牡牛形柱頭 アケメネス朝ペルシア王都 スーサ出土 ルーヴル美術館 Musée du Louvre Paris 2016.11.3 竹内 康正 Yasumasa Takeuchi
ダリウス1世宮殿牡牛形柱頭 アケメネス朝ペルシア 王都 スーサ出土 Musée du Louvre Paris 2016.11.3

ダレイオス1世宮殿の謁見の間(アパダーナ)の円柱の柱頭 | ルーヴル美術館 | パリ #AntiquitésOrientales

  竹内正道著作集
仏教と日本人

第一章
 
 
霊魂不滅
  はじめに  宇宙  インドの神々  輪廻転生  自業自得  霊魂不滅  イランの神々  再生  


Immortality of the soul
 
   
 
     


 
 

 

 

vol.61  2002.1.20

 

はじめに
 Introduction 

 

 

 21世紀はイスラム原理主義者による「新たな戦争」で始まりました。平成13年9月11日におきました世界貿易センタービルとペンタゴンに飛行機が突っ込み、もう1機はホワイトハウスを狙ったといわれていますが途中で墜落したという大惨事です。

 これまでの戦争は国と国の戦争でしたが、これはアメリカを中心とする国際社会と、イスラム原理主義者に従った国家を超えた集団との戦争だといわれています。

 

 自由と平等な社会実現を世界共通のルールにしようというアメリカ中心のグローバリゼーションは、世界金融市場で富を獲得し豊かになった少数の成功者もいますが、食料も水もない貧困な十数億の人々はますます困窮し社会不安の原因となっています。

 アフガニスタンは20年間の内戦と厳しい旱ばつの続くなかでの今度の攻撃で難民が増えています。「憎しみは憎しみによって滅することはない。憎しみは慈愛によってのみ滅す」という仏教の智恵なくして世界の平和は実現しないでしょう。

 人間の基本的な欲望に、食欲・性欲・生存欲がありますが、飽食の日本では食料は充分すぎで肥満に悩むものが多いし、性欲も自由に解放された社会であり、生存欲も長寿高齢化社会で諸外国の水準に比較すると恵まれ過ぎの豊かな国が日本なのです。

 その日本がこの頃おかしくなってきたと思えてなりません。物質的には満ち足りて、戦中・戦後を経験したようなモノへの欲望は少ないにもかかわらず、窃盗、殺人、自殺が増加しており、理解できない事件が多発しています。

 家庭崩壊、学校崩壊、失業者の増加、地域の孤立、金融界の絶望、借金地獄、官僚の質の低下等々「末法乱世」の世相で、かつてなかった非道な社会になってしまいました。日本は、衣食住に満ち足りた自由な社会になったのですが、何か制約に縛られているので、それを破壊したいという欲望にかられるものがふえているようです。このままでは破壊願望にとりつかれた狂気の支配する乱世に突入するのではないかと思われます。

 

 心の時代と簡単にいいますが、「心のままに」生きるためには、自分の心の中にいる魔性をコントロールできなければなりません。仏というのは、自分の心の中にいる魔性を封じ込め、自己の欲望を制圧した状態で、他人の心の魔性を除去できる能力をもつということではないかと思います。

 金やモノ中心の社会にあって「目に見えないもの」=霊的世界=に価値を求め「聖なるものを求め」る生き方が大切であり、それなくしては自他の魔性を滅することはできないと仏は教えています。

 

 仏教は、他宗教と併存し共生し同化してきた宗教です。唯一絶対の神を持つキリスト教やイスラム教のように統一性もなければ、熾烈な宗教戦争の歴史をもっていません。仏教は許容性・多様性を具えた平和主義の宗教です。

 仏教の根本精神は不殺生と慈悲です。不殺生は、いかなるものも殺すなかれということであり、慈悲は、すべてのものに友情をもつことであり、思いやりの心をもつことであります。苦しんでいるものがあれば、すべては幸福に平和に生きる権利があるとして、その苦の原因を除去して平和のために祈り、努力するのが仏教者のつとめです。

