聖観世音菩薩 ゴータマ・シッダールタ王子像 クシャン王朝 ガンダーラ ギメ美術館 Musée Guimet Paris 2016.11.2 竹内 康正 Yasumasa Takeuchi
聖観世音菩薩 ゴータマ・シッダールタ王子像 クシャン王朝 ガンダーラ Musée Guimet Paris 2016.11.2
 
Bodhisattva debout Musée Guimet ギメ美術館


  竹内正道著作集
仏教と日本人

第二章
 
 
解脱への道
  前生の物語  過去世  釈尊のふる里  釈尊の降誕  釈尊の太子時代  出家
解脱への道  釈尊の悟り  仏教のはじまり  釈尊の教え
 


The way to Gedatsu
 
   
 
     


 
 

 

 

vol.69  2002.6.26

 

前生の物語
 Previous life story 

 

 

 仏教の開祖、釈尊が誕生されたのはルンビニーとされていますが、生誕の地にアショーカ王の石柱が建てられており、「ここに仏陀、釈迦牟尼が誕生された」と刻文されておりますので、ネパールのタラーイ地方であったことは歴史的事実であります。ヒマラヤ山麓に建国していました釈迦族の王子として西紀前六世紀ごろにお生まれになりました。

 「釈尊」というのは釈迦族の尊者という意味の尊称で釈迦牟尼世尊を縮めた語です。釈尊のことを仏陀ともいい「めざめた人」のことをいいますが、原始仏教では釈尊以外に六人の仏陀の存在を説いています。これを過去仏あるいは古仏(燃灯仏など)といい釈尊は第七番目としています。そして未来に顕れる仏として弥勒仏があり、現在は釈迦仏と弥勒仏との中間で無仏の世と小乗では考えていますが、大乗では東方に阿閦仏あり、西方に阿弥陀仏というように無数の仏が存在すると考えました。

 仏陀としての釈尊の偉大さを讃える立場から釈尊の伝記が「仏伝文学」といわれているほど多くあります。釈尊は釈迦族のスッドーダナ(浄飯王)を父とし、マーヤー(摩耶)を母として生まれました。どの民族に属していたかは明らかではありませんが、インド・アーリア人の多いネパール中部の南辺のインド国境に近い小部族の国でカピラヴァットを首都としていました。

 一族の共和制政治をとる自治共同体であったとされていますが、政治的にはコーサラ国に隷属していました釈迦族は農耕生活を営み牛を重要な労働力として稲作をしていたと推測されています。

 偉大なる人の伝記は、古来その人の前生について書いているものが多くありますが、何度も生涯のあいだに献身的な努力を重ねてこられたので「仏陀」になられ、その教えはインドや東南アジア、中央アジアから中国、朝鮮、日本など世界中で信仰されるようになったとされる立場から「前生物語」が世界各地に伝えられ、仏教彫刻絵画の主題となり文化遺産として伝えられています。

 仏教では、仏陀は遠い過去の世にも久しい間隔をおいて次々と出現されていますが、釈尊は、遠いむかしに燃灯仏という仏陀から使命を授けられ、のちに仏陀となる約束をされています。

 むかし燃灯仏(定光仏ともいう)の時代に、儒童という青年がいました。この青年は一心に仏道修業をしていましたが、仏陀が現われたことを聞き、鹿の皮を着て山から下り、途中修業者五百人に遇い、仏道について論議しました。そして修業者達から銀貨一枚ずつを餞別されて都へやってきました。その日に燃灯仏が都へ来られるとのことで、儒童は大喜びで仏陀にあいに行きますが、その途中王家の女が七本の青蓮華を水瓶にさしているのを見て、五百枚の銀貨を渡して、五本の青蓮華を手に入れ燃灯仏にささげました。

 ところが儒童のささげた青蓮華は空中にとどまって燃灯仏の頭上を飾りました。この時燃灯仏は「おまえは過去久しい間、多くの生涯で修行を続け、身命をなげうって人々のためにつくし、欲望を捨てて慈悲ぶかい行ないをして来た。将来において仏陀になってシャーキャムニとよばれるであろう」と授記されました。

 青年は自分の着ていた鹿の皮をぬいで道にひろげ、更に自分の髪の毛を解いて地面にひろげ、燃灯仏に踏んで通ってもらったということです。

 また猿王が釈尊の前身だったという話もあります。猿の仲間が皆殺しになりそうな時、自分の背中を橋にして対岸に逃した猿王は自分の身を犠牲にして猿王としての義務をはたしたという話です。法隆寺玉虫厨子台座の密陀絵で有名な太子の話もあります。

 山の下の深い谷底で七匹の子を生んだ母虎が雪の中で飢えているのを見て、太子が合掌して虎の目の前にとびこみ、虎が母子ともに、この太子の身を食べて元気になったということです。

 このように「ジャータカ」の物語は数百伝わっていますが、それらは自己犠牲の功徳を前生で積み重ねて来た功徳によって、今生では釈尊のような人格円満な世尊が生まれたのだとされています。

 

 

 

 

vol.83  2002.9.4

 

過去世
 Previous life 

 

 

 私たちにとって理解しがたいことですが、仏教では過去・現在・未来のことを時の流れとして考えなくて、「ものごとの流れ」として考えますので、三世といい、過去世・現世・来世といっています。現在の一生涯が現世でこの世に生まれでる以前の生涯が前世であり、死後の生涯を来世といっているのです。

