丹波 妙法寺 前庭の躑躅  兵庫県丹波市青垣町小倉  2006.5.1
妙法寺 前庭の躑躅  兵庫県丹波市 2006.5.1

  竹内正道著作集  明日に希望を託して 第四章  
忘れられた「心の糧」
  忘れられた「心の糧」   悩みの解決はできるか  人間性の回復  あとがき  

Forgotten "food of the heart"

 
   
 


 
 
 

vol.128  2007.5.31

初出: 「明治百年と仏教思想」 京都府私学研究論集 1970年

 

忘れられた「心の糧」
 Forgotten "food of the heart" 

 

 

 宇宙空間へ進出開始、情報革命の進行、人口爆発、化石燃料の限界、地球環境問題等そのどれをとっても、かつてわれわれが経験したことのない時代に生きている。豊かな生活をするようになったが、満足感の少ない社会で「心の問題」がとりあげられている。かつての日本人は貧しくても心豊かに生きており、伝統的なものを「心の糧」として日常の生活を営んでいた。敗戦とともにそうしたものを喪失した現代人は国際化の進行で苦悩多く、オウム教に走った若者を笑えない状況である。

 西欧ではギリシャ思想キリスト教が入りくみながらルネッサンスとなり、大陸合理論、イギリス経験論へと展開し、カント哲学がその両者を統合し、そこから発展して実存主義とか、マルクス主義が生まれた。西欧ではつねに思想は発展してきたので、古代ギリシャ思想も現代とつながっていて、思想を論ずる時、ソクラテス・プラトン・アリストテレスが話題となる。

 ところが日本では最澄とか、道元とかの偉大な思想家がいても、それは過去の思想家でわれわれとは無関係である。カントの思想ならわれわれも知っているが、カントと同時代人の本居宣長の思想などまったくわれわれは無視してしまっている。

 

 このように日本では、かつての時代の代表的な思想すらがわれわれと断絶してしまって、現代人にとっては西欧古代の思想を知ることよりも、日本の伝統的思想を研究することの方が困難になっている。仏教日本文化にとって大きな役割をはたしていることは誰でも知っていることであるが、さてその思想となると現代人はまったく無視して忘却したのか、とにかくその思想は断絶してしまっている。

 この状況にわれわれは生活しているので、梅原猛が「地獄の思想」で主張するように、「源氏物語」を読んでも仏教を理解しない読者には紫式部の真価を理解することができなくなってしまったのである。伝統思想、自国の文化すら理解できなくなった日本の文化のあり方ほど不思議な文化はなかろうと思うが、それは江戸時代の朱子学者の廃仏思想、国学の復古主義に原因があると考えられるが、さらにそれは明治百年間の欧化万能主義で完成させられ、われわれは伝統思想をもたない民族にしたてられたのである。

 

 

vol.129  2007.6.28

 

 日本に仏教が渡来したのは継体天皇の十六年(五二二)二月のことで、中国の梁から来た司馬達等が、大和の高市郡田原に草庵を建て、仏像を礼拝したのが最初で、それまで古墳づくりに熱中していた日本に、まったく新しい文化が帰化人によってもたらされたことによる。正式に朝廷へ伝わるのは、「日本書紀」によると欽明天皇七年(五三八)で、百済の聖明王から仏教、経巻が献上されたことからであるが、「法華経」などの経巻はややおくれて敏達天皇六年(五七七)に渡来したことが「扶桑略記」に記録されている。

 いずれにしても、約千四百年以前に仏教が伝来されたわけであるが、当時の記録によると、欽明天皇は仏教を崇拝したものかどうかを群臣に問うている。蘇我稲目は西蕃諸国が仏教を奉じているので日本でも礼拝すべきだと主張するし、物部尾興は日本古来の天地百八十神が蕃神を崇拝すると怒をもつと主張して新文化受容に関し、両論があったことを記している。

