妙法寺 春景色 天文22年 戦国時代 足立基則 創建 智願院日岏 開山  兵庫県丹波市 2017.4.15 妙法寺のおまつり Festival of Myouhouji 立正山 妙法寺 竹内正道著作集
妙法寺 春景色 天文22年 戦国時代 足立基則 創建 智願院日岏 開山  兵庫県丹波市 2017.4.15

  竹内正道著作集  立正山 妙法寺
第二章
 
妙法寺のおまつり
  星祭り  彼岸  お盆  除夜の鐘  妙法寺の由来  足立権太兵衛基則公  大仏師法眼命尊の涅槃像  

Festival of Myouhouji

 
   
 



 
 
 

 

vol.114  2005.5.14

 

星祭り
 Star festival 

 

 

    初詣

 日蓮上人は「正月の一日は日のはじめ、月の始め、年のはじめ、春の始。これをもてなす人は、月の西より東をさして満つるが如く、日の東より西へわたりてあきらかなるが如く、徳もまさり人にも愛せられ候なり」と仰せられています。
 法華宗信徒は、めでたく正月を迎えたならば、お仏壇に灯明をささげ、祝膳(ぞうに等)を供え、家族揃ってご本尊、ご先祖に対し、昨年の平穏無事を賜わった慈悲に感謝し、新しい年の年中安泰を祈り、読経、唱題することが、新年最初の行事であります。

 年頭にご本尊に感謝申しあげ家族が健康で新年を迎えたことを報告する祈りの功徳は誠に大なるものがあり、法華経を祭らないところへ参詣するのは、わざわいを外よりまねきよせる結果となりかねません。正月三が日の内にお寺へ参詣することが初詣であり、ご先祖の回向をすることが大切です。法華経によって新しい年の幸福を万里の外よりあつめて新しい年を生きましょう。日蓮上人は次のように示されています。
  
   今正月のはじめに法華経を供養しまいらせんとおぼしめす御心は、木より花の
  さき、池より蓮のつぼみ、雪山にせんだんのひらけ、月の始めて出づるなるべし、
  今、日本国の法華経をかたきとして、わざわいを千里の外よりまねきよせぬ。此を
  もって思うに、今法華経を信ずる人は、さいわいを万里の外よりあつむべし、影は
  体より生ずるもの、法華経をかたきとする国は、体にかげのそうごとくわざわい来
  るべし、法華経を信ずる人は、せんだんに香ばしさのそなえたるが如し。

 

    星祭

丹波 妙見堂 毎月妙見講例祭を行う北辰殿 切竹十文字 矢筈十文字 久留子紋  2005.3.7 妙法寺のおまつり Festival of Myouhouji 立正山 妙法寺 Rissyouzan Myouhouji 竹内正道著作集
丹波 妙見堂 毎月妙見講例祭を行う北辰殿
切竹十文字 矢筈十文字 久留子紋  2005.3.7

 

 平安朝の昔から行われて来た節分会(歳祭・星祭)の主な目的は、あらゆる災厄を除き払い、年中安泰にして福徳を願うためであります。その為寒中にもかかわらず厳しい修行と敬虔な祈りが要求されます。

 私たちの周囲には、災難・剣難・水難・風難・病難・車難・争難・死難等数多くの災厄をもたらせる障魔が充満し、それを受ける多くの人がいる現状です。

 そこで諸経中の最勝経典である妙法蓮華経の「病即消滅、不老不死」「現世安穏、後生善処」「諸余怨敵、皆悉摧滅」(薬王品)の経力を以て「当年の大厄をば日蓮に任せ給え」の金言を奉じ除災招福を祈願する法要を節分会というのであります。

 

 特に男子の七歳・十三歳・二十五歳・四十二歳・六十一歳・七十歳・七十七歳・八十歳・八十八歳、女子の十三歳・十九歳・三十三歳・三十七歳・四十九歳・六十一歳・七十歳・七十七歳・八十歳・八十八歳は厄歳でありその前後をも注意を要するのであります。日蓮上人もこの厄年のことを、