 「ものごとの流れ」とは、「いまだやってこないもの」がやって来て、やがて「行ってしまう」ものとして三世をとらえています。つまり、時間を実体視せず、実在するものとみないのです。時間は変化する存在の変遷で、それを仮に区分しているにすぎないというのです。

 人は前世にやってきた自分のおこない(業)を原因として現在の結果があり、現在の自分のつくった業により未来のありようがきまるので、自分の責任により来世を生きるというように、因果応報の理は三世にわたるので三世因果といわれています。

 過去世のことは、過去・前生・前世・前際ともいっていますし、未来世のことは、未来・来世・来生・当来・後際ともいっています。そして重視していますのは、現在世と未来世で現当二世といっています。

 仏教の祈りは「現当二世諸願成就」を仏に祈ることですが、現世の行い(業)が来世のありようを予定するというのです。

 古代インドの社会では、人は何度も生まれ変わり輪廻転生すると考えられていましたことは前述のとおりですが、その輪廻転生は、善悪応報の因果律によって転生する世界がきまるとされていました。この考え方は、ギリシャ、アフリカの古代思想と共通であります。

 こうした因果律の信仰は釈尊の誕生にあてはめられ、偉大な釈尊ほどの人物が生まれたのは、相当のことを前生でされて、善業をつまれた結果であると信仰されました。釈尊は過去の無数の前生で、かぎりない布施と忍辱の行をつまれましたが、その自己犠牲の功徳によって仏陀となられたというのです。

 釈尊は前世において、菩薩として地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天の六道に次々と生まれられ、種々の姿・形をとって菩薩行をされました。菩薩というのは、自分の身をかえりみず、他人のために努力する人のことで、悟りを求めて修行の道に入っている人のことです。

 ジャータカ(本生話・本生譚)はもともとインド各地にあった民間説話をとり入れて、仏教の考え方である布施とか忍辱の思想を多くの大衆に教化したのですが、同時に釈尊の偉大なことを多くの説話で表現されたものです。

 35歳で仏陀となられた釈尊の教えはインドや東南アジア、中央アジアから中国、朝鮮、日本、チベットから蒙古、シベリアに伝えられ人類に大いなる指針を与えられ信仰されていますが、こんな偉大な人物は過去の永い世代を通じ、多くの生涯を通じて、献身的に不惜身命の努力をされた功徳によると教えられました。

 「ジャータカ」は数も多く、広い地域の国にどんどんひろまり、世界各地に拡大され、アラビアの「千夜一夜物語」とか、ヨーロッパの「イソップ物語」「グリム童話」にもとり入れられています。東南アジア諸国の聖典パーリ語の「ジャータカ」は547の説話があり、さらに梵語やチベット語、漢訳経典の中にもとり入れられ、日本では「今昔物語」などの物語文学にそれがとり入れられています。

 ジャータカは民衆の仏教でありましたから、彫刻、絵画の主題として、インド、東南アジア、中央アジア、中国などで多くの傑作が残され世界遺産として今に伝えられ、訪れるものに深い宗教的感動を伝えています。

 釈尊は過去無数の生涯でかぎりない自己犠牲の功徳を積みましたのでトソツ(兜率)天にのぼり、神々を教化しながら地上にくだる時を待っておられました。天上の音楽の調の中から声が聞こえて菩薩下生の時を知らせます。菩薩は獅子座につき下生の時機と場所を観察され、トソツ天からくだって摩耶夫人の胎内に入られたのです。この菩薩を守護する神々も菩薩についてきましたが、それは梵天・帝釈天・四天王などの神々です。

 

 

 

 

vol.84  2002.10.20

 

釈尊のふる里
 Hometown of Buddha 

 

 

 ヒマラヤ山脈のふもと、ネパールとインドの国境に近いところに釈迦族の小国がありました。その国のひとびとは米作を生業として、政治的には共和制をしいていましたが、その国の主権者の子として釈尊は生誕しています。釈迦族の本拠はカピラ城でバスティ地方の北、ネパールの南の国境カトマンドゥの西方200キロのところです。

 インドは50万年前にさまざまな地域に人類が住んでいたことが知られていますが、5000年前にハラッパ、モヘンジョダロ中心にインダス川の流域に整然とした宏壮な諸都市を建設し、銅器時代文明を成立させています。この文明を残した人びとは、アーリア人よりも先にここに住みついてエジプト・メソポタミア文明以上の文明を発祥させ発展させていました。最盛期にはインダス川流域の南北1500キロにおよぶ広範な地域に高度な文明が成立しました。

 しかし、この文明はアーリア民族が侵入してきて完全に滅ぼされたようです。アーリア民族は紀元前1700年ごろから原住地を出てヨーロッパに定住するもの、東方に向ってアジアに侵入してインド‐イラン人となったものなどがあります。アーリア人がインドに侵入したのは紀元前1300年ごろとされています。原住民との戦闘の経過は「リグ・ヴェーダ」の詩のなかに表現されていますが、先住民はアーリア人の支配下に隷属し、インド社会最下の隷民階級となりダーサとよばれています。

 釈尊は釈迦族のゴータマ姓の家系に生まれ、父はスッドーダナで王とよばれていましたが専制君主ではなく、貴族会議政治の代表者であり民主的色彩の強い王国でありました。この釈迦国は、カピラ城を中心に釈迦一族が各村の首長となって、この首長の合同協議で共和政体をつくっていました。その面積は東西80キロ、南北60キロほどで現在のインドとの国境に近い地域にありました。

