丹波佐治郷 地頭職 足立遠政築城 鎌倉時代 万歳山 山垣城址  兵庫県丹波市山垣 2002.4.27
丹波佐治郷 地頭職 足立遠政築城 鎌倉時代 万歳山 山垣城址  兵庫県丹波市山垣 2002.4.27

  竹内正道著作集
家族の源流 足立氏ものがたり

第四章
 
 
足立氏列伝
 
足立遠政  後醍醐天皇と丹波の足立氏  遠谿祖雄  足立宗次入道左衛門尉基高
南北朝時代の足立氏  足立権太兵衛基則  足立基則の子孫  足立氏と赤井氏  足立正興とその兄
足立氏忠臣蔵  足立権九郎基兼  足立重信  足立藤九郎保宗  北九州の足立氏
南九州の足立氏  中国地方の足立氏  岐阜県郡上の足立氏  三河の足立氏 足立氏の家紋
姓氏大辞典と足立氏  二つのあだち郡  関ヶ原の合戦と足立氏
 

Biographies of Adachi Family

 
   
 
     




 
     
 

vol.37  2001.6.22

 

足立 遠政
 Toomasa Adachi 

 

 

 丹波氷上郡の郷土史家細見末雄雄氏が昭和53年の電話帳で調査したところ、氷上郡内の足立姓は1,576、多紀郡44、京都府天田郡785、綾部市54、船井郡19、亀岡市21、更に朝来郡336、養父郡50、豊岡市62、三田市19、多可郡157、西脇市59となっており計3,182と報告されています。

 

 その中心は青垣町佐治郷でありますが、足立遠元の孫遠政が承元3(1209)年丹波氷上郡佐治郷の地頭職に任ぜられて、武蔵国桶川郷より丹波へ来たことによります。源頼朝没後約10年、実朝将軍の時代のことですが、この頃は関東武士守護、地頭として関西地方に多く任命されており、遠政が来たころには地頭や庄官として氷上郡内各地に武士団がいて、それぞれ勢力を拡張しようとしていました。

 「氷上郡志」によりますと遠政が最初に住居としたのは小倉の太夫殿屋敷であったとされています。青垣中学校の上で「一町四方左右に谷川あり、近世光明寺境内となりしところ」とされ、これより東五町餘のところに「遠政下屋敷」があり、「面積六反、今は妙法寺の境内となれり」とあり、筆者が住職をしています妙法寺です。

 

 遠政は先祖の鎮守でありました諏訪明神を移して小倉、佐治二村の産神として祭祀しましたが、この神社は「中古此境内へ黒尾大明神を移し産神とし、諏訪大明神は末社」となったようですが、この黒尾神社は岩本毘沙門庵にあったものを移したということですから小倉に岩本城が設置された時に北方守護の毘沙門天を岩本に鎮座させ、そこの黒尾明神を小倉に移したのでしょう。遠政は山垣の万歳山に山垣城を築き、その山頂には報恩寺を建立し祖父遠元、父遠光を祭り供養しました。

 佐治は延喜の出雲路の駅があったところですが、石高三千石程度でありました。遠政は敬神、崇祖、よく関東足立氏の家風を遵守し、武勇にすぐれ、礼節を重んじて、質実堅実な政策をとり、一族と共に新田を開き仁政を施して豊田開発をしています。

 

 前に記したように足立遠政は丹波国佐治庄の地頭であり在京御家人の一員でありましたから六波羅探題より御家人動員命令が下ると先陣を勤めるほどの武勇の有力武士であったことは嘉禎元年(1235)7月29日叡山の強訴阻止で日吉神社の宮人負傷問題で8月8日、備後へ一時配流された一件にもうかがえます。

 遠政には政基、遠信、遠高、慶範、遠堅、政仁、遠尚と7男あり、孫12名、曾孫は多数でありましたが、そうした一族を数里四方の山里分住、また遠阪、岩本、稲土、田ノ口、小和田等に城を築き一族を配し山垣城の支えとしました。足立遠政の二男が小和田城を築いてこの地を領有したとか、佐治、小倉、市原は岩本城の領下とかの古記録もありますが、佐治の集落支配のことであったようです。

 

 小和田城の初代城主は遠政二男の遠信で3代までここに住すとなっています。足立遠政来丹以後百年間は平和でありましたが、鎌倉幕府滅亡後、南北朝が対立して、足利幕府になりましたが、守護の荘園支配から群雄割拠の時代へと移りますが、山垣城でも政変のたびに兵火にまきこまれました。

 

【丹波足立氏略系図】 竹内正道著作集 > 家族の源流 足立氏ものがたり

丹波足立氏略系図

 

 

 

 

vol.36  2001.6.15
vol.78  2002.8.16

 

後醍醐天皇と丹波の足立氏
 Godaigo emperor and Adachi family of Tanba 

 

 

 弘安8年(1285)11月将軍の公邸まで焼失させるという激闘の中で安達氏が全滅しましたが、幕府の政治は最高の指導者として、御家人体制を維持しなければならない得宗が、北条氏の惣領として御内人にささえられながらその頂点に君臨しなければならないという矛盾にあります。得宗専制にしようとすると御家人との対立はさけられません。強い権力をもって恐怖政治により御家人を支配しようとした平頼綱は執権貞時に討たれてしまいました。

 北条貞時はその後出家し、師時、宗宣、煕時、基時と短期で変更される執権が続き正和5年に貞時の子の高時が執権となりましたが年は9歳でしたから、また内管領の頼綱の甥が幕政の実権を握りました。

 

 この幕府の混乱を見極めた後醍醐天皇は倒幕を決意されます。無礼講という遊宴で密かに計画を討議していたことを密告され主謀者を自刃させたのが正中の変で、20万騎の幕軍が都におしよせて「日本国動乱の始まり」といわれたのが元弘の変です。

 しかし翌年5月には東国の御家人として有力であった足利高氏新田義貞が反旗をひるがえし、六波羅探題を攻撃します。敗北して逃亡する北条仲時らは野伏の攻撃にあい力つきて430余人の武将が自刃しましたし、新田義貞は鎌倉を攻撃し、いたるところで放火しましたので鎌倉の街も火の海につつまれ北条一族は滅亡しました。この時に六波羅に仕えていた足立長秋、足立則利、則惟らも近江国番場宿で自害しています。

 一方「太平記」によりますと「丹波の住人荻野彦六足立三郎は、五百余騎にて四条油小路まで責入たりける」とあり丹波の足立三郎が千種忠顕の指揮のもと六波羅勢と闘っています。このように足立一族も北条の御内人となったものと、丹波の足立一族として後醍醐天皇側についたものとに別れており、関東から足立の勢力が消滅していったのです。

 さらに「太平記」には、『山徒寄京都事』のなかに丹波足立氏が佐治姓で登場している話があります。「丹波の住人、佐治孫五郎が六波羅方として法勝寺の西門の前で、五尺三寸という長刀をふりまわして、山門の大衆を追い払う」という武勇伝が記されています。これが遠政の曾孫の孫五郎政家かどうかはわかりませんが、丹波の足立一族も戦闘では刃を交えていたのでしょう。

 

 さて丹波の足立氏は、遠政が承元3年(1209)地頭として佐治庄を拝領して東国から来たのが最初です。遠元の子が遠光で、その二男が遠政で久保田左衛門尉と号していますし、母は源三位の女ということです。源三位というのは源頼政のことで清盛につかえましたが、以仁王の挙兵に加わり平等院で敗死します。

 遠政が丹波に来たのは功によりとありますが頼朝の死後10年ですので、北条氏が政権争いを強めた時であり、北条氏の他氏排斥をさけて丹波を望んだものとも思われます。あるいは丹波守護職との関係かも知れません。70名の家人を連れて佐治庄小倉に住んだのですが山垣城を築城、更に翌年50人の一族郎党を呼び寄せたようです。そして、小和田城、遠阪城、岩本城、稲土城などを築き一族のものを配置しています。

 

 「吾妻鏡」文暦2年(1235)に田中郷の地頭佐々木高信の代官と日吉(ひえ)神社の神人が喧嘩したことから僧兵が強訴した時、足立遠政、遠信父子ら官軍と僧兵の乱闘になり宮人が重傷したとのことで遠政父子は流刑と決められたことに対し幕府が反発した話があります。

 幕府は天台座主に対して、処分は糺明してから行え、また朝廷に対して一方的に御家人だけを処罰すると将来に山徒(僧兵)の理不尽な行いを許すことになると奏請しています。遠政父子がなぜ在京していたか、流刑地がどこか記されていません。

 

 

足立遠政の墓 竹内正道著作集 > 家族の源流 足立氏ものがたり

足立遠政の墓

 

 

 

 

vol.38  2001.6.29

 

遠谿 祖雄
 Soyuu Enkei 

 

 

 足立遠政の孫光基の子に又三郎基継、四郎基明、遠谿禅師祖雄、基景、四郎九郎基綱等がありますが、この光基の第3子が傑出した禅僧として有名な祖雄で、丹波氷上郡佐治庄で弘安9年(1286)に生まれています。

 13歳で仏道を志して、「常に松樹に上り座禅をした」とあり、幼少のころより謙虚で信仰心があつく、父も性天然の法器と認めて19歳のとき出家を許しました。祖雄はすぐに寺に入り僧侶としての法式を受けました。

 

 この時代は蒙古襲来以来社会の混乱期で元に追われた宋の僧侶も多く来朝していました。臨済宗の宋僧蘭渓道隆、無関普門、無学祖元等が北条氏の外護をうけ諸大寺を残していましたが、祖雄は中国へ渡って本格的な仏教を修得しようとしました。

 21歳の徳治元年(1306)3月5日祖雄は九州より船出して浙江省に上陸、杭州の天目山に登りました。そこには徳望の高い普応国師がいたのです。これより10年の間近侍してついにその印記を受けました。

 普応国師は中峰明本のことで幻住道人と号していました。五戒をまもり毎日法華、円覚金剛等の経典を読誦、多くの信徒あり常に名利をさけて隠棲しようとしますが法席に学徒が集まりました。嗣法にも多くの僧がいますが祖雄もその一人です。

 祖雄はある夜、故郷の山河の夢を見て、その中に天目山に似た名山に観音像が立っている姿を見て、普応国師にそのことをつげますと、国師も同じ夢を見たといわれ、1316年帰国することにしました。国師は道友趙子昴に自画像をかかせ、自ら賛文を書き、法衣一領とともに祖雄に与えました。

 

