楠木正成像 明治30年 高村光雲・後藤貞行作  皇居外苑 2003.3.10
楠木正成像 明治30年 高村光雲・後藤貞行作  東京 皇居外苑 2003.3.10

  竹内正道著作集
家族の源流 足立氏ものがたり

第一章
 
 
家族の源をたずねて
 

はじめに  家族  もろい核家族  理想の家庭  人間関係  先祖のこと  先祖供養

 
Visiting the Family Origins
 
   
 
     


 
 

vol.1  2000.10.13

 

はじめに
 Introduction 

 

 

 家族のあり方がいま大きく変わってきて、日本の社会を根底からゆり動かしています。「家族の多様化」とか「家族崩壊」さらには「家族破壊」という言葉がキーワードになっています。これまで経験しなかったような不気味なことが相ついで起きています。新潟の少女誘拐、名古屋の中学生の5,400万円恐喝、豊川の主婦殺害、佐賀のバスジャックなど、毎日何か異常な事件が続出、それを取り締まる警察の不祥事、わがままいっぱいでルールを守らないことが多すぎる世相となりました。

 少年事件が起きるたびに家庭の父性の不足、父親の存在がなかったり、母親の母性の歪み、離婚による不在とか溺愛、無神経、優しさの欠如とかが原因とされています。ユングが母性の本質は「慈しみ育てる」面はあるけれども「狂宴的な情動」と「暗黒の深さ」があり、すべてを呑み込む恐ろしさがあるとしていますが、その悪い面が表面化した事件が多くなってきました。その原因は、性別役割分担をした夫婦と未婚の子からなっていた家族が変わってきて、晩婚化や結婚しないもの、子供をもたない夫婦、離婚の増加などから普通の家族のあり方が変わってきたことによります。

 

 慣習や親の意思で結婚するのではなく、当事者が幸福を追求し、恋愛や性格の一致などで配偶者えらびをし結婚して家庭をつくる核家族は、義務や伝統にしたがうよりも個人の自由と幸福につながるとされました。しかし、感情面で結ばれるということは「結婚したいから結婚した」のであって「愛がなければ離婚」ということになり、家族の不安定さの原因となります。アメリカでは結婚した夫婦の半数が離婚するといわれていますが、最近の日本でも29万余が毎年離婚しています。

 「子はかすがい」といわれており子供が家族の軸となり要でありましたが、家の永続性を願う必要がなければ、子供よりも夫婦の愛情が中心の家族となり、親の離婚にまきこまれてしまう子供も多くなっています。

 「自分たちの幸福な家族」をつくるのに、愛情が家族の絆になってしまうと、愛情や情緒というあやふやなものが中心となり、家庭は「幸福」を消費する自閉的な場となり家族は弱体化しました。男性は家庭を「幸福」にするため給料をもち帰ることで愛情表現をし、妻は子供の育児や夫のために家事をすることが愛情表現となり、自閉的な空間の中で育児の責任や家事をひき受けた母親が育児ノイローゼや児童虐待をしたり、さらに高齢者の介護を抱え込むと愛情どころではなくなってしまうということもあります。

 戦後物の豊かな生活、高収入を得るため地位の高さなどを求める欲望に人々はとりつかれ、それを満足させてくれる夫であり、子供の学力、進学を求めました。しかし、それを獲得できるのは恵まれた少数のものだけであり、その欲望によって心の充足は得られなくなったものが多くなりました。物の豊かさは、家電製品、家具、車の購入等であり、それを満足さすと、なにものにも束縛されない自由を求めることが近代的な生活の仕方という考えもでてきました。

 「結婚して子を育て、親の面倒を見て、自分も老いたら子に面倒をみてもらいたい」と願う人が少なくなったのです。

 

 少子化がすすんでいます。20世紀は毎年83万人ずつ人口増加をみましたが、21世紀は年平均60万人ずつ人口が減少します。核家族が増加し、2,746万世帯となり、単独世帯も1,227万世帯となりひとり暮らしが増えています。自分の好きなように生活している夫婦に育てられた子供はきままで躾などできていませんし、親が家庭にいない希薄な関係の子供が多くなっています。子供の面倒をみるより自分たちが遊ぶこと、楽しむことを優先させている親も増えています。