 しかし、この釈迦族の国は南の大国コーサラの支配下にありましたので完全に独立した都市国家ではなかったのです。当時ガンジス川流域にはコーサラ、マガダの他にも大小の王国や共和国があり、抗争をくりかえしていました。カピラ城の釈迦国もコーサラ国に滅亡させられましたし、コーサラ国もマガダ国に滅亡させられました。

 釈迦族がアーリア系の白色人種であったかどうかは不明で、アジア系の民族かもしれないともいわれていますが、農耕中心に平和を愛好する人々だといわれています。はじめアーリア人と被征服民ダーサ(非アーリア人)の2階級社会でありましたが、階級差別が複雑になりカースト制が成立します。釈尊は出家することによりクシャトリヤの身分を捨てられました。

 この頃には政治経済面で急激な変化があり、古来の階級制度も崩壊して王族の出身でなくても王位につき、バラモンでなくても聖典に通じるものもありましたので、バラモンがそれぞれの階級のつとめを定めているのにたいし、仏教はバラモンの虚偽であると反対しています。

 釈尊がお生まれになったのは、ネパールのルンビニー苑であり美しいところと仏典には書かれています。当時の風習で、妊婦は実家に帰ってお産をすることになっていましたから、母のマーヤー妃は実家に帰り、デーヴァダハ城の近くのルンビニー苑で4月8日に出産され、ゴータマ・シッタルタがお生まれになりました。それは紀元前463年のことです。

 このルンビニーには、釈尊入滅後200年ほどしてからマガダ国王として北インドの広大な領土を支配したアショーカ(阿育王)が碑を建立しています。この大理石の円柱には次のことが書かれています。

 天愛愛見王(アショーカ王)は即位20年ののち自ら来て礼拝し、ここは仏陀シャキャムニが誕生されたところであるから、石の柱を建てさせた。ここは世尊が誕生されたところであるから地租を免じ、8分の1税のみ課する。

 

 

 

 

vol.85  2002.12.6

 

釈尊の降誕
 Birth of Buddha 

 

 

 釈尊は釈迦如来ともいい、如来さんなのです。如来とは真理の世界から来たもの、真理に到達したもの、真如の世界から来られたこの上もなく尊いものということです。釈尊は如来さんの十種の徳をそなえたおかたで、この世にあって偉大な仏教により人類を救済されている仏さまですから、その降誕についても随分多くの伝説が残されています。まず如来の十号といわれています徳についてみていきます。

 応供    ― 阿羅漢のことで、ふさわしい者、つまり人・天から尊敬される資格ある者。
 正偏知  ― 完全な真理を覚った者、等正覚、正等覚ともいいます。
 明行足  ― 天眼・宿命・漏尽の三明の智慧と身体・言語・行いが共に完全である。
 善逝    ― 迷いの世界をよく超えて、再び迷の世界に還らない状態になる。
 世間解  ― 世間の因果をよく理解し、出世間のこともよく知っている。
 無上士  ― 最も尊い存在、三界独尊である。
 調御丈夫 ― 人々をよく調伏制御して涅槃に導くものであり、心の中をよく理解する。
 天人師  ― 天と人との師であり、地獄、餓鬼、畜生など迷いの世界にあるものを導く。
 仏     ― 仏陀でさとれるもの、目ざめたるもの。自らさとり、他をさとらせる。
 世尊    ― 多くの徳を具えて世間から尊ばれているもの。

 以上の十号の徳を備えるにいたる人物の誕生というので世にも不思議な奇瑞が仏伝には書かれています。

 釈尊の父は浄飯王(スッドーダナ)で、白飯、斛飯、甘露飯の兄弟がありましたが、浄飯が位につきました。母は摩耶夫人(マーヤー)といい、白蓮華のように清い心の持主でありました。この夫婦の間には長い間、王子がなかったのですが、摩耶夫人がある日、6つの牙のある白象が天から降りてきて、夫人の右脇から胎内にはいった夢を見て懐妊されたとのことで、すでに45歳でありました。

 摩耶夫人は出産のため郷里に帰る途中のルンビニー園で休息をとられました。伝説によると、アショーカ樹の花が満開であったので、その花房を取ろうと右手をのばされた時、右の脇腹から釈尊がお生まれになったということです。

 釈尊が誕生されますと、神々は天上から花の雨を降らせ、2頭のナーガ(竜)が産湯を注いだということです。生まれたばかりの釈尊は、東南西北を見わたし、北に向って7歩あゆみ、右手を上に左手を下に向け、「天上天下唯我独尊」と宣言されます。

 こんなことは信じがたいことですが闇黒の世界に智慧の光を与えて下さる釈尊の出現なのですからどんな表現でも表せないことではないでしょうか。

 更に雪山に阿私陀という仙人が住んでいましたが、太子の誕生を知り甥の那羅陀をつれて太子を占いにやってきました。そして「王子様は32の偉人の相を具えておいでで、家にあれば転輪聖王となって四天下を統一されるし、出家すれば必ず無上の正覚を成就し明行具足の仏陀となられるでしょう」と予言いたしました。

 

 

vol.86  2002.12.26

 

 母の摩耶夫人は釈尊降誕の7日目に逝去されてしまいます。これは「釈尊」となるために摩耶夫人は肉身の仏陀を産んだだけでなく、法身の仏陀を産むため、太子に堪えられぬ骨肉の死の悲しみを与えるため逝去されたのでした。