 博多に上陸してみると老母の逝去の報せがまっていました。九州に10年間隠棲していましたが帰朝したことが伝えられ多くの人々が参集するようになりましたので弟子にあとをまかせ、正中2年(1325)郷里に帰って来ました。

 天目山にいました時霊夢を見た山とは小倉にある岩屋山のことでありました。この山頂近くに一寺を建立しましたが、これが岩屋山に建立されました瑞岩山高源寺です。

 遠谿祖雄のうわさは近隣を超え、その道風をしたい集まる僧たちも多く、中峰派幻住派としての宗風を慕い法席はさかえました。このことは後醍醐天皇にも達し、高源寺号と鉄鉢、龍頭杖を下賜され、京都に召されもしましたが、中峰明本の教えを守り固辞して山を下りず、中峰派の根本道場として僧侶の養育につとめました。

 

 岩屋山の瑞岩山高源寺は甲斐の天目山栖雲寺と並び称され西天目山と呼ばれ、幻住派の本山として宗風さかんになりました。しかし康永3年(1344)6月27日幻住庵で「悟了生死、五十九年、来々去々、白日青天」と遺偈を書き、結跏趺坐のまま入寂されたとのことです。

 遺体は壺に納め松樹の下に葬ったとのことで、その地には霊光殿という小院が建立されました。現在の観音堂のところといわれています。遠谿祖雄禅師は平素から「わが肖像を画くな、安牌も不用」といわれていましたので、霊光殿には観音様を祀ったと思われます。

 その後高源寺は後柏原天皇勅願所となったり、紫衣大和尚の寺の宣旨を受けたり、大内氏、毛利氏の帰依を得たりで繁栄しましたが、丹波の兵乱で一山悉く焼亡し、荒廃してしまいます。近世初頭にこの寺を再興したのは、天岩明啓で小倉の地を離れ桧倉に再建されました。

 

 

岩屋山の瑞岩山高源寺 竹内正道著作集 > 家族の源流 足立氏ものがたり

瑞岩山 高源寺

 

 

 

 

vol.39  2001.7.6

 

足立宗次入道 左衛門尉基高
 Munetsugu nyuudou Adachi Saemonnojyou Mototaka 

 

 

 丹波青垣町小倉に瑞岩山高源寺を建立し僧俗の信仰を幻住禅に帰依させた高名の僧遠谿祖雄禅師が遷化されて20余年が過ぎた頃、小倉にあった岩本城主でありました足立宗次が3万石の大名として活躍しています。

 

 「朝来郡史」によりますと、月庵宗光は正平22年(1367)秋に但馬の黒川にきて其の幽奥を愛しを駐めて石上に坐すること数ヶ月、僧俗つたえ聞いて帰依するもの雲の如しであったとのことです。

 丹波の山垣城主、岩本城主足立治郎左衛門尉宗次もその一人で、月庵を尊崇し、黒川郷五里四方の地を寄進しました。月庵禅師もこれを喜んで「かつて大元に学んで温州大明寺に居た時、祇園精舎の霊土を得て日本へもち帰って秘蔵していたが、この土を寄進された土地に放下して善男善女の参詣するものに佛果を証しましょう」といわれたので宗次も感泣したとのことです。

 

 このことを主家の山名氏に話したところ、但馬山名氏の祖となった山名時義も月庵禅師を援助して大名寺建立を寄進し、千石千貫の地を寺領とします。山名時義の父は関東の一介の農民でその生涯は戦争に明けくれしていましたし、時義も晩年に月庵禅師に帰依していましたが、学問とか教養を身につける文化生活は無縁で、3代目の時凞に至って幕府の四職に就任していますので、若き日の時凞が月庵から得たものは大きかったと思えます。

 それを足立宗次が導いていますので「朝来志」の「宗次は足立氏、左衛門尉と称す丹波国山垣の城主なり、山名時凞に仕へ尤も器重せらる食禄3万石、応永14年(1407)5月3日歿す」の意味は深いものがあり、何より、大名寺の祖堂の中に月庵宗光禅師、巨川時凞公大居士と共に宗次入道も祭祀されており、どれほど時凞に重んじられた家臣かがうかがえます。

 月庵宗光禅師の遷化が康応元年(1389)であり、同年に父時義が逝去していますので23歳で山名宗家を継ぎ、山名家の内紛で長男時長も敗死するし、領国はうばわれ敗走します。のちに明徳の乱で奮戦し、やっとのことで時凞は但馬の守護となりましたが、さらに大内氏を滅亡させるのにも丹波の久下、長沢、荻野を味方につけるのにも宗次入道の助力は大きかったと思われます。

 

 「青垣町誌」には「岩本城主足立宗次入道と申すは3万5千石の大名にて、今その城跡の本丸の所は小倉黒尾大明神宮下前なり、市原、小倉、佐治は以前一所にて岩本の城下なり。御在職の間但馬餘部庄黒川村の所領地を大明寺へ寄進致し候故置文寄進状、御位牌由緒書あり」と記されていますが、この文書に寄進したのは貞治6年(1367)3月26日沙弥宗次、嫡子次郎左ヱ門藤原実基の名があり、又置文には永和4年(1378)12月12日忠基、政連の名があります。

 忠基が山垣城主6代目でありますので、宗次入道はその父であり5代目城主基高です。この時代は山名氏の家臣となっていましたので、但馬にも所領が多くあったのです。

 そのことは、和田山町の足立節治家に伝わる「足立氏家系略伝」にも記されています。「山名宮内少輔時凞の家臣に足立宗次なるものあり、丹波氷上郡食邑す。三万石を領す。山名の衰ふるに及びて足立の族、東西離散して其の居を一にせず」とあり、足立姓を名のる古い歴史の家が但馬各地にあることを「ああ、足立の系、何ぞ其の昌んなるや、蓋し是れ宗次忠誠の遺徳遠く子孫に被ふものか」とされ、宗次を但馬、丹後の足立氏の祖としています。

 

 

足立宗次入道位牌 生野町黒川 大明寺安置 竹内正道著作集 > 家族の源流 足立氏ものがたり

足立宗次入道位牌 生野町黒川 大明寺安置

 

 

 

 

vol.40  2001.7.14
vol.79  2002.8.18

 

南北朝時代の足立氏
 Adachi family of Nanbokucyou era 

 

 

 足立遠元の嫡流は先祖の遺風をついで武勇と礼節を重んじて幕府の中枢にいましたが、新田義貞に攻撃され、六波羅につかえていた足立長秋、則利、則惟らは近江国番場宿で自害しましたが、足立遠元の六世子孫でありました安芸守足立遠宣は足立一門を率いて足利尊氏に従い六波羅攻めに加わっていました。足立遠政の孫、三郎光基千種忠顕の指揮下に六波羅攻めをして北条氏を亡ぼしました。

 建武中興により足利尊氏が後醍醐天皇に反旗を翻しましたので、後醍醐天皇の守護の任にあたっていた足立遠宣南朝を奉じて後醍醐天皇に忠節を尽くし、関東に帰ることなく南朝と運命を共にします。ところが延元元年(1336)5月25日湊川で楠木正成が戦死し、後醍醐天皇は比叡山へ逃れ、6月5日には千種忠顕が西坂本で、30日には名和長年も京都で戦死してしまい、天皇と共に比叡山に登った足立一族も厳しい状況となってしまいました。その上比叡山の兵糧が底をついたのを知った後醍醐天皇は10月10日に足利尊氏と和睦されてしまいます。

 南朝の忠臣でありました足立遠宣は同志と共に後醍醐天皇と離れて南都へ落ち、「足立遠宣、南都で出家す」ということになってしまいました。かくして北条氏を滅亡させ、南朝に最期まで忠節をつくした足立遠宣一門も四散し、播州、備中、備前に逃れ南朝の再興を期したものがいたのです。

 

 ところが、足立遠宣の一族の中にも南朝についた足立一門と離れて足利尊氏に忠誠を誓った人物もいました。足立信政です。湊川戦で足利直義が苦戦していた時に楠木方の名将でありました箕浦兵衛尉を討取って功をあげ、湊川戦勝に導いたとして、足利尊氏より播磨守に任ぜられています。

 この子孫の足立信則は備中守となり備中草間の川崎城主となりました。足立信則は尼子経久に従っており、その子の足立右馬允久信出雲の十年畑高尾城主となり、更に島根半島の葛籠尾城主も兼ねています。最後まで南朝忠臣として節を重んじ、出家してしまった足立遠宣の一族も、北朝方で栄えた足立信政を頼って備中や、山陰方面に流れ、尼子の配下になった者も多かったようです。

 

 一方丹波の足立光基も、荻野彦六朝忠等と丹波高山寺の城にたてこもり「今更人の下風に立つ可きに非ずとて」児島高徳と共に南朝の錦の御旗を奉じて立ちあがりますが時すでに利あらず、足利尊氏の命によって出陣して来た山名時氏に敗北してしまいます。

 この荻野氏というのは、芦田氏と同族であり、足立遠政が丹波へ来る相当前より芦田庄に移り住んだ井上丈炊介判官代家光の子孫です。家光は信濃国高井郡上村から丹波に流されていたのです。家光の子道家はすぐれた実力者で丹波氷上郡のみならず、天田、何鹿、船井郡へも勢力をのばして丹波半国の押領使となっていましたので相当な実力をもっていたと思えます。

 

 鎌倉幕府から氷上郡に派遣された地頭は市島町鹿集(カタカリ)庄吉見資重が、山南町栗作郷久下直高青垣町佐治郷足立遠政ですが、芦田氏は保元3(1158)年ということで、その一族は丹波で優位にたっていました。

 久下氏武蔵国大里郡久下郷に居住していた開発領主でありましたが、久下重光が石橋山挙兵や源平合戦で戦功があり山南町栗作郷に所領が与えられ、承久の乱後直高が地頭となっています。久下時重が南北朝動乱期には足利義詮山南町井原岩屋の石龕寺に守護しています。

 また、市島町上鴨阪の余田城の古城主余田左馬頭関東から丹波に来た地頭だということです。

 

 

 

vol.41  2001.7.20

 

足立 権太兵衛 基則
 Motonori Gontahyoue Adachi 

 

 

 「丹波史年表」によりますと足立権太兵衛基則天文22年(1553)に佐治妙法寺を建立したとあります。また「丹波志」によりますと「立正山妙法寺、法華宗」「開山権大僧都智願院日岏上人、京の本山より弘通に下向して、則ち岩本の庵室にて毎日説法せり。当所の郷士足立氏左衛門太夫という者、真言宗の仏音にて、智願院を招き、三日三夜宗論問答し、終に帰依して改宗す。其上足立氏の下屋舗を開山に寄附す。故に建立一寺ものなり」とあります。

