久8年に頼朝が訪れたときには盛長に上野国中の寺社を管理するよう命ぜられたりしています。

 この様に盛長の館には実朝、頼経と足をはこんでおり将軍との絆の強さをものがたっています。しかし、正治元年(1199)頼朝が逝去しますと頼家の代となり、その頼家が、盛長の子景盛の妾女を奪うというような事もあり、藤九郎盛長は出家して蓮西と号しました。

 将軍頼家の下で十三名の合議制ができますが、その一人に加わっていました盛長も、正治2年(1200)4月26日逝去します。年は66歳でありました。

 

足立盛長邸址

 

 盛長の長子は安達景盛で母は丹後の内侍であります。父と共に頼朝につかえていました。三代将軍実朝のとき、右衛門尉に任じられ建保6年(1218)出羽介となり、秋田城を管し秋田城介となります。これより秋田城介は安達氏の世襲の職となります。

 承久元年(1219)将軍実朝の死により出家して大蓮房覚智と号しまして、高野山に金剛三昧院を建立して実朝の菩提を祈りました。安達景盛の女は北条泰時の嫡男時氏の室松下禅尼)となり、経時、時頼を生みましたが、この二人はつづいて執権となりましたので外祖父景盛は幕府のなかで権勢を高めます。

 政治的対立者であった三浦氏を滅ぼし、安達氏の隆盛の基礎をつくりました。その子安達義景、孫安達泰盛と続き「威勢先祖ニ越エテ人多ク随キ」というように幕府権力を独占するようになりました。

 弘安のころには従来北条一門に限られていた陸奥守に任じられたりしていますが、この権威は景盛以来執権一門と血縁関係を累ねてきたことによります。蒙古襲来の時、泰盛は子の盛宗を守護代として九州に行かせ、自分は御恩奉行として鎌倉にあり、北条時宗を助けて蒙古対策の中心的存在として活躍しています。

 時宗の死後得宗被官と対立が深まり、御家人勢力の代表でありました安達氏一門は弘安8年(1285)11月執権北条貞時により滅ぼされてしまいました。

 

 

【比企氏系図】 竹内正道著作集 > 家族の源流 足立氏ものがたり
比企氏系図

 

 

 

 

vol.25  2001.3.30

 

頼家と実朝
 Yoriie & Sanetomo 

 

 

 足立遠元は平治の乱後、故郷の足立郡に帰っていましたが、都との交流は続いていました。幕府創設以来、行政事務は堪能であり、都の朝廷とも接触をもち政治力を発揮していましたし、武術にもすぐれ頼朝に最も信頼されていた宿老でありましたが、晩年は心痛多く苦労がたえませんでした。

 頼朝が伊豆に流されていた時に北条政子との間にできた大姫がいます。大姫は木曽義仲の子の義高と結婚しましたが、義仲を滅ぼしたときに義高も殺されましたので、以来大姫は悲嘆の毎日を送っていました。

 

 この娘を後鳥羽天皇の后妃にしようとしました頼朝は、東大寺落成供養に北条政子と大姫もつれて都に上りました。足立遠元も供奉したことはいうまでもありません。都で丹後の局源通親に接近し、親幕派の公家九条兼実の関白を罷免したり弟の慈円の天台座主を辞めさせたりして野望をとげようとしました。

 しかし、この頼朝の野心は源通親に利用され、通親の養女が生んだ土御門天皇が即位しますし、大姫も20才の若さで急逝してしまいました。そして天皇の外戚として権力を拡大しようとした頼朝も正治元年(1199)1月13日急逝してしまいました。更にこの年3月に頼朝の次女三幡も憔悴して逝去します。

 

 頼朝のあとをついだのは武芸の達人といわれた頼家18才で二代目将軍となりました。しかし、朝廷には土御門天皇の外戚源通親がいますし、鎌倉には母政子と北条時政幕府の支配を拡大して、将軍就任3ヶ月目には重要な職権でありました訴訟決裁権を停止されてしまいました。

 北条氏から疎外された頼家は側室の実家比企家をたより比企一族を重用します。前にみたように頼家の乳母は比企尼の娘であり、頼家の側室若狭局は比企能員の娘であり、その子が一幡です。

 幕府権力を独占しようとする北条氏にとって有力な御家人は邪魔でしたから頼朝時代の側近として勢力をもったものを粛清しました。その最初が梶原景時で頼朝の死の翌年1月に清水市で一族と共に殺され、更に頼朝の弟で生き残っていた阿野全成を謀反の罪で殺害します。

 そして頼家と比企能員の密談を理由に能員を殺し、比企邸に火をかけ、頼家の長男一幡6才を焼死させ、頼家も修善寺へ幽閉、翌年殺されてしまいました。

 

 頼家の弟実朝は12才で三代目将軍になりましたが兄頼家の様子をみていましたので、政子や時政に逆らうことなく、歌の道に逃避した日々を送ります。

 元久2年(1205)には畠山重忠親子も滅ぼされ北条氏の権力は強大となりました。実朝が親の反対をおしきってしたのは都の公家の娘との結婚だけだといわれています。

 在位期間は15年に及びましたが、建保10年1月27日右大臣就任の拝賀のため鶴岡八幡宮に参拝した実朝が石段を降りていたとき、公暁に首をかかれて死亡しました。

 

 


鶴岡八幡宮 源頼義創建 源義家修復 治承4年 源頼朝遷座 足立藤九郎盛長造営
神奈川県鎌倉市 2002.7.14

 

 