 「厄年の人の危き事は、少水に住む魚を、トビ・カラスなんどが伺い、灯のほとりに住める夏の蟲の火中に入らんとするが如し、あやうし。鬼神やゝもすれば此の人のたましいを伺いなやまさんとす」 と述べられ、その理由として 「神外と申して諸神他国へ遊行すれば慎んで除災得楽を祈り給うべし」 と厄年の人を守護する本尊や善神がいないから危いと仰せられています。

 

 節分会には、氏名年齢干支を書き年中安泰の歳祭りを申込み、法華経の経力により除災招福を得、災厄から免れるようにするのが、法華経信徒です。

 いうまでもなく、自分自身も声を大にしてお題目を唱え、三障四魔を払うことが大切であります。交通安全のお守りも車につけ、法華経の経力で除災しましょう。

 

 

 

 

vol.115  2005.6.1

 

彼岸
 Higan 

 

 

    釈尊涅槃会

 お釈迦さまの入滅された日です。
 最後の説法の旅に出たお釈迦さまはクシナガラ郊外でついに動けなくなり、弟子に沙羅双樹のあいだに床を敷かせ、そこに頭を北にして西向きに横たわられました。そして弟子たちが嘆き悲しむのを慰めながら、その夜静かに入滅されます。その光景を描いた涅槃像を掲げ、お釈迦さまの生涯をたたえ感謝するのが涅槃会です。
 妙法寺では、毎年三月十五日に涅槃会をしてお釈迦さまに報恩のおつとめをしています。

 

 

    総供養(春秋彼岸)

 彼岸とは、梵語の波羅蜜の訳で、くわしくは到彼です。生死にさまよう苦悩の多い此の岸(娑婆世界)から、煩悩の中流を渡って、永遠の平安のある彼の岸(常寂光世界)に到るという意味です。

 わが国で彼岸が行われるようになったのは平安時代の初期のことで、日蓮上人ご在世の鎌倉時代には、「現世安穏・後生善処」の祈願法として武士の社会に広まり、この頃より、彼岸の中日を期して、死者の冥福を祈り、自分の得道と成仏を祈願する風習が広まっていったようです。さらに江戸時代になると彼岸の行事は民衆の生活の中に入り、寺では施餓鬼法要が行われ、先祖供養の行事として、さまざまな習俗を生むようになったのであります。今日では先祖供養の日として、春秋彼岸の中日は、国民の祝日となっているのです。

 彼岸の季節は、昼夜の時間が平均し、気候も暑からず寒からず中道の気候であり、それはちょうど仏さまの中道思想に通じています。そこでその中日を中心に七日間仏道修行の基本である六波羅蜜を実行し、後生菩提を求めるいわば仏教強調週間であります。

 六波羅蜜の修行の根本はすべての物に感謝する報恩感謝の修行といえます。
 そこで、お彼岸には自分が今日あることを感謝する意味において、ご先祖の回向やお墓供養するのも大切な彼岸中の仏道修行であります。日蓮上人は持妙法華問答抄に
    一切衆生皆成仏道の教なれば上根上機は観念観法も然るべし、下根下機は
   唯信心肝要也、されば経には浄心に信教して疑惑を生ぜざらん者は、地獄餓鬼
   畜生に堕ずして十方の仏前に生ぜんと説き給えり、いかにも信心して次の生の
   仏前を期すべき也
と示されています。
 私たちは唯お題目を一心に信じれば、それは六波羅蜜の修行をすべて越える修行となり、後生善処の大願をも成就することになるのです。

 妙法寺では、春の彼岸の中日に総供養をつとめ私たちの先祖さますべての供養をすると同時に戦争・災害・事故などで生命をうばわれた人々の霊に対し、安らかな冥福をお祈りしています。少子化や未婚、あるいは子に先だたれて家をついでくれるもののない人も多くなりました。総供養に参詣して心からお題目をお唱え下さい。

 

 

    釈尊降誕会

 お釈迦さまの誕生された日を記念し、花で飾られた御堂に誕生仏がまつられ、甘茶をそそぎます。「花まつり」ともいっています。お釈迦さまは、七歩あるいて「天にも地にもわれ一人、わたしはこの世を救うのだ」と天地を指さされました。私たちも自分に誇りをもち、命を尊びあい、この世の苦しみを救う祈願をささげましょう。五月八日