 かくして釈尊は母マーヤーにかわってその妹のマハーパジャーパティーに育てられますが、何の不自由もなく極めて幸福な幼少時代をおくられています。

 32相というのは全身にみられる身体の特徴であり、転輪聖王は輪の回転が武器で血を流さずに征服する王たちの王で非凡な能力のもち主であり、仏陀も神たちの神で、神々への信仰は人間の霊性を目ざめさせますが、その神々の指導者であり、人々と神々の幸福のために法を説くのが仏陀なのです。

 釈尊が育ったのは農耕地帯で米作中心の農業を生業としていました。農耕は大地・自然との関係で成りたちますので、大地の恵みを大切に、またその恐ろしさを身をもって感じるのが農民です。宗教としての宗教が成立する以前から敬虔な風習があり、世界中どこでも自然物や、名も知れない偶像が祭られています。

 ネパール地方でも大地の母神は威力ある神としてまつられ、さらに大小の地神が信仰されていたようです。

 また農耕の習慣として王が先に耕作をする行事があったようで釈尊も父王につれられて農業の苦しい労働、地中の虫の生命、弱肉強食を幼少の時から見ていたのです。「一切皆苦」の仏教の命題もそこからでていますし、自然崇拝の多神教もその風習から信仰されたのです。

 そして、その神々と人々の幸福を実現させる宗教を菩提樹の下に座りながら少年の釈尊も瞑想されたと思えます。経典には少年太子が樹木の下に座していると樹が影を移さなかったという話がありますが、樹に宿る神が太子を守護したのでしょう。

 さて釈尊がお生まれになった時代のインドは激動期を迎えていました。鉄の使用で農業生産が上昇して商業が生まれます。商人達は武力を持った王族と結んで部族都市国家を成立させますが、この部族中心の都市国家も統一される運命にありました。釈尊に期待されたのは、強力な君主として釈迦族の王国を守り、さらに発展拡大し強国にすることにありました。父の浄飯王(スッドーダナ)は、少年釈尊が立派な武将になるための教育を受けさせます。

 インドでは7歳になると文字や算数を習う習慣があったようですが、釈尊は7歳にして師をしのぐ能力をもっていたとか、8歳からの剣術、馬術、象術、天文、占い、呪術等の能力も抜群であったと仏伝に記されています。弓の競技会でも、誰も引くことのできなかった、祖父獅子王が使用していた鉄の弓で座したままで鉄鼓を射抜かれ、その矢は天高く舞いあがったという話もあります。

 つまり仏伝では釈尊ははじめから仏陀であり、あらゆる能力をもつものとして伝説が語られています。

 

 

 

 

vol.87  2003.1.25

 

釈尊の太子時代
 Prince era of Buddha 

 

 

 釈尊の幼名はゴータマ・シッダッタ(悉達多)ですが、ゴータマは姓で「最もすぐれた雄ウシ」を意味しています。この姓は当時の部族社会での動物崇拝、とくにインドでは牛に対する崇拝の念がありましたのでこの姓を名のり、またシッダッタ(悉達多)は「目的を達成する者」という意味があり、その将来を期待する名がつけられています。

 当時のガンジス川中流地域ではクシャトリア階級が社会の実権を握るようになっていましたが、群雄割拠で小国が互いに勢力を競っていました。そんな状況のなかで悉達多太子は生まれましたので、理想の王となって国家統一をしてほしいと転輪聖王への期待がありました。

 しかし、釈迦族の勢力を考えますと国家統一することよりも、思想・宗教の混乱を解決し真理を悟れるものとなって人々の救済に努めてもらいたいという仏陀への期待もあったのです。

 父のスッドーダナ(浄飯王)はシッダッタの性格が沈思黙考型であったので、その性格を明るくするためにあらゆることをしましたし、太子もその期待にこたえて文武両道にすぐれた能力を発揮されたことはすでに述べたとおりであります。

 釈尊の太子時代の記述は多くありませんが、父のスッドーダナは太子のことを心配して早く結婚させようとします。妻を選ぶのに武芸で競い勝利の結果彼女を得たとか、多くの女性を集め、その中から太子が選んだとかの説話も多くありますが、太子が16歳のとき3人の妻があったとされています。

 多くの美女にかしずかれ、豊満な姿態を目のあたりにしながら恵まれた生活をしていたことが記述されています。当時のクシャトリアは妻を多数もつのはあたりまえの一夫多妻社会でありましたので、太子もそのような環境で日々を送っていたのです。

 早く太子が結婚することを願っていました父王は、太子に理想の女性をたずねますと太子は細工師に命じて黄金の女性像をつくらせて父王に渡します。早速その像に似た女性を探させますと、そっくりな女性がいました。

 ダンダパーニという富豪の娘ゴーバーで、稀にみる美人でありました。このゴーバーはむかしむかし、然燈仏の世に修行中の太子から仏にささげる青蓮華をわけてほしいと頼まれてその華を譲る条件に、のちの世で妻にしてほしいと願っていた王家の娘だったというのです。

 過去世の因縁により太子の妃となり、太子によくつかえ、太子出家ののちも第一妃のヤショーダラーを守護しました。早逝しますが生前の功徳によって三十三天(トウリ天)にのぼったといわれています。

 

 

vol.88  2003.1.30

 

 第一妃となったのは釈迦族の一門でスプラブッダ(善覚)王の娘ヤショーダラーです。提婆達多や阿難陀の姉でのちに釈尊との間にラーフラ(羅睺羅)が生まれます。この女性と太子は前世でも夫婦でありましたが、一緒に山野で暮らしていた時、食べものの怨みから何をもらっても満足しなくなってしまった女性で、誇り高い性格だったとされています。

