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丹波 青垣町小倉 妙法寺遠景 天文22(1553)年 足立基則創建

兵庫県丹波市青垣町小倉 妙法寺 遠景 天文22(1553)年 足立基則創建

 

家族の源流 足立氏ものがたり
The Story of the ADACHI Family Origins   Updated 2017.07.17

 

心の時代といわれています。日本人のバックボーンとなっていた「自利利他」の伝統思想、
 「自分の生命を犠牲にしても子孫のために」という先祖伝来の生き方、家族の源流を 
 足立氏にみながら新しい世紀にふさわしい家族の創造を考えましょう。 

                                        平成12年10月6日

                       竹内 正道

 

  家族の源流 足立氏ものがたり 竹内正道  

   
         
         




 

    第一章    家族の源をたずねて

はじめに  家族  もろい核家族  理想の家庭  人間関係   先祖のこと  先祖供養 
    

    第二章    足立の元祖をもとめて

姓名  青垣町と足立姓  青垣町の足立史跡  家の永続性  足立氏ふるさとの風土  武蔵武芝

小野田三郎兼広(兼盛)  足立遠兼(小野田六郎)
    

    第三章    鎌倉時代の足立氏

足立遠元    源頼朝   比企尼の一族  足立藤九郎盛長  頼家と実朝  足立遠元の子孫

鎌倉時代と宗教  北条氏と足立の関係  足立藤九郎盛長の子孫  もののふの道

源氏将軍たちの信仰  北条泰時  時頼の信仰  安達泰盛と時宗  弘安合戦と平禅門の乱
   

    第四章    足立氏列伝

足立遠政  後醍醐天皇と丹波の足立氏  遠谿祖雄  足立宗次入道左衛門尉基高

南北朝時代の足立氏  足立権太兵衛基則  足立基則の子孫  足立氏と赤井氏

足立正興とその兄  足立氏忠臣蔵  足立権九郎基兼  足立重信  足立藤九郎保宗

北九州の足立氏  南九州の足立氏  中国地方の足立氏  岐阜県郡上の足立氏  三河の足立氏

足立氏の家紋  姓氏大辞典と足立氏  二つのあだち郡  関ヶ原の合戦と足立氏 
    

    第五章    先祖の生き方を学ぼう

足立氏と経験科学  名字と苗字  生き方を歴史に学ぶ










家族の源流 足立氏ものがたり 竹内正道

















第 一 章

家族の源をたずねて

 

 
皇居外苑 楠木正成像 1897(明治30)年 高村光雲後藤貞行

 

 

  

VOL.1     2000.10.13

 

        はじめに

 

 家族のあり方がいま大きく変わってきて、日本の社会を根底からゆり動かしています。「家族の多様化」とか「家族崩壊」さらには「家族破壊」という言葉がキーワードになっています。これまで経験しなかったような不気味なことが相ついで起きています。新潟の少女誘拐、名古屋の中学生の5,400万円恐喝、豊川の主婦殺害、佐賀のバスジャックなど、毎日何か異常な事件が続出、それを取り締まる警察の不祥事、わがままいっぱいでルールを守らないことが多すぎる世相となりました。

 少年事件が起きるたびに家庭の父性の不足、父親の存在がなかったり、母親の母性の歪み、離婚による不在とか溺愛、無神経、優しさの欠如とかが原因とされています。ユングが母性の本質は「慈しみ育てる」面はあるけれども「狂宴的な情動」と「暗黒の深さ」があり、すべてを呑み込む恐ろしさがあるとしていますが、その悪い面が表面化した事件が多くなってきました。その原因は、性別役割分担をした夫婦と未婚の子からなっていた家族が変わってきて、晩婚化や結婚しないもの、子供をもたない夫婦、離婚の増加などから普通の家族のあり方が変わってきたことによります。

 慣習や親の意思で結婚するのではなく、当事者が幸福を追求し、恋愛や性格の一致などで配偶者えらびをし結婚して家庭をつくる核家族は、義務や伝統にしたがうよりも個人の自由と幸福につながるとされました。しかし、感情面で結ばれるということは「結婚したいから結婚した」のであって「愛がなければ離婚」ということになり、家族の不安定さの原因となります。アメリカでは結婚した夫婦の半数が離婚するといわれていますが、最近の日本でも29万余が毎年離婚しています。
 「子はかすがい」といわれており子供が家族の軸となり要でありましたが、家の永続性を願う必要がなければ、子供よりも夫婦の愛情が中心の家族となり、親の離婚にまきこまれてしまう子供も多くなっています。

 「自分たちの幸福な家族」をつくるのに、愛情が家族の絆になってしまうと、愛情や情緒というあやふやなものが中心となり、家庭は「幸福」を消費する自閉的な場となり家族は弱体化しました。男性は家庭を「幸福」にするため給料をもち帰ることで愛情表現をし、妻は子供の育児や夫のために家事をすることが愛情表現となり、自閉的な空間の中で育児の責任や家事をひき受けた母親が育児ノイローゼや児童虐待をしたり、さらに高齢者の介護を抱え込むと愛情どころではなくなってしまうということもあります。

 戦後物の豊かな生活、高収入を得るため地位の高さなどを求める欲望に人々はとりつかれ、それを満足させてくれる夫であり、子供の学力、進学を求めました。しかし、それを獲得できるのは恵まれた少数のものだけであり、その欲望によって心の充足は得られなくなったものが多くなりました。物の豊かさは、家電製品、家具、車の購入等であり、それを満足さすと、なにものにも束縛されない自由を求めることが近代的な生活の仕方という考えもでてきました。
 「結婚して子を育て、親の面倒を見て、自分も老いたら子に面倒をみてもらいたい」と願う人が少なくなったのです。

 少子化がすすんでいます。20世紀は毎年83万人ずつ人口増加をみましたが、21世紀は年平均60万人ずつ人口が減少します。核家族が増加し、2,746万世帯となり、単独世帯も1,227万世帯となりひとり暮らしが増えています。自分の好きなように生活している夫婦に育てられた子供はきままで躾などできていませんし、親が家庭にいない希薄な関係の子供が多くなっています。子供の面倒をみるより自分たちが遊ぶこと、楽しむことを優先させている親も増えています。

 少年非行の問題、家族の崩壊こそが21世紀最大の課題で「心の豊かな社会」を創造するのならさけられない問題です。われわれは「現在や未来の人々を幸せにする」ことを目標にかかげた生き方、他者の喜びを喜び、他者に役立つことをする自分に生きる価値と存在理由をもつという「心の豊かな社会の創造」につとめたいものです。男性が弱くなったといわれていますが父性の原理をみなおす必要があります。

 「家族の源流」を考えるとき、「家の制度」がいつ始まったかを問題としなければなりません。父性の強かった家父長的「家」は鎌倉時代に成立したというのが一般的です。「家」は武家社会成立の中で発生し戦国期から織豊時代に発達したのです。家の先祖のことは寺院の過去帳に記録されていますが、寺院のほとんどが荘園制の崩壊から郷村制の成立期に草創されています。つまり応仁の乱(1467)頃から、江戸幕府の宗教統制が強化される寛文5年(1665)の200年のあいだのことです。

 鎌倉幕府を創立した足立氏の歴史を調査して、父性の原理としての家族の源流をみていき、「家の永続」を大切にした生き方を追求していきます。

 

 

                VOL.70         2002.7.25

 

        家族

 

 家族についての考え方が、今大きく変化してきています。ライフデザイン研究所(東京)の生活意識調査では、従来の家族観を維持しようとする層と、家族の多様化を積極的に認めようとする層にわかれるといっています。スウェーデンやデンマークでは出産の半分が婚外出産でイギリスやフランスでも30%以上がそうであるというのです。未婚のまま子供を産み育てる新しい生き方をする女性が増えています。

 戦前生まれのものは、これまでの家族制度があたりまえとして生きてきましたので、娘や孫娘が結婚もしないのに出産することにはとてもショックを受けるのです。
 戦前までの家族制度は、家父長制家族であり、「家」の制度でありました。「家」というのは、家族の構成員ばかりではなく、過去の先祖や未来の子孫までを含めたものであり、その代表が家長でありました。家長は、戸主権と財産の所有権を持ち、それは直系の長男に相続されて、その長男は、その妻や子とともに親と同居して生活がいとなまれていました。
 したがって家族は個人の立場よりも「家」の存続・発展が重視され家運の隆昌が最も大切にされていましたので、結婚も個人の問題ではなく、家と家との結びつきで、家を代表する家長の承認が必要でありました。

 新しい「民法」によって「家」制度は廃止され、一組の夫婦と、その未婚の子供だけでの家族で「核家族」があたりまえになりました。結婚は当事者の合意でなりたち、結婚によって新しい戸籍がつくられ「家」の相続は不要で、財産は配偶者と子どもに分割して相続し、扶養の義務も家族の構成員によって平等に負担するようになりました。そして、いまこの核家族すらが変化をとげて、配偶者のいない未婚の母子家族が増えているのです。

 このように家族観がしだいに変化すると、本来もっていた家族の機能はどうなるのでしょうか。家族は人間にとって重要な機能をもっていることはいうまでもありません。
 特に家庭は新しい世代を生み育てる場であり、消費生活をする場であるだけでなく、人間にとって最も大切な精神的なものをあたえあう場でもあります。ストレスの多い社会生活にあって、精神的な安定と生活意欲を回復させるいこいの場は家庭しかありません。また青少年たちの人格の基本的なものは家庭ではぐくまれます。単に子供だけでなく、おとなにとっても人格をはぐくむ場が家庭です。

 封建的な「家」に対する批判はきびしくなされましたが、民主的な「核家族」が家庭の大切な機能と人格形成にどれだけ役立ったか疑問視されています。家庭の教育力の低下、放任主義による少年非行、安易な結婚と離婚など家庭の崩壊が大きな社会問題となっています。
 それどころか、離婚は毎年増加しており、離婚すると簡単に再婚しにくい傾向もあり、高学歴の男女は結婚そのものに慎重で要求水準がたかく、晩婚化がすすんでいますし、結婚しても、子供を欲しがらないという夫婦もあります。そして、結婚しない男女も増えていますので自分の家族をつくらないまま生涯を終えるものも増加しています。少子化が進み、人口も減少し、家族の数そのものが衰退しています。

 日本の高校生はひどく活力を喪失しているとの日本青少年研究所の報告があります。「学校に誇りを持てず、勉強離れも進み、積極性を失い、自分はだめな人間だと思っている」と悲観している高校生が73%もいるというのです。学校生活に張りがあると感じている生徒が少なくなったようで自分自身を貶める自己否定型の高校生が増えています。
 中学生に対するアンケート調査で、日本の国に誇りをもっているのは24%、自分の将来に希望をもつものは29%と報告されています。高卒の32%、大卒の23%がフリーターで職業をもっていないものが増加し、世の中と自分が結びついていない浮遊感が増しているといわれています。
 社会に対する連帯意識が希薄になっていますが、これは高度経済成長とその後の異常の状況の中で核家族化が進展したことによるものです。家族に対する連帯感をもたないものが社会や、国に対して連帯感をもつはずがありません。

 

 

 

 

                VOL.71         2002.07.29

 

        もろい核家族

 

 人の幸福・不幸にとってもっとも関係が深いのが結婚で、愛しあい、ともに生活し、子供の養育をともにしてその成長を願うのが家族です。気のあった2人が愛情で結ばれ、信頼しあい、一緒に暮らし、子供が生まれるとその養育につとめることが家族の前提です。好きあった男女が生活をともにし、気楽に2人の世帯をもって、自由きままに暮らすためには「ババ抜き」は必要条件で、経済的に恵まれればしあわせ一パイということです。

 昔の結婚は家同士のとりきめで、見合いで家庭にはいり、親につかえ、配偶者につくし、その家風にあうよう気をつかって結婚生活を送ったのですが、核家族となった現在では「愛」と「お金」が家族生活を継続する前提となっています。

 

 結婚して家事の負担がふえ、それに出産・育児などで孤立無援になった女性の負担は大きく、特に育児という未経験なことは「愛」や「好き」だけではどうにもならないことが多いのです。そして共稼ぎをしなければ生活維持ができないとなると、夫の能力のなさにイライラしてきます。

 夫の側でも「ガマン」しているのですが、洗濯はクリーニング屋、食事は出前か外食、料理してもインスタント食品ばかり、子供は託児所、勉強は塾まかせで子供の世話をしない妻との関係が希薄なものになり、仕事、仕事で家にはあまり居なくなってしまう状況です。

 親が親の役割を果たさなくなったダメ親によい子が育つわけはなく、子供なんか産まなかった方がよかったと思っている母親も多いです。「手抜きした母親」に育てられ、「社会的動物として一人前に」育てようとしない父親のもとで育った子供が、家庭内暴力をふるったり、友達の人格を尊重できない子供になったとしても本人だけの罪ではありません。

 

 結婚を物心両面で「よりよい生活」ができると考えていた男女にとって不幸の原因は「愛の欠如」と考えてしまい、愛がなければ婚姻の継続は無意味となるのです。嫌になったから離婚はあたりまえとして「無過失離婚」がふえています。

 女性が子供をもつ必要はないと思うようになると結婚する必要もないし、結婚しても同居して苦労することはないということになります。結婚しないものが増えてきましたし、結婚したくてもできないものも増えてきました。そして結婚しても子供はほしくないと思う夫婦も多いようです。

 若い時は核家族を当然と考えていたものも老齢になると直系家族を願っているものも多いです。自分の両親はほっておいて、自分は子や孫と共に生活をして老後を送りたいと思っているのです。特に少子高齢化社会となり家の存続ができなくなってきましたので、よけいに家の後継者がほしい老人がふえ、先祖の祭祀のことも気にするようになるのです。

 

 子供をもつ必要はないという考え方のうらには、子供に負担がかかり生活に余裕がないという理由によるものや、パチンコに夢中になって子供を死なせたように、子供の面倒を見るより自分が遊ぶことを優先させてしまった親の姿がみえます。豊かな社会の日本の貧しさです。家も滅び、人口も減って社会も滅びていくのでしょうか。

 少子化現象は女性の晩婚で出産数が少なくなっていることが一番大きな原因で一人っ子が多くなっています。一人っ子は親の愛情過多で過保護になったり親のペット化してしまい人との接触に慣れず、人間関係を希薄化させる原因にもなっています。

 

 40年前の経済成長期に田舎の青年たちは仕事を求めて大都市に出て、20歳代で所帯をもちましたが、この世代が定年になっています。田舎から都市に出たこの世代が子供や孫と一緒に暮らす3世代同居を増やす努力をして核家族化をやめることができたら、子供の教育によい結果がでると思われます。

 

 

 

 

 

                VOL.72          2002.8.3

 

        理想の家庭

 

 仏教は家族のことをどのように考えていたのでしょうか。仏教は家族制度の伝統のうえにたって、社会倫理の基本的な考え方、すなわち平等と慈悲と報恩を実現しようとしています。
 「親を尊敬すること」「親に仕えること」は子のなすべき務めとしてインド仏教以来強調されていますが、仏教は世俗的な孝行よりもっと高い境地を目ざしています。
 日蓮聖人が「一切は親にしたがうべきであるが、仏になる道は、親にしたがわないことが、孝養の本である」と主張されていますように、仏教本来の出家が、世間的な孝行より優位にたつことで「孝養の本」であるというのです。