 仏教はどういう教えで、何を説き、何を訴えてきたのか、多くの仏教者の主張を分かりやすく伝え、それが日本人の生き方にどのようにかかわってきたかをみながら21世紀に生きる尊い教えであることを究明していきます。

 

 

 

 

vol.62  2002.1.27

 

宇宙
 Cosmos 

 

 

 人間の一生は一回きりで、生命も一つしかありません。二度と手にはいらない生命を生きているのですが、生命はどこからきたのか不思議です。

 生命が母親の卵細胞で育まれ、人間として生まれたのですが、その母親もまた母から生まれていますので、どんどんさかのぼると地球の歴史にまで到達して46億年以前にその源があったということになります。

 父と母の縁で子供は生まれますが、その先祖も、父の両親、母の両親とさかのぼりますと4人、8人、16人と増加して、大化改新頃までということになると85億人の先祖の縁があって自分が生まれたのです。

 そのように考えますと生命は宇宙から与えられたということになります。

 宇宙のなかの、太陽系の小さな星に住んでいるのですが、今輝いている太陽は8分前の光であり、アンドロメダ銀河の光は、210万年かかって地球に届いたということですから無限の昔に無限に遠い世界からとどけられた光だということです。

 宇宙の生命は150億年といわれていますが、人類の歴史は数百万年でしかありません。仏教経典では「如来」とか「本仏」が永遠の過去に成仏された存在であるとされています。

 仏教の源流をしらべますと、古代インドの宗教的伝統に到達いたします。釈迦生誕のもっともっと昔に源があるのです。5000年前にさかえたインダス文明に、シバ神の原型や、ヨーガ、火葬の風習があり、悪霊崇拝とか、性器崇拝、蛇神信仰などがあったといわれています。

 インダス文明を滅亡させたのは、インドラの神を奉じていたアーリア人の侵入にあります。彼等は原住民の悪霊信仰から離脱して、太陽、月、空、曙、火、風、雷、水などの自然を神として崇拝し、その神々から恵みをうけてインドを支配したのです。

 そしていつか「ヴェーダ」とよばれる聖典で崇拝する神々に供物を捧げるようになり、バラモン教という民族宗教に成長したのです。

 

 「ヴェーダ」というのは知識のことですが、この知識は生活習慣的な知識であり「神聖な啓示」とか「霊験の知識」というようなもので、幾百年もの経過の中で成立し、口伝され伝承されたものです。

 それは悠久のむかしに全宇宙の太元であるブラフマンから、天啓で讃歌、歌詞、祭詞、呪文が吐きだされたものを口伝で伝えられた不滅の真理とされたものです。

 当然のことながら仏教も、古代インドの伝承をうけついでいます。仏教経典にある宇宙観もその一つです。「三千大千世界」とか「須弥山」あるいは「四劫説」にもインドの伝統的宇宙観、自然観が表明されています。

 

 世界は最初に器世間と衆生世間が生成されます。器世間は大地や山川草木のことで、衆生世間は人間界のことで、これを成劫といい、その状態が安穏に続くことを住劫といいます。しかし、それはいつか破壊され壊劫となり、滅亡して空劫となる。そしてまた新たな生成が始まり成劫と流転するというのです。

 須弥山は世界の中心の高い山で、まん中まで海中に没しており、中腹の四方に四天王の宮殿があり、この山のまわりを、日、月が廻っているとされます。しかし、これは小世界であり、この千倍の小千世界、その千倍の中千世界、さらにその千倍の大千世界があり、宇宙には百億の世界があり、それを三千大千世界といい、その世界を法身仏の「久遠の本仏」が守護しており、すべての小世界にも本仏の化身が常住しているというのです。

 現代科学で太陽系が属している銀河系宇宙は、端から端まで15万光年の広さをもつといわれており、この銀河系宇宙と同様のものが無数にあることが発見されています。仏教の三千大千世界はそのことを表現しています。