 

 

 

 

vol.117  2005.8.27

 

お盆
 Obon 

 

 

    施餓鬼法会

 お釈迦さまの十大弟子の一人に、神通力第一とうたわれた目連尊者がいました。尊者があるとき神通をもって自分の母の姿をみますと、餓鬼道に堕ちて痩せ衰えている姿がありました。これに心を痛めた尊者は、鉢に食物を盛って与えました。母は左手でこの鉢を持ち、右手で飯をつかむのですが、それが口に入る前に炎となって食べることができません。
 母の苦しみをみて堪えかねた尊者は、母がどうしたら救われるかとお釈迦さまに教えを求めました。お釈迦さまは、母の罪が重く、目連一人の力ではどうすることもできないことを述べ、それを救う道を教えました。それは、七世の父母のため百味飯食、五菜を供えて、十分の衆僧を供養し、その力にすがることでした。
 
 これから盆の期間(八月の十二日から十六日まで)中は、精霊棚を設けて、水・茶湯をはじめ、供飯、果物、野菜等を精霊棚にお供えをするようになりました。そして施餓鬼法要で先祖の戒名を記した塔婆をたて供養するのです。

 棚経は、家族全員で、法華経の法味をささげることが大切であります。盆は七日頃から墓掃除をし、家の仏壇を掃除し、仏具を磨き浄め、精霊に供える野菜果物を求め、精霊棚を設け百味五果を用意いたします。迎え火をつけ精霊を迎えて、お寺さんに棚経をあげてもらい得脱を請うわけであります。
 十三日を迎え盆、十六日を送り盆といいますが十五日に蓮の葉に飯を包んだ「蓮の飯」と「送り団子」を供え、お帰りになる精霊のみやげにするというのです。

 祭るというのは迎え、もてなすということで精霊に喜んでもらい、自分の生き方をうかがい、霊と自分とが共同飲食し自分の生き方を反省し、自分は一代ですが名は末代、人間の行為は良きにつけ悪しきにつけ先祖を傷つけることにもなるので、俗にいう“親の七光”ともなれば“末代までタタル”ということにもなるので、精霊とそうしたことを語り合うのが施餓鬼の供養なのです。

 施餓鬼は精霊をお迎えし、今は亡き人の冥福を祈り、鎮魂を願い、三悪道を離脱して成仏していただく「魂」と「魂」との語り合いの時です。

 

 

    お盆の行事

 お盆の行事は、人間の美しい心、思いやり、いつくしみの心がこめられております。お盆には今はなき先祖さま、父母、妻子が生家にもどってくると古来考えられ、心をこめて御精霊さまをお迎えします。
 道に迷わないように迎え火をたき、墓には、盆灯籠をつけ、精霊さまが馬に乗ってお帰りになるというのでナスに割箸の足をつけ、とうもろこしの毛を尾にして馬を作り、野菜や果物を供え、喜びの対面が細くても長くなるようソーメンを供えしたり、ナスやウリ、洗米で作った百味飯食を無縁の精霊さまにお供えし、棚経をあげてもらい、亡き人に語りかけ、過ぎし一年を振り返る行事なのです。

 お盆は、七世紀頃から始まったようですが、何故こんなことをするのでしょうか。それは死者に対する恐れと、追慕の情からこんな風習が生まれたのです。葬式や法事は死霊の冥福、追善、回向であり、それを三十三回忌まで済ますと、この世の穢れが浄化され、「ホトケ」となって子孫を守ってくれるとされ、感謝、報恩のお祭りをするようになったのです。
 法華経は、正しい教えを実践することを通じて、正しい智慧を得て、それにより悟りの状態となり即身成仏すると説かれており、個人の悟りのみではなく、すべてのものの悟りを目標としています。

 この世を去った精霊も輪廻転生の世界で苦しまないために、生き残った者が功徳を積み、それを死者に回向することによって、迷いの世界にいた精霊は成仏することができるとされています。
 人間にとって最も大きな悲しみは、自分が死ぬことよりも、自分が愛したものを失うことです。肉親の死はとてもつらいことです。子や孫の死は、もっと悲しいことです。

