仏涅槃図 命尊筆 絹本着色 鎌倉時代 正中2年(1325年) 妙法寺蔵 兵庫県丹波市 2005.3.7 空 Kuu  仏教と日本人 Buddhism and Japanese  竹内正道著作集 Masamichi Takeuchi Writings
仏涅槃図 命尊筆 絹本着色 鎌倉時代 正中2年(1325年) 妙法寺蔵 兵庫県丹波市 2005.3.7


  竹内正道著作集
仏教と日本人

第三章
 
 
法華経の成立
  仏教教団のはじまり  仏涅槃と仏教興隆  アショーカ王(阿育・天愛喜見王)
大乗仏教の菩薩と経典  法華経の成立  カニシカ王  八宗の祖 竜樹(ナーガールジュナ)
 


Formation of Lotus Sutra
 
   
 
     


 
 

 

 

vol.98  2004.2.19

 

仏教教団のはじまり
 Beginning of Buddhist cult 

 

 

 釈尊は五人の聖者と鹿野苑に滞在されて、托鉢されていましたが、ベナレスの街でヤサという青年に出あわれました。ヤサは富豪の一人息子で、妻や侍女たちに囲まれ不自由のない愛慾の日々を送っていましたが、その生活に嫌気がさしていた時に釈尊にあい鹿野苑で説法を聞きます。

 常に慈悲心をもって困っている人や宗教家に布施をして戒律を守る生き方に感動して出家を希望しました。ヤサが仏弟子となりますと、親、友人など五十人が続いて仏弟子となりました。また、釈尊がベナレスからマガダ国に行かれる途中で三十人の青年に出あわれますが、この三十人も出家して弟子になりましたので九十人の弟子にふくらんでいます。

 

 マガダ国ではカーシャパという姓の三人兄弟のバラモン修行者がいました。それぞれ、五百人、三百人、二百人の弟子をもって林間で火神を祭り苦行を続けていたのですが釈尊の威厳にみちた指導により三人の兄弟とも、その弟子とともに帰依し仏弟子となりましたので出家者は大集団となりました。

 マガダ国の首都に向う途中、この集団は象頭山にしばらく住していましたが、釈尊はここで執着を離れて解脱することを比丘たちに説法されています。人の心の中の貪欲(むさぼり)、瞋恚(いかり)、愚痴(おろかさ)などの煩悩の火を消さなければならない。それは、生まれ、老い、病み、死にうれい悲しむ苦悩を正しく観察することにより、誤まった知覚、思念を離れることができ、それによって貪瞋痴の三毒が消えるとされています。

 

 当時インドで最も強国でありましたマガダ国での教化は進展し、弟子となる人も多くありましたが、国王のビンビサーラ王は進んで教団のために竹林精舎を寄進しましたので、ここに仏教教団が成立しました。かつてのマガダ国の首都ラージャグリハ(王舎城)は五つの山に囲まれた盆地であります。ビンビサーラ王が寄進した竹林精舎もここにあり、晩年に釈尊はこの地の霊鷲山の山頂に住んで法華経を説かれていますし、釈尊入滅ののち第一回目の結集が開かれた七葉窟もこの地であったことから仏教教団の宗教活動の中心地となります。

 

 この頃に舎利弗や目連、摩訶迦葉の三人が釈尊に帰依して仏教教団の充実に貢献します。舎利弗(サーリブッタ)は少年時代に四つのヴェーダ聖典を学び奥義をきわめ、学芸に通じていたといわれるほど聡明であり、竹馬の友目犍連とともに六師外道の一人として有名でありましたサンジャヤに師事していました。

 その教えは真理をあるがままに認識することは不可能であり、形而上学的問題は判断できないという懐疑論でありました。この教義では心の平安は得られないと考えました二人は仏弟子アッサジとの縁で釈尊の存在を知り、二百五十人の修行者をつれて竹林精舎に釈尊をたずね入門しました。竹林精舎ではこの二人は釈尊の代講をしており教団の中核となり智慧第一の舎利弗神通第一の目連といわれております。