 

 

vol.26  2001.4.6

 

足立遠元の子孫
 Descendants of Toomoto Adachi 

 

 

 足立遠元が「吾妻鏡」から姿を消すのは建永2年(1207)3月の北の政所の中庭で北条時房らと「闘鶏」の会に出席したことで、これを最後に幕府の行事から退隠しています。鎌倉幕府の中枢にあって活躍した生涯ですが生年も没年も終えんの地も一切明らかではありません。

 丹波青垣町遠坂の報恩寺遠政一族の墓地があり、その一基が遠元の墓碑と伝えられていますが、文字もなく供養塔だと思われます。

 

 足立遠元には6男3女がありました。嫡子は八郎左衛門元春で、左衛門尉となって足立家を継いでいます。元重は淵江田、遠景は安須吉、遠村は河田谷、遠継は平柳と号して庶子家を創立しています。

 更にもう一人は「足立氏系図」に母は源三位二条院讃岐と脚注のある遠光ですが、この人物は承元3年(1208)に丹波佐治庄の地頭となって山垣城を築いた遠政の父です。

 元重の淵江田は東京都足立区、遠景の安須吉は上尾市、遠村の河田谷は桶川市、遠継の平柳は川口市であり、その地名を号としてその地域を領有、支配していました。遠景は養子で天野遠景のことですが、足立郡に所領をもっていました。

 遠元の3人の娘についてですが、前にみたように後白河院の近臣で蔵人頭でありました藤原光能に嫁ぎ、知光、光俊の母となったものと、畠山重忠に嫁して小次郎重秀の母となった女性、更に北条時政に嫁して時房、時直を生んだ女性がありました。都の公家、有力な御家人、そして北条氏の外戚でもあったのです。

 

大宮 足立神社

 

 足立遠元の嫡子八郎元春は「吾妻鏡」によりますと、建仁3年10月将軍実朝の御弓始めの射手に禄を与える役をしてから、承久元年の将軍藤原頼経の供奉人をつとめるまでの間鶴岡八幡宮参詣の供奉人をつとめたり、幕府の使者として都へ上ったりしています。

 その子は木工助遠親、その子三郎元氏、その子太郎遠氏と続き、官職は左衛門尉として将軍につかえて、遠元の惣領家として幕府の公事をつとめていたようです。また遠親は承久の乱の恩賞で讃岐の本山庄地頭職も有していました。

 

 ところが弘安8年(1285)11月一族の安達泰盛と得宗家との抗争で霜月騒動が起こり、泰盛に味方した足立直元は敗北して自害してしまいます。この事件により足立一族も幕府内の地位と本領足立郡は北条得宗によって没収されてしまいました。

 安達氏は幕府創建以来の功績と、執権北条氏との姻族関係からその勢力を伸ばしましたが、外孫北条貞時が執権になると更に権勢をもちましたが、内管領の平頼綱により中傷され、一族は討伐されて滅亡しました。御家人の代表安達と内管領の権力争いで敗北しました。

 しかし、足立直元の弟の基氏北条氏の支配下にはいり、得宗被官となり、その子孫も遠氏―基舒―遠宣と続いています。

 

【足立遠元系図】 竹内正道著作集 > 家族の源流 足立氏ものがたり 

足立遠元系図

 

 

 

 

vol.27  2001.4.13
vol.77  2002.8.14

 

鎌倉時代と宗教
 Kamakura period and religion 

 

 

 鎌倉時代は武士層が古代王朝の権威を否定し、新しい社会を創造してきましたが、幕府の権力の掌握をめぐって、内部での粛清が多く執拗に陰謀や謀殺をくりかえし陰惨な時代でもありました。そうした中で新しい信仰が生まれて、親鸞、道元、日蓮、一遍などがあらわれて来ます。

 最澄法華経を根本経典とし、これにより奈良仏教の雑多な仏教を統一しようとして天台宗を日本に伝えますが、その後継者たちは密教を取り入れましたので天台教学は未完成なものとなり、鎌倉仏教の祖師たちが輩出することとなりました。

 法華経を最も尊重して最澄の意を伝えようとしたのは道元日蓮ですが、道元が禅を重視したのに対し、日蓮は法華経の行者として法華信仰に生きました。また常行堂中心の阿弥陀信仰は、恵心僧都源信が浄土教を説きます。世は末法の世で天変地異が相ついで起こり、流行病がはやり戦乱の続く世相でありましたので、この世では救われない人々が、せめて来世は安楽な世界へ生まれたいと願ったのです。

 法然はどんなに貧しい人々も南無阿弥陀仏と唱えさえすれば極楽浄土に往生できると浄土宗を、親鸞は浄土真宗、一遍は時宗をはじめました。阿弥陀堂の建立はいたるところで流行したのです。

 寺社奉行をつとめていた足立遠元も鎌倉の阿弥陀堂奉行でありました。

 空海は中国より密教をもち帰り真言宗をはじめましたが、加持祈祷によって病気・出産・財産・位階・戦勝までが霊力によって得られるとして信じられました。この宗派は朝廷、貴族に受けいれられ、さかんに造寺造仏がなされました。

 また平安末期より、人が救いを求めるとその声を聞いて助けに来てくれる観音信仰がさかんになります。観世音菩薩は南の補陀落山に観音浄土があるとされ、鎌倉にも南に補陀落寺があり、長谷観音とともに信仰を集めました。この頃より三十三観音霊場めぐりが流行して畿内と、坂東・秩父でもその霊場ができています。