 王宮で不自由なく快楽に満ちた生活をしていた太子ですが、毎日が快楽であればあるほど、城外の悲惨な生活、生老病死に苦悩する人々のことを知り、この生老病死の苦悩を超越する出家の道にすすみたいと思うようになりました。

 そうした時に王子の出生の知らせを受け「私に新たなラーフラ(妨げ・障り)が生まれた」と太子は叫んだということです。それでラーフラ(羅睺羅)と名付けられましたが、この意味は障害とか悪鬼ということで束縛するということです。

 この子も後に釈尊の弟子となり少年僧として父のもとで薫陶を受け、よく学び怠らず精進し解脱します。

 さてラーフラが誕生し王家に継承者を得たことにより釈尊は出家の決意をかため7日目の未明に宮殿を出たといわれています。太子が出家して馭者と馬だけが戻ってきた時父母妃たちは嘆きましたが、ヤショーダラーの悲痛憤懣は大変なものであったと伝えられています。

 太子が1人で出家したことを恨んでいましたのに、のちに12歳になったラーフラまで出家して釈尊にうばわれてしまいましたのでヤショーダラーの嘆きは深刻でありました。

 第三の妃については、釈迦族カーラクシューマの娘でマノーダラーでありますが、父が釈尊に精舎を建て供養したことくらいで伝承がありません。早く離別したともいわれています。

 若き日の釈尊には3人の妃があり、それぞれ別の宮殿に住んでいて、各宮殿は三重の門があり武装兵士によって警護されておりました。釈迦族の生活水準はかなり高く太子は幸福な日々を送っておりましたが、ラーフラの出生をチャンスに出家してしまったのです。

 

 

 

 

vol.93  2003.6.6

 

出家
 Renounce the world 

 

 

 釈尊は王族に生まれ恵まれた生活をし、欲しいものは何でも与えられ、ありとあらゆる快楽をほしいままに暮らしていました。三つの別邸があり、多くの侍臣にかしずかれ、美しい女性をはべらせ官能の快楽に酔いしれる優雅な生活をされていました。

 ガンジス河中流の地域は、上流からの肥沃な土が運ばれてきましたので農耕に適し、豊かな農産物を生産することができましたので人々の生活は豊かであり、王宮の恵まれた生活は満ちたりたものでありました。当時、インドの上流社会では四住期(アーシュラマ)といわれる四つの生活ができることを理想としたといわれています。

 学生期 ― 勉学の期間で古典ヴェーダを指導者について学習する。
 家住期 ― 結婚して家庭をもち、子どもを養育し後継者をつくり、先祖の祭祀を行う。
 林住期 ― 家の後つぎができると家を出て森林にはいり求道生活を送る。
 遍歴期 ― この世の執着を捨て聖地を遍歴し、一所不住の遊行で解脱を求める。

 こうした社会状況で出家の思想家が生まれ自由思想家といわれる人々が出現しますが、これらの人たちは「サマナ」(沙門)と呼ばれていました。沙門には王族出身の人もいましたが、家を捨てて出家し、一般の人々から施し物をもらって生活していました。出家の理念というのは、輪廻転生とかかわっています。つまり輪廻転生は苦しみであり、人生の苦から開放されるためには輪廻からの脱却が大切です。輪廻することのない解脱の道に進むことができれば、人生の四苦八苦より開放されるのです。

 輪廻転生の原因は毎日の行いの善し悪しによります。善(功徳)と悪(罪障)の行いを日常生活の中で意識的に、あるいは無意識にしており、善悪の行為(業)を積んでわれわれは生きているのです。解脱するには業を積むことを止めることなのです。それは日常生活から離れる(出世間)以外になく、出家して世間と違う生活にはいることです。そして衣食住を次のようにするのです。

 衣 初期ジャイナ教は衣をつけず全裸で修行したといわれています。ボロ衣を使用する。
 食 食べ物を購入したり、貯蔵はせず鉢をもって在家より乞食をする。野生の草を食す。
 住 一所不住でたえず遊行して大樹の下、洞窟などを宿とし、旅の空で過ごす。
 少欲知足を修行生活の根幹として、衣、食、住をきびしく制限するものでした。

 29歳の釈尊はこの道を選んだのです。夜中にこっそり王城をぬけ出て、愛馬カンタカと別れ、きらびやかな衣装を捨ててボロをまとい髪を切り落として、南にむかい、マガダ国にいったとされています。マガダ国はインド最強の国であり、豊かでもあり、有名な沙門が集まっていたからです。

 それにしても釈尊はなぜ出家したのでしょうか。恵まれた王宮の環境から一歩外へ踏み出すと目をそむけたくなる阿鼻叫喚の世界のはずです。乞食とも浮浪者ともつかぬみすぼらしい姿の老若男女の群が街をうごめき、まさに地獄のようなところへ、若き妻や子供を捨て、老いたる父母の恩愛をたち切ってなぜ出家されたのでしょう。

 釈尊が解脱を求め出家された動機について仏典は「四門出遊」を記しています。東門から出るとみにくい老人にあい、老苦を、南門から出た時には病人とあい病苦を、西門から出た時は死人をみておどろき、更に北門から外に出て沙門にあって、老、病、死の苦から逃れる道は沙門として生きる以外にないと決意されたというのです。