 

 初期の大乗経典は釈尊が一切皆空を説かれていますが舎利弗に対してであり、般若の智慧は慈悲として現実に働くものであり、舎利弗は般若の実践者でありました。法華経でも方便品で釈尊は舎利弗に仏の智恵は難解難入であって、仏と仏のみに諸法の実相が理解できるといわれています。残念なことに舎利弗、目連とも釈尊に先立って遷化しましたが、釈尊もその一年後にクシナーラーで入滅されました。

 釈尊の入滅後、教団をまとめ王舎城での第一回経典結集を主宰したのは摩訶迦葉です。王舎城郊外のバラモンの名家に生れ、二十歳の時親の決めた娘と結婚しますが、両親が死去しますとともに出家して修行の道に入ります。

 

 釈尊に弟子入りを請うた迦葉は八日目に阿羅漢の境地に達し、釈尊の着古した袈裟を譲りうけ衣食住のすべてを最も粗末に生活する頭陀行に励み、頭陀第一と称せられ、晩年は阿難を後継者として鶏足山で入定しました。

 さて、釈尊が成道され多くの弟子ができたことは故国のカピラ城にも伝わり、父の浄飯王は釈尊に帰国を促がします。成道六年頃に帰国され、ここでも出家者がありました。異母弟の難陀、実子の羅睺羅、従兄の跋提、一族の阿難提婆達多阿那律難提迦、そして理髪師の優波離、さらには婦人達の出家も多くなって来ました。

 

 

 

 

vol.99  2004.4.14

 

仏涅槃と仏教興隆
 Buddha nirvana and Buddhism rise 

 

 

 宗教的聖地とされていたベナレスのサールナートで最初の説法(初転法輪)をされてより釈尊は四十五年間にわたりガンジス河流域で布教をされました。国王、大臣、貴族、商人、労働者、さらには遊女にいたるまでのあらゆる階層の人びとが釈尊の説法を聞きに集まりましたが、特に商人と手工業者が多かったようです。

 釈尊は種々の方便、手段をつくして対手の能力に応じて比喩や因縁談をとり入れて理解できるように説法されています。当時の社会一般の信仰や慣習を尊重されながら、仏教の信仰を説かれてあらゆる人々を仏弟子にされました。

 

 その中には、釈迦族が従属していましたコーサラ国の首都舎衛城に住んでいた長者スダッタ(須達多)もいました。釈尊に帰依しましたスダッタは舎衛城の南方郊外にあったコーサラ国の太子祇陀の園林をゆずりうけ、これを釈尊の教団に寄進していますが、これが有名な祇園精舎です。

 この精舎のことは「平家物語」の最初にでてきますが、「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり、娑羅双樹の花の色、盛者必衰のことわりをあらわす。おごれる人も久しからず唯春の夜の夢の如し。猛き者もついには滅びぬ、ひとえに風の前の塵に同じ」の名文で知られております。

 

 釈尊の教団では、舎衛城の祇園精舎王舎城の竹林精舎が布教活動の拠点となり毎年の雨期三ヶ月出家者を集めて修行する場として使用されています。さらに釈尊の晩年にはコーサラ国王のパセーナディ(波斯匿)も帰依して釈尊の信者として布教に協力しましたので仏教教団は壮大な僧院のなかで、修行と並行して教学研究の進展をみるようになりました。

 しかし、そのころから釈尊が活躍されていたガンジス河中流域では諸国家の勢力均衡が破れて戦争が多発するようになりました。コーサラ国では波斯匿王の王子毘瑠璃が父王をしりぞけて王位につき釈迦族のカピラ城へ攻め入ります。そのコーサラ国もマガダ国王となりました阿闍世王によって滅ぼされてしまいますが、かくしてマガダ国はガンジス河中流域諸国を制圧して本格的な統一帝国となりました。

 