 

 

 

 

vol.63  2002.2.11

 

インドの神々
 Indian gods 

 

 

 3500年前に「ヴェーダ」を聖典とする宗教が成立しますが、これがバラモン教です。このバラモン教に民間の信仰や習俗が混入して、ヒンドゥー教が成立したのです。

 日本では、仏教やキリスト教ほどにヒンドゥー教のことは知られていませんが、ヒンドゥー教の神々は仏教とともに日本にはいってきまして、民間で広い信仰を集めていますし、その考え方は現在の日本人に深くかかわっているのです。

 バラモン教の神々のうち最も偉大な神はインドラで「リグ・ヴェーダ」聖典の4分の1の讃歌がこの神に捧げられています。

 インドラは天界を支配する神で、地上の生産のため雨を降らせたり、金剛杵=稲妻を武器としており武勇と奸智にあふれた神です。阿修羅と闘争したりしましたが、のちに仏教の守護神となります。インドラは釈尊の修行中にしばしば身を変じて、その求道心を試したのですが、釈尊成道ののち帰依して帝釈天となり仏教の守護につとめます。

 法華経序品には、帝釈天が2万の眷属をつれて釈尊の説法の座に連なったとされています。

 柴又の帝釈天は庶民に親しまれ、庚申の日の縁日には参詣者がたえず、信仰をあつめています。帝釈天は「神々の帝王」といわれ、飢饉と疫病の神として不思議の利益をもたらすといわれています。庚申は60日で一巡するカノエサルの日のことで、この日に人間の体中の三尸虫が睡眠中に天にのぼり罪悪を天帝につげるというのですが、この天帝が帝釈天だということです。

 

 インドでは、魂の輪廻が信じられていますが、多数の神々を祭り、よい世界への転生を祈ります。神々は数は多いですが、唯一なる神の副次的な神が多くあり、それはなにものも除外するより同化させることを考えた結果です。

 「あなたは、私のほかに何物も神としてはならない」という掟をもったユダヤ教や、西欧型の一神教とは根本的にちがうのです。ヴィシュヌの化身クリシュナが「人がいかなる神をあがめようとも祈りに答えるのは私である」とヒンドゥー教聖典で宣言しています。

 

 正しい人間は死後天界におもむきますが、悪い人間は暗い世界におとされると信じたインドの人々は、悪事を行ったものは不幸な状態に転生するという基本的な因果の法則により生死輪廻を信じました。

 このような死後の輪廻から逃れたいという願いは、2500年前頃より急速に広がり、新しい宗教を期待するようになり、仏教、ジャイナ教などが誕生したのです。

 神々に供犠する宗教から、道徳や宗教的戒律を守ることにより、良いところに再生できるとするもの、さらには精神の完全な解放を願うことから出家修行したり、神秘的直観が重視されたりします。そして新たに神々も出現するのです。

 インドラ、アグニ、ヴァルナ等の神々から世界を創造するブラフマー、その創造された世界を維持するヴィシュヌ、そして破壊するシヴァの三神が中心となり、これらの神々により宇宙も人間も支配されるというのです。

 火の神アグニは「火天」、水の神ヴァルナは「水天」として仏教の守護神になります。また、死者の神ヤマは南方の地獄にすみ、罪を犯した者を罰する神として「閻魔」となりました。

 こうした神々は仏教の十二天、十王等となり仏教を守護します。

 ブラフマー梵天のことで帝釈天とともに天界を支配し、その孫クベーラは「毘沙門」と漢訳されています。ヴィシュヌは神々に不死をもたらし、吉祥天を妻にし巨鳥の迦楼羅に乗る偉大な神です。シヴァ神は大自在天、大黒天、千手観音として仏教守護神となり、その子が韋駄天と聖天だといわれています。

 このようにインドの偉大な神々は、仏教の守護神となり日本にきて民間信仰の神として多くの大衆より礼拝され信仰されてきました。

 

 

 

 

vol.64  2002.2.23

 