 また「妙法寺文書」によりますと「遠基十三代蔵人次郎勝秀を堀殿と号す、居は丹州氷上郡小倉村、先祖より当国十余箇村を領す。長男権太夫長秀堀殿と号す。其男基秀左京太夫という。其子基則権太兵衛と号す。後に左京太夫、氷上郡小和田に居すの時…・」とあり、さらに信長公にいささかの意根あり、日向守光秀謀叛の時に日頃の素懐をとげるため天正10年6月2日本能寺の変に参加したとあります。

 この時舎弟弥七郎宗立、子息左近進宗忠も加わっており、天正11年(1583)1月18日に亀山(亀岡)で自刃したとのことです。また基則の三男孫兵衛尚秀は父自害後伯父碓井重兵衛守良により紀州の桑山治部卿法印守良に推挙され家臣となっています。

 

 天正初年頃、戦国の平定もその緒につき上洛してきた信長は、京都の後背地の安定をはかるため丹波攻略にのりだします。天正3年(1575)春に明智光秀を丹波に封じ亀山城を落城させたことから始まる丹波の大動乱が延々とつづくことになります。

 丹波では天文23年(1554)正月2日、朝日城主荻野直正が謀叛をたくらんで叔父の黒井城主荻野伊予守秋清を刺殺して黒井城を乗っ取り、名を悪右衛門直正と改めました。直正は父の時家を中心に、兄の家清を高見城に、弟の幸家を三尾、長谷の両城に、父の時家は後屋、穂坪の両城に配置し氷上郡の全域を支配しようとしました。

 山垣城も沼城も赤井一族の幕下におかれそうになりました。そこで山垣城主足立基則や沼城主の芦田光遠らは丹波守護代の内藤国貞に助けを求めました。当時国貞は三好長慶の幕下にいて丹波第一の実力者で一挙に赤井一族を討伐しようとしていました。

 

 弘治元年(1556)三好長慶党の松永、内藤両氏の連合軍が赤井一族を討つため香良に結集、これに芦田、足立軍が加わって赤井一族総攻撃を画策しました。そこで赤井時家、家清、幸家、直正らは香良に奇襲をかけました。長慶党は赤井の奮戦により口丹波へ敗走、芦田光遠も直正に討たれ足立基則は敗北しましたが、直正も手傷を負い、赤井信家討死、家清も深傷、直正も坂兵衛に背負われて帰城し「敵、味方の死骸かさなり」と多数の兵士を戦死させた勝敗のわからぬ合戦だといわれています。

 足立基則は山垣城を去り、悪右衛門直正が丹波半国と但馬の一部までその勢力圏を伸ばしたので山垣城も赤井の幕下となりました。天正3年以来の明智光秀羽柴秀長丹羽長秀らによる丹波攻略丹波の城は落城、赤井氏の本拠保月城も落城し一族郎党戦死、残ったものも路頭に迷い諸国に散っていったのです。

 

 ところが不思議に足立基則は光秀についていました。基則の建立した妙法寺は光秀の陣屋だったともいわれており、香良合戦でこりた足立の武将は自分の生命を守り帰農したものが多かったのですが、生き残る保障をしたのは足立基則の尽力があったと思われます。

 「山垣城主足立彦助の代に、明智光秀の攻伐により一旦落延び、其の後彦助此所に立帰り山垣殿と云えり」「牛河内村先祖山垣城主の長男四郎左衛門基依、山垣村没落後此所に住す」と「丹波志」にありますが、激戦の敗軍の将としては不思議です。赤井氏等の弾圧で足立一族は早くから帰農していたのですが、かつての山垣城主だった足立基則の信仰とも関係があったのです。天正11年に一族の安泰のため基則は切腹したのです。

 


妙法寺 山門 享保14年 大工西田弥八郎建立  兵庫県丹波市 2003.5.5

 

 

 

 

vol.42  2001.7.27

 

足立基則の子孫
 Descendants of Motonori Adachi 

 

 

 足立基則は遠元13代勝秀堀殿の孫であり勝秀が先祖から継承した当国拾余ヵ村の所領を領有していたとされていたり、「丹波戦国史」では、山垣城主足立権太兵衛基則とされていて、正当な足立家本流とされています。

 それでは、黒井城主の荻野悪右衛門直正の指揮下にあって、但馬朝来郡の竹田城の守りを援けたり、但馬の山名氏の氷上郡進入をくいとめていた天正時代の山垣城主足立弥三郎基助や、遠阪峠近くの遠阪城主足立光永とはどのような関係にあったのでしょうか。

 遠阪城、山垣城が焼け落ちたのは天正7年(1579)5月のことで、織田信長の連合軍による第2回目の丹波攻めの時で、但馬からおしよせた明智光秀、羽柴秀長の大軍が遠阪峠をこえて遠阪城、山垣城を半日足らずの戦いでもみふせ、足立遠政以来370年の足立一族による佐治郷支配の拠点は消滅します。この時遠阪城主の足立光永は自ら城を焼いて自刃したといわれています。

 ところが、本家山垣城の足立弥三郎基助(彦助)は山垣城落城の時逃げのびて黒井の保月城が落城し、丹波攻めが終わると再度山垣に帰って来て「山垣殿」とかつての領民に呼ばれながら帰農しています。また長男の四郎左衛門基依も「山垣城没落後」市島の牛河内村に落ちのびて、子孫が足立本家を名のっています。

 数年にわたり幾度もくりかえされた戦乱に対抗して足立一族は、本拠山垣城が落城しても、足立氏ゆかりの諸寺焼亡し、家屋焼失するという戦禍の中で祖先墳墓を守りつづけ生きるために労苦をいとわなかった姿があります。

 八上波多野や氷上波多野は一族郎党全員戦死という悲惨でありましたし、赤井一族は路頭に迷い郷里をすてましたが足立氏は、丹波志によりますと本家42、分家273軒を数えるという家系を残しています。

 このことは足立基則の存在を無視して考えられないと思います。先にみましたように、山垣城主であった足立基則は、弘治元年(1556)に沼城主芦田上野介光遠とともに由良庄香良村で赤井一族と激烈な戦いをしています。この戦いは氷上郡全域を支配しようとした赤井一族に対抗し、芦田光遠と基則が丹波の守護代内藤国貞に助けを求め、三好、内藤軍と芦田、足立軍が香良に結集していたところを赤井軍の奇襲をうけ猛攻撃にあい、芦田光遠も戦死、基則も敗走した戦闘です。

 この合戦により基則は赤井悪右衛門直正からのがれる為に山垣城は一族の基助にまかせたと思われます。そして何時か赤井氏を滅亡させたいと考えていましたので明智光秀に加わったということです。 

 岩本系足立氏の「生命は第一の宝」という信仰が天正の乱で足立一族を救ったのです。しかし光秀の本能寺の変に加わった基則は秀吉の残党狩りに自分の死が足立一族を救うと悟って亀山城で天正11年1月18日養子宗忠と弟宗立と共に自刃しました。

 娘婿の宗忠の子に理右衛門宗秀、源六左衛門正秀、孫兵衛尚秀の3人がいますが、いずれも伯父の碓井守良をたよって紀州へ行き、桑山宗栄公の家臣となりました。また、尚秀の子の定秀は桑山家につかえ文禄の役では朝鮮に出兵して感状を受けており、慶長の役では軍功があり有力な武将として活躍しています。

 基則の弟宗立の子の宗行弥太郎は父が亀山城で自害したのち足立家累代の家録等を伝承していましたが洪水で水死し、足立家の記録も失ってしまったということです。

 

 

 

 

vol.43  2001.8.3

 

足立氏と赤井氏
 Adachi family and Akai family 

 

 

 弘治元年(1555)に氷上町香良でありました足立氏と赤井氏の戦闘は、源平合戦以来繰り返された丹波の合戦の中で最も激烈をきわめたものといわれています。この合戦で赤井信家、芦田光遠は討死、悪右衛門直正の兄の高見城主赤井五郎家清も深傷を負い、のちに32歳で息を引きとります。この合戦で敗北した沼城の芦田、山垣城の足立は赤井に服し、荻野直正の幕下になりました。

 ただ、この死闘にもかかわらず岩本城の足立基則とその近親者は敗走しますが、直正にはしたがわず、足立一族から造反して明智光秀について赤井攻略に手を貸しています。諸国の動向、天下の情勢をみながら地方郷士として隠然たる勢力をもっていたのでしょう。

 このことは山垣城が落城し、足立一族が各地へ亡命したのですが、基則は近親者と共に斉藤利三の配下になり明智光秀にしたがって本能寺へ攻め入っていることでも明らかですが、足立一族が郷里の先祖伝来の土地で帰農することにかかわり、家の存続を保障させていることにつながっています。

 足立一族の造反者として基則に反感をもつものがなく、基則の末流を主張する家が現在まで続いています。
 さらに足立基則に攻撃された赤井一族にも、赤井姓を改めて足立姓を名のったものもいます。足立一族の生命を保障し、落城後も先祖伝来の土地に帰農させたのなら山垣城が焼滅しても足立氏は城と運命を共にしなかったということです。

 これと同様に天正7年8月9日に保月城は落城しますが、城主以下の赤井一族は若狭、但馬、近江、伊賀、大和などへ縁をたよって落ちのび、それぞれ赤井家を再興して江戸時代旗本として活躍するものが多かったのです。

 黒井保月城開城は足立基則が和議をすすめて赤井一族の生命を救ったと思えます。それは当時赤井一族の長兄家清は先年に香良の戦いがもとで32歳で死去、悪右衛門直正も「痬」で前年に病死しており直正の嫡子直義が城主となりましたが、9歳の少年で、叔父の赤井刑部幸家が総指揮をとっていました。

 光秀が黒井城を攻める総勢は「太閤記」によると1万であり赤井勢は5百であったが「兵糧つき合戦かないがたく城に火をかけ、大手の門を開き敵陣中を打破り」と落ちて行きましたが「跡を求めて追かけ近附く者これなく」と「赤井先祖細記」に書かれている様に落城というより開城であったし、城主の赤井直義は、藤堂高虎の家臣となっているし、赤井幸家は篠山市の宮田で後妻に足立基則の孫娘をむかえ久基が誕生していますし、慶長11年70歳で逝去するまで平穏な暮しをしています。