 かくして欽明天皇は崇仏を主張する蘇我稲目に仏像をあたえ、試みに礼拝してたたりがないかをみるように命じる。稲目は小墾田の家に仏像を安置し、そのあと向原の家を寺として礼拝する。ところがその後、国内に疫病が流行し死者がでると物部尾興、中臣鎌子等が仏教礼拝の罰であると天皇に献言、朝廷は仏像を難波の堀江に流し、寺は焼きはらう。百済の聖明王献上の仏像はわずか数年で廃仏された。これが最初の廃仏であろうが、それは欽明天皇十五年に、また百済僧曇恵等九人が来朝しているのを公認しているので、積極的なものではなかった。

 

 次の敏達天皇も仏教信仰者とは認められないが、百済から大別王等が造仏寺工を連れて来朝したのを黙認している。ところが次の用明天皇は仏教の信奉者であった。日本における仏教受容の功労者は、用明・聖徳の二人であろうが、この蘇我氏出身の用明天皇でさえ、朝廷での三宝帰依を主張すると物部守屋・中臣勝海らが猛反対し許さなかったので、蘇我馬子とともに、ひそかに豊国法師を内裏に引き入れて崇仏を実行している。

 このような事情で、朝廷に於ける仏教信仰公認の問題は物部氏が滅亡する迄混乱を続ける。その間、仏教護持をしていた蘇我氏によって仏寺や仏像が帰化人の指導のもとに創建され、次の推古天皇時代で仏教受容体制が確立したのである。

 

 

vol.130  2007.10.15

 

 聖徳太子は朝鮮の高僧慧慈、慧聡について仏教を学んだということであるので、かなり仏教に精通し、信仰していた。それは十七条憲法の第二条、篤敬三宝にもみられ、三宝を敬うことで一切の狂ったものを直す究極規範としたこと、仏教興隆を国の基本方針とし、隋まで使者を送り、三宝輸入に努めたこと等で知ることができる。

 しかし、穴穂部皇子をたてようとする物部氏と対抗して崇峻天皇を擁立し内乱が起った時、うち続く苦戦を四天王に祈願して乱を平らげようと考えている点から、宗教的、あるいは思想的反省よりも現世的願望をとげる呪物的信仰もみえている。しかし、摂政三十年間に日本を仏教国として前代とは比較できぬほどの文化国家に成長させた。

 

 更に仏教は聖武天皇の時代に隆昌し、国分寺・国分尼寺が建立され、壱岐・対馬・大隈等の端々まで仏教を広めたので、仏教は日本民族の宗教となり、政治的イデオロギーともなった。かくして仏教は日本の中心思想として日本民族の精神的支柱で、平安時代は無論、鎌倉・室町等の文化は仏教ぬきで理解することはできず、それ以後も多少の変動があったとしても、明治維新までの千数百年間続いてきたのである。

 仏教は伝来した時、物部と蘇我の対立があったが、われわれが知るように、日本の民族的信仰であった神道や儒教等とも融和し、本地垂迹説とか、神仏習合説を形成し日本風土にとけ込んでいった。

 あるいは不可抗な権力や時代の風潮に対しては受動的に自分自身を形成して、その主体性だけは貫いてきた。時代の厳しい変動のなかに鎌倉の仏教者たちは民衆に生きる目的を与えたし、戦国期には一円法華、あるいは一向一揆としてすら対応してきたのである。

 

 ところが、かつて神仏混淆の形で神社祭祀の中に深く入りこんでいた仏教が、明治維新に於いて神仏分離となり、神社から切断されるのみか、あらゆる公的領域からことごとく追放され、すてられたのである。この処置が以後の日本民族をいかに不幸に落すものであるかはかり知れない。それのみか「王政復古」をかかげた維新政府の急進派は、廃仏毀釈という追討ちをかけ、仏教寺院のみならず、仏教思想をも追放してしまったのである。

 明治維新における廃仏毀釈の運動は、六世紀以来日本人の心の糧となってきた仏教思想をも追放するという蛮行を行なったが、これは仏教伝来以来、日本社会ではかつてなかったことである。なるほど行基や、専修念仏や、日蓮や、一向宗や、不受不施派など一宗一派で公権力から迫害を受けた例はいくらでもあるが、それはむしろ仏教の中の新旧の対立が原因で起ったもので、全仏教を根底から廃棄するものではなかった。