 少年非行の問題、家族の崩壊こそが21世紀最大の課題で「心の豊かな社会」を創造するのならさけられない問題です。われわれは「現在や未来の人々を幸せにする」ことを目標にかかげた生き方、他者の喜びを喜び、他者に役立つことをする自分に生きる価値と存在理由をもつという「心の豊かな社会の創造」につとめたいものです。男性が弱くなったといわれていますが父性の原理をみなおす必要があります。

 

 「家族の源流」を考えるとき、「家の制度」がいつ始まったかを問題としなければなりません。父性の強かった家父長的「家」は鎌倉時代に成立したというのが一般的です。「家」は武家社会成立の中で発生し戦国期から織豊時代に発達したのです。家の先祖のことは寺院の過去帳に記録されていますが、寺院のほとんどが荘園制の崩壊から郷村制の成立期に草創されています。つまり応仁の乱(1467)頃から、江戸幕府の宗教統制が強化される寛文5年(1665)の200年のあいだのことです。

 鎌倉幕府を創立した足立氏の歴史を調査して、父性の原理としての家族の源流をみていき、「家の永続」を大切にした生き方を追求していきます。

 

 

 

 

vol.2  2000.10.20
vol.70  2002.7.25

 

家族
 Family 

 

 

 家族についての考え方が、今大きく変化してきています。ライフデザイン研究所(東京)の生活意識調査では、従来の家族観を維持しようとする層と、家族の多様化を積極的に認めようとする層にわかれるといっています。スウェーデンやデンマークでは出産の半分が婚外出産でイギリスやフランスでも30%以上がそうであるというのです。未婚のまま子供を産み育てる新しい生き方をする女性が増えています。

 戦前生まれのものは、これまでの家族制度があたりまえとして生きてきましたので、娘や孫娘が結婚もしないのに出産することにはとてもショックを受けるのです。戦前までの家族制度は、家父長制家族であり、「家」の制度でありました。「家」というのは、家族の構成員ばかりではなく、過去の先祖や未来の子孫までを含めたものであり、その代表が家長でありました。家長は、戸主権と財産の所有権を持ち、それは直系の長男に相続されて、その長男は、その妻や子とともに親と同居して生活がいとなまれていました。したがって家族は個人の立場よりも「家」の存続・発展が重視され家運の隆昌が最も大切にされていましたので、結婚も個人の問題ではなく、家と家との結びつきで、家を代表する家長の承認が必要でありました。

 

 新しい「民法」によって「家」制度は廃止され、一組の夫婦と、その未婚の子供だけでの家族で「核家族」があたりまえになりました。結婚は当事者の合意でなりたち、結婚によって新しい戸籍がつくられ「家」の相続は不要で、財産は配偶者と子どもに分割して相続し、扶養の義務も家族の構成員によって平等に負担するようになりました。そして、いまこの核家族すらが変化をとげて、配偶者のいない未婚の母子家族が増えているのです。

 このように家族観がしだいに変化すると、本来もっていた家族の機能はどうなるのでしょうか。家族は人間にとって重要な機能をもっていることはいうまでもありません。特に家庭は新しい世代を生み育てる場であり、消費生活をする場であるだけでなく、人間にとって最も大切な精神的なものをあたえあう場でもあります。ストレスの多い社会生活にあって、精神的な安定と生活意欲を回復させるいこいの場家庭しかありません。また青少年たちの人格の基本的なものは家庭ではぐくまれます。単に子供だけでなく、おとなにとっても人格をはぐくむ場が家庭です。

 

 封建的な「家」に対する批判はきびしくなされましたが、民主的な「核家族」が家庭の大切な機能と人格形成にどれだけ役立ったか疑問視されています。家庭の教育力の低下、放任主義による少年非行、安易な結婚と離婚など家庭の崩壊が大きな社会問題となっています。

 それどころか、離婚は毎年増加しており、離婚すると簡単に再婚しにくい傾向もあり、高学歴の男女は結婚そのものに慎重で要求水準がたかく、晩婚化がすすんでいますし、結婚しても、子供を欲しがらないという夫婦もあります。そして、結婚しない男女も増えていますので自分の家族をつくらないまま生涯を終えるものも増加しています。少子化が進み、人口も減少し、家族の数そのものが衰退しています。