 幸家の死後久基は父幸家の弟赤井弥平衛時直をたよって大和宇智郡犬飼村で養育されますが、時直は千5百石の旗本であり、久基ものちに赤井本家の旗本忠泰の女と結婚しますが、この際改姓して赤井から足立にしています。

 赤井一族で幸家の孫正次も足立喜右衛門と足立に改姓していますが赤井一族で足立基則を敬愛していたのではないかと思えます。黒井保月城を赤井最後の砦として徹底抗戦したら全滅しており「寛政重修諸家譜」の赤井一族はなかったでしょう。

 足立基則の養子は、基則の弟香良の二男宗忠ですが、岩本城で生まれた宗忠の三男足立孫兵衛尚秀は父の自害で叔父碓井重兵衛守長を頼って紀州へ行きます。この叔父は和歌山城主4万石の桑山宗栄公の家老をしていましたので尚秀は町奉行を命ぜられました。

 その子の足立三太夫定秀は桑山家2代城主の家老となり和州新庄村に住んでいましたが、赤井系の久基の子足立三郎右衛門久貞を桑山家の中老職に推挙していますのも基則につながる先祖の縁でありました。

 

 

 

 

vol.44  2001.8.11
vol.80  2002.8.20

 

足立正興とその兄
 Masaoki Adachi and his older brother 

 

 

 本能寺の変に明智光秀に加わり、織田信長を倒しました足立基則の孫に尚秀がいますが、孫兵衛尚秀は祖父の自刃後伯父、碓井守良をたよって紀州に行き、のちに桑山宗栄公の家臣になりました。この尚秀の子に定秀(正興の兄弟)があり、定秀は幼名勝三郎といい、後に三太夫と改めていますが、大和の新庄一万六千石の桑山家家老となっています。

 三太夫定秀は、文禄2年(1593)に朝鮮へ出兵しました。当時17歳の少年でありましたが、朝鮮で活躍したようで強敵を討取った感状がそのことを伝えています。また慶長19年(1614)大坂冬の陣の時には道明寺表で一番首を討取るなどの軍功がありました。

 孫兵衛尚秀の二男に兵庫正興兵助がいます。正興が生まれたのは氷上郡青垣町小和田とされていますので、小和田城に基則を中心に子、孫の大家族で住んでいたことになります。そして天正11年(1583)5歳の時に兄とともに紀州の碓井守良をたよって落ちのびたのです。尚秀につれられ7歳と5歳の兄弟が丹波から紀州へ、そして大和へとつれていかれ厳しい環境の中で幼少期をおくっています。

 「足立兵助、正興伝」には、正興のことを「天性元来質直、義を好み道を重んじる」人物であったとしています。朝夕武芸に精励して文武両道を学び、忠と孝を最も大切な徳目として精進していた武将でありました。

 慶長19年(1614)10月中頃に大御所家康公は将軍秀忠公とともに戦闘を開始します。大坂冬の陣で11月1日にこの合戦に加わっていました桑山左衛門佐の軍勢は小山表で大野主馬軍勢に出合い戦闘が半時あまり続きまして桑山軍が勝ち敵多数を討取り一息ついていましたところへ、大坂勢の中より花やかな鎧の武者一騎が桑山左衛門佐一直公をめがけて馳せ来て、一直公に切りかかりました。

 足立兵助正興はこれに気づき、馬から飛びおりて一直公の馬の前に立ちふさがり、敵の馬の足を薙ぎ切りました。馬はたおれ馬上の武士は真逆さまに落馬しました。その敵に走りかかり、首を取ったと「正興大坂合戦記」にあります。

 このことはその日に戦の次第書と敵将の首とが戦奉行の本多上野介に届けられました。家康公にも達し、上野介より返翰の御感状に一直公自筆の感状も添えられ正興に伝えられました。

 翌年4月にまた大御所家康公は将軍と共に大坂を攻め大坂夏の陣がはじまりますが、その軍勢の備に松倉豊後守と桑山一直公の軍が前後の備として進軍し、国分峠に陣を取っていた時、大坂方の夜うち奇襲にあい伊達政宗公の軍へ鉄砲を打ちかけられ大坂勢山野に満ち、伊達政宗勢の旗色が悪くなって来ました。

 その時正興軍が敵、身方両軍の真中へ乗り込み、足立三太夫も続いて右往左往に攻合っていました。大坂勢の中に三輪采女が名乗りをあげて正興と一騎打をしようとしましたが桑山一直公が無二無三に切りまくり、大坂勢は敗北しました。足立三太夫、足立九兵衛なども一騎当千の武将として活躍し、家康公御感あって「桑山左衛門佐一直は大坂表五人の内なり」と加増を将軍秀忠公に命じられたということです。

 桑山家は和歌山城主でありました治部郷宗栄公修理太夫重晴を祖としています。宗栄公は秀吉に仕え賤ヶ岳の戦功で但馬竹田城を与えられ、天正13年(1585)和歌山城代となりました。その孫一晴が関ヶ原戦功で二万石を分与され大和に移りますが、一晴歿後弟の一直が襲封し新庄村に陣屋をもち、新庄藩と改称していました。足立兵庫正興は一直公とその息子一玄公に仕え、万治2年(1659)8月に82歳の生涯を了えています。

 久基半左衛門については赤井系図に次のことが記されています。久基は赤井幸家の八男で文禄4年丹波で出生、慶長11年父死去の時には12歳であったので、大和犬飼村の叔父赤井弥平衛時直に養われていましたが一家を立てたとき赤井姓を足立姓に改め赤井知行の千石を托され、時直より百石の配分を受けた。その子の久貞も一直公に仕え中老となっています。

 


 桑山修理亮重勝の制札 天正十年(1582)

 

 

 

 

vol.45  2001.8.18
vol.81  2002.8.22

 

足立氏 忠臣蔵
 Chuushingura of Adachi Family 

 

 

 丹波妙法寺の創立者で岩本城主だった足立権左兵衛左京大夫基則のことについて、もう一度「大和曽大根足立家系図」によって整理しておきたいと思います。

 基則の兄弟は碓井家の養子となった香良と宗立の2人です。香良は、秀吉につかえて賤ヶ岳の戦功によって但馬の竹田城を与えられていた修理太夫桑山重晴の家臣碓井氏の養子となりその子孫が碓井氏を相続しています。

 天正13年(1585)に秀吉が和歌山城を征服し、秀長に与えましたが、秀長は和歌山城の城代に桑山重晴を用い和歌山三万石に和泉の一万石を加えて四万石を領有させました。碓井香良の子の守長は、主君の桑山重晴に従って紀州和歌山に住んでいました。この碓井守長の弟の香良の二男が宗忠で、足立基則と妻の大内夫兵衛の娘との間に生れました女子の婿養子となっていました。

 足立宗忠左近進には3人の子があります。理右衛門宗秀、源六左衛門正秀、そして尚秀です。前述の天正11年1月18日に宗忠が亀山城で自刃しましたので、母子は宗忠の兄碓井守長のもとへと紀州和歌山へ落ちのびたのです。足立尚秀は桑山宗栄公に認められ家臣となっていますが、その子の三大夫定秀と兵庫正興は桑山一直公、一玄公の家老職をつとめています。

 桑山家は紀州和歌山城主でありました桑山重晴の嫡孫一晴が関ヶ原戦で新宮城主堀内安房守氏善を攻略した功により、重晴より二万石を分与されまして、大和国葛下郡に陣屋を構え新庄藩をつくりました。桑山一晴はのちに重晴に養老料として四千石を分知していますので一万六千石となっています。そしてこの新庄藩は一晴から弟の一直、一玄さらに一尹と継がれています。

 桑山一直は大坂の両陣で大活躍をしていますが、それには家臣の足立定秀や足立正興の働きがあったことはすでにみた通りであります。ところが桑山一尹の時に大事件が起きました。天和2年(1682)5月東叡山寛永寺で将軍家綱の法会がありましたが、一尹が勅使に対して不敬をはたらいたということで桑山家は廃絶されてしまいました。浅野内匠頭が勅使接待で切腹した20年前のことです。

 この時桑山家の家老は足立尚秀の三男瀬兵衛正吉や、足立定秀の孫の純基、さらに、足立三郎右衛門尉久貞などでありました。将軍綱吉の時代で大名取りつぶし政策の犠牲になったのです。主家の改易で新庄城開け渡しの大役が彼等の責務となりましたが、その時やはり足立一族を救済したり、赤井保月城落城の時に赤井一族を救済した基則の意志が伝承されていたのか、家中の武士達の仕官を世話したり、浪々する者には内蔵金の配分を厚くして一触即発の暴動をおさえています。

 仕官のめどのない足軽たちには新田開発をはかり百姓として生きる道を選ばせ、安住の地と定職を与えたといわれています。

 赤穂藩の大石良雄はあまりに有名でありますが、桑山藩で足立氏の家老達が取りました処置も決して武士道にはずれるものではありません。主家改易による処置として家臣一同に生活設計を企画した人道的な指導理念としては大石内蔵助より勝っていたと思えます。しかし、碓井氏をたより大和へ落ちのびた足立氏の一族もこれにより、帰農するもの、医業で身をたてるもの、離散したもの等で数奇の運命をたどることになりました。

 桑山家が廃絶となった翌年足立久貞は相谷村に天女山隆霊寺を建立して梵鐘を寄進しています。久貞が納めた梵鐘には大願主本国丹波氷上郡、生国大和宇智郡、足立三郎右衛門尉久貞、天和三癸亥三月吉日とあり、この梵鐘は現存されています。

 

桑山重晴が足立基則の供養に妙法寺へ納めた鎌倉時代の南都絵仏師、命尊筆涅槃図
 桑山重晴足立基則の供養に妙法寺へ納めた
鎌倉時代南都絵仏師命尊筆涅槃図

 

 

 

 

vol.46  2001.8.24

 

足立 権九郎 基兼
 Motokane Gonkurou Adachi 

 

 

 足立遠政が地頭として丹波佐治庄を領有してから370年間、足立一族でこの地を支配していましたが、永禄2年(1559)には但馬の山名祐豊が山垣城を攻めたのを足立丑之助政之がこれを守り、また元亀2年(1571)に但馬守護の山名裕豊が山垣城を攻めたのに対し、足立基晴がこれを守っています。

 しかし、天正7年(1579)羽柴秀長が丹波攻めをして遠坂城(足立光永)、芦田城(芦田国澄)、栗住野城(栗住野治朝)さらには、成松城、母坪城を落し、高源寺、報恩寺、胎蔵寺を兵火にかけ、柏原八幡宮を焼き、西芦田、栗住野、口塩久の土豪36人を斬り栗住野に鳧すという手段にでましたので、黒井城も落城しました。