 一人の人間としての、「生命の不思議」に対する感謝の表現が供養であり、今は亡き親しい方が死後の世界でただ一人で餓え渇き苦しまないようにと願うのが慈悲の心です。供養は生きているものにとって死者に敬愛・報恩の気持ちをつたえる唯一の方法です。
 先亡の供養は心から感謝の念をささげなければなりません。やがて自分も死する時がくるが「迷い」の世界に入らない努力を先祖に誓うのです。先祖をまつることは自分の足元を見つめ、自分の生活を守ることで、子孫の未来を開きます。年忌の供養も大切にしなければなりません。

 

 

 

 

vol.118  2005.12.19

 

除夜の鐘
 Bell of New Year 's Eve 

 

 

    御会式

 宗祖日蓮上人は弘安五年九月八日、身延にお住い遊ばされること九ヶ年、その間お弟子やご信者の指導教育にたいへんお忙しい毎日でありましたが、お弟子やご信者のすすめにより、療養のため草庵をお立ちになられました。

  庵の内には昼は終日一乗妙典の御法を論談し、夜は竟夜要文誦持の声のみす。
  伝え聞く釈尊の住み給いけん鷲峰を我朝此砌に移し置きぬ、霧立ち嵐はげしき
  折々も山に入りて薪をとり、露深き草を分け深谷に下りて芹をつみ、山河の流れ
  も早き巌瀬に菜をすすぎ袂濡れて干わびる思いは、昔し人丸が詠じける和歌の
  浦にもしほ垂つつ世を渡る海士もかくやとぞ思い遣る、つくづく浮身の有様を案ず
  るに仏の法を求め給いしに異ならず・・・・。
 身延のご生活が大変困窮であったことがしのばれます。

 そして、おもてむきは常陸の湯に行くとし、内心は入滅をさとられ、秋色そぞろな甲斐路を十日の旅、竹の下を経て、十八日に池上宗仲の家に着かれたのであります。
 池上宗仲の邸で、お弟子とご信者に立正安国論の講義をされたのですが、これが上人の最後の講義となったのです。
 病重く間近かに入滅を迎えられることをさとられた上人は、お弟子やご信者に法華経の教を誤りなく後世の人に伝え、信心をたやさぬようにと遺命され、そして上人の終生の願いであった、帝都(時の都、京都)布教を、日朗上人の縁者の子、経一磨(後の日像上人)に遺言されました。

 池上宗仲の邸で、お弟子や、ご信者一同涙を流しながら、合掌し声をあわせてお題目を唱えるなか、日蓮上人は眠るがごとく入寂遊ばされました。
 秋のおわりにもかかわらず、庭園の草木は、桜をはじめ、いっせいにその花を開き、上人のご入滅をかざったのであります。
 時に弘安五年(一二八二)十月十三日、午前八時、ご聖寿六十一歳でありました。この日を御報恩会式というのであります。御会式は、お彼岸や、うら盆の法要よりも、大切な報恩法要と言えるのであります。法華宗信徒ならば御会式法要には、必ず参詣するようにいたしましょう。

 日蓮は教主釈尊の御使ならば、天照大神正八幡宮も頭を傾け、手を合せて地に伏し給うべき也。法華経の行者をば梵釈左右に侍り日月前後を照し給う。かかる日蓮を用いぬるとも、悪く敬はば国亡ぶべし。
 妙法寺の会式法要は、十一月十三日です。

 

 

    除夜の鐘

 除夜法要は、大晦日に修行される法要で、その法要とともに除夜の鐘が鳴り響きます。除夜の鐘は過去一年間の煩悩が「除かれる夜」という意味で打ち鳴らされる百八(百八煩悩)の鐘のことをいいます。
 今年一年の自分の生活を振りかえり、日常生活において心を煩わし身を悩ましている煩悩(むさぼり、いかり、おろか)を滅して、心の安らぎを得ようとして、また今年一年の反省をし、新しい年を迎えるにあたって、新たに、信心の志を得ようとするのが、この法要であります。