輪廻転生
 Reincarnation 

 

 

 人間の霊魂が死後、他の動植物や、生まれてくる人間のなかに転生するとか再生を繰りかえすという輪廻転生説は、世界各地の原始文化のなかにあります。霊魂は肉体から遊離することができ、人間の霊魂も動植物に宿る霊魂も同性質のもので、非常に小さなものだと考えられています。

 古代ギリシアのピタゴラスや、エンペドクレスも霊魂の再生を説いていますし、それを受けてプラトン霊魂は不滅であり、霊魂の数は一定輪廻は規則的に行われているとされています。

 プラトン哲学は、霊魂のなかの神的要素を浄化、解放して神々の世界にある本来の自己のすみかに帰ることが人生の目的だとしています。

 インドの古代からの宗教・哲学は輪廻転生を基本にしており、アーリア人到来以前の先住民族が生殖力崇拝、祖先崇拝の風習を通して輪廻転生を信じていたとされています。

 3000年ほど前に成立した「リグ・ヴェーダ」によりますと、人間は生きている時は体内に生気と霊魂があるというのです。生気は意識とは関係なく生命の源であり、霊魂は思考力や意志、感情を起こさせるものだといっています。

 気絶したり、睡眠中は霊魂が遊離した状態であり、は生気も霊魂もともに身体から永久に離れてしまった状態だというのです。

 死後霊魂はあの世へ行くとされていますが、遠いところなので、迷わずいけるように火葬の時、羊も道案内に一緒に火葬する習慣がありました。羊は道祖神プーシャンの車を引くといわれており、プーシャンは神の国につくまでの守り神として信じられました。

 そして、善人の霊魂は遠い先祖の住む「父祖の世界」=死の神ヤマが支配している世界=に旅立ち、そこで永遠の生命を得て、あらゆる楽しみを享受できるとされていますし、悪人は暗黒の深坑におちてしまうとされています。

 輪廻転生を体系的に叙述したのは「ウパニシャッド」です。生前中に戒律の遵守、布施、信心の生活を送っていたものは、死後「父祖の世界」に行き、そこから月の世界に渡って生存中の果報を享受し、その後、となって地上に戻り、食物となって人間に食べられ、それから精液となって母体の胎内に入り、新しい肉体の中に再生するといわれています。

 生前に悪の生涯をおくったものは、動物、または昆虫となって再生するとされています。

 

 こうした輪廻転生の考え方は、業思想をもたらし、人は現世でまいた種=業=を来世で刈取らねばならないとされ、善業はよき来世を、悪業はあしき来世をもたらすことになります。生きるということは、前世の善悪の行為の結果を生きることになり、その結果を清算する場であり、未来の生を予決する場だというのです。

 戒律を守り、神を祀り、坐して息を調え、感情を制御して念を集め、三昧に達すると自由な境地がひらけ、超能力者となり、神に祈れば神の声がとどくとされます。

 そして、個人の霊魂=自我(アートマン)=と宇宙の絶対者=梵(ブラフマン)=とが一致するという梵我一如になる解脱を成就することができれば、輪廻のない不滅の光明の天の世界に安住することができるというのです。

 つまり人間のアートマンと梵=ブラフマンとが合致できれば、業の束縛から解放され生と死のくり返しの苦悩から永遠に離脱できるというのがヒンドゥー教の基本的な教義なのです。そして、この転生の考え方はのちのジャイナ教でも、仏教でも導入されているのです。

 仏教はほとんどのインド人が輪廻転生を信じていたので、この考え方を採用していますが、仏教は個人の人格的主体を認めない無我の教えなので、霊魂や、アートマンなどの存在を積極的に認めてはいません。

 しかし、人間の行為の結果である業そのものは輪廻すると考えました。衆生が迷いの世界にいる限り、三界六道の迷いの世界に生まれかわり死にかわり果てしなくめぐりさまようとされています。

 

 

 

 

vol.65  2002.3.7

 

自業自得
 What goes around comes around 

 