 頼朝終生法華経を信仰して、毎日の読誦をかかさず書写もしていたといわれ、「山王(叡山)の霊威を蔑如してはならない」として天台法華を信仰、また俊乗房重源の東大寺再建にも援助しました。そして法華経の化身と信じられていた八幡大菩薩を信仰し参詣していました。頼朝に供奉していた北条義時足立遠元も同様の信仰をしていたと思われます。

 時頼は得宗の地位を強めましたが、道元禅師を招き為政者の心がまえを聞いていますし、後に宋僧蘭渓道隆に師事し建長寺を創建して道隆を開山としましたし、自らも出家して最明寺入道道崇と号し、衣・袈裟を着していました。37才で没しますが座禅したままの臨終といわれています。

 北条重時の家訓に「庶家惣領を主とも親とも神仏とも思うべし、後生は西方極楽を願うべし」と書かれており、念仏信仰をすすめています。

 

 

北鎌倉 建長寺  竹内正道著作集 > 家族の源流 足立氏ものがたり

北鎌倉 建長寺

 

 

      【鎌倉期の仏教

   〔宗派〕 〔開祖〕〔本尊〕    〔経典〕 
   融通念仏宗 良忍 十一尊天得如来 法華経・阿弥陀経
   東大寺勧進 重源 超宗派     法華経
   浄土宗   法然 阿弥陀如来   浄土三部経
   臨済宗   栄西 釈迦如来    法華経・般若心経
   浄土真宗  親鸞 阿弥陀如来   浄土三部経
   華厳宗中興 明慧 毘盧遮那仏   華厳経
   曹洞宗   道元 釈迦如来    法華経・般若心経
   法華宗   日蓮 釈迦如来    法華経
   時宗    一遍 阿弥陀仏    浄土三部経

 

 

 

 

vol.28  2001.4.20

 

北条氏と足立の関係
 Houjou and Adachi relationship 

 

 

 北条氏は静岡県田方郡韮山町の出身で伊豆地方の一土豪でありました。14歳の頼朝が伊豆に配流となり、この田方郡の蛭ヶ小島を配所としていましたので、平家は監視役として伊豆荘の伊東祐親と、北条時政を選任していました。

 頼朝はここで父の義朝や、兄たちの菩提を弔うための読経三昧の生活をしていたのです。都育ちの若者のことですから女性との交渉もあったようで、伊東祐親が大番役で上洛中に祐親の娘八重姫と交際をはじめ、千鶴御前という男子が生まれました。頼朝にすれば伊東一族と縁つづきとなり、流人の境遇も改善されることを期待したのかも知れません。

 しかし、六波羅の大番から帰ってきた祐親は事態の重大さに気づき、孫の千鶴御前を簀巻きにし松河という川奥の淵に投げ込んで殺害してしまい、娘も江間郷の小四郎のもとへ嫁がせてしまいました。

 更に頼朝を暗殺しようとまでするのですが、これは祐親の三男九郎祐清の注進で難をのがれ、対岸の北条館へ逃げこんでしまいます。

 

 北条でも迷惑だったのですが、当主の時政が京都の大番をつとめるため上洛したあとで、惣領の三郎宗時が頼朝を助けます。これは治承2年(1178)のことですが、北条館の中で頼朝と時政の娘政子との交際が始まるのです。

 大番から帰って来た時政も流罪人と政子との間をさこうとして、娘の政子を山木判官平兼隆に嫁がせますが、政子は伊豆山権現の文陽房に逃げこんで、頼朝のもとへ走ります。

 おりから以仁王の令旨がもたらされましたので頼朝は平兼隆の報復を恐れ、北条氏をたよりに山木判官を襲撃し、これは成功しますが、石橋山の合戦では平氏方に敗れ、逃走したのです。伊豆の小豪族にすぎない北条氏は政子によって強大な権力をもつことになりました。

 

 幕府創設の功労者足立遠元には3人の娘がありましたが、その中の1人は北条時政の三男時房(政子の弟)に嫁ぎ、北条氏の外戚となって、その地位を安定させます。時房は兄の義時や姉の政子と共に幕政に参画しますが特に承久の乱では甥の泰時(義時の子)と共に東海道大将軍として京都に攻めこみ、乱後六波羅探題となっていますし、更に連署となって幕政を動かすようになりました。

 遠元のもう1人の娘は畠山重忠に嫁して、小次郎重秀の母となりますが、重忠は後に北条時政の娘と結婚しますので、北条義時とは義兄弟でもありました。

 

 このように足立氏と北条氏は強い血縁で結合しますが、この畠山重忠は時政の後妻となった牧の方のために、滅亡する運命をたどります。

 足立遠元武蔵国の御家人の代表として、御家人間の対立が激化して、比企、畠山、小山田等が相ついで滅亡するなかで、北条執権体制をささえ、幕府の地盤をかためる重要な役割をはたしていました。

 そして遠元の子孫もまた元春、遠親、直元と北条氏ゆかりの血族として、泰時、経時、時頼等の執権をささえ、鎌倉在住の御家人として幕府の要職についています。承久の乱では遠親が讃岐国本山庄地頭職を恩賞として受けています。

 ところが、足立直元の時に、一族の安達泰盛が得宗御内と抗争になり、それに加わり敗北しましたので、直元は自殺しますが、足立嫡流は没落し、先祖伝来の足立郡も北条氏に没収されてしまいました。

 

 

 

 

vol.29  2001.4.27

 