 原始仏教聖典に釈尊は「子どもたちが、人々のよりどころである。そして妻が、最高の友である」といわれています。夫にとって妻は最高の友であり、子どもがよりどころであるのですが、そうした幸福な家庭をいとなむための教えとして『六方礼経』があります。それには、夫が妻に「仕える」のに対し、妻は「夫を愛する」こと、夫婦とも「不邪婬戒を守る」こと、夫は妻を「尊敬する」こと「軽蔑しない」こと、妻に「権限を与える」こと、「物質的にも愛情を示す」ことが説かれ、妻には「家事をよく処理する」こと、「集めた財産を守る」こと、「なすべきすべての事がらについて、巧妙にしてかつ勤勉である」ことが説かれています。
 さらに夫婦の理想像は「夫婦とも信仰あり、親切であり、身を慎んで、法にかなって生活し、互いにいとしいことばを語るならば、福利はいやまさり、平安な幸せが生まれてくる」と説かれています。

 親子の関係については、子に対する親のつとめとして、「悪から遠ざけ」「善に入らしめ」「技能を習学せしめ」「似合いの妻を迎え」「適当な時期に相続させる」こと、また子の親に対しては「親に養われたから親を養う」「かれらのために為すべきことをしよう」「家を存続しよう」「祖霊に対し供物を捧げよう」というつとめを説いています。
 報恩が大切で、親に対する奉仕というのではなく、自らの自然な気持ちで自発的になされることが説かれていて、仏教の報恩思想から、先祖より受けた恩恵にも感謝の誠を捧げるのは当然とされています。
 原始仏教経典にすでにこのような家族の倫理、夫婦の倫理が説かれているのですが、われわれ現代人の家族のあり方を考えるとき、教えられることばかりです。

 平等思想が普及して、人間の最も大切な上下関係が喪失してしまった結果、少年による犯罪が増加の一途をたどっています。家庭での幼児期からの躾が大切なことはいうまでもありませんが、あまりに教育能力のない親が多いですし、自分自身の倫理、道徳的心情または信念をもたない親が多いことに問題があります。
 親子の関係は友人のような横の関係ではなく、親は親、子は子であることを再認識すべきです。
 個人主義や自由主義を自己流に理解して、利己主義や放縦主義に流され、自己本位で身勝手な生き方をするものが増えています。

 いつの時代でも、どんな社会でも伝統や社会組織の中で個人は生きているのですが、過去から伝えられたものは古くさいし封建的であるとして無視し、自分の家族や親戚、あるいは近隣とのつきあい、職場のつきあいも煩わしいとして参加せず、身勝手で自由に生きることが望ましいと思うものが多くなってきました。最も信頼できるはずの家族を軽視したり無視して生きることが自由な生き方であるように錯覚して、自己流に足かせのない場所に身を委ねる若者が多いです。
 家族の絆が切れてしまったことによる社会問題が多くなっています。生涯独身、未婚同棲、親子虐待、不登校、子供の非行、家庭内暴力など信頼できる家族不在の問題が多くなってきました。

 

 

                      VOL.5     2000.11.10

 

        人間関係

 

 人の一生は不思議なものです。人は生まれようとして生まれてきたのではなく、親のもとに生まれていたのです。そして、養育され成長しますが、与えられた生命を大切に生きるとしても、自分では予測できない死がまちかまえています。親の精子と卵子の結合で生命は誕生するのですが、数多い男女のなかからどうして二人は結婚し、子供の親となったかは不思議な縁としかいいようがありません。

 「袖ふりあうも他生の縁」といいますので偶然でなく、すべて前世からの因縁によるのかもしれませんが、まことに不思議な縁により結婚し、「子宝に恵まれ」て親となり、新しい生命を養い育てます。「子供を作る」などといっていますが、子供は親の意思どおりになるものではなく、「授かったもの」であり決して親が自由に支配できるものではありません。そして、親にも両親があり、その両親にも親がありますので、2人、4人、8人と親の縁が増え、そのいずれが欠けても自分は存在し得なかったということになります。その数は先祖を遡っていきますと限りなく増加し、鎌倉時代まで遡って先祖を探すということになりますと億の数の人との縁につながることになってしまいます。

 このように人は無数の縁によって生まれ、成長し、社会で生活して生きる存在で、縁によって生かされていますので、仏教では「縁生」といっています。「死」によって消滅するはかない存在ではありますが、生かされて生きていることを知り、有縁の人と相互に扶けあって生きる以外の生き方はありません。そして同時に、あらゆる人は一人として同じ生命をもつということのない個性的存在でありその意味で、一人で生まれ、一人で生き、一人で死ぬ存在でありますので、自分の一生は自分で責任をもつということになります。

 人は、はかり知れない無数の縁によって生命を与えられていますので、自分は「生きている」というより、「生かされている」という自覚のある生き方が大切なのです。
 『無量寿経』でこのことを「人は、世間愛欲の中にありて、独り生じ、独り死し、独り去り、独り来る。行いをおうて苦楽の地に至り趣く、身自らこれをうく、代る者あることなし」と述べていますが、無数の縁によって生命が与えられ、生かされている、唯我独尊としての自己であることを自覚して生きることが大切であると教えています。無数の縁と無量の恩恵をうけて生きて生かされている自覚があれば、先祖を想い先祖を語ることになるのです。

 

 

                                 VOL.6     2000.11.17

 

        人間関係 2

 

 ところで最近、先祖と子孫をつなぐ最も大切な結婚について考え方が変わってきたといわれています。男女ともに結婚離れが静かにすすんでいるといわれています。若い男性にとって家事・育児を分担し、家計を満足させ、場合によっては少子化の現実から妻の両親の面倒をみなければならなくなるようでは、結婚は束縛でしかないというのです。また女性にとっても、独身時代の自由で楽しい生活と消費レベルを落としたくないし、自分にふさわしい相手でないと結婚したくないのです。
 そして結婚しても添い遂げるべきだと思っている人が少なくなって、子供がいるとしても、愛がなければ離婚を恐れないというのです。半世紀前までは、結婚の目的は「家の子孫」を産み、家の恥にならない後継者を育てることにありましたが、現在の女性は愛する人と一緒にいたいけれど、束縛されるのは嫌だから別居して恋人同士のような生活ができればと願っているものが多いといいます。

 子供の養育についても、いろいろの変化がみられます。最近の子供は「社会のルールや道徳心に関して、家庭で親から躾られていない。アメリカ・イギリス・ドイツ・韓国の子どもと比較して、非常に意識が低い」とか、「友人を思いやるなどの友人関係の希薄さ」が感じられるとかいわれています。「人間関係が希薄」な家庭で、子供の躾などできませんし、学習も基本的な生活慣習も学校まかせで、学校で教師に気に入らないことをいわれると反感をもつようになります。
 希薄な親子関係の子供が、希薄な友人関係となるのは当然で友人を思いやる心は育ちません。やはり親は「やるべきことはやれ、わがままはゆるされない」としつけ、機会の平等な社会で生活するのだから「努力することをおしまない人になれ」とさとし、「絆」という人間関係に支えられて生きられる社会的動物であることを教育しなければなりません。誇りもなく、自己責任の意識をまるでもっていない利己的な親から反社会的な行為をする子供が育ったとしても、本人だけの責任ではありません。

 明治の初期に日本にきましたアメリカの動物学者エドワード・モースはその著書の中で桜見物の群衆が温和で礼儀正しく、落書きやゴミがないのに驚いて「日本ははるかに文化の程度の上の国」としていますし、「日本人はいかなる人間に対しても、人間の価値、お互いの価値を認めあう」と書いていますが、現在の日本の現況をどのように評価するでしょうか。日本人が長年かかって培ってきました「相手を思う心」を再生しなければならないと思います。そしてその思いは、生きている人だけではなく、過去に遡って先祖を想うことへと発展します。

 伝統的な日本人の美徳とされていたものがどんどん失われています。戦後の工業化社会の進展と高度経済成長の中で、人間として最も大切であったものすら失われてしまいました。今の社会で、学校教育の歪み、家庭内親子関係の崩壊、社会情勢の変化などから、自分に自信がもてなくなり誰かの指示がほしい人が増え、これがカルト宗教に入信する原因となっています。仏教は自分の心に安らぎを与え、相手に思いやりをもてるよう先祖供養を通じて「慈悲心」を教えてきました。

 

 

                VOL.73          2002.8.5

 

        先祖のこと

 

 祖先崇拝は日本人の日常の中にあり、道徳的な規範の根元として永い間日本人の伝統的な生活信条となっていました。
 「先祖さん」をまつることは子孫のつとめであり、先祖をまつることで日々の生活の平安をさずけてもらうと信じているものが多いのですが、神でも仏でもない先祖さんというのはどのような霊なのでしょうか。

 このことについて柳田国男氏が「先祖の話」を書いています。それによりますと、先祖という言葉は二種類の意味で使われていて、「家の最初の人ただ一人が先祖であり、古い時代に活きて働いていた人のこと」で自分達の家を創立し家の基本をきずいた人であると思っている人と、「先祖は祭るべきもので、自分の家で祭るのでなければ、何処も他では祭る者の無い人の霊、即ち先祖は必ず各々の家々に伴うもの」と思われているものとであります。
 もう現在ではそんなことは云わなくなっていると思いますが、昔は早く立派になってくれという代わりに「精出して学問をして御先祖になりなされ」といって子孫をはげましていたといわれます。これは遠い昔の先祖ではなく、家を興隆させたり、分家して独立する能力をもつ子供に将来を託するということで、古い先祖ばかりが先祖ではなかったのです。

 家の根を太くたくましくするため長子家督相続をすることにより、長男は家代々の先祖を祭り、まつりごとや法事を盛大にすることがつとめであるとする家と、子供達に分割相続をさせてどの子も幸福にしてやりたいとの考え方は昔からありました。
 次男以下は分家させて新しい家をたてさせ先祖になればよいというのです。更に能力があり独立できるのなら長男が家を出て、次男以下が本家をつぐということになり「先祖さん」になることを期待したようです。

 人は死後祭ってもらいたいという念願、死後も敬愛されたいという願いがあります。そこで子孫は祭る先祖を限定したわけで、本家の先祖は祭らなくてもよく、祭られない先祖をどこかで祭ることはしてはならず、正統嫡流が、先祖伝来を祭る資格があり、分家にはその資格がなく、分家の最初の人を先祖とすればよかったのです。

 このことは藤原氏の子孫だという家系がたくさんありますが、藤原氏であったというきめてのない系図が多くあります。藤原氏自体も先祖は天兒屋根命(あめのこやねのみこと)という神様ということになっていますが、これを先祖とはしていませんし、初めて藤原姓を賜った鎌足を祭っている家もなく、鎌足の孫の男四人の系統のうち藤原北家の房前を先祖にしているといわれています。
 関東では山蔭流・魚名流の系統の家が多く、魚名流のうち田原藤太秀郷を祖先としている家がもっとも多いそうですが、その本家がどこにあるかもわかりません。
 系図の上ではそのようなことになるかも知れないが、私の家はその支流の支流で先祖は江戸期の人を祭っているというのがほとんどで、系図も鎌倉期より続いているものなど考えられず、江戸中期頃のものが古い方で、あとは後世の人が自分の家の家紋が伝承した話をもとに、系図をつくり子孫に伝えたものばかりです。

 このように家というものも、人の一生と同じで天寿のようなものがあり、古い家系が消滅して、分家が勢力をもち、その分家もいつか消滅して、分家の分家が栄えて、それもいつの日か消滅するという歴史をくりかえしています。
 家を永続させたいということも古来よりの願いでありました。「積善の家には必ず余慶あり」といわれ、善行を積み重ねていく家には、必ず後の子孫まで慶びが伝わっていくという意味ですが、「人知れず徳を積んだ者には、天が幸福を報いとして与える」といわれています。陰徳というのはめだたぬよう、きわだたぬよう生きて徳をつむということで、これが家を永続させたのかも知れません。

 「家」の制度は鎌倉時代の武家社会で発生し、織豊時代から江戸初期にかけて発達し、広まったとされています。現在ある寺院の大半が、郷村制の成立とともに創立されていますことと関連しております。武家をはじめ、農民や町人による家の形成により、その祖霊を祭る寺が建立されていったのです。
 日本の仏教は家の成立により、その先祖崇拝とともに発展しました。

 先祖崇拝が「家」の成立と深いかかわりをもったことはいうまでもありません。先祖崇拝は古くから伝えられている「先祖の祭り」で、先祖、祖先、祖霊ともよんで「先立てるミタマ」を祭ります。父の父を「祖父」、その先代を「曽祖」、さらにその先代を「高祖」ともいい、さらに古い先祖を「太祖」ともいっていますが、家の直系の先代すべてを祭ることが伝承され、家長の責務でありました。

 一般に農耕民族は、死後の生活を信じ先祖を崇拝する習俗をもっています。農耕は種まき‐発芽‐開花‐結実‐枯死してもまた種から再生しますが、同様に人も誕生し‐成人‐結婚‐子供の出産‐老化‐死となるので永遠に回帰し再生すると信じられました。そして山、森、樹に祖霊がやどり正月や盆には先祖さんが帰ってくるとされています。しかし、この先祖とは別に、家の連合体である同族の共通の先祖を根本先祖と考え、神として祭りました。その根本先祖というのは、家父長的「家」の制度が確立した鎌倉時代の武家社会の中で発生したといわれています。

 韓国ではほとんどの家が族譜をもっており祖先の祭祀を行っているといわれていますが、日本では家譜をもっている家は少なく、名字家紋で同族を知るくらいで祖先の祭りも行われなくなっています。家に対する帰属意識や伝承が失われてしまったのです。寺檀関係で寺の知らせる年忌法要中心の先祖まつりとなって、同族の先祖祭りは特定の神仏をまつることになり、その行事も希薄になっています。
 特に高度経済成長期に先祖崇拝が喪失し、家に対する愛着も帰属意識もうしなわれていったのです。

 

 

                                 VOL.8     2000.12.1

 

        先祖供養

 

 どんな人間にも必ず先祖はいます。しかもさかのぼって数えると無数の先祖の人々がいて、その血がどんなに薄くなっても子孫の一人である自分に流れていることは否定できません。このように気付いた時、先祖に対する感謝の気持が自然に湧き、それがやがて、尊敬や崇拝の念に変わっていくのです。
 「おかげさま」という言葉によって示されている言葉の中に、今日の自分をあらしめてくれた「ご先祖さま」に対する崇拝感謝の気持がふくまれています。

 人間にとって最も悲しいことは、自分が死ぬことよりも、自分が愛し大切にしてきたものを失うことです。
 特に自分をこの世に生まれさせてくれた父や母を失うことは人生の最大の不幸です。葬式や追善供養が単に死者だけのものではなく、生き残った者の死者に対する感謝、尊敬の気持を表現するのが供養です。これと同じ感情が、すでに過去に死去された祖父・祖母とかその先代とかにおよぶ時、先祖全体に対する追慕・感謝・尊敬といったものを表現するのが先祖供養です。