 阿闍世王が活躍していた頃、釈尊は王舎城郊外の霊鷲山に滞在されていましたが、釈迦族の滅亡提婆の反逆など悲しむべき事件が起こっています。釈尊はマガダ国が諸国を攻撃して緊迫した状況でありましたが、侍者阿難と共に王舎城をあとにして、ガンジス河をわたられ西北のヴェーサーリからクシナーラーに行かれましたが、この地で重い病にかかられました。

 娑羅双樹の間に横たわり、北を枕にして西面して臥され、数人の弟子と信者たちに見守られながら安らかに息をひきとられました。現在この地に釈尊の御遺体を火葬にした跡と石刻の仏涅槃像があります。臨終を見守った阿難にたいし、最後のことばは、「法を師とし、つねに精進努力して懈怠の心を起してはならない」ということでした。

 

 菩提樹の下で一切の苦悩を解脱された釈尊も生身の肉体の死によって完全な寂静の境地にはいられ、釈尊のような偉大なる聖者でも肉体の老・病・死はさけられなかったのです。諸行無常、是生滅法、生滅滅己、寂滅為楽詩頌でそのことを示されています。釈尊の御遺体は火葬にされ、マガダ国、釈迦族などの八ヵ国の人が八つに分け、それぞれの国に塔を建立して供養をすることになりました。

 紀元前五世紀に起った仏教は釈尊の御入滅された紀元前三八三年ごろにはまだガンジス河中流域の中インドにひろまっていた地方教団でありましたが、紀元前三世紀のアショーカ王の出現で釈尊御入滅の百年後ごろから全インドから国境をこえ、民族をこえて流布されていきました。アショカ王は仏教に深く帰依していましたので、国内統一を成しとげてから、武力の勝利よりも「法」による勝利こそが大切であるとして、積極的に仏蹟巡拝を行い、隣国のシリア、エジプト、マケドニアへも仏法宣布の使をおくり仏教信仰をすすめています。セイロン(スリランカ)へ伝えられた南伝仏教、ガンダーラに栄えた説一切有部の仏教などであります。

 仏教はマウリア王朝の統治政策や、アショーカ王の積極的仏教興隆策、さらには貿易商人の活動もあって世界宗教へと成長していきました。

 

 

 

 

vol.100  2004.6.8

 

アショーカ王
(阿育・天愛喜見王)

 King Ashoka 

 

 

 釈尊の時代はマガダ国が大きな勢力をもっていましたが、ナンダ王朝の時にマケドニア王のアレキサンダー大王がギリシャを支配し、シリア、エジプトを征服し、インドまで侵攻してきました。しかし、アレキサンダー大王はインドを征服するまえの紀元前三二三年に亡くなりましたので、今度は逆にマガダ国のチャンドラグプタによりインドのギリシャ領は征服されてしまいます。

 チャンドラグプタはインド亜大陸を統一してマウリア王朝をたて王位につきました。さらにデカン高原の全域、南インド半島までを領土として歴史上初のインド全域を支配するマウリア帝国が実現されました。そのマウリア帝国の王チャンドラグプタの孫がアショーカ王です。

 

 アショーカ王は性質狂暴で長兄や兄弟をことごとく殺害して紀元前二七〇年に王位につきました。そんな人物ですから領土欲・支配欲はつよく、対外積極策をとり、さらに領土を拡大しようとしましたが、紀元前二六一年に東部のカリンガとの間で戦争を起こしました。この戦争は悲惨を極め、多くの人命を奪ってしまい、戦後アショーカ王は戦争の悲痛に深く心を痛め、二度と戦争はしないと誓ったといわれています。

 アショーカ王は仏教に帰依し、熱心に仏道修行をし釈尊の教えと慈悲を規準とした法による支配により武断政治を転換したのです。四姓制度を公的に認めず、人材登用し各地に施療院を設け、薬草を栽培したり、街路樹を植え、井戸を掘らせるなどの福祉事業もおこします。特にインドの各地に仏塔八万四千を建立して釈尊の遺骨を分骨して納め、聖地への巡礼を企てて世界中に仏教を布教することに余生をささげたということです。

 