足立(安達)藤九郎盛長の子孫
 Descendants of TouKurou Morinaga Adachi 

 

 

 足立遠元の叔父の藤九郎盛長は伊豆流人時代の頼朝に近侍していました鎌倉幕府創設のときの功臣であります。治承4年10月に頼朝が御家人に勲功を行った時、相模、武蔵、下総等の所領が安堵されていますが、陸奥の安達郡にも所領を与えられて、これ以来安達を名のるようになりました。

 そして盛長の子孫は、子の景盛、孫の義景、その子の泰盛といずれも幕政の中枢に参画し勢力を増大しています。これは北条得宗家との婚姻によるところが大きいのです。足立遠元の娘が、北条政子の弟の時房の室となったことはすでにみた通りですが、時房の娘(北条政子の姪)と盛長の嫡男安達義景とが結婚していますし、義景の妹(盛長の孫)は三代執権の北条泰時の嫡男時氏に嫁しています。この女性が有名な松下禅尼なのです。

 

 北条時氏六波羅探題北方に就任しますと松下禅尼も、夫と共に上洛して都で探題夫人として時氏を助け教養を身につけたといわれています。都での任期を了えて鎌倉に帰ってきてからも嫁として執権泰時にも孝養をつくす賢婦人だったのです。

 ところが夫の時氏が寛喜2年(1230)に28才を一期に逝去したので尼僧となって菩提を弔うことになりますが、以来松下禅尼と称するようになります。松下禅尼は夫の逝去を悲しむなか、経時、時頼、為時の3人の子をつれて、鎌倉の長谷甘縄にあった実家に帰って来ました。兄の安達義景は松下禅尼母子を大切に外護しましたし、三代執権の泰時もたびたびこの邸を訪問し、孫の成長を期待したのです。

 

 仁治3年(1242)6月に三代執権泰時が逝去しますが、泰時の遺言により松下禅尼の嫡男経時が四代執権に迎えられます。母の松下禅尼、伯父の安達義景の期待通り19才で経時は執権となりましたが、わずか4年で病没してしまいます。

 その後をついだのが、松下禅尼の二男時頼です。安達家の甥が二代続いて執権となった(この時代の執権は江戸時代の将軍と同格です)ということは、当然のことながら安達家が北条得宗家の外戚として威光をもつようになります。時頼が五代執権となったことで、これを阻止しようとした御家人との対立を強めます。

 二代執権義時の孫にあたる名越光時は五代目の執権をねらっていましたので、時頼は光時を伊豆に流し、光時に従っていた名越方の評定家5人を罷免し、果敢に策謀を制圧しました。更に時頼は高野山に篭っていた外祖父の安達景盛を鎌倉に呼び、三浦泰村一族を襲わせて滅亡させました。

 

 これが名越事件ですが、これにより安達氏に対抗できる御家人はなくなり、得宗家と安達氏の独裁体制ができあがりました。松下禅尼の甥(義景の嫡男)の秋田城介泰盛のことを徒然草は「城陸奥守泰盛は双なき馬乗りなりき」と書いていますが、泰盛は武勇にすぐれていただけでなく、政治的手腕もあり「威勢先祖に越えて人多く随き」とされていますが、五代執権時頼の嫡男の時宗と娘の堀内殿を結婚させており、のちに時宗は八代執権となり、二人の間に生まれた貞時は九代執権となりました。

 この様に足立一族の北条得宗家との婚姻関係は、安達泰盛時代に得宗家と一体のようになりました。安達泰盛は、弘安の蒙古襲来の際御恩奉行となりましたが、戦功の恩賞を独裁で決していましたので、執権家の家宰 平頼綱の反感をかい、弘安8年(1285)11月突如幕兵に襲われて安達(足立)一族は滅亡しました。足立遠元、盛長以来の足立郡の所領まですべて北条氏に没収されてしまいました。

 

 

 

 

vol.30  2001.5.4

 

もののふの道
 Mononofu spirit 

 

 

 足立遠元源頼朝文武両道の師範であったとする著述が多くあります。八幡太郎義家以来の「もののふの道」を勤めていた京都の貴権と交流のあった人物とされています。

 武士道という言葉がありますが、これは後世のもので、この時代は「坂東武者の習」とか、「つわものの道」といわれています。それは東国の武士たちのもつべき資質でありました。

 第一に武士は生命にめめしく執着しないということです。自分の身や妻子のことを思っていては武士はつとまらない。わが身を安全にして、敵を殺そうと思うな、わが身をなきものにして敵を殺せというのが兵の道でありました。「葉隠」のいう「死ぬこと」に武士の道があったのです。

 次に真の勇気がなくてはつとまらないということです。単に武芸にすぐれているということだけでなく、自分が死ぬのを恐れない精神的勇気が「兵の威」で、神仏の伽護を願いどんな場でも平常心をもって処していく勇気が不可欠であり、更に、武士は謙譲の美徳をもって、自己の腕力、武芸を自慢することなく、勇を尚び、死をいとわず、恥を知り信義を重んじ、むさいこと、きたなきことをしないのが武士だとされています。

 

 公家から武家へと大きな変革のあった鎌倉時代は、武勇のすぐれた者が生きのこり、栄える社会となり、官位や権勢といった現世的名誉に対して恬淡でなければならず、むしろ「死の後の名こそ惜けれ」というように永遠の生命、死後の名に執着する生き方が尊ばれるようになります。ここに公家の生き方と根本的に違いのある武家の世界が現出します。