 すべてのものの悟りを目指す仏教の考え方では、単に個人の悟りや、個人の成仏だけではなく慈悲が大切となります。そこから死者が輪廻転生の世界で苦しまないため、生き残ったものが善根功徳を積み、それを死者に回向することによって死者の冥福を達成することができるのです。
 人間としてこの身を生かさせて頂いたことに対し先祖に対する感謝を表現することを通して、生きていることの意味を問い、やがて自分が先祖になって子孫が幸福になってくれることを念じられるようなものとして永遠の生命を生きたいと誓うことが供養です。

 日本人は古来、先祖の霊によって守られていることによって幸福な生活を送ることができると考えていました。彼岸とか盆には先祖の霊が帰ってくると信じられており、迎えるために迎え火をもやし仏壇で充分おもてなしをして、再び送り火によってあの世に帰ってもらうという風習がありました。墓まいりも同様で墓へ行って供物・供花・読経・焼香などして供養するのです。死者の霊は一定の期間を経過してこの世の穢れが浄化されてホトケ≠ニなり子孫を守ってくれるのです。
 死後、枕経・通夜・葬式・初七日から四十九日・一周忌・三回忌・七回忌・十三回忌・十七回忌と続き、五十回忌の法事を営み、縁者と共に読経することにより亡霊は浄化され、よい世界に転生すると信仰されていました。死者の追善・回向・冥福を願ったのです。しかし縁者といえども、感謝や尊敬の念のわかない死者に対しては追慕や追善の気持ちが起こるわけはありませんので「家」の習慣がなければ、そうした気持と無縁になってしまいます。

 

 

                VOL.74          2002.8.7

 

        先祖供養 2

 

 祖先崇拝は「家」にたいする帰属意識のない家庭には祖先に対する供養は心のこもったものにはなりません。自分の先祖を祭る習慣をもたなければ、自分が何時か祭られるようになったとき、子孫がおまつりをしてくれたり、冥福を祈り回向することを期待するのは無理なことです。

 会社人間は離職すると非常にストレスがたまるといわれていますが、生活の基本は家庭にあり、家庭人間であることが最も大切な生き方なのです。しかし、家庭を大切にすることを忘れて会社人間になって生活することがあたりまえのようになっています。単身赴任はどうも家庭人の義務を放棄したようなものですが滅私奉公で会社のために自己を犠牲にするのが人間としての正しい生き方だと思って会社のためにつくしたのに何かの理由で退職しなければならなくなると生きる力を失う人も多いのです。
 家族は血で繋がった関係で切ることはできませんが、会社は都合で解雇します。そんなもののため全人格を犠牲にする必要はありません。

 家は親が子に対し、子が親に対して抱く無償の恩愛の情を育む場で、生存の基本であり、人生にとって最も大事なものであります。家族がおたがいの人格を認めあい、尊敬と愛情をもって生きることが大切ですが、そのためにはすぐれた精神性も必要です。

 核家族というのは夫婦中心の家族なのですが、どうしても経済的欲求中心の生活になりがちです。家族制度といわれていた家族は、夫婦関係より親子関係を重視し、家の相続を大切にしていましたので封建的家族として否定されました。
 しかし、今の社会で再認識されなければならないのは、家族は新しい世代を生み育てる場であり、共同で消費生活をする場であり、意欲的に生きるための精神的な安定を得るいこいの場でもあります。何より子供たちにとっては人格を形成する場でもあり社会発展の基礎になるのが家庭であることに変わりはありません。その家庭に道徳的確信もなく、親子関係の倫理もなくなってきてしまっています。

 さて、平安時代末期に高位官職についていた人物を始祖として祭祀する神社とか寺院を精神的よりどころとして、始祖の子孫中心に親族を集めて形成された「一門」がありました。12世紀になりますと、この「一門」から新たな始祖をもつ親族集団ができますが、これを「家」と称するようになります。この「家」は「嫡系による継承」がされていますが、庶子の分立も制限されませんでしたので、分立した庶子が新たに「家」を創始することも多くみられ、分立した庶子はその家の先祖となりました。しかし、分立した庶子家でも、最初の創始者である始祖=元祖も大切に祭祀されています。

 家族の源流をたずね、始祖の精神の伝承と家の永続性を考えた足立氏について調査し、家の永続性を願った生き方をみていきます。

 

 

 

 

 

 

第 二 章

足立の元祖をもとめて

 


丹波 青垣町小倉 黒尾大明神&諏訪大明神  2002.4.28

 

 

VOL.10     2000.12.15

 

        姓名

 

 一人の人間が誕生してから死亡に至るまで、その人の人格のよりどころとなるのは姓名であります。子供が生まれると親は、その子の名前をつけるのに悩みます。現在でも姓名判断の伝承があり、健康で豊かな一生を送ってほしいと名付けに苦労します。しかし、姓だけは先祖から子孫へと連綿として受け継がれ、子は親の姓以外を選択することはできません。古い家には系図が伝承されていますし、新しい家でも本家を訪ねると先祖がわかり、それぞれの姓氏には歴史的背景があります。

 数の多い姓は佐藤、鈴木、高橋、伊藤、渡辺、斎藤、田中、小林、佐々木、山本だといわれていますが、これらの姓は鈴木以外すべて地名から来ているといわれています。名字というのは中世の豪族の土地支配(名田経営)からきています。
 つまり名田の地名を家名にして、その土地の支配権を表明し、名田経営を承認さすものであったとされています。更に苗字がありますが、これは近世になってから使用されるようになり、祖先を同じくするものの家名として区別されていましたが、現代では姓氏として名字も苗字も同一視されています。
 『日本苗字事典』によりますと、苗字は27万余もあるそうですが、その9割は地名からとられているとされています。また明治8年に国民皆苗となり、苗字をつけることが義務化されました。江戸時代は、人口3,000万人くらいですが苗字を公称できたのは120万人と推定され、4%だったのですが、明治8年にすべての人に苗字をつけたのです。

 日本の人口を推定した研究によりますと、鎌倉時代の人口は690万、江戸初期で1,200万人、江戸中期で3,100万人程度であり、明治10年で3,650万人、20世紀初頭で4,440万人、そして半世紀前で8,389万人、昨年の総人口は1億2,668万人となっています。
 昨年の統計では14才以下の年少人口が前年度より31万人減少し、逆に65才以上の老年人口が67万人増加していますので少子高齢化が急速に進展します。
 昨年の人口増加は20万人でしたから、日本の総人口が1億3,000万になる見込みはなく、逆に50年先は半減しそうな状況です。そうした動向のなかで今後消滅する苗字も増えてくると思います。

 さて、苗字のことなら、私の生まれた町は不思議に足立姓が多く、ものごころがついてから周囲の姓は足立ばかりで、同姓同名も多くとまどうことが多くあり、それは現在まで続いています。おそらく500人近くの足立さんと交流していますので「足立です」と電話がかかるともう大変で、どの足立さんか特定するのに苦労しています。それほど丹波氷上郡、とくに青垣町は「足立姓」が多いのです。
 寛政6年(1794)に完成した『丹波志』に氷上郡内の足立・安達姓は本家42軒、分家273軒とありますので、200年前にすでに足立を名のる人は相当数あったのです。佐久間英氏著『日本人の姓』によりますと、足立氏は約6万人あり姓氏別人口の244番目にあたるとされ、安達氏は約5万人で姓氏別人口の329番目であるとされています。

 足立姓の分布をみますと、東海地方(美濃、尾張、三河、遠江、駿河、伊豆)岐阜、愛知、静岡県と近畿地方(丹波、京阪神)兵庫県、京都府、大阪府、更に山陰地方(伯耆、出雲)鳥取、島根県、九州地方(豊前、豊後)福岡、大分県に偏在しています。
 福知山鉄道病院長であった安酸睦博氏の研究によりますと、足立氏は「その殆ど約95%は、中世武蔵国足立郡の豪族、足立遠元を遠祖としている。足立遠元は、藤原氏で、祖父の代より源家家人となり、父、藤原遠兼のとき、初めて武蔵国足立郡に在住、遠元のとき初めて、地名より足立氏を名乗っている」とされています。

 

 

                                VOL.11     2000.12.22

 

        青垣町と足立姓

 

 小学校に入学した時、一番不思議だったのはクラスの中に足立姓があまりに多かったことです。70名の同級生のうち28名が足立姓で同姓同名もあり、足立姓の子は地区名と名で呼んでいました。平成10年の青垣町の電話帳によりますと848世帯が足立姓です。
 足立姓の多い理由は、武蔵国足立郡の足立遠元の孫、遠政が承元3年(1209)に鎌倉幕府より佐治庄地頭に補せられ、山垣の万歳山に城を築いたのが足立氏扶植の始まりであります。
 青垣町小倉妙法寺所蔵の『足立氏丹州領地並由緒書』によりますと足立氏の所領は次の地区にありました。

    小倉、小和田、中佐治、佐治、遠阪、山垣、市原、稲土、
    文室、惣持、小稗、大稗、大名草、桧倉             以上拾四ヶ村

 『青垣町誌』の「部落誌」より足立関係の地区を調べ、その足立姓数をみると次の通りです。

  小倉(森)             41     稲土(菅原、西山、日向)  70
  小和田(寺内、奥塩久)     59   文室              19
  中佐治(杉谷、平野、岡見)  56   惣持              14
  佐治(新、中、本、荒神、         小稗               23
      上、大正、愛宕、東) 102   大稗               25
  遠阪(徳畑、和田、今出)    80   大名草              81
  山垣(向、下地、上地、平地) 89   桧倉               35
  市原(岩本)           44    口塩久              36
                                    計 774

 この地区のうち山垣に本城を、小倉、小和田、奥塩久、遠阪、徳畑、稲土に出城をおいて、現在の佐治、神楽、遠阪を支配すると共に、この出城に一族を配置していたので、その子孫がそれぞれの地区に足立姓を名のり増加していったのです。

 伝承によりますと山垣城には150人ほどの武士がいたといわれていますが、平時は城下の山垣、徳畑、中佐治一円に居住して農耕していたのです。天正の乱で山垣城が落ち、明智光秀に従った武将も滅亡し、それぞれ帰農したとされますが、それぞれの地区に遠政末孫の家系があり、農業をいとなんでいました。

 

 

                                  VOL.12     2000.12.29

 

        青垣町の足立史跡

 

 『青垣町誌』に記してある足立氏関連の記述をまとめますと次のようなものです。

  佐治  八柱神社     地侍足立氏の霊をまつる
       西往寺       足立庄次郎持の庵なり
       足立遠政の二男遠信、小和田城を築きこの地を領す
       「佐治、小倉、市原は岩本城、足立宗次入道(1350)の領下

  小倉  黒尾大明神 諏訪大明神…古城主足立氏勧請の神社
       瑞岩山高源寺  開山遠谿和尚(足立光基三男)の建立
       立正山妙法寺  足立左衛門太夫というもの足立氏の下屋舗に建立
       日が谷黒尾神社前に岩本城主足立宗次入道の居城あり
       足立遠政来丹時初めて居を構えたのが光明寺跡、下屋敷が妙法寺境内

  市原  正平22年(1367)3月16日
              佐治庄岩本城主足立宗次入道大明寺へ黒川郷御寄進
       元禄3年(1690)  足立嘉光、山名矩豊に仕う
       元禄4年(1691)  宗次入道の大位牌を黒川大明寺に納む ‐足立嘉光
       享和元年(1801)  岩本足立弥三郎娘つな但馬池田弥左衛門
                                  (但馬聖草庵の父)に嫁す

  小和田 小和田城址     古城主は遠政二男の足立左衛門遠信、三代の居城跡
       石仏山大通寺址  足立氏所持仏なり、足立氏の菩提所
       八幡神社      若宮神社と称し、天正11年10月15日足立遠宗を祀る
       薬師堂        足立氏母開基、五輪塔あり
       足立三郎兵衛旧栖 三郎兵衛を祭る神社、本屋敷は八幡の森となる

  桧倉  西天目山高源寺  山垣城主足立光基の子遠谿祖雄創立の中峰派本山

  大名草 足立氏が但馬、黒川を支配していたころは往還の村として重要

  小稗  城山         天正の頃足立又三郎南麓に住む

  稲土  八幡神社       足立氏先祖の鎮守八幡
       大灯寺        足立馬之助政重が建立、一休を開山とする
       足立修理太夫旧栖 山垣の分家、当谷を領し足立午之助相続す
       足立大和守旧栖、足立三太夫旧栖、足立主殿旧栖等あり

  遠阪  不遠山西方寺   足立彦助開基
       遠阪城熊野神社の南に足立伊豆守の居城あり、子孫は熊野神社の神官
       足立彦助政秀   秀吉の高麗陣に供奉す
       田の口城址    足立遠政が、田の口と今出奥に出城をつくる
                  足立右近光永、天正の丹波攻めで善戦す

  山垣  山垣城       古城主鎌足公末葉久保田左衛門尉遠政居城とす
       万歳山報恩寺   足立遠政の先祖を祭る

  中佐治 紫雲山清涼庵  足立氏持庵

  口塩久 玉林庵      足立丹後守基家邸跡

 

 

                VOL.75          2002.8.9

 

        家の永続性

 

 高度経済成長期に日本の永い伝統が崩壊し日本はあらゆる分野で変わってしまいましたが、その中でも最も重要なのが家の永続ということを考えなくなってしまったことです。
 「家」にほこりをもち、「家名」を大切にし、「家の永続」を願って生きて来ました生活の基本が崩壊してしまいました。「家」にたいするほこりがなくなり、家族も変質してしまい離婚も毎年増加し、昨年の離婚は29万2,000組で過去最多を更新しています。

 結婚式も変わってきました。家と家との婚姻の形式は過去のものとなって、親族の参加しない友人達の会費制で済ませるものが増加していますし、結婚式を省略することも増えています。愛がなければ結婚しないでしょうが、愛の永続は保障できませんので、2人の愛情のみでは離婚が増えるのもやむを得ないことなのです。

 日本の婚姻は、平安時代末期まで、夫が夜に妻のもとを訪れて明け方まで共にすごすという「通い婚」で、夜明けになると夫は自分の家へ帰って生活をしていました。
 男性は恋仲になった彼女のもとへ通いましたので、熱がさめたり、別の女性を求めるようになると女性のもとから去ります。女性に子供ができると、女性の血縁集団の中で育てられましたので子供は誰の子かは問題にされませんでした。

 平安末期に藤原氏の摂関政治となり、成功の制度が一般化します。土地を寄進することにより地位や権力を藤原氏より保障されるということですが、これまで共同体の共有財産でありました土地が、有力者の私有財産となり私領と化したのです。10戸ほどの家が集まり70〜80人で構成された血縁集団の共同体が崩れてしまいましたので、成人した女性は男性のもとへ嫁入りするようになりました。
 子供は特定される父母に育てられ、家の後継者として父の財産や地位をうけつぎます。有力者は名字を使用し排他的な「家」が成立し、「家」が集まって「家族」集団ができたのです。この頃から戦闘する時には「家名」を名のり自分の地位や家柄を相手に伝えてから戦いました。