 

 日本の高校生はひどく活力を喪失しているとの日本青少年研究所の報告があります。「学校に誇りを持てず、勉強離れも進み、積極性を失い、自分はだめな人間だと思っている」と悲観している高校生が73%もいるというのです。学校生活に張りがあると感じている生徒が少なくなったようで自分自身を貶める自己否定型の高校生が増えています。

 中学生に対するアンケート調査で、日本の国に誇りをもっているのは24%、自分の将来に希望をもつものは29%と報告されています。高卒の32%、大卒の23%がフリーターで職業をもっていないものが増加し、世の中と自分が結びついていない浮遊感が増しているといわれています。社会に対する連帯意識が希薄になっていますが、これは高度経済成長とその後の異常の状況の中で核家族化が進展したことによるものです。家族に対する連帯感をもたないものが社会や、国に対して連帯感をもつはずがありません。

 

 

 

 

vol.3  2000.10.27
vol.71  2002.7.29

 

もろい核家族
 Fragile nuclear family 

 

 

 人の幸福・不幸にとってもっとも関係が深いのが結婚で、愛しあい、ともに生活し、子供の養育をともにしてその成長を願うのが家族です。気のあった2人が愛情で結ばれ、信頼しあい、一緒に暮らし、子供が生まれるとその養育につとめることが家族の前提です。好きあった男女が生活をともにし、気楽に2人の世帯をもって、自由きままに暮らすためには「ババ抜き」は必要条件で、経済的に恵まれればしあわせ一パイということです。昔の結婚は家同士のとりきめで、見合いで家庭にはいり、親につかえ、配偶者につくし、その家風にあうよう気をつかって結婚生活を送ったのですが、核家族となった現在では「愛」と「お金」が家族生活を継続する前提となっています。

 結婚して家事の負担がふえ、それに出産・育児などで孤立無援になった女性の負担は大きく、特に育児という未経験なことは「愛」や「好き」だけではどうにもならないことが多いのです。そして共稼ぎをしなければ生活維持ができないとなると、夫の能力のなさにイライラしてきます。夫の側でも「ガマン」しているのですが、洗濯はクリーニング屋、食事は出前か外食、料理してもインスタント食品ばかり、子供は託児所、勉強は塾まかせで子供の世話をしない妻との関係が希薄なものになり、仕事、仕事で家にはあまり居なくなってしまう状況です。

 親が親の役割を果たさなくなったダメ親によい子が育つわけはなく、子供なんか産まなかった方がよかったと思っている母親も多いです。「手抜きした母親」に育てられ、「社会的動物として一人前に」育てようとしない父親のもとで育った子供が、家庭内暴力をふるったり、友達の人格を尊重できない子供になったとしても本人だけの罪ではありません。

 結婚を物心両面で「よりよい生活」ができると考えていた男女にとって不幸の原因は「愛の欠如」と考えてしまい、愛がなければ婚姻の継続は無意味となるのです。嫌になったから離婚はあたりまえとして「無過失離婚」がふえています。女性が子供をもつ必要はないと思うようになると結婚する必要もないし、結婚しても同居して苦労することはないということになります。結婚しないものが増えてきましたし、結婚したくてもできないものも増えてきました。そして結婚しても子供はほしくないと思う夫婦も多いようです。

 若い時は核家族を当然と考えていたものも老齢になると直系家族を願っているものも多いです。自分の両親はほっておいて、自分は子や孫と共に生活をして老後を送りたいと思っているのです。特に少子高齢化社会となり家の存続ができなくなってきましたので、よけいに家の後継者がほしい老人がふえ、先祖の祭祀のことも気にするようになるのです。

 子供をもつ必要はないという考え方のうらには、子供に負担がかかり生活に余裕がないという理由によるものや、パチンコに夢中になって子供を死なせたように、子供の面倒を見るより自分が遊ぶことを優先させてしまった親の姿がみえます。豊かな社会の日本の貧しさです。家も滅び、人口も減って社会も滅びていくのでしょうか。

 少子化現象は女性の晩婚で出産数が少なくなっていることが一番大きな原因で一人っ子が多くなっています。一人っ子は親の愛情過多で過保護になったり親のペット化してしまい人との接触に慣れず、人間関係を希薄化させる原因にもなっています。