 鎌倉時代は公家、武家両文化の時代といわれていますが、平氏が西海に没落して、源氏が東国に幕府を開いてから、源氏三代の将軍、北条執権隆盛、蒙古の外寇、元弘の乱等を経て幕府の滅亡にいたる150年間4期に分けて変遷をみると鎌倉期の特徴がよくわかるとされています。この区分に従って足立氏がどのように生きたかをみていきましょう。

 

 最初は頼朝が幕府を開いてから頼家、実朝と三代にわたる源家将軍の時代で、後白河院や、後鳥羽院が都で実力をもっていた伝統的な王朝文化の栄えた時期であり、鎌倉でも都の文化にあこがれ豊麗な公家文化を輸入しようとした時期で、都で公家達と交流を深めた足立遠元が武士達のあこがれでもあった約35年間続いた時代です。

 次が承久の乱で勝利して天下に武門の威力をみせつけた北条泰時の時代です。三上皇を遠流し、三千余の荘園を得て幕府権力は強力なものとなります。足立氏では遠元の孫が、吾妻鏡にも登場してきます遠親、基氏、遠政の時代であり安達氏が活躍するようになります。

 第三期は北条氏の隆盛時代で、北条時頼、時宗父子が執権として鎌倉の武威を天下に振るった約40年間で、安達泰盛が御家人の代表として最も権勢をもっており、蒙古襲来の際も御恩奉行となっています。執権の権威は強大となり、皇統の継承についても干渉します。皇統大覚寺と持明院の両統に分立させて、朝廷や公家の権威を失墜させました。

 第四期は時宗の死によって14歳で執権となった貞時から、師時、高時とつづく40年間で、安達泰盛が殺され御家人勢力を一掃されてしまい、足立一族も滅亡してしまう時期で、それ以後幕府は滅亡していきます。

 以上の四期に区分して足立氏の動向を次にみていきます。

 

 

 

 

vol.31  2001.5.11

 

源氏将軍たちの信仰
 Faith of Genji Generals 

 

 

 頼朝が鎌倉に入府したのは治承4年(1180)ですが、鎌倉の都市建設をするのに、直ちに由比若宮を遷座して鶴岡八幡宮を建立し、それへの参道として若宮大路をつくりました。これは都の大内裏と朱雀大路をなぞったもので、源氏の氏神の八幡宮を大内裏、つまり皇室の権威に変えて、人々に忠誠を誓わせたのです。

 八幡宮が源氏の氏神となったのは源頼信の時です。もともと八幡信仰は豊前国宇佐の八幡宮に始まった古代からの信仰でありましたが、清和天皇が平安京鎮守として石清水八幡宮を勧請されましたことから、清和天皇を祖とする源氏氏神となったのです。

 前九年の役に出陣した源頼義は、京都の石清水八幡宮に戦勝を祈願したのですが、安倍頼時、貞任を討ち、都へ帰る途中戦勝記念に由比郷鶴岡に石清水八幡宮を勧請し若宮と称して祭祀されていたものです。これを頼朝が現在の鶴岡八幡宮の地に遷座したのです。

 1192年に征夷大将軍となった時も任官伝達の式典はこの神宮でとりおこなわれています。つまり鶴岡八幡宮は大内裏と同格に扱われ、鎌倉幕府の重要な儀式はここで行われたのです。

 

 義家が元服する時、石清水社でその儀式をとり行ったので八幡太郎義家とよばれていましたが、頼朝も幕府の鎮守として御家人にも参拝させ武士の守神としていました。八幡神は穢を排除する破邪顕正の神であり「弓矢八幡」とよばれ御家人の精神的団結をはかるものとして、全国各地に八幡宮が勧請されました。

 頼朝は流人の生活を経験しましたので、関東の御家人以外は信用できなかったようですが、その御家人には貴人に対する絶対的服従を要求して自己の貴種を主張しますが、院に対しては武力を背景に独立政権を認めさせようとしました。

 信仰についても法華信仰中心で、京都の貴族達と変わらず、かつて京都に住み、その文化を背負う貴種として鎌倉にいながら京文化をあこがれていました。京都で生活していた足立遠元を中心に大番役等で京文化にしたしんだ御家人を周囲に集めていたのです。又、娘の大姫を宮廷に納れ、外戚の地位を望んでいたのです。

 

 寺の造営についても院政に似ています。最初に建立したのが、阿弥陀山勝長寿院で、大御堂ヶ谷に、父の義朝を供養するため文治元年(1185)9月に建立したのです。ここには義朝の首を埋葬し、阿弥陀如来像を本尊として大御堂を建立、壁面には浄土瑞相と、二十五菩薩が藤原為久の筆で描かれています。この寺は御家人が宿直して日夜警護し、歴代の将軍が参詣していました。

 また奥州藤原氏を滅亡させましたが、中尊寺大堂の立派さに驚いた頼朝は、同格のものを建立し、義経や藤原泰衡の霊を慰める寺として永福寺を建てています。

 鶴岡八幡宮、長勝寿院、永福寺が頼朝建立の三大寺社ですが、これらの供養とか参詣には足立遠元はいつも供奉し、鎌倉のみならず都の寺社、奈良の東大寺供養等にも頼朝の参詣に供奉しています。

 頼朝の持仏堂として聖観音がまつられていますのが寿福寺ですが、ここは元、義朝の邸宅のあったところといわれ、53歳で逝去しますとここに葬られました。

 北条政子や実朝の墓もここにあります。吾妻鏡をみますとそのほとんどが寺社の参詣等の記録ですが、勝長寿院落慶は極めて盛儀であったようです。

 