 11世紀に関東で先祖伝来の本領を名字の地とし、そこを守るのは武士団の惣領で、先祖より継承した墓地や、一族の祭神の神社や寺院を建立し祭祀するようになりました。惣領は先代の子供のうちすぐれたものが嫡子として選ばれ、武士団の代表となり、その他の一族衆を「家の子」とし、更に非血族者を「郎党」として引きつれ武士団を形成しました。
 名字というのは、先祖伝来の所領支配権を継承する「家」につけられた名称でありましたので千年の歴史をもっています。

 一人の人の生命は過去にさかのぼると遥か彼方の先祖から親から子、子から孫へと伝承されていますので、永遠の生命とのつながりに到達してしまいます。今、いきている自分は永遠の生命から生かされていると気づくことこそ、人間の尊厳の基本なのです。永遠の生命から生かされている二人の男女が縁により夫婦となって家庭をつくりますので、それぞれの親、祖父母、曽祖父母と先祖につながって生まれてきて結婚したことを考えてみることも大切です。
 先祖のことを無視し、永遠の生命とのかかわりを反省しないでいると、家庭の聖域も精神性も失われ生きるよりどころがなくなってしまいます。家の永続のことなど問題外となってしまいます。

 高度経済成長期に多くの若者が単身で都市に職場を得て核家族をもつようになりました。郷里には老父母や祖父母をおいたまま後継者が転出した家族は悩みが多く、苦労しましたが、近年自分も退職して第2の人生へ再出発しなければならなくなりました。そして長い老後の生き方、先祖のこと、郷里の墓のこと、家の将来のことなどで悩んでいるものが増えています。まさに少子高齢化社会で、家族の崩壊は多くの人びとを生きる希望のないような不幸におとしいれています。

 「家」は平安末期の武士たちの社会で成立し、家名や家紋を重んじる生き方を現在まで伝えています。名字から家の永続のために身を賭した先祖達の生き方を知ることができます。

 家の永続性を考えるとき、鎌倉幕府成立に深くかかわっていた「足立氏」の存在があります。「足立氏」はあまり知られていない家名であり、権力者の陰で献身的な生き方をする人の多い歴史の表に登場することの少なかった一族であります。
 常に自利利他の精神で多くの人々の生きる幸せのために身を賭した人物が多い家であったようで、「足立」と「安達」をつかいわけながら家の存続につとめています。
 遠祖「足立遠元」に対する尊敬と崇拝の念が信仰となって一族の精神的バックボーンを形成したから、その生き方は今日まで伝えられているのです。

 足立氏の群像を調査して「家」の問題を考えていきます。

 

 

                                 VOL.14     2001.1.12

 

        足立氏 ふるさとの風土

 

 足立氏の「ふるさと」は坂東で、いまの関東地方を坂東というのは、足柄、碓氷の坂より東ということで、二つの峠によって外から隔てられ、大和朝廷への服属もおくれ、異域とされていまして、坂東の北方は蝦夷の住む「みちのく」であり、相模、武蔵、安房、上総、下総、常陸、上野、下野の八国があり、これを坂東八カ国といいます。

 足立氏の先祖は、この坂東の地、武蔵国の足立郡に本拠をおく坂東武者、武蔵武士でありました。この地域は律令制が衰えると国家権力の統制がきかなくなり、秩序が崩れて内乱が頻発するなどして独立の気風がありました。足立郡の足立氏を考えるには、平将門の乱(天慶3年、940)ころまでさかのぼらなければなりません。それは「国史大辞典」(吉川弘文館)で平将門にしたがった武蔵武芝の流れが足立氏の先祖だとされていることを調査してみなければならないからです。

 平将門(903〜940)は坂東を根拠地として、天慶の乱をおこし、古代貴族国家に対し初めて本格的に武装反乱に立ちあがった武将です。出身は桓武平氏、祖父高望王は上総介、父良将は鎮守府将軍をつとめた家柄でありましたが、下総を基盤に勢力をひろげ、叔父国香を殺して、常陸、上野、下野の国府を攻め落とし、未曾有の戦いを国家に挑んでしまったのです。
 この乱以降、関東地方に源氏の勢力がのびてきます。11世紀前半、平忠常の乱を鎮めた源頼信、11世紀後半の前九年の役、後三年の役を平定した源頼義・義家と相模、武蔵、上総、下総の坂東武者との関係が強いものとなってきます。

 安倍貞任(1019〜62)は奥州の豪族で、父頼時とともに陸奥を押領して貴族国家に対抗して国司と争います。朝廷は源頼義(998〜1075)を陸奥守に任命して安倍の反乱を鎮圧しましたが東京都足立区の白旗塚には源義家の奥州遠征の伝説がのこっています。

 

 

                VOL.76         2002.8.11

 

        武蔵武芝

 

 足立氏のルーツは武蔵の国にあった足立郡にあります。足立郡は埼玉県南東部と東京都足立区全域にあたる地域で東は古隅田川より埼玉、葛飾両郡に接し、西と南は荒川により大里、横見、比企、入間、新座、豊島郡に接した66ヵ郷で広大な地域です。

 足立郡の郡名は「続日本紀」神護景雲元年(767)12月の条に初見があり、足立郡の人丈部(はせつかべ)直不破麻呂らが武蔵宿禰の姓を賜わり、不破麻呂が武蔵国造となったという記事がみられます。そして、この郡を治めていたのは、大化改新以来西角井家であります。平将門の乱で活躍した「足立郡司判官代」の武蔵武芝は不破麻呂の後裔であるとされています。
 太田亮の「姓氏家系大辞典」には「将門記に足立郡司判官代武蔵武芝と見ゆるもの」の子孫が足立氏だとされており、吉川弘文館発行の「国史大辞典」にも「足立氏は平安時代以来源氏の家人で、この家は足立郡司武蔵武芝の子孫であり、鎌倉時代には藤原氏と称している」と書かれています。

 武蔵武芝は治郡の名の高い名郡司で、国衙からも住民の百姓からも信頼されて郡内に良政を施し精勤していました。ところが、武蔵権守(仮の国守)になった興世王(桓武天皇五世の孫)が、正式な着任をまたずに足立郡にはいろうとしましたので、武芝はその様な慣例はないと入部を拒否したのですが、興世王は強引に入部して武芝の舎宅や民家に押入り財物を奪い取り封印してしまいました。
 武芝は不法を訴え押収した財物の返還を申し入れますが興世王は耳をかさないどころか、武蔵介の源経基とともに合戦の準備をはじめました。この争いは平将門の仲介でおさまるかに見えましたが、武芝一派が経基の営所を包囲したことから、経基は京都に逃げ帰り、彼らが反乱を企てていると報告します。

 この事件は天慶元年(938)のことですが、この翌年常陸の土豪藤原玄明と国守の紛争に介入した将門は、国府を焼きはらい公然と国家に反抗します。以来関東の諸国に出兵して国守を追い、弟や一族のものを国守に任命して、自分は新皇と称して関東の自立をはかりました。将門に武蔵も支配されましたので、平将門の乱に武芝も渦中にひきずりこまれてしまいます。
 この乱は天慶3年2月に下野の豪族藤原秀郷と従兄の平貞盛らの軍に攻められ、平将門は討伐されて終わりますが、武蔵武芝も足立郡司を退任し、氷川神社の祭事からも退いています。

 西角井家系図によりますと、氷川社務は武芝の娘によって継承されています。この娘は菅原正好が武蔵介として下向してきましたのでその妻となって、その子正範が外祖父にあたる武芝の跡をついで氷川社務司となったことになります。氷川神社の祭祀権が武蔵家から菅原氏に移ったということは足立郡司職も武蔵家から菅原氏に移ったと考えられますので、武蔵武芝の子孫として足立氏が、足立郡司職をついでいたということはなかったことになります。

 武蔵菅原氏は、武芝の娘を母として正範が生まれていますが、兵部少丞であり、その子が行範で足立郡司権大夫となり、以後、行基、行永、正見、宗基、正家と代々続いて足立郡司を歴任しています。そして菅原家は正家以降は内倉と称するようになり、氷川神社の祭祀権は菅原氏より内倉家へと移り、足立郡司も、豊島氏、そして足立氏へと移りました。

 豊島氏は祖の秩父武常のころから武蔵で勢力をもっていました。足立区の史跡公園になっています白旗塚には、源義家の奥州遠征に豊島武常が附会したとの伝説があり、北区の上中里の平塚神社に居館があったとされ、足立郡を早くから支配していたとされます。
 2代目の常家は義朝にしたがって保元の乱に参加して討死しています。3代目康家は足立、多麻、新倉、児玉の四郡を領有したとされていますが、治承2年(1178)正月に逝去していますので、頼朝の挙兵以前に死亡していました。

 

 

                                  VOL.16     2001.1.26

 

        小野田三郎兼広(兼盛)

 

 丹波青垣町妙法寺に所蔵されています『足立家丹州領地並由緒書』によりますと、足立氏の先祖は、元祖藤原鎌足であり、17代の孫小野田三郎兼広の二男が遠兼であり、右大将源頼朝公家人で祖父より武州足立郡に住し足立藤九郎と名のり、民部凾に任ぜられたとなっています。
 また、佐治庄地頭足立氏系図では遠兼の父は忠兼、祖父は定忠となっていて忠兼は蔵人と注記されています。この系図は高藤流藤原氏を先祖とし、遠兼の妻が豊島平{伏泰家の女とあり「外祖泰家譲與足立郡地頭職仍一円知行之」の注があります。

 更に『尊卑分脈』には山蔭流で下総掾、出羽介国重の男、小野田兼盛が遠兼の父となっています。このように遠兼の父については、兼広、忠兼、兼盛となっていますが、いずれも兼の字があり、小野田三郎の注がありますので同一人物と思えます。
 また藤原北家の二つの流れの問題についても、妙法寺文書は「十七代孫小野田三郎」として系統を重視していませんので、今更7世紀以来の系図を推理する必要もないと思われます。

 『与野市史』には「平将門の乱後、氷川社務司および足立郡司職は武蔵氏から菅原氏に移っていたことが知られる。下って平安末期には氷川社務司は菅原氏が、足立郡司職は足立氏が継承しており」とありますが、郡司に任用するのは在地の土豪でなければ無理なことだとすると、遠兼以降郡司になるためにはその父、小野田三郎兼盛はすでに足立郡内で有力な土豪であったとするのが自然であります。
 このことについては『大宮市史』に「足立氏は大宮市内殖田谷郷に本拠を有する在地豪族」であったとし、「あだちとのの屋敷」と称される場所もあり、古代以来の式内社足立神社の存在もそれを裏付けるものとされています。

 さらに金沢正大氏は「兼盛は無官の『小野田三郎』と称するのみ」で、彼が藤原「国重の実子として土着したのか、在地豪族なのか、国重との婚姻関係等で、養子関係に入ったのか、いずれとも判断出来」として足立氏が山蔭流とはいえないとされ、「小野田系」の嫡系とされています。
 しかし、兼盛の孫の遠元の娘が藤原光能と結婚し、知光(1168生)、光俊(1179生)を生んでいますので藤原氏とは極めて深い縁で結ばれていたと思えます。
 ちなみに藤原光能は後白河上皇の近臣で蔵人頭として院旨を伝える近臣の最高位に任ぜられていました。

 関東には11世紀の源頼義、義家以来源家との主従関係をもつ在地武士が多かったのですが、武蔵の在地武士が保元・平治の乱で主流をしめ他を圧倒しており、その中には頼義、義家時代からの譜代の家人も多くあったことから、遠元の祖父兼盛は源家譜代の有力武士であったとされています。

 


足立藤九郎盛長像

 

 

                                  VOL.17     2001.2.2

 

        足立遠兼(小野田六郎)

 

 足立家の先祖は一般に足立遠元とされていますが、妙法寺文書では「遠兼右大将源頼朝公家人也自祖父住武州足立郡仇名足立藤九郎任民部丞」とあります。足立藤九郎については後に記しますが、先にみた様に祖父の代以前より足立郡に住居をもっていた地方豪族であり、国衙行政につとめた従六位くらいの人物であったと考えられます。「曽根本足立家代々由来」には「足立元祖民部丞藤原遠兼」という表現もされており、足立遠兼を足立家の先祖とする記述もあります。

 「丹州足立氏系図」には、遠兼について「武蔵国足立郡住」とあり、遠元について「足立と号す。母は豊島平{伏泰家女、外祖父泰家、足立郡地頭職を譲与す、依て一円知行」と注記されています。これについて安田元久氏が「泰家が実際に足立郡地頭職を有していたというのは、はなはだ疑わしい。それ以上に、彼の時代に『地頭職』という名称が行われたとも考えられない。」とされているようにこの系図も後世の創作であります。

 しかし、康家の娘が足立遠兼の妻であったこと、そして遠元の母であったことは疑問の余地はありません。また足立区の史跡公園になった白旗塚には源義家の奥州遠征の伝説があり、奥州へ義家を案内した豊嶋氏の居館の跡が平塚神社になったという記述もあります。
 「豊嶋氏系図」には保元の乱で討死した常家のこと、足立、多麻、新倉、児玉の四郡を領有していた三代目康家(泰家)のことも記述がありますが、その康家も治承2年(1178)病死していることから、豊嶋氏から足立氏へ嫁いだ遠兼の妻へ足立郡の所領が譲られたということは充分考えられることです。しかしもしそうなら何時のことか、どの領域であったか不明です。

 「尊卑分脈」について金沢正大氏の安達藤九郎盛長についての考究によりますと、「基春」が「安達」とあり、「延慶本平家物語」に安達盛長が「足立藤九郎盛長」となっていて同訓異字である。又「兼盛」と「遠兼」、「盛長」は通字性により親子関係で、これが兄弟となると遠元と盛長は甥と叔父となる。しかし、この系図では盛長が小野田藤九郎とされ遠兼が右大将家家人安達藤九郎民部丞となっていることに疑問をもたれています。

 ところが、盛長は正治2年(1200)に66歳で死去していますので、その生年は保延元年(1135)となり、遠兼の生年は不明ですが、息子の遠元が平治の乱(1159)に参戦し右馬允に任官していること、遠元の娘が仁安元年(1168)生まれの知光、治承3年(1179)生まれの光俊の母であることから推定すると盛長より遠兼が年長で兄となり「尊卑分脈」の序列は逆であり傍注も入れかわることになりますから、遠兼が安達(足立)六郎となり、盛長は右大将家家人の安達藤九郎盛長となるとされています。

 鴻巣市糖田の放光寺には同市の文化財、鎌倉期の等身大の坐像、足立藤九郎盛長像があり、同所に盛長館址がありますので、安達藤九郎盛長は足立六郎遠兼の弟とすべきであります。盛長は文治5年(1189)に安達郡を賜っていますので、それから安達姓を使用したとみるべきで、すでに55歳になっていましたし、それは遠元が治承4年(1180)10月8日に頼朝より足立郡の領掌権を安堵されてからかなり後のことです。