 はなやかで楽しそうな人々は生老病死の四苦や八苦の苦悩にうちひしがれて死んでいくと知った釈尊は、自分で解脱を考えるだけでなく、多くの指導者から教えを乞い納得のいく人生、真実を求める人生に生きたいという人生究極の道を求め、はたして運命から脱却して四苦八苦を超越して救われる道があるのかを知りたいと出家されたのです。

 最初にアーラーラ、カーラマ仙人を訪ね、無所有処という何物にも執着しない無一物の境地を得られました。次にウッダカ、ラーマプッタ仙人のもとで非想非非想処という無念無想の境地に到達されました。しかし釈尊は、この境地では老病死の苦悩を解脱することは困難とされ、煩悩を滅する手段として「苦行林」に入り、はげしい苦行に専心されるのです。

 

 

 

 

vol.94  2003.7.3

 

解脱への道
 The way to Gedatsu 

 

 

 人生は四苦八苦だといいます。四苦は生・老・病・死で、生まれるということは「思い通りにならない世界に生まれる」という意味で《生苦》なのです。さらに日常生活にみられる愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦と人の身心から生まれる五陰盛苦の苦しみを加えて八苦といわれています。人生観、世界観の基本に人間の苦悩の真相を認識するのが仏教の教えです。どうすればこの苦悩から解放されるかで釈尊は難行苦行されたのです。

 人間には肉体と精神がありますが、人は肉体の欲望によって精神が悩まされ、悪徳や不幸にひきずり込まれてしまうのです。戒律によって行いを慎み、心の平安、清澄を不動のものにするため、心を鍛錬して禅定により肉体を束縛してその欲望を抑え、心を乱さないようにして正しいものの見方を体得すれば解脱できるとする修行の方法です。

 このことを古来戒定慧の修行といっていますが、釈尊が二人の仙人のもとで学ばれたのが禅定でありました。しかし、人間の欲望は強いので、禅定の坐で三昧の境地を得たとしても、日常生活に戻るとその境地を持続し続けることは困難なことです。

 生老病死の苦悩は禅定によって忘れることができたとしても、この世に生きる欲望(貪欲)とそれに対する嫌悪(瞋恚)が心を苦しめます。こうした煩悩を滅除する方法として苦行が行われました。釈尊も「苦行林」という森に入ってはげしい苦行をされました。肉体の欲望を制御し、心を制御するため端坐して歯をかみ合わせ、身も口も心も動かさないようにじっとしている。出入の息を制御して呼吸を止めるとか、断食して一日に麦一粒だけを食べて極限まで食を断つという極度の難行をされたようです。

 「一粒のゴマや米などで日を過ごされたり、まったく食を断たれたりされたので、体は極めて痩せ衰え、金色の身体は黒色になり、偉大な人物のもつ三十二相が隠れてしまいました。ある時には息を止める瞑想に入って大変な苦痛で気を失って倒れられた」と『ジャータカ』に記されています。

 釈尊は六年間苦行の日々を送られましたが、ついに「この難行はさとりに至る道ではない」と結論され苦行の無益なことを知り、新しい道を求められます。苦行が激しければ激しいほど、心の平静を失い気力がなくなり思考力が弱まることを体験され「健全なる精神は健全なる身体に宿る」という身心一如、中道主義こそが修行に大切であると悟られました。

 そしてついに釈尊は苦行を放棄し、河で身を清め、大樹の下で身を休めておられました。この時村娘のスジャータが、痛々しいほどに疲れ果てた釈尊を見て乳かゆを捧げました。

 体力を回復された釈尊は、ブッタガヤにある菩提樹の下に坐り、目的を達するまでこの坐を立たないと誓願され瞑想にはいられました。その固い決意に驚いた魔王は攻撃をしかけました。妖艶な魔女三人に誘惑をさせたり、鬼神に暴力をしかけさせたり、皇帝の坐を与えようと甘言したりしましたが、不動の釈尊は心静かに禅定にはいり人間の生死について、ついに正しい智を体得されました。

 人は生まれ、老い、死に、この世を去って生まれ変わる。身や心に悪行をなし邪悪に生きたものは地獄へ生まれる。善行をなし正しい心で生きたものは天上界へ生まれ変わるが、生まれ、老い、死の苦悩から逃れるすべを知らない。老死の原因は生にあり、生の原因は(生存)にあり、すべての根本は無明(迷い)にある。この無明を止滅すれば、行が止滅し…・出生が止滅すれば老死も止滅する。これがあるときにかれがあり、これが生起するからかれが生起する縁起と因縁を覚られ「生ずることからのうちに患いを見て、不生なる無上の安穏、安らぎを求めてそれを得た」と大悟され再び迷いの生を受けることのない解脱の確信を得られ仏陀となられました。

 時に35歳でありました。

 

 

 

 

vol.95  2003.9.2

 

釈尊の悟り
 Satori of Buddha 

 

 

 釈尊の悟りはどのようなものであったかは種々の経典がありさまざまに説かれています。共通するものは、人間をありのままみつめることにより、苦の原因を知り、清浄な行為と瞑想を行って心の汚れを取りさることでありました。釈尊が追求されたのは人生の矛盾であり、人間の悩みをいかに解決するかにありました。

 人はだれも生まれ、老い、病み、死んでいく存在ですが、生きるとはどのようにすることか、死ぬとはどのようになることかという生死の問題を解決することでありました。

 ありとあらゆるもの、生きとし生けるものは刻々変化して、とどまることなく、水の流れは太古より流れていても、その水は同じではないように、人も時間の経過でしか変化に気づきません。昨日も今日も同じものが続いているように思うのは錯覚なのです。昨日の自分今日の自分、そして明日の自分を考えてみても経験と記憶によって不変な存在だと思ったり、幸福の追求も、この世もあの世も同じ状態が持続すると考えたりもしますが、それらはとどまることはできず諸行無常なのです。