 また一年間家庭が安穏に過されたことは、ひとえに、仏祖三宝のご守護によるものでありますから、一年間の仏恩の報謝のため、お仏壇の掃除をし、本年最後の感謝の法味をささげます。またお寺の除夜法要に参詣して、一年の締めくくりをするのです。
 法華宗寺院の除夜の鐘の音は「朝に響かば梵音(仏さまのお声)となり、夕に響かば、清浄の泉となり、法華のみ法を伝え、鐘韻永えに澄み、一天四海安穏、自他の所願、成就ならしめる」ありがたい鐘の音であります。

 

 

 

 

vol.122  2006.8.2

 

妙法寺の由来
 Origin of Myouhou Temple 

 

 

 青垣町佐治は延喜式に宿駅としてその名がある歴史の古い土地柄であり、妙法寺のある小倉村も支村の森に式内社のある村落であり、古墳・タタラ跡も存在しています。
 承元三年(1209)に武蔵国足立郡より佐治庄の地頭として配属された足立遠政公は、山垣城を築いていますが、屋敷は小倉にあり、妙法寺の境内も下屋敷と称されている景勝の土地です。足立氏勧請の諏訪神社があり、有名な遠谿祖雄が建立した岩屋山高源寺があり、室町時代には岩本城主足立宗次入道の居城があり、北方守護として岩本村の黒尾神社を小倉に遷座して毘沙門天王を勧請していることなどがあります。

 妙法寺は正徳年間に小倉の大火で類焼したので、古記録は存在せず創立期の由来はあまりはっきりしていません。しかし、天正十年(1582)の桑山修理亮重勝の制札、文禄三年(1594)に什物となっている命尊筆涅槃像、天正十一年(1583)の総本山七世後不軽院日脩上人の讃のある智願院日岏上人画像など十六世紀の寺宝も現存しているので創立期の寺容はそれからうかがうことになります。

 由来についての記録は、元文五年(1740)の九世日恵のもの、寛政六年(1794)に完成している福知山藩士古川正路の「丹波志」の記述、岩本毘沙門庵鐘銘、文政三年(1820)に恵門院日原が中島勘兵衛取次で牧備後守の役所に提出した「立正山妙法寺由来」などです。


    丹波志の記述

 当寺元来河向い市原村の内岩本にありし庵室なり。然る処元亀の頃開山権大僧都智願院日岏上人、京の本山より弘通弘法に下向して、則ち岩本の庵室にて毎日説法せり。当所の郷士足立氏左衛門太夫という者、真言宗の仏音にて、智願院を招き、三日三夜宗論問答し、終に帰依して改宗す。其上足立氏の下屋舗を開山に寄附す。故に建立一寺ものなり。境内に足立氏の石碑あり。源勝院天正十一年正月十八日、足立左衛門太夫、同彌七郎宗忠、同足立左近。七日は妙法童女、是は足立氏の娘なり。則ち寺号とす。寺内制札あり。三ヶ条、天正十年六月日桑山修理亮重勝印、杉若藤七部無印、これは秀長の家士なり。又村方より万治年中に境内竹木猥に伐り捕る故、住僧止む事を得ず、大津御代官小堀惣左衛門殿に願い、副幹あり、村方にも其制あり。


    岩本毘沙門庵鐘刻文

 岩本部落の村社は毘沙門天王を祭祀する庵寺である。大明寺へ黒川郷を寄進した足立宗次入道が、岩本城を築城した時にもと黒尾神社であったものを小倉に遷座して、そのあと地に北方守護神としての毘沙門庵を建立したと考えられる。この鐘は太平洋戦争に供出したが、鐘銘写は福知山市の日新堂足立一彦氏所蔵のもの、寛政十一年は1799年である。


    立正山妙法寺由来書

 恵門院日原筆の由来書は文政三年(1820)に十五世日原が中島勘兵衛の取次で牧備後守に提出したものの写で、正徳元年(1711)に小倉大火の類焼で焼失とあり、京都奉行所に差出された書付には「寛永年間当寺焼亡仕一時に灰燼と相成」という記述もあり、堂宇は二度焼亡したのかもしれない。

 

平成十年秋  妙法寺住職  竹内正道

 

 

 