 以上のことから妙法寺本の「遠兼右大将源頼朝公家人也」とありますが、遠兼は戦乱の続く東国にあって、小野田氏の嫡系として源義家以来の源氏家人として足立郡内に勢力をもち姻族を通じて武蔵の有力武士となり、一族の発展する基礎をつくり、「足立神社」を中心に敬神崇仏を大切に一族の結束をかためた人物でありました。

 

 

 

 

 

 

第 三 章

鎌倉時代の足立氏

 


足立右馬允遠元館跡

 

 

VOL.18     2001.02.09

 

        足立遠元

 

 足立氏は平安末期から歴史の舞台に登場するようになり、源頼朝の鎌倉幕府創立に主導的な役割をはたしています。武勇に優れ、忠義、礼節、信義、質実剛健を重んじ敬神崇仏の念厚い「文武両道の勇士」であり「武士の鑑」でもあるとされています。
 足立氏の祖とされている足立遠元とはどんな人物だったのでしょうか。

 遠元の父は小野田三郎兼広の長男遠兼で、祖父より武蔵足立郡に住んでいました。またの名を小野田六郎といい民部丞に任ぜられており、藤原氏を名のる足立郡領で、その弟に安達家の祖といわれています足立藤九郎盛長がいます。
 遠元の母は豊島康家の娘で、祖父常家は源義朝に従って保元の乱に参戦し討死しております。康家は、豊島、平塚、足立、多麻、新倉、児玉の六郡を領掌しており、康家の死後足立郡は遠兼にゆだねられています。両親の家はいずれも源氏ゆかりの一族であり源義朝の家人として武蔵の名族でありました。

 遠元の生年、没年とも正確に記したものはありません。足立四郎左衛門尉と号していましたが、これは建久元年(1190)11月頼朝の推挙により任ぜられてからのことであり、それまでは平治の乱(1159)で大活躍をして右馬允に任ぜられていることから右馬允遠元と記されています。右馬允として任官していますので30歳頃と考えますと、1120年代の生まれということになります。
 さらに藤原光能に嫁いだ遠元の娘の子知光の生年が仁安元年(1168)生まれであることから、もう少し前の生まれかもわかりません。また没年は「吾妻鏡」承元元年(1207)3月3日の幕府鶏闘会に参加した記事が最後でありますのでこの年ぐらいに死没したようですがそれはすでに80歳を越えていたことになります。

 足立遠元の遺跡は大宮市、桶川市に残されています。「新編武蔵風土記稿」に、大宮市植田谷の旧家勘太夫屋敷について「この勘太夫屋敷は先祖が在城した城址といわれるが、今も西方に堀をめぐらし、北の方には大沼があって、すこぶる要害の地であることは確かで、ずっと古いことはともかくとして、中世には相当の人が居住していたことは疑いない所である。この家にはいまでも国俊の刀、及び先祖が用いたという馬の鞍、長刀、鎗、刀、脇差等が沢山ある」と書かれています。
 遠元館址は、昔は三町歩の広大な敷地に土塁を廻らし、その中に足立神社があったといわれていますが、足立神社は明治の初期に飯田の足立神社に合祀されております。この屋敷址には勘太夫の子孫が住んでおられます。この子孫の小島家も元は足立氏で家紋は足立氏の家紋のケンカタバミ、五本骨日の丸扇で古文書が多く残されています。

 次に桶川市の足立館について「足立右馬允遠元館跡」と「三ツ木城址」があります。
 「足立右馬允遠元館跡」は桶川市末広二丁目にあり、現在は桶川市総合福祉センターになっている住宅地の一帯です。かつては老杉があり一本杉といわれていました樹齢幾百年のものだったそうで根株が残っています。
 「新編武蔵風土記稿」桶川宿に「旧蹟、屋敷跡、足立右馬允カ居住ノヨシ、今ハ林トナリ、其中ニ石ノ祠ヲ立レトモ、文字ナケレバ其由ヲ知リカタシ。昔、屋敷跡トオホシキ所ヨリ武器陶器ナト掘出セシコトモアリ」と記されています。老杉の根元に安置されていた石の神明宮(高さ70a)は現存していますが、右側に足立右馬允の家紋を刻し、左側に「神明宮建久三歳城主足立右馬允建之 文化六巳歳再建 府川甚衛門尉義重」と刻されています。府川氏というのは桶川宿本陣の主人であった人物です。

 足立右馬允や安達藤九郎盛長の居館とされているものに「三ツ木城址」が桶川市大字川田谷字城山にあります。
 川田谷の大宮台地の標高19.6bにあり三方が泥深い湿地で自然の要害の地でその範囲は東西120b、南北110bの地で、現在は「城山公園」として整備されています。城跡は山林で周囲には土塁、壕の跡があり、高台より四方一望でき川越方面を見渡せるところです。林の中に木造の小祠社2つがあります。
 居住者には前記の2人の他に石井丹後守の名もありますが、この人物は15世紀後半に活躍した岩槻太田氏の家臣です。

 


一本杉根元 石祠

 

                  VOL.19     2001.2.16

 

        足立遠元 2

 

 足立郡の豪族として、また郡司として最も有名なのが遠元ですが、郡衙は大宮市におかれ、現在の埼玉県北足立郡と東京都足立区を含む広大な地域を領有していました。藤原中納言山蔭の子孫が東国に下って土着し、遠兼の時に足立郡に居住して足立郡領となったともいわれています。
 郡領というのは、国に国司があり、郡には郡司が任命されて、それぞれの地方行政を担当しましたが、郡司には郡領・主政・主帳・書生・案主等の役職があり、郡領は長官として最も権力をもっていました。郡領は地方豪族の終身、世襲の職となっており、国司の推薦で太政官から任命されております。足立氏も源氏を棟梁として仰ぐ武士集団を支配していましたので足立郡一円を領掌しました。

 当時の武士が平生居住していた所が館であり、その地域の有力な私営田経営者であったり、荘園の荘司として荘園管理をしていますので広大な館をもち、家の子、郎党を従え、労働力としての下人、所従を使役して館内に住まわせていたのです。その上、治安が悪かったので、常に外敵の侵入を防ぐという防衛策を講じ、自衛していました。館の周囲には堀をめぐらし、その内側には土塁を設けていたのです。
 足立氏は源氏の家人として源義朝には、遠兼、遠元父子ともに従い、戦乱には一族と共に参戦しております。

 保元3年(1158)8月、後白河天皇は親政わずか2年で二条天皇に譲位し院政を再開しますが、これにより陰湿な動きがでてきました。後白河院の信任で実権をもった信西と、それと結んで頭角をあらわした平清盛に対しまして、出世の道を封じられた藤原信頼と平氏に先をこされた源義朝が信西打倒の策謀をすすめます。

 平治元年(1159)12月清盛が嫡男重盛とともに熊野詣に出た隙をついて9日の夜、義朝は院御所三条烏丸殿を包囲して後白河院を内裏の一本御書所に幽閉して院御所に放火、同時に姉小路西洞院の信西屋敷を焼き一族を追放、追いつめられた信西は自害するというクーデターを起こしました。
 14日にはその成功を祝し除目を行い左馬頭義朝は播磨守に、その子頼朝は右兵衛に任官、足立四郎遠元も右馬允に任ぜられます。

 ところが清盛が入京しますと藤原信頼を見放した公卿たちが、天皇を六波羅の清盛邸に後白河法皇を仁和寺へ脱出させます。天皇、上皇の不在となった内裏で信頼、義朝は完全に政治的敗北となり、あとは源氏の意地をかけた戦闘だけとなり、せっかく遠元ら武蔵武士の勇戦奮闘も役に立たず、信頼、義朝の首級は東獄の門の樹に梟される結果となりました。
 武蔵には頼義、義家時代からの源氏ゆかりの家人も多く、この敗北で武蔵武士は東国に帰りましたが平氏の時代となり、遠元も足立郡に帰り蟄居しております。

 平治の乱により清盛は一門と共に栄進し、7年後には太政大臣に就任しました。その政治は「平家にあらざらむ人は皆人非人」という状況で平氏敵対者を徹底して抑圧する弾圧政治が展開されます。武蔵も平知盛が国司となりました。そして、12歳の頼朝は清盛の継母の池禅尼に助けられ、伊豆蛭ヶ小島に流され、平家に属した伊東祐親や北条時政の監視下に20年をすごすことになりました。

 伊豆流人時代の頼朝を扶助したのは武蔵比企郡少領の比企掃部允の妻で頼朝の乳母、比企尼で、常に頼朝を庇って20年間仕送りをして保護してきました。
 比企尼は3人の娘がいましたが、長女は安達藤九郎盛長、二女は河越太郎重頼、三女は伊東祐親の二男伊東九郎祐清の妻です。
 足立遠元の叔父盛長は頼朝蟄居の間忠実に頼朝に近侍していました。後に盛長の娘は範頼の妻に、河越太郎の娘は義経の妻に、つまり比企尼の孫娘は頼朝の弟と結婚していることから、この3人の聟との関係は深いものでした。
 また盛長の妻の妹は伊東祐清の妻であり、祐清の妹が八重姫で頼朝との間に千鶴が生まれています。

 さらに足立遠元の姻戚を見ますと娘が畠山重忠と結婚しており畠山小次郎重秀が寿永2年に生まれています。遠元のもう一人の娘は藤原光能と結婚し、知光が仁安元年(1168)に生まれています。
 また光能の妹は後白河院の皇子以仁王との間に真性が生まれていることから、遠元と叔父の盛長、そして頼朝とは深い縁で結ばれており、遠元をめぐり頼朝と以仁王も姻戚関係にありました。

 


足立遠元館跡一本杉

 

                     VOL.20     2001.2.23

 

        足立遠元 3

 

 こうした東国武士間の身内関係、比企、足立氏とのつながりは頼朝の幕府成立に重要な役割をすることになります。足立遠元の娘が後白河院近臣の藤原光能の妻であり、その縁には以仁王もつながっていましたので、後白河院政の中枢に直結していたのです。
 比企尼が頼朝の日常生活を扶持し、盛長は日常近侍していたというだけではなかったのです。東国のかつての御家人というだけでなく甥足立遠元により後白河院政の動向は盛長を通じて頼朝に伝達されていたのです。頼朝にとって足立遠元こそ、最も信頼できる支持者であったことはいうまでもありません。

 足立遠元もまた、平治の乱後単に逃げ帰った義朝の家人としてかくれていたわけではなく、常に京洛貴顕との交流で政治の動向をみて源氏再興の時をさぐっていたので、頼朝の文武両道師範たりえたのです。
 頼朝挙兵の治承4年10月2日に「足立右馬允遠元 兼日依受命 為御迎参上」とあるのは当然で鎌倉入りをした10月8日に「足立右馬允遠元 日者有労之上 応最前召参上之間 領掌郡郷事不可有遺失之旨 被仰」と「吾妻鏡」にあるように東国御家人の第一人者として異例の恩賞をうけていることから、どれほど頼朝が頼りにしていたかを明白にするものであります。

 武蔵国は1160(永暦元)年に平知盛が国守となって以来、平氏が一貫して国勢を掌握していました。それを足立遠元の参陣と共に1180(治承4)年10月に畠山重忠、河越重頼、江戸重長の帰参により反平氏軍へと武蔵の豪族を決定的に転向させます。ここで10月5日国衙に入城し武蔵国を簒奪、秩父一党の長老重長を総検杖職に据えて新体制を樹立します。
 これも足立遠元女と畠山重忠の婚姻による武蔵雄族の秩父一党嫡流と足立氏嫡流との身内関係により成功したのです。重忠は頼朝近臣として鎌倉幕府創立に登場してきます。

 頼朝は平家討伐軍をおこすためには、関東諸豪族の協力が必要でありました。当時の諸豪族の権利を安堵して国衙や郡衙機構を利用して武家政権樹立を考えていました。そして治承4年(1180)に侍所をおき、元暦元年(1184)には公文所を設置して武家政治の機構を整備しました。
 鎌倉幕府の公文所は、貴族の家政機関にならってつくられた重要な行政機関で、分国や御家人を統治するための行政事務を担当していました。公文所設置のとき、別当には中原広元を、寄人には中原親能、藤原行政、足立遠元、甲斐四郎、大中臣秋家、藤原邦通等が選ばれましたが、これらの人々は京都の公家たちで実務官僚として堪能な士であり、遠元一人が御家人の代表として参画しています。

 遠元は元暦元年の志水冠者義高(木曽義仲の嫡子)残党の討伐、文治5年(1189)の藤原泰衡追討の際にも従軍し軍功をたてています。建久元年(1190)に頼朝が上洛した時、布衣侍十二人の内に選ばれて参院の供奉をしており、遠元は頼朝の推挙で左衛門尉に任ぜられております。頼朝の遠元に対する信頼は厚いもので、頼朝の姉の一条能保夫妻が鎌倉に来たときは鎌倉の遠元邸に宿泊していますし、頼朝夫妻も遠元邸で迎えているほどです。

 頼朝の死後、頼家が恣意的な傾向が強かったので、御家人の不満も高まってきました。そこで北条時政や政子の意見がいれられ、頼家が訴訟を親裁することができなくなり、北条時政など御家人と将軍側近の13人の合議制がとられるようになりますが、このうちの一人に足立遠元も選ばれ、依然として幕政の重鎮であったのです。

 「吾妻鏡」によりますと、足立遠元は承元元年(1207)ごろまで活躍しています。「丹波志」に「足立と号し、足立郡地頭職一円之を領す。頼朝公実朝公御両代武勇の師範たり」法名天福寺殿霊覚樹大居士とあります。
 遠元の嫡子は八郎元春であり左衛門尉となって足立家を継承しますが、他に遠光がおり、その子の足立遠政は勲功により丹波氷上郡佐治郷を賜ります。この子孫は代々佐治郷に住んで万才城城主として佐治郷の領主となりました。

 

 

                      VOL.21     2001.3.2

 

        源頼朝

                                           

 平治元年(1159)頼朝の父、源義朝は源氏勢力の巻き返しを図りましたが、平清盛に敗れ源氏の衰退を決定的にしてしまいました。このころはどんな社会であったのでしょうか。

 前九年の役の始まった1051年というのは、その当時の人びとが「末法の時代に入った」と思いこんだ時期です。末法というのは釈迦が入滅されてより正法、像法を経て末法となるということで、正法の時は教(釈迦の教え)、行(正しい教えの実践)、証(実践の結果得られるさとり)の三つが具わった時代であるが、像法になると教・行しかなく、証が得られない時代で、末法になると教しかない時代となり、末法は万年続くという思想です。
 平安時代の中期頃より藤原氏の勢力は地におち、貴族政治は惰性に流れ、世の中は物情騒然となり治安は悪く「皇居に放火するもの」さえあり、地方では中央政府に反抗するものが多くなりました。