 そして、人間の欲望ははてしなくあり、その欲望によって憎しみや悲しみの連続の人生を送ることになり、自分の存在そのものが苦で、人生は苦か、苦の種となるものにみちていて、愛すべきものも、執着していることも苦の原因でしかないとされます。

 苦の原因は、人々の心の迷い=煩悩=から起こり、煩悩の原因はすべてのことを自己中心、自分本位に考えることにより執着心を起こすことによります。絶対に離すまい、絶対に別れまいと執着すると苦悩となります。この執着心のことを我見とか、身見といわれていますが、これをなくすることが必要なのです。諸法無我の真理を悟らねばなりません。

 釈尊が体験されたように修行することができれば、苦しみは消え静かな喜びの世界に参入することができるとされ、煩悩の火の消えた境地のことを涅槃寂静といわれています。五官の味わいえない新しい喜びの世界のことで、煩悩を止滅させると寂光の世界に到達することができるとされています。

 さらに、この真理の世界に到達する方法として八正道が説かれています。八正道は、正見、正思、正語、正業、正命、正精進、正念、正定といわれていますが、釈尊の教えを頭の中で追求するとともに言葉や動作をそれにかなうように務めることなのです。苦を滅する手段として、真理に対する追求と実践する生活の確立が大切だとされています。

 釈尊が六年の歳月をかけて苦行し、断食し、瞑想によって求められたものは、制御しがたい自己の欲望をどのようにして止滅するかであったのですが、その方法として十二因縁の説が説かれています。

 われわれは生まれた時から迷い、その迷いの上にいろいろな行為をして死んでいきますが、最初過去世に起こした迷い=「無明」=真理に対する智慧のない状態が説かれていて、この無明に基づいての所業が次の「」であり、過去世の迷いと行によって今生に托胎した時に「」があり、胎内で形体が整わない状態を「名色」、胎内で六根具わりますと「六処」といい、出胎以後の乳児の状態を「」といい、成長して感覚が発達したものを「」といい、少年期となって物欲が起って来たら「」となり、その後欲望が起こり執着するようになることを「」といい、十番目の「」は愛と取によっていろいろの業を造る状態をいい、未来に生を受ける状態を「」といい、そのあとに「老死」がまっているとされています。

 過去、現在、未来の三世にまたがる因縁を説いています。

 人間は生まれながらに迷い、自己中心に物を見、愛憎の業を造っているので苦の原因を解明すると無明を打ち破らなければ、苦からの脱出はできないとされています。釈尊はこれらの真理を悟られ大悟して仏陀となられました。

 

 

 

 

vol.96  2003.10.7

 

仏教のはじまり
 Beginning of Buddhism 

 

 

 釈尊は苦行林で六年間修行されまして、ブッダガヤーの菩提樹のもとで悟りを開かれ仏陀(真理を悟ったもの)となられました。しかし、仏陀となられました釈尊は、自分のさとった真理「法」の内容を他の人に説こうとせず、ひたすら自分のさとり得た法の境地に浸って一人楽しんでいられたといわれています。「長い難行苦行をし、苦労してやっとさとり得たことを、貪りと憎しみにとりつかれているひとびとにさとらせるのは困難なことである」とされたのです。

 もし、この時釈尊が自分でさとられた仏法の内容を伝えられることなく、ひとり法悦に浸っておられたら、仏教は存在しなかったということになります。ところが、仏伝によりますとバラモン教の最高神である梵天が釈尊に仏陀の教えをひとびとに布教するよう勧請されたので仏教伝道を開始されたとされています。

 釈尊は菩提樹下での禅定から立ちあがり、数百キロ離れたバラモンの聖地として栄えていたベナレスに行かれました。ベナレスには、かつて苦行を共にした五人の修行者がいましたのでベナレス郊外のサールナートで旧友五人に最初の説法をされたのです。このことを初転法輪といい、サールナートこそ仏教がはじまった聖地なのです。

 五人の修行者は釈尊の教えと人格に帰依し、さとりを開き解脱することができ、阿羅漢となりました。阿羅漢というのは煩悩を完全に滅した人のことで、世の尊敬を受けるに価する人とされて「応供」ともいわれています。

 釈尊も阿羅漢の一人でありますので、経典には「ここにおいて世間に初めて六阿羅漢あり」とされ、六人は交互に托鉢に行き集団生活を始められ仏教教団ができました。この教団のことをサンガ(僧伽)と呼んでいますが、サンガには、出家者と在家者がいました。

 出家したものは家から離脱して、独身生活をつづけ世俗の職業にはつかず、経済行為は禁止され、托鉢で生活をするのです。また、在家者は家庭をまもり、正しい職業をもち、職業に精励努力して名誉や財産をもち、呪術や魔法は禁止され、犠牲を伴う祭祀を排除し、経済的に恵まれると他人の為に財貨を喜捨することが大切とされました。

 このサンガには国王、貴族、商人、手工業者、遊女にいたるまであらゆる階層の出身者が、釈尊のことばを聞くために集まってきました。

 当時の宗教家たちは解決できない形而上学的問題をとりあげて一方的な論争をしていたようです。世界は有限か無限か、身体と霊魂は同一であるか別のものであるかなどです。これに対し、釈尊はそんな議論は無益であるとし、人間が生きるための真実の道を説かれたのです。