 

 自分がなにかを言ったりしたりする言動には、かならずその結果が自分にもたらされること、逆に、なにかが起きると、それはかつて自分のした行為が原因になっているというのが自業自得、つまり自分のしたことの結果をうけとるのは自分であり、けっして他業自得とか、自業他得とかではないという古代インドの業(ごう)という考え方があります。

 輪廻転生というのは、自分の行いの報いはかならず自分が受けるという自業自得を基礎にした因果応報の法則と、生きとし生けるものが現在このように生存しているのは前生の行いの報いであるという考え方で、来世どんなところに転生するかは、今生の行いの良し悪しによって決まるとするものです。

 運命論とか、超越的な神の意向ではなく、自分にかかわる一切のことは、自分の責任として結果を受けもつ自律的な自己責任の主張で、人間が精神的に成長するのに絶妙の信仰でありました。

 

 業はカルマの訳語ですが、造作、作用、行為などを意味しており、身体、言葉、意識のすべての働きと、それによって生ずる潜在的な力のことだといいます。この身、口、意の三業の中で一番大切なのは意業とされました。

 その業には善業と悪業と、善悪いずれでもない業(無記)がありますが、輪廻転生を決定する業は、善業と悪業だとされています。

 生きとし生けるものは、死んで何かに生まれ変わり、また死を迎えるという再生と再死を延々とくりかえすのですが、その転生と人間のこの世での行為を結びつけて、バラモンの祭祀の実行が死後の運命を決定すると信じたのが、インドの教えなのです。「人は善き業により、よき人となり、悪しき業によりて悪しき人となる」とされて、世俗的な欲望を離れて出家遊行する生活が求められました。

 

 人間は欲望をもつかぎり、その行為はとして現われ、その結果として苦楽を感じますがすべての業を滅尽すると、自我は輪廻を離れて絶対の自由、すなわち解脱を得ることができるとされています。しかし、少しでも業がある限り輪廻を脱することはできないのです。

 輪廻再生をくり返すことですが、この世は望みどおりに生きられないし、死が必ずやってくることから輪廻転生は苦しみ以外のものではないので、そこからの永遠の脱却をもとめ解脱を願いました。

 バラモンはそうした人々の願いを神に祈り人々の境遇や、死後の運命をよりよいものにすることにつとめました。この神々は神殿や神像も必要なく、神々を勧請し、正しい方法で祈ることにより、神の威力は増し、その力を顕示するので祭式を完全にとりおこなえる能力をもつバラモンが尊敬されました。

 神々と交わり、神と一体感をもって祭礼をはじめもろもろの行為をすることが将来の報いをもたらすと教えたのです。

 無我、あるいは非我の教えである仏教もこの業の思想を伝承しています。仏教もまた、前生から今生、さらには未来世にわたり自己同一性のある心身の要素=名色(みょうしき)=を説いています。

 われわれの心身の諸要素は今生から未来世へ、不連続ながら連続していくとされます。連続する名色とはなにかといいますと、「」というのは心と心の作用からなる心的要素であり、「」というのは身体的要素だといいます。名色が再生するのではなく、名色によって善または悪の業がつくられ、その業によって名色が再生されるというのです。

 「死に終わる名色と、再生された名色とは異なるけれども死に終わる名色から再生する名色が生まれる」とされており、その関係は同一でもなく、他のものでもないというのです。

 大乗仏教では、三業を善、悪、無記にわけていますが、業の結果として現世における生が起こるかぎり輪廻を脱することはできないとしています。したがって前生に善業があったとしても結局は輪廻することになりますので、これを宿業と呼んでいます。

 

 

 

 

vol.66  2002.3.21

 

霊魂不滅
 Immortality of the soul 

 

 

 生存していた人がなくなりますと霊界にたびだちましたとか、御冥福をお祈りしますとかいいますが、これらは霊魂不滅であり死後の世界を前提としています。

 霊魂はあらゆるものに宿るとされています超自然的なもののことですが、霊といわれているものには、人間の身体に宿る霊魂と死霊とか精霊とかいわれている人間以外のものに宿る浮遊霊とがあります。