 伝道師たちはインド全土のみならず西アジアからアフリカ、ヨーロッパの各国の布教にその生涯をささげました。アショーカ王の息子と娘はセイロン(スリランカ)に派遣されています。またこの頃より誕生の地ルンビニー、成道の地ブッダガヤー、初転法輪の地サールナート、涅槃の地クシナガラや、法華経が説かれた霊鷲山のあるラージャグリハ(王舎城)、祇園精舎のあるシュラーヴァスティー(舎衛城)などの中インド中心の霊場参拝もさかんになりましたが全インド各地に建立された仏塔はより多くの人に崇拝され、釈尊の教えを信仰する人びとも急増しました。

 この仏塔を守った在家信者の人たちは釈尊の一代記を語り、仏塔には神格化された仏伝を描いたレリーフが刻まれるようになりました。

 

 インドでは「輪廻転生」という何度でも生まれかわるということが信じられていましたが、釈尊もまたこの世に出現されるまで前の世があり「菩薩」として仏道修行をつまれていたのです。その仏道修行は「六波羅密」で布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧の完成を目標とするものでありました。このようにアショーカ王の仏教保護政策により仏教は全世界へ広まっていきますが、同時に釈尊の偉大さも超人化されるようになりました。

 紀元前三世紀ごろに釈尊の前世物語がジャータカ物語として成立し南方に伝わっていき上座部のお経として収められ世界各地に伝えられていきました。イソップ物語とかアラビアンナイトにもこの説話があり、日本でも今昔物語や宇治拾遺物語などにもでてくる説話です。仏教信仰はこのようにアショーカ王の仏塔建立により全インドに広がり、発展していきます。当時のインドは経済発展期であり多くの王侯貴族や長者と呼ばれている大商人たちが仏教教団を外護し金品を布施しましたので僧院は豊かになり充実していました。苦からの解脱と中道を説く平和主義の仏教に帰依し社会の安定を祈る人が多くいたのです。

 

 しかし、出家者は僧院の中にいて「アビダルマ」とよばれている仏教理論の研究につとめ仏道修行よりも仏教の専門家として多くの部派に分裂して、教義中心の仏教を主張するようになり自己中心的で阿羅漢になることを目標として自己の悟りを求めるようになりました。

 釈尊が悟りを開かれてから入滅されるまでの一生は大衆の苦悩を救済することであり、ジャータカの主張も他のために自己の生命すら布施する菩薩の利他行でありました。すべての人とともに悟りを開き、苦しみから解脱するという「自利」のためには「他利」の修行なしでは完成しないとする「自利他利」こそ自分も仏になり他者も仏になってもらうとする菩薩行を理想とする仏教者が出現します。

 「上求菩提下化衆生」=自分の悟りを求め修行すると同時に、その悟りで衆生を教化しよう=とか、「一切衆生悉有仏性」=すべての人は仏になる可能性をもっている=という考え方を仏教の中心とする大乗仏教が出現したのです。この立場の仏教信者は部派仏教の人を声聞とか縁覚として他利の修行なしでは自利も得ることはできないと批判しました。

 

 

 

 

vol.101  2004.7.27

 

大乗仏教の菩薩と経典
 Bodhisattva and scripture of Mahayana Buddhism 

 

 

 紀元前二世紀の終りにヒンドゥー教が西インドを中心に広まりつつありましたころ、部派仏教の分立が進行しました。またこのころ仏教信奉者の寄進で、塔や寺院の建立が盛んになり、新しい仏教の推進がたかまって大乗固有の経巻を成立させました。

 大乗というのは、智慧と慈悲の法で無上の自他の利益を成就するから大であり、実りある菩薩の道へすべての大衆を導くので乗であるというのです。「上求菩提下化衆生」の旗をかかげたとして徳川家康は有名ですが、「上求菩提」というのは、自分の悟りを求めることで「自利」であり、「下化衆生」とは、衆生を教化することで「利他」のことです。

 

 部派仏教の僧は僧院でアビダルマ(経・律・論の三蔵)を研究することが中心となり、衆生の救済を忘れ、自己の煩悩を断ち「阿羅漢」になることを目的として修行していたのに対して、釈尊の教えは一切衆生の救済にあり「自利」は「利他」の修行なしでは得ることはできないとする大乗仏教がおこってきました。