 

勝長寿院址 竹内正道著作集 > 家族の源流 足立氏ものがたり

勝長寿院址

 

 

 

 

vol.32  2001.5.18

 

北条 泰時
 Yasutoki Houjyou 

 

 

 足立遠元が高齢となり幕政から遠ざかるころに北条義時が執権となって幕政を掌握しました。北条義時は3人の上皇、2人の皇子を流刑に処して、天皇を廃位していますし、源頼家とその2人の子、また頼朝の子1人、弟1人、甥1人を殺させています。御家人では梶原景時と和田義盛を殺害、その一族を滅亡させています。

 こんな義時の暗黒政治を都から見ていたのが後鳥羽上皇なのです。

 後鳥羽上皇は安徳天皇の弟で、母は坊門信隆の娘です。この生母の弟坊門信清の娘を実朝の妻にさせ公武融和をはかっていましたが安徳天皇を入水させた鎌倉に好感はもっておらず、鎌倉調伏、呪詛のため最勝四天王院を建立してのろいの祈祷をさせていたり、たびたび熊野御幸をして熊野別当一族の軍事力を配下に加え鎌倉討伐を準備していました。

 そして実朝が28歳で惨殺されてから、次の将軍に皇子を求めてきたのを拒絶し、義時追討の院宣を発しました。承久の乱が起きますと、足立遠元の娘の夫であります北条時房が甥の泰時と共に東海道の大将軍となり京都へ攻め入り、六波羅探題として京都を支配しました。また時房は承久の乱の功により伊勢守護に任ぜられ、同国内16ヵ所を与えられ、のちに連署となっています。

 

 さて北条義時なきあと執権となったのが北条泰時で補佐役の連署となったのが時房です。これより幕府は政治を刷新し、評定衆を置き幕政を評議させるようになり、「御成敗式目」を制定し公平な裁判基準をつくったり、宗教統制もしていますし、鎌倉の都市計画や京都の治安維持につとめます。

 北条泰時について「神皇正統記」は「泰時は心正しく、政治もまっすぐで、人を育成し、公家を大切にしたので天下は静まった」としており、徳政を第一とし、法制を確立した最もよい政治を行ったとされています。泰時が確立した法制のままに政治が行われたので北条政権が続いたと評しています。

 ある時泰時のところへ僧が来て、「善心あらば一寺の伽藍を建てられよ、そうすれば世は治まり、民は安穏に生活し、死後は善い処へ行け、子孫は繁昌する功徳あり」と説きました。

 これに対し泰時は「わが国には伊勢太神宮があるが、茅ぶきの小社にすぎないが、その恩恵は全国に満ちている。功徳の大小で神仏が尊いのではなく、志が道にかなっていれば結構なのだ、功徳があるから伽藍を建てるというのはまちがいで、世を治め一族を育成するのが現世安穏であり、悪ければ祈っても亡んでしまう」として世を混乱させる僧であると追放してしまいました。

 

 さて、泰時が執権になってからも北条政子は幕政を支配していました。政子が帰依した僧が臨済宗黄竜派の明庵栄西であります。

 博多で李徳昭から禅宗の盛んな宋の仏教事情を聞いて入宋を志して明州に着き天台山万年寺で修学したが、重源と共に帰国し最澄、円仁などが禅に深い関心をもっていたことをたしかめると、再度宋に渡って天台山万年寺で参禅し、智者塔院の修補にも尽力して帰国、京都で新宗をひらくのが困難であったので鎌倉に東下し尼将軍政子の帰依を受けました。政子は寿福寺を建立し、ここに栄西を住まわせ臨済禅の教化にあたらせています。

 栄西を高名にしたのは抹茶の輸入で、将軍家が病気になった時に良薬と称して寿福寺から茶をとりよせて、「喫茶養生記」と共に献上している。当時の医者としてもなかなかの人物であったということです。

 

 

中国 天台山智者塔院山門 竹内正道著作集 > 家族の源流 足立氏ものがたり

中国 天台山智者塔院山門

 

 

 

 

vol.33  2001.5.25

 

時頼の信仰
 Faith of Tokiyori 

 

 

 足立(安達)盛長の孫娘が3代執権北条時氏と結婚して経時・時頼・為時・時定を出産し、その養育につとめましたが、寛喜2(1230)年6月に夫の時氏が死去いたしましたので、実家の安達家へ帰り出家して松下禅尼となりました。

 そして4代目の執権に長男の経時が就任しましたが、不幸にして4年で病没しましたので、その後継に選ばれたのが、5代執権北条時頼で寛元4(1246)年のことです。

 この年の5月に前将軍の頼経や一族の北条光時らの陰謀を知った時頼は、鎌倉中を制圧して、それに連座した評定衆を罷免し、光時を伊豆に、頼経を京都に追却し朝政刷新をしたり、最も大きな勢力をもっていた三浦一族を滅亡させて得宗専制体制を確立させました。

 ところが、康元元年(1256)赤痢にかかった時頼は執権職を北条長時に譲り、翌日出家して最明寺入道覚了房道崇と号しました。しかし病気が回復すると後見政治を出家者の姿で開始しました。逝去するまで実権を握りつづけていましたが、享年37歳で袈裟を着し座禅したままの臨終ということです。

 

