兵庫県丹波市 妙法寺 奥座敷 五月人形  2002.4.28
丹波妙法寺 奥座敷 祖母から貰った五月人形 緋威 鎧兜 菖蒲  兵庫県丹波市 2002.4.28

  竹内正道著作集
家族の源流 足立氏ものがたり

第五章
 
 
先祖の生き方を学ぼう
 
足立氏と経験科学  名字と苗字  生き方を歴史に学ぶ
 

Learn the way of life of our ancestors
 
   
 
     


 
 
 

 

 

vol.58  2001.11.16

 

足立氏と経験科学
 Adachi family and Empirical science 

 

 

 江戸時代の足立氏は各地で活躍しますが、その数が増えると同時に世襲の封建社会ですから、武士として成功者となったものは少なく、むしろ実学面で活躍した人が多くいたようです。

 寛永の鎖国以後、外来文化の流入は制約されていましたが、農学や、鉱・工業などの産業技術にすぐれたものが生まれます。天文学、暦学、測量学、本草学、医学などの自然科学や、人文科学でも体験を通して蓄積された知識を土台に、儒教的訓詁学を離れて経験科学がさかんになって来ましたが、足立氏の中にも実学で活躍する人がいました。

 足立氏は各地で漢方医となり、医者を世襲して地域で信頼された人が多くいます。江戸時代の世襲された職業の中で一番能力を要求されたのが医者であることは現代とかわりません。

 大阪の医者で足立伊右衛門がいましたが、その養子となった足立信頭が有名です。左内、子秀とも号していたようですが、はじめ大阪御鉄砲奉行の久留勘右衛門組の同心をつとめていましたが、麻田剛立の門下に暦学を学び、寛政8年(1796)には、幕府天文方であった高橋至時(梅軒)の下役となりました。

 高橋至時は、西洋暦法を加味して誤りが多かった宝暦暦を改暦し寛政暦をつくられましたが、それに参画しています。その経験から足立信頭は天文方に任用され、天保暦をつくりました。この暦は明治5年の太陽暦採用まで正確な暦としてつかわれています。

 また、足立信頭は語学に優れていまして、文化10年には松前にいき、ロシア語を学び、文政元年には異国船の通弁をしています。ロシア語の学習は、文化8年に捕えられたロシア海軍中将ゴロウニンから学んでいます。

 このことは「ゴロウニン日本幽囚記」に書かれていますが、松前において足立左内、間宮林蔵、馬場貞由らの知識人に接し、ロシア語とロシアの国情を伝え、日本の国体、学問水準等を聞いたとあります。

 足立信頭は天保6年に「魯西亜語辞典」を著わしています。

 足立長雋(ちょうしゅん)は薩摩藩の藩医足立梅庵について漢方医学を学びましたが、梅庵に望まれて養子となり、足立姓に改めます。そして吉田長淑についてオランダ医学を研究しています。

 吉田長淑はオランダ語に通じていましたので医学書を原語で読むうち内科を専門とすることに決意して、江戸上槇町で開業した最初の西洋内科専門医です。

 足立長雋も藩侯の侍医となり、西洋医学書の翻訳に従事しています。天保2年(1831)には「医方研幾方剤書」を著わしており、西洋産科専門医として有名で産科医の祖といわれております。

 安達幸之助は加賀の金沢藩士安達の養子となった人物で、江戸藩邸に在勤して、オランダ語を村田蔵六(大村益次郎)に学びました。万延元年(1860)幕府の講武所で西洋兵学を教え、のちに帰藩して藩校の教授となっています。大砲鋳造に従事しますが、大村益次郎に用いられ、京都伏見の兵学校で兵学、英語を教えていましたが、大村の身がわりとなり刺客と闘って46歳で死んでいます。

 こうした足立氏の動向をみると幕末維新に日本の将来のため一命を捧げて、自己の使命に生きた人物が多くいたのです。足立遠元以来の鎌倉武士の品格のある人がいたるところに居たようです。