 

 それでは何故に欧米先進資本主義文明を積極的に取り入れて近代的国家を建設しようとした明治維新に於いて、自由化の風潮の中で伝統思想の追放が横行したのであろうか。

 明治維新の変革自体が明確な近代化を目標とした民主主義改革でなかったが、強烈な変革意欲にささえられた尊王攘夷論をイデオロギーとする西南雄藩出身の下級武士に指導され、古代国家の君主であった天皇の権力を復活するという「王政復古」の形をとって実現された革命であったことにその理由が存在する。なるほど維新期に於いて、一方では封建的秩序を消滅さす変革が実施されはしたが、他方では古代国家の典例を復活するという時代錯誤がなされた。

 「王政復古」に理論的根拠を提供した復古神道を奉ずる平田篤胤派のイデオロギーが維新の変革に参加していたことが廃仏論の原因である。

 

 

vol.132  2008.3.20

 

 江戸時代を通じて、従来みられなかった廃仏思想が流行しているが、それは朱子学者を中心としたもので、儒教の倫理主義的立場からの批判である。近世朱子学の祖とされている藤原惺窩が「惺窩先生行状」で「釈氏は仁種、義理を絶滅する」から異端であるとし、その門人の林羅山は「論三人」で、仏教は「君臣、父子を棄てて道を求める」ものと否定するし、室鳩巣は仏教は五倫五常を離れ、人事物理を具せず、ただ空しく霊覚の心を求めるものと批判している。これは君臣の義、父子の親、夫婦の別、長幼の序、朋友の信等を人間究極の生活規範とする考え方で、階層的封建身分秩序を合理化する理念から、仏教の来世主義、彼岸主義を批判しているにすぎないものである。

 ところが儒学者のなかに、政治的、経済的立場から仏教批判を行うものが幕末期に出て、中井竹山とか、藤田東湖、会沢正志斉などによると、僧侶は四民以外の遊民であるとか、伽藍仏教は国費、民費の浪費であるとかの理由で僧尼取締論とか、廃寺合寺論とか具体的な主張がなされ、廃仏による経費の節約、民費の消費防止で富国強兵策をたてるべきだというような実際論まである。これらは仏教思想の本質にはまったく無理解で、現実主義、合理主義、富国強兵的近代主義からの批判、あるいは主張である。

 こうした思想風土の中で成長したのが国学の廃仏主義で、国学の祖本居宣長は、儒教、仏教は外来思想であって日本古来の思想ではないと神道を重視する。神道とは古代の神崇拝の宗教的儀式を体系化したものであるが、本居宣長は真に日本的文化は仏教渡来以前にあり、それ以後の日本文化は外来思想で不純なものだという一種の復古主義の主張をする。なるほど近世ヨーロッパにも復古主義の流行をみたが、それは中世を否定したヨーロッパには古代ギリシャ、ローマの文明が輝いていたから文芸復興が成立したものの、本居宣長が否定した仏教文化伝来以後の歴史を取りさると、日本の歴史は縄文・弥生あるいは古墳文化となり、まさにそれは未開社会への復古である。まさか本居宣長は「原始に帰れ」といったわけではあるまいが、愛国の名のもとに国学者は文化的蛮行をやり、儒教・仏教をぬいた日本文化を展開しようとし大和心を高く評価する。

 

 仏教ぬきに日本文化をみると、日本には何と風流な建造物の多いことか、能なども仏教ぬきで理解しようとするとテンポの遅い風流な遊び以外の評価は得られないわけである。こうした仏教思想無理解の風潮は国学派による明治維新の教育・文化政策への献策とともに政治の慣習となり、加うるに文明開化以来の欧化主義が不幸なことに、仏教思想にだけは今日まで影響してきたのである。

 かくして日本の知識層は仏教はまるで無理解となり、とかという言葉の論議のみとなり、文学では仏教は無常感のみを強調することになり、教育の場ではこの思想を扱いかね、尊重すべきわれわれの唯一の伝統思想は次代に伝達されもせず、忘却されてしまったのである。

 

 

竹内正道

 

 

 

 

 
 



 

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