 そして、霊魂や精霊で神としてまつられているものや、霊魂が遊離したとか憑依することにより、夢、幻覚が起ったり、病気の原因となるとされたり、予言ができたり、幸、不幸がおこるとされたりで霊能者が活躍しています。

 

 生者の霊魂が遊離することを生霊(イキリョウ)といい、死者の霊が死霊といわれています。死霊は子孫より祀られて供養されると清らかな霊となり、祖霊に昇格しますが、さらに祭祀を重ねていると子孫を守護する霊になるといわれています。

 また非業の死をとげた霊はこの世に未練を残して死にますので、この霊は怨霊となり、この世に災厄をもたらすといわれており、この鎮魂のため祭祀をするのが御霊会です。

 お盆には先祖の霊がかえってくるので迎え火で迎え、お盆がすぎると送り火で送る年中行事もあります。こうした観念は何時頃から信じられたのでしょうか。

 

 猿人(アウストラロピテクス)が出現したのは400万年前で、明石原人は100万年前といわれていますので随分古い話です。日本人の先祖とされています沖縄より発掘された港川人は約2万年前と推定されていますが、抜歯の風習があり霊魂観念をもっていたとされます。

 最近の研究では、日本人の先祖はインド南部、東南アジアの人々が沖縄を経由して日本に定住したとされていますが、この人々が霊魂不滅を信じていたようです。

 人類の起源はアフリカにあり、アフリカの中央部のビクトリア湖から流れ出しているナイル川はエジプト領内を通って地中海に流れこんでいますが、このビクトリア湖から川を下ってエジプトへ入り、ナイル川流域に住みついた人々が、太陽崇拝をしており、神の国は東方にあると考えて移動し、ついに日本へたどりつき定住したともいわれています。

 古代のエジプト人は来世に強い関心をもっていたようで、権力者たちはピラミッドや葬祭殿の建設につとめ、死後はミイラにされて神の国へ行くことを願っていました。沈む夕日に人間の死を想い、昇る朝日に人間の誕生を夢みて、死後の再生と霊魂不滅を信じていたのです。

 

 日本人も古来昇る太陽と沈む夕日を拝んで、死後神の国に往生することを願っていました。

 またエジプトの王家のシンボルは蓮の華で、家具にまで蓮をつけていますが、蓮の華は汚泥の中で育ち汚れた水面で美しい華を開花させます。どこにいても汚染されず清純な状態を蓮に託して神の華とし、王の華としたのですが、この蓮はインドでも大切にされ、仏教では更に重要視されます。

 蓮華の花の上に仏像を安置し、仏前には蓮華をお供えした蓮華は、エジプトのナイル川畔に自生した植物だったのです。

 エジプトでは死が訪れると肉体から「バァ」という霊がぬけ出し、「カァ」という霊は肉体にとどまり墓に供えられたものを食べて死体を守るとされています。そして「バァ」は太陽神「ラー」のもとで安楽な生活をするというのです。

 しかし後に、現世で善行のあったもののみが死後神の国へいくことができ、「バァ」はオシリスの法廷で裁判を受け、悪行が多いと怪物アメミットに食べられ再生はできないとされました。

 輪廻転生のルーツはエジプトにありました。数多くの神々が「ラー」の化身という本地垂迹説も5000年前のエジプトに端を発しています。

 仏教はエジプトを始原とするインドの古来の観念を伝承しますが、日本でも仏教が流入するもっと前にエジプトを始原とする習俗信仰が渡来人によって伝承されていたのです。

 

 

 

 

vol.67  2002.4.18

 

イランの神々
 Iranian gods 

 

 

 アーリア人人はもとはもと中央アジアの高原に居住して、西インドからイランにかけてのステップ地帯で牛や羊の牧畜でくらしていましたが、前15世紀頃に二つに分別して、西北インドのパンジャブ地方に侵入してインド人となったものと、東北イランで半遊牧民となったイラン人とに分かれました。とに分かれました。