 人生は苦にみちているが、人は思いどうりにならないことで苦しむ。思いどうりにならないのは、一切のものは因縁がよりあつまってつくられているからであり、つくられたものは常に変遷してとどまらず無常である。無常なものを「わがもの」とか「われ」とか考えることはできないので、真実は「無我」であることをさとらねばならないのです。

 苦行し、断食もし、瞑想されて求められた人生の苦からの脱出は制御しがたい自己の欲望をいかに止滅するかということでありました。苦悩の解決に人は最高神を求めたり、第一原因が存在するように考えて迷いますが、そうしたことの根本には自分の欲望に原因があるのでその自分の欲望を制御する以外になく、制御するのは自分しかないとさとることであるとされています。

 つまり諸行はうつろうので実体はなく、自分に内在する我も実体はないので、実体のないわれの欲望をすてない限り人生の苦悩からの離脱はできないのです。

 人生が苦であり、それは生まれながらにしてこの身についているものとするのはアダムとイブの話、ギリシャ神話にもあり、古代エジプト人も苦からの離脱と再生を希求していますし、この世を穢土として浄土を求めていましたので諸行無常、一切皆苦は人類の誕生と共にあった課題でありました。この人類の課題を解決されたのが釈尊であります。

 迷いの根本は欲望にあるので、戒律をまもり禅定をおさめ、束縛から脱して執着や愛欲を断たなければならない。苦行と欲楽の両極端を止めて中道を歩み一切のものに慈悲をおよぼすよう生きることこそ理想の生き方と教えられています。

 

 

 

 

vol.97  2003.11.29

 

釈尊の教え
 Teaching of Buddha 

 

 

 釈尊は悟りをひらかれてより四十五年間仏教伝道につとめられましたが、その伝道は人生の苦からの離脱を多くの人々に伝えることでありました。菩提樹の下で悟られたことのうちで最も大切なのは、世間は縁起しているということを発見されたことです。縁起というのは、自然界の真理のことであり、すべては原因とそれに付随した条件との相乗作用によって結果があるということです。どんな原因も一定の結果を生むことはありません。原因は同じでも、それに付随する条件で結果は変わるという当然のことなのです。

 人の身体と精神の関係も相互に縁起しているのです。身体が健康でなければ、精神も健康でないし、精神が健康でなければ身体も健康でないということです。身体から生ずるものはすべて関わりをもっているとされ、迷いや悩み、安らぎなども身体から生まれる心の働きで、それらは縁起しているとされます。

 苦が生起する原因は愛着と歓喜したい欲望、享楽を求める欲望、生命を存続させたい欲望などによるとされ、苦を消滅させるには欲望を離れて完全にすてきり、執着をたち切ることをしなければならないとされています。欲望を離れるためには、快楽を追い求める生活をやめることですが、同時に苦行のような極限にまで肉体を苦しめる極端をさけて「非苦非楽の中道」に生きることが最善であるとされています。

 人は五つの要素からなりたっていると教えていますが、その五つというのは肉体と、感覚する働き、色や形を心に形成する働き、意志の働き、ものを区別して認識する働きのことで五蘊といっています。しかし、この五蘊というものはどれも本体のないものですが、それが人を形成しているので、もとは何もなかった五つの要素が縁起して人が作られているということから、身体は仮のものであり、自然界から一時のあいだ借りているとされています。このように人をみるとすべてはであり、執着するものも欲望するものも本来ないので、とらわれのない自由な人として生きることになるというのです。

 したがって、人の本性からいえば生まれによる差別もなければ、男女の差別もないのですが、インドの古代からの思想には、生まれによる差別を制度化し、不合理な信仰をする結果、社会をさらに暗くし苦悩多いものにしているというのです。人の差別は生まれによるのではなく、人の日々の行いが善であるか、悪であるかによって差別されるべきで、誰でも理想の存在になり、悟りを開くことができるとされ、人の本性に差はないとされます。

 そして、あらゆる対象に執着しないとする立場にたつと、真理(法)についても同様であり、真理であるからといって、それに執着する必要もないというのです。真理(法)、あるいは真理による教えは人に迷いの此岸から悟りの彼岸に導くためのもので、河を渡る筏にすぎないのです。彼岸に渡るのに筏が重要な働きをするからといって、河を渡してくれる筏を背おって陸路を歩むことはないのと同様に、河を渡ると筏をすてるように真理(法)もまた捨てなければならないとされています。このように私たちの執着の心を徹底して否定し、とらわれのない自由な人になることが説かれています。釈尊が目指されたのは人間のはたらき、あり方にあったのです。

 大切なのは、空の心で生き、世界はこころによって造られていることを信じ、心を支配することの重要性が説かれたということです。心を制御できれば、身体には眼、耳、鼻、舌、身、意の六つの感覚器官がありますが、それを制御できるのです。六つの感覚器官もまた捉えがたいものでありますが、心を制御しなければ、あらゆる欲望を制御することはできないし、ものに執着して起こる欲望は感覚器官に関係するので、その根は心にあるということです。ものに執着する欲望をその根でたち切るのは自分の心しかありません。自分を律することができれば、心は制御され家庭はもとより、世界の平和をもたらすことができるとされています。釈尊が身をもって行じられたのは、衣食住のすべてについて貪りを離れ、心を制御し一切の苦から解脱し仏道に生きるということでありました。

 

 

竹内正道    

 

 

 
 







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