 この時山垣城をまもっていたのは山垣城主の足立弥三郎基助でありましたが、長男の足立基依は牛河内にのがれ、その地で足立本家として子孫が増えています。

 さて、弥三郎基助には弥八郎基時と与三郎基徳との兄弟がありました。弥八郎基時の子が左衛門尉基則であり、与三郎基徳も葛野先祖としてその地で子孫が繁栄していきました。

 足立基則には、さきにのべました左近進宗忠のほかに「丹波副谷、足立平兵衛系図」によりますと足立権九郎基兼がいました。天正11年(1583)1月18日に明智光秀について本能寺を襲撃したことで自刃した父基則、兄宗忠、叔父宗立の石碑を妙法寺に建立し供養して、この寺を護持したのが権九郎基兼です。青垣町の市原に住居を定め農業をいとなんでいます。

 慶長2年(1597)3月18日に逝去していますが、帰農してからの14年間に5人の息子達を分家させ、生業を与え先祖伝来の土地で一族が隆昌する基礎をつくったと思えます。市原の加門田に墓があり宗立院入道基兼が法名で、400年を経過していますが、その子孫が先祖講を毎年おこなってその遺徳を供養しています。

 その嫡男は仁助基康、その子久右衛門兼基、その没年と法号は元和5年(1619)8月18日宗忠院正道基康、延宝元年(1673)11月21日岩霊院久斎日栄信士です。

 仁助基康には基兼の他に五郎右衛門、太右衛門、三郎右衛門、五郎左衛門の四子あり、それぞれ農地を与えて分家させ市原に住んでいました。五郎右衛門弥三郎の子孫は繁栄し、市原村の庄屋として村政を数代にわたり掌握しています。五郎右衛門、市郎左衛門、五郎太夫と相続し、子孫は分家して有力な家系を形成しています。五郎右衛門は万治2年(1659)逝去しています。

 さて五郎左衛門のことですが、妻を黒川村より迎え嫡男甚右衛門が生れます。しかしこの妻は父子を残して若死にしてしまいました。そこで後妻に小倉村の長兵衛の娘と結婚して、また男子2人が生れていました。そうした縁で、小倉、佐治と西芦田の間で起きました山論にかかわってしまいました。山の入会権は村民の死活にかかわる重大事件でありました。市原の五郎左衛門は「小倉の訴訟状を誤認した」という京都奉行所の判決で、小倉村役人とともに五郎左衛門親子3人は承応3年(1654)に小倉村段ヵ端で打ち首になってしまいました。村人はその供養のため地蔵を段ヵ端川岸に建てて親子を祀りました。

 この時先妻の嫡男甚右衛門は黒川村に隠れてたすかり、後にこの家を相続しましたが先述の五郎右衛門も妻子をつれて岩代に隠居して、五郎左衛門の冥福を祈り生涯を了えています。

 

五郎左衛門親子供養の地蔵 丹波市青垣町小倉 竹内正道著作集  家族の源流 足立氏ものがたり 足立氏列伝
五郎左衛門親子供養の地蔵 丹波市青垣町小倉

 

 

 

 

vol.47  2001.8.31

 

足立 重信
 Shigenobu Adachi 

 

  

 江戸時代初期の武将として有名な足立重信がいます。足立重信は通称を半助、のちに半右衛門といい兼清、元清ともいっていますが、文禄年間に美濃国に生まれています。

 若い時から加藤嘉明に仕えていましたが、加藤嘉明は秀吉につかえまして、股肱として活動し、天正11年4月の賤ヶ岳の戦には七本槍の一員として奮戦したのを始め、水軍を指揮して四国、九州、小田原等を転戦、また朝鮮へも出兵して文禄の役では舟奉行として壱岐に渡りました。

 ここでは朝鮮水軍のために苦戦しましたが、慶長2年(1597)7月の唐島の戦いでは明兵を討ちとり戦果をあげました。秀吉も加藤嘉明を重用しまして、文禄4年(1595)には伊予松前に転封して6万石の大名にとりたてました。この加藤嘉明が最も信頼した家臣が足立重信であります。

 めまぐるしい戦略家であった秀吉に服従し国内の征伐ばかりか、朝鮮まで侵略しようとした秀吉の命令のまま戦闘を続けた加藤嘉明と、戦術家としてそれをささえた足立重信の活躍は嘉明にまさるものであったことでしょう。

 加藤嘉明は文禄4年、朝鮮の役の功により淡路島の志智1万5千石から、伊予正木(松前)六万石に転封されました。

 足立重信は、文禄、慶長の朝鮮の役に従軍して戦功があったとされています。慶長3年8月18日秀吉が死にますと、無謀な侵略と大量殺戮を強要された加藤嘉明と共に家康に接近します。関ヶ原戦では東軍に加わり加藤嘉明は出陣しますが、伊予の留守居役を足立重信にまかせました。

 この時領内に毛利勢が侵入し、ここでも戦闘が開始されましたが、足立重信はこれを防戦して破り領内の安定をはかることができました。この功績により足立重信は家老職となり、5千石を給与されています。

 家老となった重信は土木行政に卓越した能力のもち主でもありました。荒廃地であった伊予川の下流に12キロにわたる新流路を開削して堤防を築き、5千ヘクタールの耕地の水防に成功、これにより20万石の良米を産出する良田ができました。人々はこの川を重信川と呼んで足立重信の名を今につたえています。

 嘉明が伊予・正木(松前)に転封になった時、足立重信は松前城の築城奉行を行って、築城にも手腕を発揮しましたが、嘉明が関ヶ原合戦で岐阜城・大垣城攻略に成功した功により、伊予半国の20万石の大名になりましたので、松前城では不便になり、松山城築城計画が企てられましたが、その築城奉行となっています。

 この時も西流する石手川の流路を変えて8キロにもわたる堤防を築いて巧妙な水利工事を完成し3千ヘクタールの耕地と松山の城下町市街を開発しました。単に松山城の普請奉行というだけでなく、耕地を拡大し10万石増収に成功していますので民衆の喜びも大きく、百姓一揆騒動も足立重信により鎮められています。

 土木・治水・築堤技術にすぐれた能力をもっていた人物であったようです。足立重信もまた、関東の足立遠元を元祖とする家系といわれていますが、美濃、木曽川沿岸で育ったという出自が明確ではありません。

 軍事・内政・土木・築城で大きな力量をもった足立重信を最も信頼していた嘉明は、重信の臨終を見舞い、望むことあるかと尋ねたところ「臣の望、他になし、城閣を観望し得る所を墳墓となし給へ」と答えたといいます。松山城の北の来迎寺後丘の地に墓が建てられています。寛永2年(1625)11月のことです。今の松山市の基礎をつくった人物だったのです。

 

 

 

 

vol.48  2001.9.7

 

足立 藤九郎 保宗
 Yasumune Toukurou Adachi 

 

  

 岐阜県可児市の可児郷土資料館の近くに柿下という村落がありますが、ここが一時は安芸・備後2カ国に49万8千石を領有していた大大名広島城主福島正則につかえていた足立藤九郎保宗の帰農した土地であり、その子孫はここに400年近くも居住し、一族は繁栄して分家がこの近在に数多く足立氏を名のり現在まで続いているということです。

 江戸時代の初期にはこの土地に居住した足立藤九郎保宗の先祖は鎌倉期に平貞時によって霜月騒動で滅ぼされた安達氏であります。この時もその子孫が生き残り北条氏の被官として活躍しますが、元弘3年(1333)5月7日新田義貞に攻略され、北条高時と共に足立時顕、顕高父子も自害してはてました。

 しかし、その子孫が後北条氏につかえ武将として活躍しています。宗瑞が北条早雲を名のり氏綱、氏康、氏政、氏直の5代続いたのですが、足立保宗の先祖も祖父の足立憲保まで北条氏につかえました。 

 武田氏が滅亡し、織田氏が滅亡すると北条氏は本格的に関東全域を支配しようとしましたので豊臣秀吉と対立し秀吉の小田原攻めで滅亡したのですが、この時足立憲保も討死にしてしまいます。

 足立保宗の父九郎保茂は小田原で憲保が討死しましたので、母の実家のありました尾張へ、横須賀の郷士永田氏家をたよって落ちのび、ここで養育され成人を迎えます。永田氏家は福島正則につかえていましたので、保茂も福島正則の軍勢に加わることになります。

 福島正則というのは、尾張の住人福島市兵衛正信の長男で幼時より豊臣秀吉につかえていました。天正6年にはじまる三木攻め、鳥取城攻め、山崎合戦、賤ヶ岳の戦等戦乱に明けくれの毎日を送りますが、秀吉に戦功が認められ清洲城24万石の大名となりました。

 豊臣秀吉が逝去しますと、正則は家康につき関ヶ原の合戦、大坂の陣でも抜群の戦功をあげ、家康から49万8千石の広島城主という大封を与えられました。

 しかし、こうした福島正則の戦功の裏には討死する武将も多くあり、足立保茂も関ヶ原では武勇の士として正則から指領の一刀を贈られるほどでしたが大坂の陣では元和元年(1615)炎上した大坂城とともに武運つき47歳で討死してしまいました。正則は剛直な性格で意のあわぬものに対しては著しく攻撃的でありましたが、気に入った人間に対しては厚情をかけていました。

 足立保宗も父保茂の跡目を相続して、福島正則につかえました。ところが間なしの元和5年に広島城を無届で修築したという理由で福島正則は信濃の高井郡高井野(長野県高山)へ蟄居させられてしまいました。用心深い徳川幕府から嫌われていました正則の晩年は不遇でありました。

 足立保宗もまた、正則について信州へ行き主人につかえていました。しかし、主家改易で浪人してしまったので、ついに美濃の柿下在で農地と居宅を求めて帰農してしまいます。これは徳川幕府の大名取りつぶし政策の犠牲になった武将たちの歩む道であったのです。

 しかし、平和な田舎で村民から敬愛され安泰な日々を過ごせて晩年の足立保宗は戦闘であけくれする戦国の武将でいることより喜んでいたことでしょう。この近在には足立氏を名のる保宗の子孫が繁栄しています。

 

 

 

 

vol.49  2001.9.14

 

北九州の足立氏
 Adachi family of North Kyushu 

 

 

 北九州都市高速四号線に「足立インター」があります。この近くに宇佐町があり、そこの小学校が「足立小学校」、萩崎町に「足立中学校」があります。また、ここには「足立森林公園」「足立山」があります。