 頼朝の代からさかのぼること四代で八幡太郎義家に至りますが、河内源氏の嫡流でその出身は大阪です。義家は7歳の時石清水八幡宮で元服し、八幡太郎を名のりますが、これから源氏は代々八幡神を氏神としました。このことから八幡社は全国に広まっていきます。義家は13歳で初陣ですが、東北で謀叛を起こした安倍一族との戦いでこれが前九年の役です。
 安倍一族はことの外強く黄海の戦いでは源氏方が大敗、義家の奮戦で虎口を脱したといわれ、この戦は清原一族の援軍で安倍一族を滅ぼすことができ、この功により義家は出羽守に任じられました。さらに義家45歳、陸奥守、鎮守府将軍として清原氏の内紛を鎮圧しますが、これが後三年の役です。
 この戦は義家の私事とみなされ、中央から恩賞もでなかったので義家は、私財を投じて、部下に報いましたので一層の信望を集める事になりました。この天下第一の武勇の士といわれた義家の孫が為義であり、その子が義朝です。

 さて、藤原氏が全盛を極められたのは天皇の外戚という地位を利用して摂関政治を行ったからですが、白河天皇は摂関政治では恵まれない受領たちに支持されて院政を始めます。白河天皇は後三条天皇の遺志を継ぎ、上皇になってもその御所で政治を行います。
 当然のことながら、院と摂関家とが対立し、天皇と上皇が政治の実権をめぐり争いとなり、それに公家も二派になり、それぞれに武士団がついて保元の乱を起しました。

 保元の乱は崇徳上皇側に藤原頼長、源為義らがつき、後白河天皇側に源義朝、平清盛がつき、戦は一夜で決まり、上皇は讃岐へ流され、頼長、為義は殺されます。しかし、この乱後、清盛が勢力をもちましたので源義朝、藤原信頼は、平清盛、藤原通憲(信西)と対立してしまいます。
 平治元年(1159)清盛が熊野詣に行った留守に源義朝は兵を挙げ通憲を斬りますが、清盛に討たれ信頼も斬首されてしまいました。義朝の長男、悪源太義平も清盛父子を狙って捕えられ殺されました。

 13歳で平治の乱に父に従って初陣をつとめた頼朝も捕えられましたが、清盛の父忠盛の後妻池の禅尼の助命で助かり伊豆へ配流されます。
 頼朝が流された伊豆の蛭が小島は伊豆半島中央を流れる狩野川の中州に近いところであったようで、地もとの豪族北条時政(伊豆の国府に仕える役人で山木判官平兼隆の配下)や伊東祐親(伊豆の土豪)らの監視のもとに34歳まで20年間この地に過ごしています。

 頼朝はもっぱら読経三昧の生活で法華経を読誦しています。箱根権現の住僧に師事して仏教信仰に励む毎日でありましたが以仁王と姻戚でむすばれていた足立遠元により都の情報は正確につかんでいたようです。
 そして時々狩にもでかけており、伊豆の山越で伊東の豪族伊東祐親の屋敷にもしのんで行って娘に千鶴という男子を出生させています。この子は伊東祐親に殺され、頼朝もあわやのところ走湯権現に逃れ助かっています。また北条時政の娘政子とも仲が親密になり大姫が生まれている様で生活は自由であったようです。

 

 

                     VOL.22     2001.3.9

 

        源頼朝 2

 

 頼朝の身を遠くから心配してくれたのが乳母の比企尼で、この尼の長女の婿が安達盛長であり、常に頼朝のそばに仕えていましたし、平治の乱で所領を失った佐々木四兄弟もおり、また頼朝の生母の実家は熱田大神宮といわれ、ここからも援助を受けていました。

 当時の武士は国府の役人として、知行国主の代官の目代の下で働いていましたが、そのうちに国府の有力者となり、治安が悪いとその地位は向上しています。
 また荘園の管理者でもあり、庄司・下司と呼ばれ次第に広大な地域を勢力下におき開拓して田畑にしたり、子弟と共に所領内の要地に館を建て、土地の護保拡大につとめました。しかし、地方の豪族であっても中央から来る目代の力は強大で自分の土地を安堵してくれる人物を求めていたのです。

 治承4年(1180)、後白河法皇の皇子以仁王は源頼政とともに平氏打倒の挙兵を4月に起こします。以仁王は第二皇子で親王でありましたが母は藤原成子で摂関家でなかったので親王宣下を得られず王にとどまり、二条、高倉と天皇になり、高倉天皇の子安徳天皇が即位すると、以仁王はこの即位を認めず新王朝を宣言しました。
 東国では以仁王を「新皇」と呼んでいましたので、足立遠元の娘が藤原光能の室であり、光能の妹が以仁王との間に真性を生んでいましたので、遠元は「新皇」の姻戚でありました。

 頼朝の叔父の親家行家が令旨を届けに来ますが、頼朝はこれを勅令として奉じます。清盛の源氏追討計画も頼朝に届きましたが、8月17日夜ついに目代山木判官を奇襲して伊豆国府の実権を押えました。
 世は平氏全盛の時代でありましたから源氏につくか、平氏につくか、この挙兵は東国の豪族に厳しい選択をせまることになりました。

 挙兵から平家滅亡までの4年半、頼朝は鎌倉を動かず、専ら東国支配を強化し、義経追討をきっかけに朝廷や、貴族の支配にも介入して全国的な軍事・政治の権限を強化していきました。建久3年(1192)後白河法皇の崩御により、征夷大将軍となって「天下の政道」を樹立します。
 頼朝の政道は理不尽を排除した道理を治国の基本とするものでありました。また終生仏教信仰に励み、法華経を座右の経典として読誦、書写していたといわれています。比叡山の霊威を尊崇し、重源の東大寺再建にはその復興を援助し、東大寺建立供養法会には後鳥羽上皇と同座して参拝しています。

 安房国東条郷に東条御厨がおかれていますが、これは一の谷合戦で再挙することができた記念に伊勢外宮へ寄進した神領です。「天照大神の御くりや、右大将家の立て給いし日本第二のみくりや、今は日本第一なり」と日蓮聖人はこの安房御厨のあるところに生まれたことを果報といわれております。
 日蓮聖人は伊豆に流罪されますが、この時もこの地が「兵衛介頼朝のながされてありしところ」と縁の深さを記されています。

 日蓮聖人は、頼朝が平家を討って亡父の願いをはたし征夷大将軍になったことを「法華経の利生」であるとされ「成親父の御くびを太政入道に切られてあさましというばかりしに、いかなる神仏にか申すべきとおもいしにいづ山の妙法尼より法華経をよみつたえ、千部と申せし時、たかおのもんがく房、おやのくびをもて来りてみせたりし、かたきを打つのみならず、日本国の武士の大将を給いてあり、これひとえに法華経の御利生なり」と「南条殿御返事」に記されています。

 更に、頼朝が賢人なのは法華経を読誦し、法華経のご利生をたえず心に刻みつけていたことにあるとされ「現世の祈祷は兵衛佐殿の法華経を読誦する現証なり」とされています。そして謗法の人は天から守護されることはない。頼朝は不妄語の人であり、不妄語の釈迦仏、法華経の化身である八幡大菩薩を信じ、法華経を読誦したので勝利したといわれています。

 


源頼朝の墓

 

                  VOL.23     2001.3.16

 

        比企尼の一族

 

 源義朝が鎌倉にいましたころ、比企掃部允は義朝の家人となっていたようで、やがて義朝が武家の棟梁として都で活躍するようになりますと、比企掃部允夫妻も京都へのぼり義朝の側近として奉公することになります。側近の中でも最も信頼されていたようで、久安3年(1147)に頼朝が生まれますと妻の比企局がその乳母に選ばれています。武家社会では、子女が生まれると家人の中で最も信頼できる側近の妻に乳母を命じています。

 比企局には3人の娘がありました。長女は二条天皇に仕えて丹後の内侍とよばれていましたが、すぐれた歌人として知られており、惟宗広言に嫁ぎ島津家の先祖として有名な島津忠久を生んでいます。この女性は平治の乱後比企掃部允、比企局に従って武蔵に下り、足立遠元の叔父安達藤九郎盛長と再婚していますが、盛長との間に生まれた女子は源範頼の室となりました。また、比企局の二女は河越重頼の妻となり、その娘は源義経の妻となっています。三女は伊東祐清に嫁いでいましたが伊東祐清が討たれてから、平賀義信と再婚して朝雅を生んでいます。

 平治の乱で頼朝が伊豆に流されると比企掃部允は京都を去って武蔵国比企郡中山郷に住んで頼朝の扶助につとめます。そして安達盛長、河越重頼、伊東祐清の3人の娘婿はいずれも頼朝の側近として配流時代の頼朝に仕えています。比企掃部允は比企郡が国衙領でありましたから請所となって受領の支配を受けていた比企郡の小領主であったといわれており、猶子となっていたのが比企藤四郎能員です。比企尼のことについては、「吾妻鏡」に「武蔵国比企郡を以って請所となし、夫掃部允と相具して下向し、治承四年の秋に至るまで廿年間、御世途を訪ひたてまつる」とあります。

 鎌倉に幕府をひらいた頼朝は比企尼(夫は逝去していた)に酬いるため鎌倉に住まわせますが、その地が比企谷で、その邸宅を比企谷殿とよんでいました。また比企能員は御家人として側近に命じ、比企、入間、高麗の三郡を所領にして遇しております。比企能員も有力な御家人で、木曽義仲の残党が甲斐信濃で叛逆を企てたのを討伐したり、平氏追討軍に加わって九州遠征をしたり、奥州藤原氏征討のときには北陸道の大将軍として活躍しております。

 寿永2年(1182)8月に北条政子が嫡男頼家を出産しますが、その産所となったのが比企谷殿であり、乳母になったのが比企能員の妻でありましたので、頼朝、頼家との絆は強固なもので、頼朝夫妻もしばしば比企谷殿を訪れております。比企の娘、姫前は北条義時の妻となり、能員の長女若狭局は頼家に愛され建久9年には一幡が生まれており頼家と比企一族の関係が強まり、北条氏と対立が深まりました。

 比企能員は北条氏に謀殺されてしまいますが、能員の末子能本は京都に落ちのびて学問で身をたてます。のちに姉の若狭局の長女竹の御所(四代将軍藤原頼経の室)のはからいで鎌倉に帰って来ますが、この時日蓮聖人に逢い「立正安国論」の校訂にあたって居り日蓮聖人に深く帰依いたしました。そして比企大学三郎能本は日蓮聖人に自邸を捧げて法華弘道の根本道場を創建しますが、これが日蓮門下最初の寺です。

 寺号を長興山妙本寺といいますが、父の比企能員の法号を「長興」といい、母の比企尼の法号が「妙本」であり、いづれも日蓮聖人より授かったもので、これから山号・寺号がうまれています。この寺へ日蓮聖人は佐渡から帰還されて初めて立ち寄られたのですが、「三大秘法最初転法輪道場」とされています。山の谷間にある境内は杉木立にかこまれ閑静な寺院で、宋の陳和卿の作の釈迦如来像、日蓮聖人の大曼荼羅が残されています。この曼荼羅は日蓮聖人の御入滅の時に枕頭に掲げられたという大型の本尊で日蓮宗の宗定本尊とされているものです。

 大学三郎は文永8年の竜の口の法難の時には命を投げだして聖人を救うことに奔走しました。御家人の代表でありました安達泰盛とは書を通じての友人でありました。このことを日蓮聖人は「大学三郎御書」に「城殿と大学殿は知音にてをはし候。其の故は大がく殿は坂東第一の御てかき、城介殿は御手をこのまるる人也」と書かれています。

 


比企一族の墓

 

                  VOL.24     2001.3.23

 

        足立藤九郎盛長

 

 藤九郎盛長は頼朝の乳母比企局の娘、丹後の内侍と結婚して、頼朝が配流生活をしていた時から近侍として身のまわりを世話しておりました。

 「新編相模国風土記稿」には次のように記されています。
 「盛長は備前守相継の曾孫、小野田三郎兼広が子なり。頼朝蛭島にあって窃に兵を挙げんと欲せし時、盛長其の謀をたすく。……頼朝盛長旧臣たるを以って親任せらる」とありますから、藤九郎盛長は伊豆流人時代の頼朝に近侍していただけでなく、甥の足立遠元の娘が後白河院近臣の藤原光能と婚姻関係にあり、光能と以仁王も姻戚でありましたので後白河院の院政中枢と直結していたことになり、光能と遠元ラインにより中央の情報を直接頼朝につたえていたのです。

 藤九郎盛長は頼朝が挙兵する時、諸国の武将を歴訪して覇業成就のため武士団の参入を説いて廻ったということです。頼朝が挙兵した治承4年(1180)8月17日に伊豆の山木判官平兼隆を討たんとしたとき、三島神社の神事奉幣使として参向していますし、富士川の戦でも活躍しました。
 同年10月23日相模の国府で頼朝が家人に勲功を行った際には本領安堵されましたが、相模、武蔵、下総の各地に所領をもっていたとされています。陸奥の安達郡にも所領があり、安達氏を名のるとされていますが、北足立郡糠田がもともと盛長の領地であったようです。
 それは北足立郡糠田に安達盛長館があり、桶川市末広二丁目に足立遠元館があったとされていますし、この糠田に真言宗放光寺があり、足立藤九郎盛長の創建とされており、この放光寺には鎌倉期の木像「足立藤九郎盛長蓮西法体像」が所蔵されています。

 盛長は頼朝の信任が厚く、奥州征討に参戦したり、京都への使者をつとめたり、建久5年(1194)12月には鶴岡八幡宮の奉行人となって八幡宮造営を行っています。この時には鎌倉に館をもっておりました。その館は鎌倉の字長谷の甘縄神社の前にありましたが、頼朝、政子夫妻をはじめ歴代の将軍がたびたび訪れています。
 「吾妻鏡」によりますと治承4年(1180)12月24日に頼朝が初めて訪れたので、馬一疋を献上したとか、文治2年(1186)6月10日に盛長の妻の病気見舞に訪れていたり、建久3年(1192)には頼家が来臨したので剣一口を献上したとかの記録あり、建久8年に頼朝が訪れたときには盛長に上野国中の寺社を管理するよう命ぜられたりしています。

 この様に盛長の館には実朝、頼経と足をはこんでおり将軍との絆の強さをものがたっています。しかし、正治元年(1199)頼朝が逝去しますと頼家の代となり、その頼家が、盛長の子景盛の妾女を奪うというような事もあり、藤九郎盛長は出家して蓮西と号しました。
 将軍頼家の下で13名の合議制ができますが、その一人に加わっていました盛長も、正治2年(1200)4月26日逝去します。年は66歳でありました。

 盛長の長子は安達景盛で母は丹後の内侍であります。父と共に頼朝につかえていました。三代将軍実朝のとき、右衛門尉に任じられ建保6年(1218)出羽介となり、秋田城を管し秋田城介となります。これより秋田城介は安達氏の世襲の職となります。
 承久元年(1219)将軍実朝の死により出家して大蓮房覚智と号しまして、高野山に金剛三昧院を建立して実朝の菩提を祈りました。安達景盛の女は北条泰時の嫡男時氏の室(松下禅尼)となり、経時、時頼を生みましたが、この二人はつづいて執権となりましたので外祖父景盛は幕府のなかで権勢を高めます。
 政治的対立者であった三浦氏を滅ぼし、安達氏の隆盛の基礎をつくりました。その子安達義景、孫安達泰盛と続き「威勢先祖ニ越エテ人多ク随キ」というように幕府権力を独占するようになりました。