 自利(悟り)を求め、他利のため活躍すること菩薩行といい、これを実践することで阿羅漢の世界を超えて仏になれるし、「一切衆生悉有仏性」とし、一切のものは生まれながらに「仏性」をもっているので、すべてを仏の位に導くことができるとしています。

 すべての人々が仏性にめざめ菩提心を起して、布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧の六つの規範を実践すると、その功徳により菩薩となり、仏陀となると説かれています。こうした釈尊の壮大で深遠な教えを文章にしたのが大乗経典なのです。

 大乗経典が成立したのは釈尊滅後三百年ころのことで「般若」「華厳」「法華」「浄土」等の経典ができますが、その数は一二六〇部三五二七経もあることが確認されています。

 

 「般若経」は六百巻ありますが、その中心は「」にあります。すべては「原因」と「」からなりたっていますが、因と縁が変わればすべては変化するので、絶対的、固定的な存在はなく、あらゆるものは本体「空」である。したがって自分のもの、自分の考えに執着することは無駄であると説かれています。

 「華厳経」は釈尊の悟りの中身を示したもので、その悟りを開くための菩薩行が書かれており四十段階の修行を経て、次に十地の階梯に進み聖者と呼ばれるようになり、利他行を積んで菩薩になれると説かれています。

 「法華経」は妙法蓮華経の略称で、アジア諸地域でもっとも信奉され、だれでも仏になれるという一仏乗と、釈尊は永遠の存在であり久遠実成の釈尊であることを説いています。法華経では小乗と大乗を法華一乗に帰一させることを主張しています。日蓮聖人はこの経典に帰依して法華宗を興しました。

 「浄土教」は無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経で浄土三部経とよんでいますが、宇宙の西にある「極楽浄土」に阿弥陀仏がおられ、一心不乱に阿弥陀仏の名号を唱えていれば、臨終の時に心が顛倒することなく往生すると説かれています。

 

 このように大乗経典が多数生まれましたので、そのどれを所依の教典とするかで多くの宗派が生まれることとなりました。また仏さまも多数あり、三世十方の諸仏と呼ばれています。三世とは過去・現在・未来のことで過去に七仏あり、未来仏は弥勒菩薩が五六億七千万年後に弥勒仏として出現されることになっています。現在仏には地蔵菩薩や観世音菩薩などがあてられています。

 また「法華経」では釈尊がクシナガラで亡くなられましたが、それは非滅現滅で凡夫の目をさまさせるためで本当は久遠実成で永遠の仏として存在されていると説いています。

 十方というのは東・西・南・北・東南・東北・西南・西北・上・下のことで無限の時間、無限の空間の中に無数の仏さまがおいでになるとしています。そして、さらに宇宙の真理・宇宙自体が仏だという「法身仏」として毘盧舎那仏、密教の大日如来などの仏さまとか、無限の期間の修行によって仏となった「報身仏」として阿弥陀如来や薬師如来があり、釈尊のように人間世界に生まれ、悟りを開き、涅槃の世界に入られた「応身仏」が考えられました。菩薩も仏智を持ちつつ衆生救済の願のため菩薩行をされているとしています。

 

 

 

 

vol.103  2004.11.10

 

法華経の成立
 Formation of Lotus Sutra 

 

 

 歴史上の人物としての釈尊が伝道された「ことば」は多くの人びとの記憶によって語りつたえられましたが、完全なかたちで釈尊の「ことば」が残されたというものはどこにも存在しておりません。釈尊の「ことば」が記述されたのは随分の時を経過したのちのことで、釈尊滅後百二十年もすぎてからのことでありました。