 北九州市小倉地区になぜ「足立」の地名が残ったのでしょうか。「足立山」の由来については「小倉郷土史」に「足立山は小倉の豊前葛原村足立にあり、足立と命名された由来は和気清麻呂都より宇佐八幡宮参詣の途次、足を痛めて歩行困難となり、この地の温泉で療養、足が立つようになったのでこの地名が起った」とあります。

 和気清麻呂は奈良時代の政治家で女帝孝謙上皇に近侍していました。神護景雲3年(769)10月、九州の宇佐八幡神の託宣あり「道鏡を皇位につければ天下は太平となる」という内容だったのです。道鏡は河内の出身で、孝謙上皇の看病をした僧ですが孝謙帝の絶大な信頼により太政大臣禅師、法王となっていましたので、宇佐八幡宮と結託して神の名で即位しようとしたのです。

 そこで朝廷は和気清麻呂に神託確認のため宇佐八幡宮へ出張させました。清麻呂は皇室の秩序を乱す偽託と断言して決着をつけますが、清麻呂も処罰され、除名して大隅国に流されてしまいます。

 後の光仁天皇即位で召還され、更に桓武天皇の即位によって急速に登用されます。長岡京造営を建議したり、河内、摂津で大水利工事を起したりします。更に平安京の造営が決定されると平安京造営大夫となって平安京の基礎を築くなどの大事業を指揮した人物です。

 足立山の伝説では、道鏡に皇位を与えるかどうかということで勅命を受けて宇佐八幡の神慮を伺うため都から船で若松まで下って、宇佐に向って小倉まで来た時、山の麓で歩けなくなり葛の葉の中で寝ていたのですが、夢のお告げあり、この山麓に温泉が湧き出ているところがあるので、そこに足をつけると治癒すると教えられます。早速その温泉に浴していますと歩行できるようになり、宇佐八幡に参り神示を受けて都に帰り、道鏡の追放に成功したのです。

 和気清麻呂の足が立ったので足立山と名づけられ、足立の地名となります。福岡県には足立姓がかなりある様ですが、先祖を和気清麻呂とする系図があり、それによりますと、和気清麻呂―後承―散位―和気致輔―遠元となっています。遠元の先祖を和気清麻呂としておりますが、これは足立山伝説と足立遠元が混同されて書かれた系図だと思えます。なお和気致輔は源義家に従って安倍貞任征伐に参戦しており戦死した人物でありましたので、足立遠元と少しは関係あったと思えます。

 しかし、ここにも足立遠元から連綿として現在に至る系図が存在することを足立氏研究家の安酸睦博氏が報告されています。八女郡星野村一里塚の足立系図です。これによりますと足立遠元の子に定元、清恒があります。

 定元は長瀬判官代足立源左衛門尉のことで、後鳥羽上皇の承久元年に選ばれて西面の武士となったとあります。承久の乱後どうしたか不明で筑後まで亡命したのかも知れません。

 また清恒は新三郎といい、遠元の実子ではないのですが、頼朝が江州浅井比郡に落ちのびたとき老翁に助けられましたが、その孫を遠元が養子として養育したということです。清恒は頼朝の側近として吾妻鏡にでてくる人物です。

 

 

 

 

vol.50  2001.9.21

 

南九州の足立氏
 Adachi family of South Kyushu 

 

 

 平安末期以来の九州の雄族として知られています島津氏も足立遠元に関係があり、鹿児島県下に足立・安達姓が現在まで続いています。また、大分県では臼杵市、竹田市、三重町、清川村、大野町、久住町に足立・安達姓が多く、南九州方面に多く存在していますが、これは鎌倉時代の関東武士が下向したことによるものです。

 島津藩の初代藩主は島津忠久で、源頼朝の御家人として本領薩摩島津荘地頭職を安堵され、さらに薩摩、大隅、日向の三ヶ国の守護に補任されたので八千町歩を領有していました。この地方に足立氏があるのは島津氏とともに下向した関東武士団のうちに足立氏・安達氏がいたからです。

 このことは平田信芳氏の「島津一族、家臣団と南九州の地名」に記されていますが、関東武士団三十氏がこの地に来て、島津忠久が京、鎌倉へ帰った後も定住したことによります。

 島津氏は在地豪族惟宗基言の子広言が近衛家領島津荘下司となり島津氏を称したのが初めと伝えられていますが、広言の子といわれている島津忠久八歳に、どうして広大な島津荘地頭職を任じたのか不思議ですが、これには出生の秘密がありました。

 島津忠久は「島津氏系図」によりますと源頼朝の子で母は比企能員の妹丹後局とされています。丹後局は頼朝の寵愛をうけましたが、頼朝の妻北条政子の嫉妬が恐ろしくなり、西国へ逃げ出します。その途中大坂の住吉神社の境内で産気づき、夜間雨の中狐火に守られて男児を出産します。

 たまたま参詣していた近衛基道公に助けられ、母子ともに近衛家で養育されました。近衛基道公は密かに頼朝にこの事を知らせます。後にこの母子は関東に帰り、近衛家の下司惟宗広言に嫁ぎます。惟宗広言の妻は畠山重忠の姉で早く逝去していますので丹後局は後室となります。畠山重忠の正室は、足立遠元の娘ですから忠久と遠元の関係があったのです。

 忠久は元暦2年(1185)7歳のとき初めて父の源頼朝に対面しますが、畠山重忠の「忠」をもらって忠久と名のり、翌年には島津姓を与えられ、島津荘の地頭職を任じられました。このことから島津家初代となり、忠久は源頼朝の子であり、足立遠元の外孫が島津初代薩摩藩主忠久室であったのです。

 島津忠久は島津荘地頭職だけでなく薩摩、大隅、日向三国の守護に補任、さらに越前守護にもなっています。この地方を実際に支配していたのは、九州へ下向した鎌倉武士団でありましたが、足立氏もこの地で活躍しましたので、足立姓があるのです。

 大分県にも足立姓が多いのですが、安達泰盛が肥後守護でありましたので、これまた肥後へ足立・安達一族が下向したのですが、霜月騒動で安達氏が追放されましたので、足立氏を名のり、また関東からこの地の足立氏を頼って来た人も多かったので、足立氏が増えたと思えます。

 安酸睦博氏の調査によりますと清川村には県指定有形文化財となっている立派な足立家宝塔があったり、「安達盛長十二代之裔、足立盛親之墓」があったり、竹田市明治地区には40戸の足立姓が集中してある地域もあり、九州にも足立氏が多いのです。

 

 

 

 

vol.51  2001.9.28

 

中国地方の足立氏
 Adachi family of Chugoku district 

 

  

 鳥取県の西北端に米子市がありますが、米子市から境港市にかけての弓浜半島地区には足立姓が多く、米子市だけでも足立・安達姓は200数十戸はあり、境港市に行くほどこの地域の足立姓の密度は高くなるといわれています。

 米子市は海上貿易が発達し、江戸時代の西廻り航路の港町として活気のある街となったのですが、中世は加茂と呼ばれていた小漁村であり、東部には尾高城がありました。尾高城は大永4年(1524)出雲の尼子経久に攻落され、のちに吉川氏の居城となった時期もありますが、関ヶ原戦後中村忠一が17万5千石の領主として入部し、米子城を築いたことにより廃城となりました。

 米子城主中村家も断絶し、池田氏が因幡、伯耆の領主として入部しています。こうした城主に従って米子へ来ました足立・安達氏がこの地に帰農して、その子孫が増えていきました。

 鎌倉末期、足立遠元の嫡流でありました6世孫、安芸守足立遠宣は足立一門を率いて武蔵の足立郡桶川郷より、足利尊氏に従って西下してきました。足利氏の先祖は八幡太郎義家の孫にあたる源義康であります。新田義貞の先祖もまた源義重で、義康、義重は兄弟であり、鎌倉幕府創立の源頼朝と先祖を同じくする鎌倉幕府内の名門であり、足利荘、新田荘をそれぞれ領有していましたので、その地名を家名としていました。

 新田義貞が鎌倉幕府を滅亡させた建武の功労者ではありますが、部門の棟梁として信望を集めたのは足利尊氏で、建武2年(1335)には早くもこの2人の武力衝突が起こります。

 急進的に独裁政治を展開しようとした後醍醐天皇に足利尊氏は離反し、光明天皇を擁立して室町幕府を開設したわけですが、関東から西下していた武士団もどちらかに分裂して抗争せざるをえなくなったのです。

 足立遠宣の一統は後醍醐天皇に従って運命を共にしますが、南朝ふるわず、悲運の中で足立一門も次第に衰微し備前、備中、播磨方面に四散していきました。しかし、武門の名門を大切にし帰農、各地に土着していたようです。

 関東から西下した足立一門の中には足利尊氏に従っていた足立信政もいました。足利尊氏ははじめ敗走して九州に落ちのびますが、それに従った中には、徳山大津島に土着して帰農した足立氏の姿もみえます。

 足立信政は延元元年5月25日(建武3年)湊川にて足利直義が苦戦していた時、楠木方の豪将、箕浦兵衛尉を打ち取り、その功により播磨守に任ぜられています。また信政4世孫の足立信則は備中守に任ぜられ、備中英賀郡草間の川崎城主になっており、尼子経久の家臣となりました。

 足立信則の子の久信は尼子晴久について十年畑高尾城主であり播州攻めでは活躍していますが、尼子晴久が毛利氏と戦い月山城で滅亡しましたので、足立久信は高尾城出丸跡に庵を結び余生を送ったといわれます。その庵跡に城福寺が建立され、久信の墓も寺内にあり、足立右馬允久信を祀っているということです。

 足立久信の長男長良次郎左衛門は出雲尼子十三人衆の一人とされていますし、次男の足立宗兵衛久純は草野にのがれ鉄山師となっています。また旧尼子家臣が吉川広家に臣従したものに足立治兵衛、足立八右衛門、足立長太夫、足立藤兵衛、足立又兵衛、足立市右衛門がいました。

 吉川家が米子より岩国へ移封されたのに従って、岩国へ移った足立氏もあり中国地方一帯に足立遠元を先祖とする子孫が多くいますが、鳥取県、島根県、岡山県、山口県には足立姓の多い地域があります。

 

 

 

 

vol.52  2001.10.5

 

岐阜県郡上の足立氏
 Adachi family of Gujo, Gifu Prefecture 

 

 

 美濃国の土岐氏は管領につぐ格式で室町幕府に迎えられていましたので、在京の機会が多くその一族も京都に住んでいました。南北朝時代に岐阜県揖斐荘に揖斐城を築き、荘内に大興寺を創建して勢力をもっていました土岐頼雄も、在地武士の力が強くなり、郡上八幡を拠点に有力となった斎藤妙椿のため一族が分裂してしまいます。