 北条得宗家の信仰は、北条政子が栄西禅師に帰依してより臨済禅に深く傾倒していましたが、時頼は道元禅師を鎌倉に招いて禅による為政者の心がまえを聞いたということです。

 禅宗を日本に最初につたえたのは1171年に金慶とともに入宋した天台宗の学僧覚阿で、杭州霊隠寺で禅宗を学び、帰国して禅宗を修行したのですが、栄西が始祖として有名になったのは2回も入宋したことと、抹茶を輸入したことのほかに、権力が京都よりも鎌倉にうつりつつあるのを見ぬいて、その権力者北条政子に布教したことによります。

 京都に建仁寺を建立したのち鎌倉に帰り建保3年(1215)に75歳で遷化されました。

 

 道元禅師源通親の子でありましたが、幼いときに父母に死別し、比叡山で剃髪し天台宗の僧として修学し、さらに宋に渡り天台山万年寺で、次いで天童寺如淨に禅を修学して、安貞元(1227)年帰国して曹洞宗を開きました。新しい宗派に叡山からの圧迫があり、波多野義重の招きで越前に移り永平寺できびしい修行に打ちこみ在家仏教や女人成仏を否定し、出家至上主義をつらぬき、北条時頼の招きで鎌倉へ下りますが、すぐに越前へ帰っており、建長5年(1253)京都の宿で高潔な生涯を閉じます。享年54歳。

 

 この時代元が宋を侵略するようになり、戦乱をさけて日本に渡来する禅僧が多くありましたがその中の一人に蘭渓道隆がいます。この僧は南宋に生まれ、12歳の時禅僧となり明州天童山にいましたが、数人の弟子と共に寛元元年(1246)に博多へつき、のち鎌倉に下り寿福寺にいました。

 この道隆の学識と見識により広い世界を知った北条時頼は、鎌倉の浄土宗常楽寺を禅宗に改めさせて道隆を住まわせ、常楽寺に通い師事します。さらに建長寺を創建して道隆を開山としました。

 中国直輸入の禅院を鎌倉に開いた時頼は、そこに精神的支柱を得て、道隆を戒師に出家して最明寺入道道崇を名のります。

 

 日蓮聖人はこの最明寺入道に「立正安国論」を文応元(1260)年に進覧します。正嘉大地震以来の天変地異で民衆が苦悩にあえいでいるのは、法華経にそむいて念仏禅宗の邪悪を信じているからである。諸寺に除災の祈祷をさせるだけで、禅寺等の建立にうつつをぬかしている時頼に「信仰の寸心」を改めて「実乗の一善に帰せよ」とせまっています。

 また日蓮を無視する最明寺入道時頼は存命中に「地獄におち」「死後も無間地獄」だと辻説法する日蓮聖人に対し、鎌倉幕府が弾圧を強めるのは無理からぬことで、竜の口、佐渡流罪等の受難の歴史がまっていたのです。

 

 

時頼公の墓 竹内正道著作集 > 家族の源流 足立氏ものがたり

時頼公の墓

  

 

 

 

vol.34  2001.6.1

 

安達泰盛と時宗
 Yasumori Adachi and Tokimune 

 

 

 北条時宗北条氏得宗政治を強化した、蒙古の侵略という民族的国難を救った青年政治家としてよく知られていますが、それをささえていたのが時宗の妻堀内殿の父安達泰盛でありました。

 安達義景の妹が松下禅尼4代執権経時と5代執権時頼の母であったことはすでにみたとうりでありますが、この義景の子息には次郎頼景、三郎景村、四郎時盛、五郎重景、六郎顕盛、九郎泰村、十郎時景らがおりますが、このうち5人が引付衆となり、時盛、顕盛、泰盛は評定衆にまでなっています。

 このような一族の繁栄は幕府政治の中枢を安達氏が握っていたことによりますが、北条氏との姻戚関係によって強いものとなったのです。

 

 安達泰盛若くして将軍藤原頼嗣近習となりましたが、続いて引付衆、引付頭、評定衆となり、さらに越訴奉行にもなりました。泰盛の名が「吾妻鏡」に最初にでているのは寛元2年(1244)6月に大番番頭を勤めていたとされていますが、14歳の時にすでに鎌倉市中の警護役の頭をつとめ武術もすぐれていたといわれています。文永9年(1272)以後は肥後守護となり、執権の北条政村、時宗の政局に加わり「威勢先祖に越えて人多く随いき」といわれております。

 北条一門に限られていた陸奥守にも任じられていますし、蒙古襲来の時には子息の盛守を守護代として九州に下しています。弘安5年には秋田城介を子息宗景に譲っており、時宗が弘安7年に逝去しますと出家して覚真と称していました。

 

 時宗が執権となりましたのは文永5年(1268)で18歳の時ですが、庶兄の北条時輔の陰謀事件や、蒙古国書の到来など幕府をゆるがす事件が相つぎ「当世は乱世、去年より謀叛の者国に充満せり、今年2月11日合戦、其より今5月のすえ、いまだ世間安穏ならず」と二月騒動を予言された日蓮聖人の御遺文にもありますが、この社会状況をのりきり、九州の非御家人まで動員して異国警固番役を命じ、九州の防禦体制を固めるのに、安達泰盛をはじめ足立一族が青年時宗をささえて国難に対処したのです。

 時宗は10代の少年時代より、南宋から来た建長寺の蘭渓道隆について中国直輸入の禅宗を学び精神的支柱としていました。道隆が京に去りましてから、文永4年大休正念が来日し鎌倉に来ましたので、建長寺、寿福寺などに住まわせ熱心に参禅したのです。

 