 40年前の経済成長期に田舎の青年たちは仕事を求めて大都市に出て、20歳代で所帯をもちましたが、この世代が定年になっています。田舎から都市に出たこの世代が子供や孫と一緒に暮らす3世代同居を増やす努力をして核家族化をやめることができたら、子供の教育によい結果がでると思われます。

 

 

 

 

vol.4  2000.11.3
vol.72  2002.8.3

 

理想の家庭
 Home of ideal 

 

 

 仏教は家族のことをどのように考えていたのでしょうか。仏教は家族制度の伝統のうえにたって、社会倫理の基本的な考え方、すなわち平等と慈悲と報恩を実現しようとしています。「親を尊敬すること」「親に仕えること」は子のなすべき務めとしてインド仏教以来強調されていますが、仏教は世俗的な孝行よりもっと高い境地を目ざしています。日蓮聖人が「一切は親にしたがうべきであるが、仏になる道は、親にしたがわないことが、孝養の本である」と主張されていますように、仏教本来の出家が、世間的な孝行より優位にたつことで「孝養の本」であるというのです。

 

 原始仏教聖典に釈尊は「子どもたちが、人々のよりどころである。そして妻が、最高の友である」といわれています。夫にとって妻は最高の友であり、子どもがよりどころであるのですが、そうした幸福な家庭をいとなむための教えとして『六方礼経』があります。それには、夫が妻に「仕える」のに対し、妻は「夫を愛する」こと、夫婦とも「不邪婬戒を守る」こと、夫は妻を「尊敬する」こと「軽蔑しない」こと、妻に「権限を与える」こと、「物質的にも愛情を示す」ことが説かれ、妻には「家事をよく処理する」こと、「集めた財産を守る」こと、「なすべきすべての事がらについて、巧妙にしてかつ勤勉である」ことが説かれています。さらに夫婦の理想像は「夫婦とも信仰あり、親切であり、身を慎んで、法にかなって生活し、互いにいとしいことばを語るならば、福利はいやまさり、平安な幸せが生まれてくる」と説かれています。

 親子の関係については、子に対する親のつとめとして、「悪から遠ざけ」「善に入らしめ」「技能を習学せしめ」「似合いの妻を迎え」「適当な時期に相続させる」こと、また子の親に対しては「親に養われたから親を養う」「かれらのために為すべきことをしよう」「家を存続しよう」「祖霊に対し供物を捧げよう」というつとめを説いています。報恩が大切で、親に対する奉仕というのではなく、自らの自然な気持ちで自発的になされることが説かれていて、仏教の報恩思想から、先祖より受けた恩恵にも感謝の誠を捧げるのは当然とされています。

 原始仏教経典にすでにこのような家族の倫理夫婦の倫理が説かれているのですが、われわれ現代人の家族のあり方を考えるとき、教えられることばかりです。

 

 平等思想が普及して、人間の最も大切な上下関係が喪失してしまった結果、少年による犯罪が増加の一途をたどっています。家庭での幼児期からの躾が大切なことはいうまでもありませんが、あまりに教育能力のない親が多いですし、自分自身の倫理道徳的心情または信念をもたない親が多いことに問題があります。親子の関係は友人のような横の関係ではなく、親は親、子は子であることを再認識すべきです。

 

 個人主義や自由主義を自己流に理解して、利己主義や放縦主義に流され、自己本位で身勝手な生き方をするものが増えています。

 いつの時代でも、どんな社会でも伝統や社会組織の中で個人は生きているのですが、過去から伝えられたものは古くさいし封建的であるとして無視し、自分の家族や親戚、あるいは近隣とのつきあい、職場のつきあいも煩わしいとして参加せず、身勝手で自由に生きることが望ましいと思うものが多くなってきました。最も信頼できるはずの家族を軽視したり無視して生きることが自由な生き方であるように錯覚して、自己流に足かせのない場所に身を委ねる若者が多いです。

 家族の絆が切れてしまったことによる社会問題が多くなっています。生涯独身、未婚同棲、親子虐待、不登校、子供の非行、家庭内暴力など信頼できる家族不在の問題が多くなってきました。