 イラン人ゾロアスターは前630~前553頃の人ですが、人類の歴史の不思議で、古代文明世界の東西各地に時を同じくして大宗教家思想家が輩出します。は前630~前553頃の人ですが、人類の歴史の不思議で、古代文明世界の東西各地に時を同じくして大宗教家思想家が輩出します。

 イスラエルの預言者とか、古代ギリシアの初期哲学者中国の孔子などと共に釈尊、ゾロアスターもその一人で偉大な宗教家でありました。

 

 インドの釈尊の教えはヒンドゥー教世界の基盤の上に仏教として成立しましたが、やがてヒンドゥー教世界へ埋没したように、ゾロアスターの教義も、イランの旧来の信仰から成立したものですが、旧来の信仰との対立はいつか融合したものになっていきます。

 イランの旧来の信仰では、先ず原初の神があり、神は宇宙を創造します。そして次にをつくり、大地をつくり、大地の上に植物、動物、人間を順につくり、7番目にをつくります。火は植物と動物、人間を殺し、天上の神に捧げました。神はそれにこたえて大地を潤し、動植物をこの世に増繁させてくれます。

 さまざまな自然現象象にはそれぞれの神々があり、にはそれぞれの神々があり、正義の神・戦いの神なども祭られました。

 人が死ぬと魂は3日間遺体の頭上付近にとどまり、4日目にあの世に旅立つとされ、魂に悪魔がとりつかないよう、あの世に行く力をつけるため、家族は喪に服し、祭司にマントララ(真言)を多く唱えてもらい、火を燃やして悪魔払いと再生をもとめていました。

 この世から離れた魂は、あの世に着くまで暗い河を渡らなければなりませんが、生前に正しい行いをしていて、多くの供養をされたものは河を渡れますが、それ以外は地獄に落ちるとされています。

 河を渡った魂は、「ヤママ」が支配する黄泉の国にいきますが、新入りの魂は淋しい思いをするので毎日供養し、1年を過ぎると命日だけでよいが30年間続けなければならず、それにより魂は「フラワシシ」となり」となり先祖霊となって家族を守護し、子孫を繁栄させる守護霊となるとされました。

 

 この宗教では魂のぬけた遺体は荒野の岩の上などに置いて鳥や獣に食べさせる葬法がとられています。

 ゾロアスターは東北イランの半遊牧民の祭司の家に生まれたとされ、成人してから真理を求めて各地を放浪していました。ある時河の流れに身を入れて水を汲もうとしたのですが、その河岸に輝く7人の神々を見たのです。

 その中央にいたのが、最高神アフラ・マズダーーでこの神から啓示を受けたのです。アフラ・マズダーは始原から宇宙にあり、永遠に存在する全知全能の正義の神であり、他は慈悲深い諸々の神の創造者である。

 この世にはアンラ・マンユり世に悪をおよぼすものは全てこの悪霊のしわざであり、正義に従うものは最高の生活ができ、悪に従うものは最低のところへ行くことになるというのです。がおり世に悪をおよぼすものは全てこの悪霊のしわざであり、正義に従うものは最高の生活ができ、悪に従うものは最低のところへ行くことになるというのです。

 病気、不正、奸悪、災い、争いは全て悪霊アンラ・マンユのしわざで、多くの悪霊を支配下におき、人間をねらっているとされます。

 この世は、アフラ・マズダーの創造した多数の善神と、アンラ・マンユの創造した多数の悪魔とが戦う戦場であるとされています。

 ゾロアスター教の教えも仏教の成立に大きく影響しており、天国・地獄の観念二元論)はこのゾロアスター教からもたらされました。

 またゾロアスター教の子供の入信儀式は日本の宮参り七五三とよく似ていますし、祓いの儀式古代日本の神道の儀式に似ています。

 不浄観は日本にも古来あるもので、これらもエジプト同様、古代イランを始原とする習俗信仰ゾロアスター教を奉ずる渡来人によって古い時期の日本に伝承されていたのです。

 