 それはアショーカ王の時代になってから、紀元前二七〇年以降に「原始経典」とよんでいるものが成立しています。大勢の出家修行者が集会をもち、釈尊の「ことば」をあつめ聖典として編纂され経典がつくられましたが、この結集は何度もおこなわれ数多くの経典が成立しました。そして、この経典を中心に教団が運営され、この経典を至上のものとして尊重する保守的立場の上座部の僧たちと、時代の推移とともに経典の解釈や戒律のあり方をめぐり、新しい思想を展開する僧や信仰者が出現して仏教教団は分裂しました。

 

 上座部のことを部派仏教とよんでいますが「阿含経」を仏説として信奉し、煩悩を滅しつくして自己の解脱をすることこそ仏教修業の究極の目的であるとしましたのに対し、大乗仏教を主張する立場では「六波羅密」つまり、布施、持戒、忍辱、精進、禅定、般若の徳行を完成し、他者の救済に徹することが釈尊の大慈悲であり仏道修行の目的であるとしています。

  最初に成立した大乗経典は「般若経」で、部派仏教の教理を声聞乗とよび、自利・利他のちがいを明らかにしていますが、「阿含経」の仏説としての価値を否定するものではなく、戒律のちがいが争点でありました。

 しかし、そのうちに「般若経」や「阿弥陀経」の信奉教団が大勢力をもつようになり、紀元百年頃になると、出家者中心、出家者本位の部派仏教を小乗として、一切衆生に成仏を教え、大衆の救いを強調する菩薩信仰を尊重する大乗仏教が部派仏教と対立するようになりました。それは釈尊滅後五百年を経た頃のことです。

 

 僧団中心の保守的な権威を保持する部派仏教にも満足することができず、また「般若経」や「阿弥陀経」の主張にもついていけない思想をもった両者の対立を越えて、両者を統一しようとする動きがインド文化圏の中で出現します。

 一切衆生悉有仏性という「仏性の平等授記」を信奉し、釈尊を渇望して、その功徳は釈尊滅後の世界にも普及し、一切衆生を救済すると信じる仏教修行者たちがあらわれたのです。深い瞑想の中で教主釈尊の非滅現滅=永遠の存在=を体得し、「諸法の実相」は誰でも何でも「平等に仏性」をもつと感得した人びとによって「法華経」は成立したのです。

 「諸法実相」=何でも誰でも平等に「仏性」をもっていると説く法華経は、「法華経薬王品」に「後五百歳」という文字がありますが、釈尊滅後の五百年(一一四頃)から竜樹の時代(二五〇頃)までに成立しています。

 法華経はインドで成立しましたので、サンスクリット語で記述されています。これを梵本法華経といっていますが、梵本もたくさんありそれぞれ差異があります。さらにネパール本、ギルギット本、中央アジア本などあり、また漢訳も多く、漢訳は意訳されており、その原本は残されていないようで多数の「法華経」が存在しています。また法華経は二八章からなっていますが、その成立年代についても種々の学説があります。

 

 「法華経」の一章から十章までには「仏性の平等」「諸法の実相」を巧みな譬喩で、声聞、縁覚、菩薩の三乗が釈尊の教化の手段として機根に応じた方便で、いずれも成仏への一仏乗の道に帰するとされています。これは仏教には考え方、思想、信条等いろいろあり理想実現にさまざまな方法が説かれているが、それなりに存在意義があり、すべて仏の慈悲により救われると説いているのです。

 「法華経」の中心は十五~十七章、二一~二二章の五章で「本仏の実在」の真理が説かれています。釈尊は永遠の昔にさとりを完成されて、大慈悲心により絶えることなく衆生を教化される久遠の本仏であり、一切衆生を救済される常住不変の本仏であると説かれています。

 「法華経」の十二章の提婆品と二五章の普門品偈は五世紀の羅什訳にないので後から加わったとみられています。後五百歳の意味に深いものがあります。四〇六年に亀茲で生まれた鳩摩羅什の訳した「妙法蓮華経」は漢字文化圏で今日まで読誦され、この漢訳法華経を信奉する人びとの聖典としてこれからも信仰され続けることでしょう。

 

 

 

 

vol.111  2005.3.29

 

カニシカ王
 King Kanishika 

 

 