 

 

 

 

vol.5  2000.11.10

 

人間関係
 Human relations 

 

 

 人の一生は不思議なものです。人は生まれようとして生まれてきたのではなく、親のもとに生まれていたのです。そして、養育され成長しますが、与えられた生命を大切に生きるとしても、自分では予測できない死がまちかまえています。親の精子と卵子の結合で生命は誕生するのですが、数多い男女のなかからどうして二人は結婚し、子供の親となったかは不思議な縁としかいいようがありません。

 「袖ふりあうも他生の縁」といいますので偶然でなく、すべて前世からの因縁によるのかもしれませんが、まことに不思議な縁により結婚し、「子宝に恵まれ」て親となり、新しい生命を養い育てます。「子供を作る」などといっていますが、子供は親の意思どおりになるものではなく、「授かったもの」であり決して親が自由に支配できるものではありません。

  そして、親にも両親があり、その両親にも親がありますので、2人、4人、8人と親の縁が増え、そのいずれが欠けても自分は存在し得なかったということになります。その数は先祖を遡っていきますと限りなく増加し、鎌倉時代まで遡って先祖を探すということになりますと億の数の人との縁につながることになってしまいます。

 

 このように人は無数の縁によって生まれ、成長し、社会で生活して生きる存在で、縁によって生かされていますので、仏教では「縁生」といっています。「死」によって消滅するはかない存在ではありますが、生かされて生きていることを知り、有縁の人と相互に扶けあって生きる以外の生き方はありません。そして同時に、あらゆる人は一人として同じ生命をもつということのない個性的存在でありその意味で、一人で生まれ、一人で生き、一人で死ぬ存在でありますので、自分の一生は自分で責任をもつということになります。

 人は、はかり知れない無数の縁によって生命を与えられていますので、自分は「生きている」というより、「生かされている」という自覚のある生き方が大切なのです。

 『無量寿経』でこのことを「人は、世間愛欲の中にありて、独り生じ、独り死し、独り去り、独り来る。行いをおうて苦楽の地に至り趣く、身自らこれをうく、代る者あることなし」と述べていますが、無数の縁によって生命が与えられ、生かされている、唯我独尊としての自己であることを自覚して生きることが大切であると教えています。無数の縁と無量の恩恵をうけて生きて生かされている自覚があれば、先祖を想い先祖を語ることになるのです。

 

vol.6  2000.11.17

  

 ところで最近、先祖と子孫をつなぐ最も大切な結婚について考え方が変わってきたといわれています。男女ともに結婚離れが静かにすすんでいるといわれています。若い男性にとって家事・育児を分担し、家計を満足させ、場合によっては少子化の現実から妻の両親の面倒をみなければならなくなるようでは、結婚は束縛でしかないというのです。また女性にとっても、独身時代の自由で楽しい生活と消費レベルを落としたくないし、自分にふさわしい相手でないと結婚したくないのです。

 そして結婚しても添い遂げるべきだと思っている人が少なくなって、子供がいるとしても、愛がなければ離婚を恐れないというのです。半世紀前までは、結婚の目的は「家の子孫」を産み、家の恥にならない後継者を育てることにありましたが、現在の女性は愛する人と一緒にいたいけれど、束縛されるのは嫌だから別居して恋人同士のような生活ができればと願っているものが多いといいます。

 

 子供の養育についても、いろいろの変化がみられます。最近の子供は「社会のルールや道徳心に関して、家庭で親から躾られていない。アメリカ・イギリス・ドイツ・韓国の子どもと比較して、非常に意識が低い」とか、「友人を思いやるなどの友人関係の希薄さ」が感じられるとかいわれています。「人間関係が希薄」な家庭で、子供のなどできませんし、学習も基本的な生活慣習も学校まかせで、学校で教師に気に入らないことをいわれると反感をもつようになります。

 希薄な親子関係の子供が、希薄な友人関係となるのは当然で友人を思いやる心は育ちません。やはり親は「やるべきことはやれ、わがままはゆるされない」としつけ、機会の平等な社会で生活するのだから「努力することをおしまない人になれ」とさとし、「」という人間関係に支えられて生きられる社会的動物であることを教育しなければなりません。誇りもなく、自己責任の意識をまるでもっていない利己的な親から反社会的な行為をする子供が育ったとしても、本人だけの責任ではありません。