 

 

 

 

vol.59  2001.11.23

 

名字と苗字
 Myouji and surname 

 

 

 足立家は武蔵の国足立郡に祖父の代より住んでいました足立遠兼を元祖としていますが遠兼は源義朝の家人でありましたから平安末期ということになります。

 この頃に名字が使用されるようになり、そのほとんどは地名にちなんだものであり、現代までその名字が継承されていますが、名字にちなんで地名をつけられたということは少ないといわれています。

 中世の武士の名は、自分が支配した名(みょう)とよばれている領地の地名を名字として使い、その名字が主従間で広まり、一族の結束をかため、その一族が分裂したり、移動等により他の地方に拡大されたのです。

 「名字は人とともに動く地名」といわれていますが、本拠であった居住地の地名を名字とする、土地に対する利権から特定の地名に対する強い愛着を示した武士たちの間に、名字が生まれ「家」ができたのです。

 一般に武士は、有力農民が新たに土地を開発し、開発した土地に地名をつけましたが、この名前のついた土地が「名田」であり、かなりの面積をもちましたので、これを自衛する必要から武装して武士が発生しました。この武士の一族のものを家子とよび、従者たちのことを郎党とよびましたが、武士たちは、自分の支配地を拡大するため、家子、郎党をひきつれて戦闘集団となり争いをくりかえすようになります。

 そして権力を世襲するようになり「家」が成立したのです。「家」が成立するまでの社会は、夫婦生活をともにすることなく、夫が夜になると妻のもとに訪れ、夜明けに帰っていくという「通い婚」が一般的で、女性は7、80人の血縁集団の中で生活しており、女性が出産すると、その子は誰の子ということに関係なく、その集団の中で養育されました。

 平安末期までは、このような集団が生活単位であり、通い婚をくりかえし、集団と集団の間に親戚関係が形成され農耕中心の地域社会を形成していたのです。

 ところが、武士が発生しますと子供は特定の父の後継者となり、その財産、地位を受けつぐようになり、女性の嫁入婚が成立します。父を家長とする「家」ができ、家は名字や家紋、先祖を重視するようになり、同族意識をもって、同族の長や、本拠地の名字を共通にする同族集団ができます。

 このように「イエ」の名は血縁の同族に継承され、名字は南北朝から室町時代にかけて定着します。そして、鎌倉武士の西国移住や、本拠地を戦乱で失ってしまっても、他の土地に土着しても、その名字は受けつがれましたので、名字は全国に拡大しました。

 江戸時代に苗字帯刀は武士の特権であり、武士でないと苗字の使用を禁止しました。しかし、百姓・町人も私的に先祖伝来の名字は使用しており、公的文書以外の使用は禁止できなかったので使われていたのです。また村役人として業績のあったもの、孝行とか学術的に奇特のあった人、多額の御用金を提供した町人等に苗字帯刀を許可しています。

 この特権をもった百姓・町人は、町村内では名主の上席で名誉なこととされましたが、足立氏は全国的に苗字を許された有力農民や、医師御用達町人が多かったようです。そしてその一族も足立遠兼以来の先祖を崇拝し、足立姓を私称したり、先祖からの同一名前を世襲したり、先祖との通字を代々名前につけたものも多く、家紋を継承してきました。

 江戸時代は、武家には系図が必要でどの家も系図を備えようとしていました。この傾向は元禄の頃から農家や商家でも、武士の家系図をまねてつくるようになりましたので、「系図の売買」や「偽系図」売りが活躍するようになります。

 江戸時代中期から継承されている系図にはこの種のものが多く信じられないものもありますが、家紋・墓・仏壇・祭具家風などから先祖が判明します。現代でも先祖の生き方を知って自分の存在基盤を確かめようとする人も多いです。

 

 

 

 

vol.82  2002.8.24

 