 応仁の乱ののちにはこの地も戦場となり、斎藤の家臣であった西村勘九郎に攻略され、斎藤道三に仕えていた西尾光教に揖斐城もうばわれてしまいまして、土岐氏は美濃から追放されてしまいました。

 この揖斐城を築いた土岐頼雄の娘と足利義教の間に生まれたのが童名千太郎で嘉吉2年1月22日に誕生し、のちに足立頼直と改名して郡上郡口明方村に帰農したというのです。

 足利義教は、室町幕府第6代の将軍で3代将軍義満の子であります。応永元年(1394)6月に生まれていますが、4代将軍義持の異母弟でありましたので、生まれて間なしに青蓮院に入室していましたが応永15年に得度して義円と称し、応永18年に大僧正となり、応永26年には天台座主となっていました。

 ところが正長元年(1428)正月義持が没しますと還俗して義宣と名のり、永享元年(1429)3月9日に征夷大将軍となり、義教を名のります。

 ところが6代将軍義教は将軍専制を志向するようになり、管領の権力を抑止したり、公家に対しても圧迫を加え、延暦寺も弾圧、鎌倉府を滅亡させるなど、その性質は残忍峻烈で、土岐持頼も殺されており、ついに嘉吉元年(1441)6月に赤松満祐に誘殺されてしまいました。この義教には側室が多く、男子11人、女子8人の子がありました。土岐頼雄の女も側室の一人であったとされています。

 嘉吉の乱の時に懐胎していましたが、身に危険が及んだので美濃に逃げ、正月に若宮を安産しました。しかし連年戦乱で不穏の世情であったので、郡上に忍び来て農民となって千太郎を養育しています。

 土岐蔵人頼雄が祖父でありますので、その一字をもらって頼直とし、足利姓も隠して足立を号します。この足立はおそらく祖母の実家姓であったと思われますが、この郡上郡口明方村の旧家は今も続いていますが、代々の分家が多くあり、美濃地方の足立家の祖となっています。

 この足立氏は吉兵衛を襲名していますが、吉兵衛義兼の時代に漢方医となって、それを家業として世襲しています。

 足利将軍と足立が深い関係にあることは、足立信政が尊氏に従っていたことでも明らかです。そして郡上郡口明方村の足立氏は直接足利氏と血縁でも結ばれていたのです。

 しかし岐阜市の足立氏は安達盛長系で、霜月騒動で美濃に来て土着したとか、瑞浪市の足立氏はもっと古い家系であるとか、口明方村の足立氏の中には丹後より青山藩主入部の時に従ってきた足立氏とかの伝承があります。

 

 

 

 

vol.53  2001.10.12

 

三河の足立氏
 Adachi family of Mikawa 

 

 

 南北朝の動乱で足立遠元の遺風を家風としていた足立氏は、南朝の衰微とともにその勢力は衰退していきましたが、戦国時代になると更にその傾向が強くなっていきました。

 足立遠元の猶子の天野遠景が伊豆の地頭でありましたし、安達氏が三河守護でありましたので、三河地方に足立姓の豪族もいましたし、戦国末期に信長・家康につかえていた足立氏もありますが、足立遠元の子孫というのは確かでも、そのつながりがわかっていない足立氏があります。

 江戸幕府が編纂しました大名・旗本・幕臣の系譜を集めた「寛政重修諸家譜」という本がありますが、この本にでてくる足立遠元の後胤とされる右馬允遠正という広忠卿につかえている三河武士がいます。

 徳川家は三河松平郷の小さな豪族でありましたが、家康の祖父清康の代には岡崎城に移り、三河一国を支配していました。しかし家康の父松平広忠の時代には、東に今川、西に織田が強力になり苦しい立場になっていました。

 しかも家康の祖父清康は24歳で部下に殺害されますし、父の広忠も10歳で父を失い、織田氏との戦いに敗れ伊勢、遠江を流浪していましたが今川義元に助けられ岡崎城へ帰って来ています。

 三河の武士は、あがる年貢は今川氏に取られ、今川家から来た城代たちに使役され、新田を開墾して食うことに追われ、戦争になると先陣をつとめていましたので、その家臣であった足立遠正も大変な苦労をしていましたが、更に松平広忠の子家康は5歳で人質として今川に差し出されていますし、広忠も26歳で織田方の刺客に殺されるという状態で、主のいない三河は今川の保護領となり家臣団は苦闘と忍従の生活でありました。

 足立遠正の妻は「東照宮につかえたてまつり永禄元年2月駿府より岡崎にわたらせ」たようで人質となった家康について駿府にいっており、16歳になった家康が築山殿と結婚したので、やっと岡崎に帰れたようです。

 永禄3年(1560)5月18日桶狭間で織田信長の奇襲にあい今川義元が戦死しましたので12年の人質から解放された家康は岡崎城へ帰ってきました。

 足立遠正の子は弥一郎遠定、その養子が善一郎政定で家康につかえています。ところがこの善一郎の弟が大久保荘左衛門を殺害して逐電するという事件を起し、秀忠の憤が強かったので善一郎政定も退身して、越前の青木直重に身をよせていました。

 慶長5年石田三成と家康が挙兵いたしましたが、青木紀伊守直重が家康に従うということで、その使者に足立政定が小山の陣へ行ってこの事を言上すると、家康は非常に喜んで呉服五領を政定にあたえました。

 これよりのち足立家は旗本となり、政定の子善一郎正義、その子長十郎遠清と将軍秀忠につかえ、大番に列して二百俵の俸禄を受けています。大番というのは江戸城および江戸市中の警備役で番頭は旗本・大名の中より選ばれています。

 遠清のあとは又市郎遠重、そして伝七郎遠広、伝之助遠綱とこの旗本家系は明治維新まで世襲され続いています。

 新宿の西迎寺に墓があったようですが、この寺は空襲にあって墓も古記録も失いました。幸いに過去帳のみは残ったようですが、その子孫は不明です。

 

 

 

 

vol.54  2001.10.19

 

足立氏の家紋
 Adachi's family crest 

 

  

 家紋は、平安後期に発生し、家の印として用いられました。苗字を紋にしたもので、氏の印ではありません。公家社会では印として調度品や牛車につけていましたが、家長を中心とした家族を中心に、その家の名称を家名といいますが、この家名を図柄で表わしたものが家紋です。そしてこの家紋は自然に世襲されるようになりました。

 それが源平時代になると、源氏が白旗、平氏が赤旗を用いましたが、同じ源氏でも、各陣営にも目印が必要で、敵味方を識別しなければ戦場で動けないし、自家の戦功をはっきり認識させるために家紋は必要でありました。

 さて足立氏の家紋についてでありますが、武蔵国足立郡在住の足立家の遠祖である遠兼の家紋が「日の丸五本骨扇紋」でありました。足立遠元もこの紋と替紋として「カタバミ紋」を使ったということです。12世紀のことですが、播州杉原の「藤原支流足立氏系図」にそのことが明記されています。

 このことは桶川市総合福祉センターになっている足立右馬允遠元館跡にかつて一本杉があり、老杉の根元に安置されていた石の神明宮(高さ70センチメートル)があり、現在小高家に保管されている神明宮には「建久三歳城主足立右馬允建之」とあり、足立右馬允の家紋、即ち日の丸五本骨扇紋、カタバミ紋が刻されています。

 また「丹波志」の足立左衛門尉遠政正流の項に、足立の定紋は、丸に五本骨扇子金地にして日ノ丸、舞鶴の紋、替紋丸に剱カタバミとあり、その紋の由来が記されています。

 五本骨扇紋の由来は、祖先が禁裡より賜扇され、佐竹候と扇を半分わけにして家紋としたとのことであり、カタバミ紋については、祖先が京軍に赴いて傷つき、鳥羽縄手に臥していたところ「いたち」がカタバミの葉を喰えて来たので、この葉を傷口につけると出血が止まり、従軍して戦いに勝つことができたので吉祥紋としてもちいたとされています。

 青垣町山垣の報恩寺は、初代足立遠政が万歳山頂に建立し、祖父遠元、父遠光を祀ったとされていますが、天正の乱にて焼失、慶長3年(1598)再建され現在地に移っています。足立右馬允遠元、足立左衛門尉遠光、足立久保田左衛門尉遠政の大位牌があり、この位牌には、「日の丸五本骨扇子紋」と「カタバミ紋」が鮮やかに数個刻まれています。

 「日の丸五本骨扇子紋」「カタバミ紋」を家紋としているのは武蔵大宮市植田郷の小島氏=昔は足立=で、同家の祭神足立神社の什器にもこの紋を用いています。

 大和五条市の足立氏、大和高田曽大根の足立氏、丹後、中郡峰山町の安達氏、春日町歌道谷山王権現の安達氏、但馬和田山町宮田の足立氏、竹田町藤和の足立氏、青垣町山垣の本流足立氏、遠坂今出権現の社家、野上野の足立氏、市島町牛河内の足立氏等で、同じ足立氏でも五本骨扇紋を家紋としている足立氏が多く青垣町のほとんどの足立氏の家紋は「日の丸」なしの「五本骨扇子紋」です。

 関東から来た足立氏の家紋としては、かたばみ紋が最も多く、替紋として、木瓜袴、鷹羽違、茗荷紋を家紋ときめています。

 「丹波志」畑中足立氏の項に、いにしえ、兄弟四人あり、嫡男足立西殿、次男堀殿、三男土田殿、四男少補殿、今は日の丸五本骨扇紋なれど、古くは、剣カタバミ、鷹羽違、茗荷紋なりとあります。

 足立遠元系の足立氏の紋も地域によってかなり違っています。山陰、東海では花菱、木瓜が多く、鳥取では九枚笹、二引紋、筑後の亀甲紋等雑多です。遠元系以外の足立、安達氏の家紋になると更に複雑になります。

 

 

 

 

vol.55  2001.10.26

 

姓氏大辞典と足立氏
 Family name Great Dictionary and Adachi Family 

 

 

 姓氏家系大辞典は太田亮氏が昭和11年に全稿完成したもので、著者が諸家の系図を集めてから30余年を費やして完成されたものであります。

 「本書は根源に於いて詳かにし、各氏については分派以来を筆にする」と述べられていますように、姓氏の歴史的根源、豪族の分布、盛衰を明らかにすることに力点が置かれています。大正9年に発刊されました「姓氏家系辞書」が基本になっていますので、80年を経過していますが、姓氏研究としては最高のものです。