 文永11年(1274)文永の役がおこります。御家人の奮戦で殺戮戦が続き博多は占領寸前でありましたが、夜半の強風で元軍は撤退しました。翌年また元の使者が来ましたが時宗は、5人の使者を鎌倉竜の口で斬り断固戦うことを内外に示します。

 南宋はこの後元に滅ぼされますが、時宗は無学祖元を招き鎌倉に迎えます。時宗は熱心に無学に参禅し、円覚寺を建立弘安の役を前にして、金剛経円覚経などを自らの血で書写し、仏、諸神の加護を祈っています。

 また安達泰盛は祖父景盛の影響もあり早くから高野山を信仰していました。一族の玄智金剛三昧院の長老でありましたが、泰盛は奉行をつとめて金剛三昧院に勧学院、勧修院を造立して学問と修法の道場にしたり、印刷事業を推進して高野板開板を外護しています。特に石造町石を寄贈し先祖の菩提と時輔らの霊を供養しています。金剛峰寺の過去帳には前陸奥守入道覚真の名がみえるとのことです。

 

 

【安達氏系図】 竹内正道著作集 > 家族の源流 足立氏ものがたり

安達氏系図

 

 

 

 

vol.35  2001.6.8

 

弘安合戦平禅門の乱
 Kouan battle and turbulence of Heizenmon 

 

 

 安達泰盛は娘が時宗に嫁してのちの執権貞時を出生してから幕政の中枢にありました。時宗は弘安7年に急逝したのですが、その時の評定衆は泰盛父子のほかに北条顕時、北条政長などの安達家の姻族が6名もおりましたし、引付衆にも泰盛の弟が2人(長景、時景)のほかに二階堂氏、大江氏などの姻族が4名おりました。

 このように安達氏とその姻族は幕府の最高職の半数以上に就任しており、施策の決定は泰盛の思いのままで、その権勢は強力なもので、得宗中心に北条一門と安達氏一族の有力御家人による政治が運営されていたのです。

 しかし幕政の実態は、蒙古の襲来以来戦時の総動員体制は継続しなければならないし、異国警固番役の負担は重く、恩賞に対する不満もあり、御家人困窮は深刻であり、御家人の利益を守ることにも限界があり、御家人との合議で幕政運営をすることに反対である御内人平頼綱とするどく対立していました。

 

 侍所所司をしていた頼綱は、その地位を利用して兵を動かし、弘安8年(1285)11月17日、出仕してきた泰盛を捕えて斬殺し同時に安達邸を襲い一族を殺害、安達氏一族のみならず泰盛についていた御家人を捕えて斬首するという恐怖政治を展開し、得宗専制政治を開始しました。

 武蔵、上野中心に五百を越える御家人が斬首され、自害してはてることとなり、争乱も常陸、信濃、播磨、筑前にまで波及し、多くの御家人の所領が没収され、文永、弘安の役の恩賞として配分されました。

 足立氏も遠元の孫遠親の子の時代となっていましたが、足立宗家の太郎直元左衛門尉は敗北して足立郡の所領も没収され、自害しました。自害者の中に和泉六郎左衛門尉もいますが、天野景村のことで、遠景の子孫までこの事件に連座していますので、足立、安達同族のすべてをまきこんだ争乱でありました。

 しかし、足立の本家遠親の三男元氏の子孫は逃げのびて、後に北条貞時13回忌法要に円覚寺へ参詣し、足立家の惣領足立左衛門入道として供物を進上しています。北条氏の被官となって得宗家で活躍していたのです。

 同様のことは安達家にもあり、泰盛の甥宗顕は21歳で泰盛の一件で殺されましたが、息子の時顕は救われて後に秋田城介となり執権北条高時の外戚として幕閣で重きを成しました。

 

 平頼綱は恐怖政治で独裁し、ついには次男の助宗を将軍にしようとしました。永仁元年4月13日関東に大地震があり、将軍御所をはじめ諸大寺が倒壊、炎上し、死者2万3千余という大惨事となりました。

 この世情不安の中、22日未明、執権貞時の兵が経師ヵ谷の平頼綱邸を襲い、頼綱、助宗父子をはじめ一族を滅亡させます。この一族90余人が自害しますが、世人は泰盛を討滅し、日蓮聖人を迫害した報いとうわさしたとのことです。

 日蓮聖人と頼綱は何度も対面していますが日蓮聖人をにくみ、徹底して迫害し、法華門徒を全滅しようとしたのが頼綱です。文永8年9月10日に対面した時も、聖人に「理不尽なあやまちによって同志討をくりかえし、外国より侵略の難を受ける」と諫言され、「物に狂う」ようになったのです。

 松葉ヶ谷庵室を襲ったのも、竜の口で斬首しようとしたのも、佐渡流罪で殺害しようとしたのも頼綱です。文永11年4月8日にも対面しますが、聖人に「権力によって心をば随えられたてまつるべからず」と精神の自由を説教されたのですが、理解できず「物に狂」うたような恐怖政治で法華門徒を弾圧し続け、自滅した得宗御内人だったのです。

 日蓮聖人と日蓮一門の弟子や信徒を平頼綱は弾圧し、非道を行ったのですが、日蓮聖人はそのような頼綱のことを法華経の行者にしてくれた善知識とされ、彼が地獄の責苦を受けることも明言されています。

 平頼綱は執権の地位にとって代わろうとする逆意があるとの理由で誅殺され、その一族九百余人も滅亡しました。

 


   竹内正道

 

 

     
         
 
     
     



















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