生き方を歴史に学ぶ
 Learn the way of life in history 

 

 

 世の中の変遷が激しい時代になりました。地球の誕生が46億年前人類が誕生したのが500万年前といわれていますが、人間が人間らしい生活をはじめたのは3000年前で、人口が増えるようになったのは200年くらいなのですが、この100年間の変化は歴史上かつてなかったものであり、現在はあらゆる分野で10年前には考えられないような現象が起っています。

 その中でも、私達が生きていく最も基本的な家族の変化が急激だと思えます。鎌倉武士の発生と共に成立した家の源流を考えてみようと思ったのもそこにあります。

 農業中心で生活していた時代は大家族であり、家長も子供も共に田圃で一緒に働き、共生して、農村の中では家族は同志でありました。それが地方から出て都市労働者となり、家族意識はなくなり、核家族化しました。そして現在の社会では単身志向で家族をつくらないものが増え、離婚も多く、子供も少なくなりました。

 

 成熟社会の現在では、大切なのは個性であり、創造性独創性なのですが、夫婦共かせぎで、学校まかせの子育てになり、学校もできる子供を伸ばすこともせず、できない子供を特訓することもしない競争原理を全面的に否定する「負けた子がかわいそうだ」という中途半端な公教育がまかり通ってしまっています。

 茶髪の中学校へもいかない女の子が携帯電話をもっており、援助交際して子供が子供を生んだり、性的なことが原因で殺されたり、殺したり、子供ができれば捨てたり虐待したりの事件は毎日起っています。かつての小、中学生の目の輝きはなく、うつろな顔で生きる基本を放棄した子供が増えています。

 

 老年になったものにとって、子供を育てるのに苦労した人も、独りも子供を育てなかった人も同じように養老院か病院で独り淋しく死んでいきます。昔は子供がいたら老後は心配しなかったのですが、現在では老人が40歳の子供の面倒をみるとか、孫を老人が育てていることも多くなりました。社会保障は権利であり、「快適な生活を保障する」ことが国や市町村の責任であり、老後の保障もあたりまえという考えの人が増えてきました。

 したがって、子供のことも親のことも考えないし、自分勝手な生活を楽しむ人間にとって先祖のこととか、家の存続など考えるはずがありません。霊性を否定し無神論が教養人であるという態度で利己的に生きるものばかりになれば、家庭どころか社会も崩壊します。

 

 一生を豊かに生きるには自己教育をし続ける以外なく、生涯教育、生涯学習が大切ですが歴史を主体的にとらえることにより、歴史認識をもって生きることが「心」の時代には必要不可欠です。高齢化社会では、負担できる人から取って必要な人に分配するやり方に限界があり、できないことはできないという時代になったのです。

 もう一度先祖の生き方を学び、何が大切かを考える一助になればと「足立ものがたり」を書きました。

 立正山妙法寺は450年前に足立基則によって創建されました法華宗の寺院です。約100戸の檀家が足立姓でその他の檀家も足立氏と婚姻関係で深く結ばれています。そんなことから足立の先祖に深いかかわりをもちました。40年前に神戸の足立節治氏が来訪されましてより足立氏研究にかかわり、昭和46年5月、神戸市相楽園会館で「足立氏の先祖を語る会」に参加させて頂き、更に足立節治氏の足立氏資料を妙法寺に御寄贈いただきました。

 以来実に多くの研究家と交流させて頂き、御好意で提供されました資料を基礎として足立氏をまとめております。御縁を頂いた諸先生に感謝申します。

 


竹内正道    

 

 

 
 







Λ

         
  自然 人体 幸せ 経営 知識
竹内正道著作集
八島ノート  世界の名言
幸せのプロフェッショナル
Twitter  Twilog
Instagram  YouTube
LinkedIn  Andre_Louis
ご挨拶  竹内康正
 
    ©2017 Yasumasa Takeuchi