 アショーカ王の仏教宣揚以来約三百年、仏教は中央アジア諸国に根拠地をもって栄えます。東漸して中国へも伝えられましたが、インドで成立したシュンガ王朝バラモン教を崇拝し、仏教を排斥しましたので、仏教徒の多くは西北インドや南方に逃げてしまいます。

 このことが北方仏教南方仏教の発展の原因となり、北インドを統治していたのはバクトリアのミリンダ王ですが、仏教に帰依していましたので、ガンダーラ仏教美術がこの時期より興隆していきます。

 

 南方仏教については、アショーカ王が南インドに派遣した僧侶が大衆部の信奉者でありましたから、大衆部の学説が南方で盛んになりました。しかもドラヴィダ人のアンドラ国で受け入れられましたので仏教はさかんになります。

 一方西北インドではクシャーン王朝が創立され、二世紀頃のカニシカ王の時仏教が保護され、多数の仏塔や僧院が建てられ芸術的にも高度な仏教文化がおこりました。当時のインド美術は建築も彫刻もすべて仏教美術であり、熱心な仏教徒たちが群集して寄進をしましたので「仏教インド」といわれているようにインド各地に質の高い仏教文化が興隆することになりました。

 

 クシャーナ王朝のカニシカ王は東西貿易で富を手にすると同時に東西文化の交流融合の面でも大きな役割をはたしています。インドとパキスタンの北部、アフガニスタンからカシミール北方地域まで支配していますし、その統治は二十三年続き、後継にカニシカ二世がいますので彼等の築いたクシャン王国はローマと中国を結ぶ東西貿易路上の諸都市を支配し、その地に仏教文化を育成しました。

 カニシカ王の名声は仏教保護によるもので漢訳仏典や説話集で伝えられています。カニシカ王がインド中央部を侵略し、マカダ王を降伏させたとき、馬鳴(めみょう)という高僧と仏鉢をもらいうけ、カシミールへ連れ帰って仏教の布教をさせ、仏教徒会議を招集させています。

 莫大な費用で仏塔を建立したり、広大な寺院を建設したりしていますが、馬鳴が説一切有部教団の僧であったことから、カニシカ王が保護したのは、その教団中心でありました。「大毘婆沙論」の編集を勅命していますが、この経典により説一切有部の基礎が確立しています。

 

 カニシカ王は宗教に寛容でありましたから彼の貨幣にはブッダの他にゾロアスター教やギリシャ、バラモンの神々もあることから、支配した民族の多種な宗教的信仰も尊崇したといわれています。

 アミダ仏とその西方極楽浄土の思想はゾロアスター教の影響をうけて成立していますし、極楽が西方にあるという発想や、豊かな宗教的普遍性も西方の宗教思想によるとされています。

 また弥勒仏の救世主的性格は西アジアの宗教思想と関係がありますし、特にこの時代より造られる仏像は東西文化の融合による造形美術で、そのことはガンダーラ美術に代表されていることはいうまでもありません。

 当初仏像不表現であった伝統の仏教徒たちも美しい彫刻や、大乗仏教の主張を内包する仏教美術に感動し、そうした仏、菩薩、守護神の仏像を崇拝するようになりました。

 

 カニシカ王の統治により、ローマ帝国との接触、中国へ通じるシルクロードも延び、東地中海の通商路も延び、商業の興隆のみならず思想、文化交流、多民族の宗教文化、信仰までが融合したのです。

 こうした時期に成立しました大乗仏教は東西文化融合の宗教であり、多神教的性格と同時に世界の宗教を統一する使命を内包するもので東西文明の粋を結集して経典が創造されたことを再認識すべきです。

 

 

 

 

vol.116  2005.8.2

 

八宗の祖 竜樹
(ナーガールジュナ)

 Ryuujyu Founder of All Buddhism sects (Nāgārjuna) 

 

 

 大乗仏教が華々しく展開されて、多数の経典が生まれましたが、大乗思想を哲学的に理論づけたのが竜樹であります。以後の大乗思想は、その理論の基礎のうえに展開され、無着、世親、陳那などの有名な思想家にうけつがれ大乗仏教が世界に発展していきました。