 弘安のころには従来北条一門に限られていた陸奥守に任じられたりしていますが、この権威は景盛以来執権一門と血縁関係を累ねてきたことによります。蒙古襲来の時、泰盛は子の盛宗を守護代として九州に行かせ、自分は御恩奉行として鎌倉にあり、北条時宗を助けて蒙古対策の中心的存在として活躍しています。
 時宗の死後得宗被官と対立が深まり、御家人勢力の代表でありました安達氏一門は弘安8年(1285)11月執権北条貞時により滅ぼされてしまいました。

 


足立盛長邸址

 

                  VOL.25     2001.3.30

 

        頼家と実朝

 

 足立遠元は平治の乱後故郷の足立郡に帰っていましたが、都との交流は続いていました。幕府創設以来、行政事務は堪能であり、都の朝廷とも接触をもち政治力を発揮していましたし、武術にもすぐれ頼朝に最も信頼されていた宿老でありましたが、晩年は心痛多く苦労がたえませんでした。

 頼朝が伊豆に流されていた時に北条政子との間にできた大姫がいます。大姫は木曽義仲の子の義高と結婚しましたが、義仲を滅ぼしたときに義高も殺されましたので、以来大姫は悲嘆の毎日を送っていました。
 この娘を後鳥羽天皇の后妃にしようとしました頼朝は、東大寺落成供養に北条政子と大姫もつれて都に上りました。足立遠元も供奉したことはいうまでもありません。都で丹後の局や源通親に接近し、親幕派の公家九条兼実の関白を罷免したり弟の慈円の天台座主を辞めさせたりして野望をとげようとしました。
 しかし、この頼朝の野心は源通親に利用され、通親の養女が生んだ土御門天皇が即位しますし、大姫も20才の若さで急逝してしまいました。そして天皇の外戚として権力を拡大しようとした頼朝も正治元年(1199)1月13日急逝してしまいました。更にこの年3月に頼朝の次女三幡も憔悴して逝去します。

 頼朝のあとをついだのは武芸の達人といわれた頼家で18才で二代目将軍となりました。しかし、朝廷には土御門天皇の外戚源通親がいますし、鎌倉には母政子と北条時政が幕府の支配を拡大して、将軍就任3ヶ月目には重要な職権でありました訴訟決裁権を停止されてしまいました。
 北条氏から疎外された頼家は側室の実家比企家をたより比企一族を重用します。前にみたように頼家の乳母は比企尼の娘であり、頼家の側室若狭局は比企能員の娘であり、その子が一幡です。

 幕府権力を独占しようとする北条氏にとって有力な御家人は邪魔でしたから頼朝時代の側近として勢力をもったものを粛清しました。その最初が梶原景時で頼朝の死の翌年1月に清水市で一族と共に殺され、更に頼朝の弟で生き残っていた阿野全成を謀反の罪で殺害します。
 そして頼家と比企能員の密談を理由に能員を殺し、比企邸に火をかけ、頼家の長男一幡6才を焼死させ、頼家も修善寺へ幽閉、翌年殺されてしまいました。

 頼家の弟実朝は12才で三代目将軍になりましたが兄頼家の様子をみていましたので、政子や時政に逆らうことなく、歌の道に逃避した日々を送ります。
 元久2年(1205)には畠山重忠親子も滅ぼされ北条氏の権力は強大となりました。実朝が親の反対をおしきってしたのは都の公家の娘との結婚だけだといわれています。
 在位期間は15年に及びましたが、建保10年1月27日右大臣就任の拝賀のため鶴岡八幡宮に参拝した実朝が石段を降りていたとき、公暁に首をかかれて死亡しました。

 


鎌倉 鶴岡八幡宮 治承4(1180)年 源頼朝創建  2002.7.14

 

                 VOL.26       2001.4.6

 

        足立遠元の子孫

 

 足立遠元が「吾妻鏡」から姿を消すのは建永2年(1207)3月の北の政所の中庭で北条時房らと「闘鶏」の会に出席したことで、これを最後に幕府の行事から退隠しています。鎌倉幕府の中枢にあって活躍した生涯ですが生年も没年も終えんの地も一切明らかではありません。
 丹波青垣町遠坂の報恩寺に遠政一族の墓地があり、その一基が遠元の墓碑と伝えられていますが、文字もなく供養塔だと思われます。

 足立遠元には6男3女がありました。嫡子は八郎左衛門元春で、左衛門尉となって足立家を継いでいます。元重は淵江田、遠景は安須吉、遠村は河田谷、遠継は平柳と号して庶子家を創立しています。
 更にもう一人は「足立氏系図」に母は源三位二条院讃岐と脚注のある遠光ですが、この人物は承元3年(1208)に丹波佐治庄の地頭となって山垣城を築いた遠政の父です。
 元重の淵江田は東京都足立区、遠景の安須吉は上尾市、遠村の河田谷は桶川市、遠継の平柳は川口市であり、その地名を号としてその地域を領有、支配していました。遠景は養子で天野遠景のことですが、足立郡に所領をもっていました。

 遠元の3人の娘についてですが、前にみたように後白河院の近臣で蔵人頭でありました藤原光能に嫁ぎ、知光、光俊の母となったものと、畠山重忠に嫁して小次郎重秀の母となった女性、更に北条時政に嫁して時房、時直を生んだ女性がありました。都の公家、有力な御家人、そして北条氏の外戚でもあったのです。

 足立遠元の嫡子八郎元春は「吾妻鏡」によりますと、建仁3年10月将軍実朝の御弓始めの射手に禄を与える役をしてから、承久元年の将軍藤原頼経の供奉人をつとめるまでの間鶴岡八幡宮参詣の供奉人をつとめたり、幕府の使者として都へ上ったりしています。
 その子は木工助遠親、その子三郎元氏、その子太郎遠氏と続き、官職は左衛門尉として将軍につかえて、遠元の惣領家として幕府の公事をつとめていたようです。また遠親は承久の乱の恩賞で讃岐の本山庄地頭職も有していました。

 ところが弘安8年(1285)11月一族の安達泰盛と得宗家との抗争で霜月騒動が起こり、泰盛に味方した足立直元は敗北して自害してしまいます。この事件により足立一族も幕府内の地位と本領足立郡は北条得宗によって没収されてしまいました。
 安達氏は幕府創建以来の功績と、執権北条氏との姻族関係からその勢力を伸ばしましたが、外孫北条貞時が執権になると更に権勢をもちましたが、内管領の平頼綱により中傷され、一族は討伐されて滅亡しました。御家人の代表安達と内管領の権力争いで敗北しました。
 しかし、足立直元の弟の基氏は北条氏の支配下にはいり、得宗被官となり、その子孫も遠氏―基舒―遠宣と続いています。

 


さいたま市大宮区 足立神社

 

                VOL.77         2002.8.14

 

        鎌倉時代と宗教

 

 鎌倉時代は武士層が古代王朝の権威を否定し、新しい社会を創造してきましたが、幕府の権力の掌握をめぐって、内部での粛清が多く執拗に陰謀や謀殺をくりかえし陰惨な時代でもありました。そうした中で新しい信仰が生まれて、親鸞、道元、日蓮、一遍などがあらわれて来ます。
 最澄が法華経を根本経典とし、これにより奈良仏教の雑多な仏教を統一しようとして天台宗を日本に伝えますが、その後継者たちは密教や禅を取り入れましたので天台教学は未完成なものとなり、鎌倉仏教の祖師たちが輩出することとなりました。

 法華経を最も尊重して最澄の意を伝えようとしたのは道元と日蓮ですが、道元が禅を重視したのに対し、日蓮は法華経の行者として法華信仰に生きました。また常行堂中心の阿弥陀信仰は、恵心僧都源信が浄土教を説きます。世は末法の世で天変地異が相ついで起こり、流行病がはやり戦乱の続く世相でありましたので、この世では救われない人々が、せめて来世は安楽な世界へ生まれたいと願ったのです。
 法然はどんなに貧しい人々も南無阿弥陀仏と唱えさえすれば極楽浄土に往生できると浄土宗を、親鸞は浄土真宗、一遍は時宗をはじめました。阿弥陀堂の建立はいたるところで流行したのです。

 寺社奉行をつとめていた足立遠元も鎌倉の阿弥陀堂奉行でありました。
 空海は中国より密教をもち帰り真言宗をはじめましたが、加持祈祷によって病気・出産・財産・位階・戦勝までが霊力によって得られるとして信じられました。この宗派は朝廷、貴族に受けいれられ、さかんに造寺造仏がなされました。

 また平安末期より、人が救いを求めるとその声を聞いて助けに来てくれる観音信仰がさかんになります。観世音菩薩は南の補陀落山に観音浄土があるとされ、鎌倉にも南に補陀落寺があり、長谷観音とともに信仰を集めました。この頃より三十三観音霊場めぐりが流行して畿内と、坂東・秩父でもその霊場ができています。

 頼朝は終生法華経を信仰して、毎日の読誦をかかさず書写もしていたといわれ、「山王(叡山)の霊威を蔑如してはならない」として天台法華を信仰、また俊乗房重源の東大寺再建にも援助しました。そして法華経の化身と信じられていた八幡大菩薩を信仰し参詣していました。頼朝に供奉していた北条義時や足立遠元も同様の信仰をしていたと思われます。

 時頼は得宗の地位を強めましたが、道元禅師を招き為政者の心がまえを聞いていますし、後に宋僧蘭渓道隆に師事し建長寺を創建して道隆を開山としましたし、自らも出家して最明寺入道道崇と号し、衣・袈裟を着していました。37才で没しますが座禅したままの臨終といわれています。
 北条重時の家訓に「庶家は惣領を主とも親とも神仏とも思うべし、後生は西方極楽を願うべし」と書かれており、念仏信仰をすすめています。

    【鎌倉期の仏教】

 〔宗派〕     〔開祖〕  〔本尊〕        〔経典〕 
 融通念仏宗  良忍  十一尊天得如来  法華経・阿弥陀経
 東大寺勧進  重源  超宗派        法華経
 浄土宗     法然  阿弥陀如来     浄土三部経
 臨済宗     栄西  釈迦如来       法華経・般若心経
 浄土真宗    親鸞  阿弥陀如来     浄土三部経
 華厳宗中興  明慧  毘盧遮那仏      華厳経
 曹洞宗     道元  釈迦如来       法華経・般若心経
 法華宗     日蓮  釈迦如来       法華経
 時宗       一遍  阿弥陀仏       浄土三部経

 


北鎌倉 建長寺

 

                 VOL.28       2001.4.20

 

        北条氏と足立の関係

 

 北条氏は静岡県田方郡韮山町の出身で伊豆地方の一土豪でありました。14歳の頼朝が伊豆に配流となり、この田方郡の蛭ヶ小島を配所としていましたので、平家は監視役として伊豆荘の伊東祐親と、北条時政を選任していました。

 頼朝はここで父の義朝や、兄たちの菩提を弔うための読経三昧の生活をしていたのです。都育ちの若者のことですから女性との交渉もあったようで、伊東祐親が大番役で上洛中に祐親の娘八重姫と交際をはじめ、千鶴御前という男子が生まれました。頼朝にすれば伊東一族と縁つづきとなり、流人の境遇も改善されることを期待したのかも知れません。

 しかし、六波羅の大番から帰ってきた祐親は事態の重大さに気づき、孫の千鶴御前を簀巻きにし松河という川奥の淵に投げ込んで殺害してしまい、娘も江間郷の小四郎のもとへ嫁がせてしまいました。
 更に頼朝を暗殺しようとまでするのですが、これは祐親の三男九郎祐清の注進で難をのがれ、対岸の北条館へ逃げこんでしまいます。

 北条でも迷惑だったのですが、当主の時政が京都の大番をつとめるため上洛したあとで、惣領の三郎宗時が頼朝を助けます。これは治承2年(1178)のことですが、北条館の中で頼朝と時政の娘政子との交際が始まるのです。
 大番から帰って来た時政も流罪人と政子との間をさこうとして、娘の政子を山木判官平兼隆に嫁がせますが、政子は伊豆山権現の文陽房に逃げこんで、頼朝のもとへ走ります。

 おりから以仁王の令旨がもたらされましたので頼朝は平兼隆の報復を恐れ、北条氏をたよりに山木判官を襲撃し、これは成功しますが、石橋山の合戦では平氏方に敗れ、逃走したのです。伊豆の小豪族にすぎない北条氏は政子によって強大な権力をもつことになりました。

 幕府創設の功労者足立遠元には3人の娘がありましたが、その中の1人は北条時政の三男時房(政子の弟)に嫁ぎ、北条氏の外戚となって、その地位を安定させます。時房は兄の義時や姉の政子と共に幕政に参画しますが特に承久の乱では甥の泰時(義時の子)と共に東海道大将軍として京都に攻めこみ、乱後六波羅探題となっていますし、更に連署となって幕政を動かすようになりました。

 遠元のもう1人の娘は畠山重忠に嫁して、小次郎重秀の母となりますが、重忠は後に北条時政の娘と結婚しますので、北条義時とは義兄弟でもありました。
 このように足立氏と北条氏は強い血縁で結合しますが、この畠山重忠は時政の後妻となった牧の方のために、滅亡する運命をたどります。

 足立遠元は武蔵国の御家人の代表として、御家人間の対立が激化して、比企、畠山、小山田等が相ついで滅亡するなかで、北条執権体制をささえ、幕府の地盤をかためる重要な役割をはたしていました。
 そして遠元の子孫もまた元春、遠親、直元と北条氏ゆかりの血族として、泰時、経時、時頼等の執権をささえ、鎌倉在住の御家人として幕府の要職についています。承久の乱では遠親が讃岐国本山庄地頭職を恩賞として受けています。
 ところが、足立直元の時に、一族の安達泰盛が得宗御内と抗争になり、それに加わり敗北しましたので、直元は自殺しますが、足立嫡流は没落し、先祖伝来の足立郡も北条氏に没収されてしまいました。

 

 

                 VOL.29       2001.4.27

 

        足立藤九郎盛長の子孫

 

 足立遠元の叔父の藤九郎盛長は伊豆流人時代の頼朝に近侍していました鎌倉幕府創設のときの功臣であります。治承4年10月に頼朝が御家人に勲功を行った時、相模、武蔵、下総等の所領が安堵されていますが、陸奥の安達郡にも所領を与えられて、これ以来安達を名のるようになりました。
 そして盛長の子孫は、子の景盛、孫の義景、その子の泰盛といずれも幕政の中枢に参画し勢力を増大されています。これは北条得宗家との婚姻によるところが大きいのです。足立遠元の娘が、北条政子の弟の時房の室となったことはすでにみた通りですが、時房の娘(北条政子の姪)と盛長の嫡男安達義景とが結婚していますし、義景の妹(盛長の孫)は三代執権の北条泰時の嫡男時氏に嫁しています。この女性が有名な松下禅尼なのです。