 

 明治の初期に日本にきましたアメリカの動物学者エドワード・モースはその著書の中で桜見物の群衆が温和で礼儀正しく、落書きやゴミがないのに驚いて「日本ははるかに文化の程度の上の国」としていますし、「日本人はいかなる人間に対しても、人間の価値、お互いの価値を認めあう」と書いていますが、現在の日本の現況をどのように評価するでしょうか。日本人が長年かかって培ってきました「相手を思う心」を再生しなければならないと思います。そしてその思いは、生きている人だけではなく、過去に遡って先祖を想うことへと発展します。

 伝統的な日本人の美徳とされていたものがどんどん失われています。戦後の工業化社会の進展と高度経済成長の中で、人間として最も大切であったものすら失われてしまいました。今の社会で、学校教育の歪み、家庭内親子関係の崩壊、社会情勢の変化などから、自分に自信がもてなくなり誰かの指示がほしい人が増え、これがカルト宗教に入信する原因となっています。仏教は自分の心に安らぎを与え、相手に思いやりをもてるよう先祖供養を通じて「慈悲心」を教えてきました。

 

 

 

 

vol.7  2000.11.24
vol.73  2002.8.5

 

先祖のこと
 About ancestor 

 

 

 祖先崇拝は日本人の日常の中にあり、道徳的な規範の根元として永い間日本人の伝統的な生活信条となっていました。
 「先祖さん」をまつることは子孫のつとめであり、先祖をまつることで日々の生活の平安をさずけてもらうと信じているものが多いのですが、神でも仏でもない先祖さんというのはどのような霊なのでしょうか。

 このことについて柳田国男氏が「先祖の話」を書いています。それによりますと、先祖という言葉は二種類の意味で使われていて、「家の最初の人ただ一人が先祖であり、古い時代に活きて働いていた人のこと」で自分達の家を創立し家の基本をきずいた人であると思っている人と、「先祖は祭るべきもので、自分の家で祭るのでなければ、何処も他では祭る者の無い人の霊、即ち先祖は必ず各々の家々に伴うもの」と思われているものとであります。

 

 もう現在ではそんなことは云わなくなっていると思いますが、昔は早く立派になってくれという代わりに「精出して学問をして御先祖になりなされ」といって子孫をはげましていたといわれます。これは遠い昔の先祖ではなく、家を興隆させたり、分家して独立する能力をもつ子供に将来を託するということで、古い先祖ばかりが先祖ではなかったのです。

 家の根を太くたくましくするため長子家督相続をすることにより、長男は家代々の先祖を祭り、まつりごとや法事を盛大にすることがつとめであるとする家と、子供達に分割相続をさせてどの子も幸福にしてやりたいとの考え方は昔からありました。
 次男以下は分家させて新しい家をたてさせ先祖になればよいというのです。更に能力があり独立できるのなら長男が家を出て、次男以下が本家をつぐということになり「先祖さん」になることを期待したようです。

 人は死後祭ってもらいたいという念願、死後も敬愛されたいという願いがあります。そこで子孫は祭る先祖を限定したわけで、本家の先祖は祭らなくてもよく、祭られない先祖をどこかで祭ることはしてはならず、正統嫡流が、先祖伝来を祭る資格があり、分家にはその資格がなく、分家の最初の人を先祖とすればよかったのです。

 

 このことは藤原氏の子孫だという家系がたくさんありますが、藤原氏であったというきめてのない系図が多くあります。藤原氏自体も先祖は天兒屋根命(あめのこやねのみこと)という神様ということになっていますが、これを先祖とはしていませんし、初めて藤原姓を賜った鎌足を祭っている家もなく、鎌足の孫の男四人の系統のうち藤原北家の房前を先祖にしているといわれています。

 関東では山蔭流・魚名流の系統の家が多く、魚名流のうち田原藤太秀郷を祖先としている家がもっとも多いそうですが、その本家がどこにあるかもわかりません。
 系図の上ではそのようなことになるかも知れないが、私の家はその支流の支流で先祖は江戸期の人を祭っているというのがほとんどで、系図も鎌倉期より続いているものなど考えられず、江戸中期頃のものが古い方で、あとは後世の人が自分の家の家紋が伝承した話をもとに、系図をつくり子孫に伝えたものばかりです。