 おおたあきら氏は立命館大学教授で古代史の専門でありますが、法学博士でもあり昭和の歴史学者です。

 この辞典の足立氏の項には、1.武蔵の足立氏、2.丹波の足立氏、3.尾参の足立氏、4.河内の足立氏、5.常陸の足立氏、6.源姓の足立氏、7.坂上姓足立氏、8.其の他、に区分されており、安達氏については、1.陸奥安達連、2.坂上流、3.藤原姓、4.東鑑、5.安達太郎、6.讃岐の安達氏、7.芸備の安達氏、8.丹波の安達氏、9.若狭の安達氏、10.三河の安達氏、11.その他となっています。

 武蔵の項によりますと、足立四郎遠基と右馬允遠元は同人であり、尊卑分脈の安達氏というのは足立氏であるとし、東鑑でも安達と足立を区別しているが、平家物語では安達新三郎を足立としているので、安達氏も足立氏にほかならないとされています。

 安達氏を陸奥安達郡より発祥するかの如きは後世のこととされ、平治物語に足立四郎遠基の外に足立新三郎清恒、平家物語に足立新三郎、源平盛衰記にも同人が記述されていると紹介されています。

 安達氏の藤原姓についても武蔵足立氏と同じとされており、丹波の安達氏も、丹波志の安達氏の古城遠坂城のことについて山垣城足立氏と同族とされています。

 丹波の足立氏については丹波志中心に書かれていますが、遠元の子遠光が東鑑に見えないことにふれながらも、小和田城は遠政の次男左衛門尉遠信の居城とも、左近大夫の居城ともいう、又三原城も足立氏の居城で、足立広成、政成あり、稲土城は足立修理大夫政家(大灯寺殿)の居城等がふれられています。

 安達氏については、奥州安達郡より起った安達氏と、足立・安達と音通ずることにより本来足立が安達と書かれているにすぎないという二流のあることが書かれています。陸奥安達氏は高麗の帰化族が、姓を安達連といい、その子孫が安達氏を称したというのであります。

 坂上系図によりますと「坂上田村麻呂の子安達五郎始めて陸奥国安達郡に住む、子孫奥州に繁栄し、坂上党と号す」とありますが、この子孫が安達を姓名としたというのです。帰化人の安達か、坂上の安達かは判明できないということです。

 讃岐の安達氏は「石清水讃岐国本山庄、足立木之助遠親の知行地頭職を止める」という東鑑の記述から、その子孫が安達氏を用いているが足立氏であるとされ、芸備方面の安達氏も足立であるとされています。

 その他の足立氏には「太平記」の足立源五、足立新左衛門、足立五郎左衛門、足立又五郎、「応仁記」に丹波の足立、「安西軍策」に足立治兵衛、足立十郎兵衛国徹、徳川時代になって足守木下藩、浜松井上藩、水口加藤藩等に足立姓の重臣のあること、鯖江家臣に足立氏の多いことなどが書かれています。

 いずれにしましても、そうした子孫は九州から奥州にまで分布していますので本格的な調査が必要です。

 

 

 

 

vol.56  2001.11.2

 

二つのあだち郡
 Two Adachi counties 

 

 

 苗字と地名とは深い関係があります。地名が苗字となっている数を特定することは困難なことだといわれていますが、苗字の80%以上が地名姓ともいわれています。苗字は二重性をもっています。有名な「藤原」姓も、もともと大和国の藤原の里を中臣鎌足が下賜されたので、藤原鎌足となったことからはじまります。その後も、古代の「氏」の藤原の子孫の苗字と、藤原という地名に住んでいて藤原姓となったものとがあり、地名姓の方が多いといわれています。

 足立、安達の苗字についても地名姓であったことは、まちがいないですが、同じ発音から両姓が混同されて使用されたとしか考えられない場合もあったのです。

 「あだち」には古代より武蔵国にあった足立郡と、陸奥国にあった安達郡とがあり、そこの住人が足立、安達姓となったのです。神戸新聞出版センター刊行の「兵庫県大百科事典」には、足立氏の項で次の記述があります。

 中世丹波の土豪。「丹波志」には、武蔵国足立郡領家職本主であった藤原遠兼の子遠元が、足立郡地頭職を拝領して足立氏を称し、その子遠光が丹波国氷上郡佐治郷を賜って下向土着し、一族が丹波に繁延したという。佐治郷の山垣城を居城とし、鎌倉中期の禅僧遠谿祖雄は山垣城主足立光基の子、室町、戦国期にもその子孫が丹波の国人として活躍したが、荻野直正に圧迫され、ついで明智光秀の丹波制圧にあって滅ぼされた。遠坂城の安達氏も足立氏と同族という。

 足立郡は、現在の埼玉県南東部と、東京都足立区全域にあたる地域であります。また、安達郡は福島県の中央部ニ本松市中心で、東北本線には「安達駅、二本松駅」があります。足立については、武蔵国分寺に使用されていた古瓦に「足」の字があるものが出土しています。「続日本紀」にも足立郡名がでていますし、足立郡の人丈部(はせつかべ)直不破麻呂が武蔵の国造になったとあり、「西角井系図」には西角井家が大化改新以来代々足立郡の郡司の家であったとあります。

 一方の安達については「延喜式」に安積郡から分立した「安多知」が「安達郡」となったとされています。仁平元年(1151)に惟宗定兼が本領主として太政官厨家に安達郡を寄進しましたことから「安達荘」が成立していますし、その安達荘地主職は、定兼から小槻(壬生)隆職に伝えられ、代々壬生家が伝領されています。建武3年(1336)に北朝の光厳上皇より壬生匡遠に安達荘の領有が安堵されていますので、のちに二本松に本拠をすえた畠山氏が奥州管領となるまで壬生家の支配地でありました。

 この安達郡の安達姓は高麗系安達氏と坂上姓安達氏があるといわれていますが、「尊卑分脈」にのせられています小野田三郎兼盛は奥州安達郡に住んでいたので、その子孫が足立郡に来て安達氏を名のったというのは無理があり、鎌倉御家人の安達氏はもともと足立氏であり、陸奥国の安達郡とは無関係だったということです。

 鎌倉御家人の安達氏は北条氏との姻戚で栄えましたので、足立氏と区別され安達の字が使われます。安達景盛の時代に秋田城介となり、その職は世襲されましたので、城氏ともよばれています。また安達泰盛の時代には、引付衆、秋田城介、評定衆となり、更に弘安5年(1282)には陸奥守に任ぜられています。このことから陸奥に関係のある人物として、安達氏の出身を陸奥安達郡とされたか、霜月騒動で権勢をふるっていました泰盛を、内管領平頼綱が策謀によって全滅させてしまいますが、安達氏の出身まで陸奥国にされてしまったということなのでしょうか。安達氏は足立氏だったのです。

 

 

 

 

vol.57  2001.11.9

 

関ヶ原の合戦と足立氏
 Battle of Sekigahara and Adachi Family 

 

 

 関ヶ原の合戦は天下分け目の戦いと呼ばれています。一方の主将はいうまでもなく有力大名からなる五大老の筆頭であります徳川家康であり、豊臣秀吉なきあと徳川政権樹立を狙いました。これに対したのは五奉行の筆頭であります石田三成で、豊臣秀吉なきあとの豊臣政権の維持と自分の地位を守ることにありました。

 この関ヶ原の戦い(1600年)の主戦場は関ヶ原(岐阜県)でありましたが、戦いは九州から、奥州までの全国的な戦いでありました。諸大名は、それぞれ思惑を秘めて一方に味方したり、中立をたもっていたり、親子が敵味方に分かれて戦うというものもありました。

 東軍は7万4千、西軍は8万2千の兵数で戦いは始まりましたが、西軍の戦闘力は3万5千だったといわれています。西軍はこの兵力でもちこたえていましたが、西軍で傍観していた小早川秀秋など1万7千が東軍について奇襲してきましたので西軍は敗退しました。

 戦国の動乱期を生き抜いて来た足立の武将たちも、この戦いにまき込まれて東軍、西軍に分かれ戦闘をくりひろげ、多くの犠牲者がでたのです。すでにみてきましたように松山城主加藤嘉明の家老でありました足立重信、福島正則の家臣足立保茂、安房里見氏の家臣足立隠岐一族、などは東軍として活躍しますが、その後の徳川幕府の大名取りつぶし政策の犠牲になっています。西軍に加わった足立氏はもっと悲惨であったことはいうまでもないでしょう。

 千葉県安房郡に里見氏がいましたが、里見義康のときに豊臣秀吉の配下となり、関ヶ原の戦では徳川方になり生き伸びた大名です。この里見氏の家臣団の中に、慶長11年(1606)に知行50石を与えられた足立小右衛門、慶長15年に知行150石を与えられた足立隠岐、小納戸衆、小姓頭で蔵米百俵を与えられた足立庄三郎がいました。領主が豊臣家臣から、徳川方についたので関ヶ原の戦では勝組になり大成功だったのです。

 ところが主君の里見義康の嫡男忠義が、小田原城主大久保忠隣の孫娘を迎えて正室としたことから大久保忠隣の改易に連座して、里見一族は滅亡してしまいます。慶長19年のこの事件は、忠隣が老中に就任し権勢をふるっていましたが、家康や秀忠に無断で、養女を山口重信に嫁がしたことから、一族は滅亡したのです。

 里見氏は源頼朝の御家人で、その末流が房総の戦国大名となっていましたが大久保忠隣の改易に連座し所領を没収されてしまいました。家臣の足立氏一統がどのようになったかは不明です。

 天正6年(1578)に尼子勝久のこもる播州上月城攻めに宇喜多直家の家臣で足立太郎左衛門が大活躍しています。宇喜多氏は天正元年に岡山城を築き、備前、美作を領する大名ですが、秀吉に帰順していました。直家歿後嗣子宇喜多秀家10歳が父の遺領を相続しますが、足立太郎左衛門は千石を与えられ重臣として参画しています。

 宇喜多秀家は前田利家の娘を妻に迎え、備中東半、備前、美作併せて50万石の大名となり、岡山城下に山陽道をとり入れ、商工業の育成にとりくみ、五大老の一人として豊臣政権をささえていました。しかし西軍の敗北により、島津氏を頼って薩摩に落ちのびます。慶長11年八丈島流罪となり、この島で50年間流罪人として生涯を送っています。重臣であった足立太郎左衛門のその後は不明です。

 


竹内正道    

 

 

 

 

 
 










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