 

 

 

vol.68  2002.5.14

 

再生
 Regeneration 

 

 

  人間が死後霊となって人間に再生するという考えは、世界各地に古くから存在していました。

 古代のエジプト人の来世観は、「オシリス」に正義と判定された霊は、自分の意志で神の国に止まることもでき、現世に人間として再生することも自由であるとしています。人の死後のことについての願望を書いた「死者の書」には、「日の下に出現することの諸章」というのがありますが、日の下に出現するというのは再生を意味しており、人間の胎内に再び宿り新生児として誕生することですが、当時のエジプト人は人間だけでなく、動物に生まれ変わることも望んでいました。

 古い時代の人々は人間と動物の間に優劣があるとは思わなかったので獣頭人身の像などでそのことを表現しています。

 エジプト人は現世の生活に満足していたので、現世に再生することを望んでいたといわれていますし、死者から離れたバア(魂)は神の国に行くことになりますが、神の国に入りますと、そこで再生し大神の祭壇に供えられているパンや葡萄酒、ケーキなどを食べ現世とあまり変らない生活をするといいます。

 ヘロドトスは「歴史」に次の記述をしています。「また人間の魂は不死であり、身体が滅びると次々に生まれてくる他の動物の中に入って行き、陸に棲むもの、海に棲むもの、空飛ぶもののすべてを一巡すると、またふたたび生まれ出てくる人間の身体の中に入って行き、3,000年で魂は一巡するという説をはじめて唱えたのもエジプト人である。」

 

 さて、インドでは、人間は生きている時は体内に生気(スス)と霊魂(マナス)があり生気は生命の源であり、霊魂は思考力や意志や感情を起させるものであるとしています。霊魂は心臓の中にあって小さく早く動く羽根のあるものとされています。

 死は生気が離れ遺体には霊魂が残るとされていますが、火葬すると、霊魂も生気も離れますので、遺体は抜け殻となってしまうというのです。「ウパニシャッド」では、現世で戒律を遵守し、布施、信心の生活を送った人は、死後「父祖の世界」に行き、そこから月世界に渡って、そこで現世の果報を享受し、楽しい生活を送りますが、やがて雨となって地上に戻り、そこで食物となって人間に食われ、最終的には女性の胎内に入って新しい肉体に再生されるとされています。

 古代の人々は、あの世に行った霊は祭礼の日に子孫のもとに帰ってくると信じていました。霊の帰る場所は墓などの他、岩くらとか突き出た岩、山中の男根石や女陰石に帰ってくると考え、男根石を御神体としたりしています。

 

 日本でも縄文人は炉のそばとか、広場の石棒、ストーン・サークルの石柱に先祖霊が帰ってくるとしていました。先祖霊は懐かしい家族や子孫の消息を伺い、これを護ると同時に、自分の精霊をこの世に再生させる目的もあると信じられたようです。

 「男性のシンボル」を祀ったのではなく、先祖の精霊を求め、その再生を願う儀式が性器崇拝だったのです。

 仏教は無我無常を基本としたもので、形あるものは必ず滅し、永遠の自己は存在しないとしています。愛する人が死んだとしても生まれたものは死なぬということはないので亡くなったからといって嘆き悲しむことはない。むしろ無常を観ずることによって心の平安をたもてと説いています。

 しかし、人の死は中有の状態となり、幽体が離脱して、身体からぬけ空中を自由に飛行するといいます。幽体のからだは微細な要素からなっており肉眼ではみえないが、原子的身体であるので自由にどこへでも移動できます。中有はこの世が終って次の世に生まれるまでの中間的存在なのです。

 無常は花が咲いて散りますが、また次の年に開花するように人は死んでも、「よみがえる」ことができるので嘆き悲しむことより心を養えと説いています。

 

 

竹内正道    

 

 

 
 





 

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