 

vol.123  2006.8.24

 

足立権太兵衛基則公
 Lord Motonori Gontahyoue Adachi 

 

 

 足立遠政は武蔵の国足立郡より承元三年(1209)丹波に転住し、氷上郡佐治荘を与えられ、それ以来足立氏は専ら佐治郷の経営にあたり、その曾孫遠谿祖雄が小倉村に高源寺を開創した。この高徳の師の法統は長くつづき、また足立一族は宗教心の向上啓発されるもの多く、よって他族に侵されず、他族を侵さず長くこの地の支配をした。

 足利中期より次第に勢力を得てきた新郷の赤井氏は附近の豪族を制圧し、殊に悪右衛門直正は黒井城主となり丹波半国と但馬の一部までもその勢力圏に入り、足立一族も遂にその幕下に加わるようになった。

 丹波志によると、「山垣城主足立彦助の代に明智光秀の征伐により一旦落延び、其の後彦助此所に立帰り山垣殿と云えり」とあり、又、「加茂郷上村足立氏、古えは赤井氏家臣の筋なり」 「牛河内村先祖山垣城主の長男四郎左ヱ門基依、山垣村没落後此所に住す」、などから見ると天正年間の足立一族の中には、一部赤井氏たちの家臣となっていた者もいるが、多くはなお佐治郷郷士として赤井氏または西波多野氏らに従属していたのではあるまいか。

 数年にわたり、幾度となく繰り返された光秀の大攻勢に抗した足立一族は、たとえ本拠山垣落城、諸寺焼亡、家屋焼失などの戦禍を受けても依然として祖先の墳墓の地に留まるものが多かった。

 

 丹波志によると、「当所郷士、足立氏左ヱ門太夫というもの、真言宗の仏音にて智願院を招き、三日三夜宗論問答し、遂に帰依して改宗す。其の上、足立氏の下屋敷を開山に寄付す。故に、建立一寺のものなり」とある。

 天文年間であるから天正以前で、光秀の丹波攻略戦以前にすでに妙法寺の建立されたことを証明している。各種の郷土史をひもといても、光秀らによる丹波天正の乱において足立権太兵ヱ基則についての記述は殆んど見られない。
 足立一族はこの動乱で、本家山垣殿はじめ、その一族一統の殆んどが或いは但馬に、また遠く因幡丹後へと亡命し、その他現地に留まったものはいずれも帰農したが、不思議にも基則一族だけは別であった。

 それは、その後天正十一年(1583)正月十八日に、権太兵ヱ基則は子息左近進宗忠並びに舎弟弥七郎宗立と、親子・兄弟三人が亀山で自害している事実によって明らかである。

 

 延々五ヵ年もつづいた光秀の丹波動乱は、天正七年八月赤井氏の居城黒井保月城が落城、同年十月福知山鬼ヶ城の落城で終っている。すると権太兵ヱは、それより四年後自害していることになる。

 赤井氏に代って、斉藤利三が黒井興禅寺を本陣として二万石の領主となり、また天正十年(1582)六月には光秀の謀反によって信長が自害し、その後秀吉の天下となるのであるが、足立権太兵ヱは足立の主流を離れ、その近親者と共に造反者となっている。

 足立権太兵ヱの足立家主流からの造反、いつの間にかできた光秀との主従関係によって、菩提寺妙法寺の安泰と従来からの領地の安堵を得たものの、本能寺の変により勝手知った丹波各地を転々とするうちに、「明智の残党狩り」にかかり、遂に天正十一年正月十八日亀山で三人揃って自害したのではなかろうか。

 権太兵ヱの孫、宗忠の三男にあたる孫兵ヱ尚秀は、当時紀州和歌山藩に仕えていた叔父の碓井重兵ヱ守長を頼って行き、その後町奉行となっている。

 

(足立勲記)

 

 

 

 
 






Λ

         
  自然 人体 幸せ 経営 知識
竹内正道著作集
八島ノート  世界の名言
幸せのプロフェッショナル
Twitter  Twilog
Instagram  YouTube
LinkedIn  Andre_Louis
ご挨拶  竹内康正
 
    ©2017 Yasumasa Takeuchi