 

 このように家というものも、人の一生と同じで天寿のようなものがあり、古い家系が消滅して、分家が勢力をもち、その分家もいつか消滅して、分家の分家が栄えて、それもいつの日か消滅するという歴史をくりかえしています。

 家を永続させたいということも古来よりの願いでありました。「積善の家には必ず余慶あり」といわれ、善行を積み重ねていく家には、必ず後の子孫まで慶びが伝わっていくという意味ですが、「人知れず徳を積んだ者には、天が幸福を報いとして与える」といわれています。陰徳というのはめだたぬよう、きわだたぬよう生きて徳をつむということで、これが家を永続させたのかも知れません。

 

 「家」の制度は鎌倉時代の武家社会で発生し、織豊時代から江戸初期にかけて発達し、広まったとされています。現在ある寺院の大半が、郷村制の成立とともに創立されていますことと関連しております。武家をはじめ、農民や町人による家の形成により、その祖霊を祭る寺が建立されていったのです。

 日本の仏教は家の成立により、その先祖崇拝とともに発展しました。
 先祖崇拝が「家」の成立と深いかかわりをもったことはいうまでもありません。先祖崇拝は古くから伝えられている「先祖の祭り」で、先祖、祖先、祖霊ともよんで「先立てるミタマ」を祭ります。父の父を「祖父」、その先代を「曽祖」、さらにその先代を「高祖」ともいい、さらに古い先祖を「太祖」ともいっていますが、家の直系の先代すべてを祭ることが伝承され、家長の責務でありました。

 

 一般に農耕民族は、死後の生活を信じ先祖を崇拝する習俗をもっています。農耕は種まき‐発芽‐開花‐結実‐枯死してもまた種から再生しますが、同様に人も誕生し‐成人‐結婚‐子供の出産‐老化‐死となるので永遠に回帰し再生すると信じられました。そして山、森、樹に祖霊がやどり正月や盆には先祖さんが帰ってくるとされています。しかし、この先祖とは別に、家の連合体である同族の共通の先祖を根本先祖と考え、として祭りました。その根本先祖というのは、家父長的「家」の制度が確立した鎌倉時代の武家社会の中で発生したといわれています。

 韓国ではほとんどの家が族譜をもっており祖先の祭祀を行っているといわれていますが、日本では家譜をもっている家は少なく、名字家紋で同族を知るくらいで祖先の祭りも行われなくなっています。家に対する帰属意識や伝承が失われてしまったのです。寺檀関係で寺の知らせる年忌法要中心の先祖まつりとなって、同族の先祖祭りは特定の神仏をまつることになり、その行事も希薄になっています。

 特に高度経済成長期に先祖崇拝が喪失し、家に対する愛着も帰属意識もうしなわれていったのです。

 

 

 

 

vol.8  2000.12.1

 

先祖供養
 Ancestor memorial service 

 

 

 どんな人間にも必ず先祖はいます。しかもさかのぼって数えると無数の先祖の人々がいて、その血がどんなに薄くなっても子孫の一人である自分に流れていることは否定できません。このように気付いた時、先祖に対する感謝の気持が自然に湧き、それがやがて、尊敬や崇拝の念に変わっていくのです。

 「おかげさま」という言葉によって示されている言葉の中に、今日の自分をあらしめてくれた「ご先祖さま」に対する崇拝感謝の気持がふくまれています。

 人間にとって最も悲しいことは、自分が死ぬことよりも、自分が愛し大切にしてきたものを失うことです。

 特に自分をこの世に生まれさせてくれた父や母を失うことは人生の最大の不幸です。葬式や追善供養が単に死者だけのものではなく、生き残った者の死者に対する感謝、尊敬の気持を表現するのが供養です。これと同じ感情が、すでに過去に死去された祖父・祖母とかその先代とかにおよぶ時、先祖全体に対する追慕・感謝・尊敬といったものを表現するのが先祖供養です。

 