 竜樹のことは、鳩摩羅什訳「竜樹菩薩伝」に書かれておりますが、南インドに生まれ部派仏教の伝統の中で学んでいましたが、のちに大乗に転じ、大乗経典のあらゆる思想を研究しました。しかし、「竜樹菩薩伝」には若き日の奔放な生活が記されているだけで正確な年代は不明ですが、二~三世紀ごろの人物であり大乗仏教の理論を大成、空思想を哲学的に基礎づけ、後世の仏教に大なる影響をあたえましたので、中国や日本では「八宗の祖師」とされています。

 著作と伝えられているものは漢訳のものばかりでなく、チベット大蔵経の中にも百部ちかいものがあり、特に有名なのは「中論頌」「大智度論」「十住毘婆沙論」などです。

 竜樹は「中論頌」で「一切法は、起の道理に基づいて成立している。縁起とは、ある法が他の法との関係において成立するということであるから、いかなる法も、他と無関係にそれ自体、独立した性質のものとして存在することは不可能である。ゆえに、自性がない。自性がないから、一切法は空である」としていますが、これは「般若経」の思想を更にすすめて、空の根拠として縁起の論理的意義をあきらかにしたものです。

 とは一切法が因縁によって生じたものであるから、そこには本体とか実体というべきものがない。それを「一切皆空」「一切法空」「諸法皆空」といわれているのです。

 「空たること」という空の本質のことを「空性」といい、空と空性は同じように使われていますが「空性」がより原意であり、空観といわれるのは一切を空であると見る実践的観法をさしています。

 

 ところで縁起因縁生起でありますから、業の因果律と輪廻に束縛されています。これが迷いの原因ですから、仏教ではこの束縛を解脱して無限の悟りの世界に入ることを目的としていますので、縁起の諸法も、それ自体が迷いとして否定されなければなりません。

 このことについて竜樹は「輪廻と涅槃はいささかも相違なし」とはっきり断定しています。つまり、涅槃という特別な実体があるわけではなく、一切法が空であり、不生不滅であることが涅槃であるとしており、縁起によって迷悟不二を理論づけているのです。

 

 さらに諸仏は二諦によって法を説くとして、最高の真理である真諦(勝義諦)と世間的真理である俗諦があり、仏教の究極の真理は「空」であって、ことばの表現を超えたものであるが、「空」を表現する手段として俗諦である言語が必要だとされています。

 竜樹の確立した教学は大乗仏教全体の基礎となる教学で「八宗の祖師」とされました。

 

 さて、竜樹以後四世紀ごろに「解深密経」が作成されております。この経に三時教といわれております学説が述べられております。

 第一時は小乗の徒のために四諦などを説き、小乗仏教がさかんとなるが、複雑な法の体系ができ、自性説をたて諸法の本体を実在視して未完成な教えを説いたので論争が起きた。

 第二時は「般若経」、竜樹は空の思想で小乗を批判し、法の自性を否定したが体系を構成しなかったので虚無論の論争が起った。

 第三時は「解深密経」で空の思想を根底に、小乗仏教の教義を採り入れて大乗の教義を組織したので完成された教えであるとしています。竜樹の思想で実体のないものを仮といっていましたが、仮は空と同義語でありました。しかし、竜樹は言語的表現を便宜的なものとしていましたので教義の体系を構成しなかったのです。

 ところが「解深密経」では、真理の言語的表現の意義を認め、小乗仏教の教義も大乗の中にとり入れ、大乗の教義として再生されたのです。

 これより大乗仏教は中国、日本へと伝わっていきました。

 

 

竹内正道    

 

 

 
 







Λ

         
  自然 人体 幸せ 経営 知識
竹内正道著作集
八島ノート  世界の名言
幸せのプロフェッショナル
Twitter  Twilog
Instagram  YouTube
LinkedIn  Andre_Louis
ご挨拶  竹内康正
 
    ©2017 Yasumasa Takeuchi