 すべてのものの悟りを目指す仏教の考え方では、単に個人の悟りや、個人の成仏だけではなく慈悲が大切となります。そこから死者が輪廻転生の世界で苦しまないため、生き残ったものが善根功徳を積み、それを死者に回向することによって死者の冥福を達成することができるのです。

 人間としてこの身を生かさせて頂いたことに対し先祖に対する感謝を表現することを通して、生きていることの意味を問い、やがて自分が先祖になって子孫が幸福になってくれることを念じられるようなものとして永遠の生命を生きたいと誓うことが供養です。

 

 日本人は古来、先祖の霊によって守られていることによって幸福な生活を送ることができると考えていました。彼岸とか盆には先祖の霊が帰ってくると信じられており、迎えるために迎え火をもやし仏壇で充分おもてなしをして、再び送り火によってあの世に帰ってもらうという風習がありました。墓まいりも同様で墓へ行って供物・供花・読経・焼香などして供養するのです。死者の霊は一定の期間を経過してこの世の穢れが浄化されて〝ホトケ〟となり子孫を守ってくれるのです。

 死後、枕経・通夜・葬式・初七日から四十九日・一周忌・三回忌・七回忌・十三回忌・十七回忌と続き、五十回忌の法事を営み、縁者と共に読経することにより亡霊は浄化され、よい世界に転生すると信仰されていました。死者の追善・回向・冥福を願ったのです。しかし縁者といえども、感謝や尊敬の念のわかない死者に対しては追慕や追善の気持ちが起こるわけはありませんので「家」の習慣がなければ、そうした気持と無縁になってしまいます。

 

vol.9  2000.12.8
vol.74  2002.8.7

 

 祖先崇拝は「家」にたいする帰属意識のない家庭には祖先に対する供養は心のこもったものにはなりません。自分の先祖を祭る習慣をもたなければ、自分が何時か祭られるようになったとき、子孫がおまつりをしてくれたり、冥福を祈り回向することを期待するのは無理なことです。

 会社人間は離職すると非常にストレスがたまるといわれていますが、生活の基本は家庭にあり、家庭人間であることが最も大切な生き方なのです。しかし、家庭を大切にすることを忘れて会社人間になって生活することがあたりまえのようになっています。単身赴任はどうも家庭人の義務を放棄したようなものですが滅私奉公で会社のために自己を犠牲にするのが人間としての正しい生き方だと思って会社のためにつくしたのに何かの理由で退職しなければならなくなると生きる力を失う人も多いのです。

 家族は血で繋がった関係で切ることはできませんが、会社は都合で解雇します。そんなもののため全人格を犠牲にする必要はありません。

 

 は親が子に対し、子が親に対して抱く無償の恩愛の情を育む場で、生存の基本であり、人生にとって最も大事なものであります。家族がおたがいの人格を認めあい、尊敬と愛情をもって生きることが大切ですが、そのためにはすぐれた精神性も必要です。

 核家族というのは夫婦中心の家族なのですが、どうしても経済的欲求中心の生活になりがちです。家族制度といわれていた家族は、夫婦関係より親子関係を重視し、家の相続を大切にしていましたので封建的家族として否定されました。
 しかし、今の社会で再認識されなければならないのは、家族は新しい世代を生み育てる場であり、共同で消費生活をする場であり、意欲的に生きるための精神的な安定を得るいこいの場でもあります。何より子供たちにとっては人格を形成する場でもあり社会発展の基礎になるのが家庭であることに変わりはありません。その家庭に道徳的確信もなく、親子関係の倫理もなくなってきてしまっています。

 

 さて、平安時代末期に高位官職についていた人物を始祖として祭祀する神社とか寺院を精神的よりどころとして、始祖の子孫中心に親族を集めて形成された「一門」がありました。12世紀になりますと、この「一門」から新たな始祖をもつ親族集団ができますが、これを「」と称するようになります。この「家」は「嫡系による継承」がされていますが、庶子の分立も制限されませんでしたので、分立した庶子が新たに「家」を創始することも多くみられ、分立した庶子はその家の先祖となりました。しかし、分立した庶子家でも、最初の創始者である始祖=元祖も大切に祭祀されています。

 家族の源流をたずね、始祖の精神の伝承家の永続性を考えた足立氏について調査し、家の永続性を願った生き方をみていきます。

 

 

竹内正道

 

 

 
 







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