 北条時氏が六波羅探題北方に就任しますと松下禅尼も、夫と共に上洛して都で探題夫人として時氏を助け教養を身につけたといわれています。都での任期を了えて鎌倉に帰ってきてからも嫁として執権泰時にも孝養をつくす賢婦人だったのです。
 ところが夫の時氏が寛喜2年(1230)に28才を一期に逝去したので尼僧となって菩提を弔うことになりますが、以来松下禅尼と称するようになります。松下禅尼は夫の逝去を悲しむなか、経時、時頼、為時の3人の子をつれて、鎌倉の長谷甘縄にあった実家に帰って来ました。兄の安達義景は松下禅尼母子を大切に外護しましたし、三代執権の泰時もたびたびこの邸を訪問し、孫の成長を期待したのです。

 仁治3年(1242)6月に三代執権泰時が逝去しますが、泰時の遺言により松下禅尼の嫡男経時が四代執権に迎えられます。母の松下禅尼、伯父の安達義景の期待通り19才で経時は執権となりましたが、わずか4年で病没してしまいます。
 その後をついだのが、松下禅尼の二男時頼です。安達家の甥が二代続いて執権となった(この時代の執権は江戸時代の将軍と同格です)ということは、当然のことながら安達家が北条得宗家の外戚として威光をもつようになります。時頼が五代執権となったことで、これを阻止しようとした御家人との対立を強めます。

 二代執権義時の孫にあたる名越光時は五代目の執権をねらっていましたので、時頼は光時を伊豆に流し、光時に従っていた名越方の評定家5人を罷免し、果敢に策謀を制圧しました。更に時頼は高野山に篭っていた外祖父の安達景盛を鎌倉に呼び、三浦泰村一族を襲わせて滅亡させました。
 これが名越事件ですが、これにより安達氏に対抗できる御家人はなくなり、得宗家と安達氏の独裁体制ができあがりました。松下禅尼の甥(義景の嫡男)の秋田城介泰盛のことを徒然草は「城陸奥守泰盛は双なき馬乗りなりき」と書いていますが、泰盛は武勇にすぐれていただけでなく、政治的手腕もあり「威勢先祖に越えて人多く随き」とされていますが、五代執権時頼の嫡男の時宗と娘の堀内殿を結婚させており、のちに時宗は八代執権となり、二人の間に生まれた貞時は九代執権となりました。

 この様に足立一族の北条得宗家との婚姻関係は、安達泰盛時代に得宗家と一体のようになりました。安達泰盛は、弘安の蒙古襲来の際御恩奉行となりましたが、戦功の恩賞を独裁で決していましたので、執権家の家宰平頼綱の反感をかい、弘安8年(1285)11月突如幕兵に襲われて安達(足立)一族は滅亡しました。足立遠元、盛長以来の足立郡の所領まですべて北条氏に没収されてしまいました。

 

 

                 VOL.30       2001.5.4

 

        もののふの道

 

 足立遠元は源頼朝の文武両道の師範であったとする著述が多くあります。八幡太郎義家以来の「もののふの道」を勤めていた京都の貴権と交流のあった人物とされています。
 武士道という言葉がありますが、これは後世のもので、この時代は「坂東武者の習」とか、「つわものの道」といわれています。それは東国の武士たちのもつべき資質でありました。

 第一に武士は生命にめめしく執着しないということです。自分の身や妻子のことを思っていては武士はつとまらない。わが身を安全にして、敵を殺そうと思うな、わが身をなきものにして敵を殺せというのが兵の道でありました。「葉隠」のいう「死ぬこと」に武士の道があったのです。
 次に真の勇気がなくてはつとまらないということです。単に武芸にすぐれているということだけでなく、自分が死ぬのを恐れない精神的勇気が「兵の威」で、神仏の伽護を願いどんな場でも平常心をもって処していく勇気が不可欠であり、更に、武士は謙譲の美徳をもって、自己の腕力、武芸を自慢することなく、勇を尚び、死をいとわず、恥を知り信義を重んじ、むさいこと、きたなきことをしないのが武士だとされています。

 公家から武家へと大きな変革のあった鎌倉時代は、武勇のすぐれた者が生きのこり、栄える社会となり、官位や権勢といった現世的名誉に対して恬淡でなければならず、むしろ「死の後の名こそ惜けれ」というように永遠の生命、死後の名に執着する生き方が尊ばれるようになります。ここに公家の生き方と根本的に違いのある武家の世界が現出します。
 鎌倉時代は公家、武家両文化の時代といわれていますが、平氏が西海に没落して、源氏が東国に幕府を開いてから、源氏三代の将軍、北条執権隆盛、蒙古の外寇、元弘の乱等を経て幕府の滅亡にいたる150年間を4期に分けて変遷をみると鎌倉期の特徴がよくわかるとされています。この区分に従って足立氏がどのように生きたかをみていきましょう。

 最初は頼朝が幕府を開いてから頼家、実朝と三代にわたる源家将軍の時代で、後白河院や、後鳥羽院が都で実力をもっていた伝統的な王朝文化の栄えた時期であり、鎌倉でも都の文化にあこがれ豊麗な公家文化を輸入しようとした時期で、都で公家達と交流を深めた足立遠元が武士達のあこがれでもあった約35年間続いた時代です。

 次が承久の乱で勝利して天下に武門の威力をみせつけた北条泰時の時代です。3上皇を遠流し、3,000余の荘園を得て幕府権力は強力なものとなります。足立氏では遠元の孫が、吾妻鏡にも登場してきます遠親、基氏、遠政の時代であり安達氏が活躍するようになります。

 第三期は北条氏の隆盛時代で、北条時頼、時宗父子が執権として鎌倉の武威を天下に振るった約40年間で、安達泰盛が御家人の代表として最も権勢をもっており、蒙古襲来の際も御恩奉行となっています。執権の権威は強大となり、皇統の継承についても干渉します。皇統を大覚寺と持明院の両統に分立させて、朝廷や公家の権威を失墜させました。

 第四期は時宗の死によって14歳で執権となった貞時から、師時、高時とつづく40年間で、安達泰盛が殺され御家人勢力を一掃されてしまい、足立一族も滅亡してしまう時期で、それ以後幕府は滅亡していきます。

 以上の四期に区分して足立氏の動向を次にみていきます。

 

 

                 VOL.31       2001.5.11

 

        源氏将軍たちの信仰

 

 頼朝が鎌倉に入府したのは治承4年(1180)ですが、鎌倉の都市建設をするのに、直ちに由比若宮を遷座して鶴岡八幡宮を建立し、それへの参道として若宮大路をつくりました。これは都の大内裏と朱雀大路をなぞったもので、源氏の氏神の八幡宮を大内裏、つまり皇室の権威に変えて、人々に忠誠を誓わせたのです。

 八幡宮が源氏の氏神となったのは源頼信の時です。もともと八幡信仰は豊前国宇佐の八幡宮に始まった古代からの信仰でありましたが、清和天皇が平安京鎮守として石清水八幡宮を勧請されましたことから、清和天皇を祖とする源氏の氏神となったのです。
 前九年の役に出陣した源頼義は、京都の石清水八幡宮に戦勝を祈願したのですが、安倍頼時、貞任を討ち、都へ帰る途中戦勝記念に由比郷鶴岡に石清水八幡宮を勧請し若宮と称して祭祀されていたものです。これを頼朝が現在の鶴岡八幡宮の地に遷座したのです。
 1192年に征夷大将軍となった時も任官伝達の式典はこの神宮でとりおこなわれています。つまり鶴岡八幡宮は大内裏と同格に扱われ、鎌倉幕府の重要な儀式はここで行われたのです。

 義家が元服する時、石清水社でその儀式をとり行ったので八幡太郎義家とよばれていましたが、頼朝も幕府の鎮守として御家人にも参拝させ武士の守神としていました。八幡神は穢を排除する破邪顕正の神であり「弓矢八幡」とよばれ御家人の精神的団結をはかるものとして、全国各地に八幡宮が勧請されました。

 頼朝は流人の生活を経験しましたので、関東の御家人以外は信用できなかったようですが、その御家人には貴人に対する絶対的服従を要求して自己の貴種を主張しますが、院に対しては武力を背景に独立政権を認めさせようとしました。
 信仰についても法華信仰中心で、京都の貴族達と変わらず、かつて京都に住み、その文化を背負う貴種として鎌倉にいながら京文化をあこがれていました。京都で生活していた足立遠元を中心に大番役等で京文化にしたしんだ御家人を周囲に集めていたのです。又、娘の大姫を宮廷に納れ、外戚の地位を望んでいたのです。

 寺の造営についても院政に似ています。最初に建立したのが、阿弥陀山勝長寿院で、大御堂ヶ谷に、父の義朝を供養するため文治元年(1185)9月に建立したのです。ここには義朝の首を埋葬し、阿弥陀如来像を本尊として大御堂を建立、壁面には浄土瑞相と、二十五菩薩が藤原為久の筆で描かれています。この寺は御家人が宿直して日夜警護し、歴代の将軍が参詣していました。

 また奥州藤原氏を滅亡させましたが、中尊寺大堂の立派さに驚いた頼朝は、同格のものを建立し、義経や藤原泰衡の霊を慰める寺として永福寺を建てています。
 鶴岡八幡宮、長勝寿院、永福寺が頼朝建立の三大寺社ですが、これらの供養とか参詣には足立遠元はいつも供奉し、鎌倉のみならず都の寺社、奈良の東大寺供養等にも頼朝の参詣に供奉しています。
 頼朝の持仏堂として聖観音がまつられていますのが寿福寺ですが、ここは元、義朝の邸宅のあったところといわれ、53歳で逝去しますとここに葬られました。
 北条政子や実朝の墓もここにあります。吾妻鏡をみますとそのほとんどが寺社の参詣等の記録ですが、勝長寿院落慶は極めて盛儀であったようです。

 


勝長寿院址


 

                 VOL.32       2001.5.18

 

        北条泰時

 

 足立遠元が高齢となり幕政から遠ざかるころに北条義時が執権となって幕政を掌握しました。北条義時は3人の上皇、2人の皇子を流刑に処して、天皇を廃位していますし、源頼家とその2人の子、また頼朝の子1人、弟1人、甥1人を殺させています。御家人では梶原景時と和田義盛を殺害、その一族を滅亡させています。

 こんな義時の暗黒政治を都から見ていたのが後鳥羽上皇なのです。
 後鳥羽上皇は安徳天皇の弟で、母は坊門信隆の娘です。この生母の弟坊門信清の娘を実朝の妻にさせ公武融和をはかっていましたが安徳天皇を入水させた鎌倉に好感はもっておらず、鎌倉調伏、呪詛のため最勝四天王院を建立してのろいの祈祷をさせていたり、たびたび熊野御幸をして熊野別当一族の軍事力を配下に加え鎌倉討伐を準備していました。

 そして実朝が28歳で惨殺されてから、次の将軍に皇子を求めてきたのを拒絶し、義時追討の院宣を発しました。承久の乱が起きますと、足立遠元の娘の夫であります北条時房が甥の泰時と共に東海道の大将軍となり京都へ攻め入り、六波羅探題として京都を支配しました。また時房は承久の乱の功により伊勢守護に任ぜられ、同国内16ヵ所を与えられ、のちに連署となっています。

 さて北条義時なきあと執権となったのが北条泰時で補佐役の連署となったのが時房です。これより幕府は政治を刷新し、評定衆を置き幕政を評議させるようになり、「御成敗式目」を制定し公平な裁判基準をつくったり、宗教統制もしていますし、鎌倉の都市計画や京都の治安維持につとめます。

 北条泰時について「神皇正統記」は「泰時は心正しく、政治もまっすぐで、人を育成し、公家を大切にしたので天下は静まった」としており、徳政を第一とし、法制を確立した最もよい政治を行ったとされています。泰時が確立した法制のままに政治が行われたので北条政権が続いたと評しています。
 ある時泰時のところへ僧が来て、「善心あらば一寺の伽藍を建てられよ、そうすれば世は治まり、民は安穏に生活し、死後は善い処へ行け、子孫は繁昌する功徳あり」と説きました。

 これに対し泰時は「わが国には伊勢太神宮があるが、茅ぶきの小社にすぎないが、その恩恵は全国に満ちている。功徳の大小で神仏が尊いのではなく、志が道にかなっていれば結構なのだ、功徳があるから伽藍を建てるというのはまちがいで、世を治め一族を育成するのが現世安穏であり、悪ければ祈っても亡んでしまう」として世を混乱させる僧であると追放してしまいました。

 さて、泰時が執権になってからも北条政子は幕政を支配していました。政子が帰依した僧が臨済宗黄竜派の明庵栄西であります。
 博多で李徳昭から禅宗の盛んな宋の仏教事情を聞いて入宋を志して明州に着き天台山万年寺で修学したが、重源と共に帰国し最澄、円仁などが禅に深い関心をもっていたことをたしかめると、再度宋に渡って天台山万年寺で参禅し、智者塔院の修補にも尽力して帰国、京都で新宗をひらくのが困難であったので鎌倉に東下し尼将軍政子の帰依を受けました。政子は寿福寺を建立し、ここに栄西を住まわせ臨済禅の教化にあたらせています。
 栄西を高名にしたのは抹茶の輸入で、将軍家が病気になった時に良薬と称して寿福寺から茶をとりよせて、「喫茶養生記」と共に献上している。当時の医者としてもなかなかの人物であったということです。

 

 


中国 天台山智者塔院山門

 

                 VOL.33       2001.5.25

 

        時頼の信仰

 

 足立(安達)盛長の孫娘が3代執権北条時氏と結婚して経時・時頼・為時・時定を出産し、その養育につとめましたが、寛喜2(1230)年6月に夫の時氏が死去いたしましたので、実家の安達家へ帰り出家して松下禅尼となりました。
 そして4代目の執権に長男の経時が就任しましたが、不幸にして4年で病没しましたので、その後継に選ばれたのが、5代執権北条時頼で寛元4(1246)年のことです。

 この年の5月に前将軍の頼経や一族の北条光時らの陰謀を知った時頼は、鎌倉中を制圧して、それに連座した評定衆を罷免し、光時を伊豆に、頼経を京都に追却し朝政刷新をしたり、最も大きな勢力をもっていた三浦一族を滅亡させて得宗専制体制を確立させました。
 ところが、康元元年(1256)赤痢にかかった時頼は執権職を北条長時に譲り、翌日出家して最明寺入道覚了房道崇と号しました。しかし病気が回復すると後見政治を出家者の姿で開始しました。逝去するまで実権を握りつづけていましたが、享年37歳で袈裟を着し座禅したままの臨終ということです。

 北条得宗家の信仰は、北条政子が栄西禅師に帰依してより臨済禅に深く傾倒していましたが、時頼は道元禅師を鎌倉に招いて禅による為政者の心がまえを聞いたということです。
 禅宗を日本に最初につたえたのは1171年に金慶とともに入宋した天台宗の学僧覚阿で、杭州霊隠寺で禅宗を学び、帰国して禅宗を修行したのですが、栄西が始祖として有名になったのは2回も入宋したことと、抹茶を輸入したことのほかに、権力が京都よりも鎌倉にうつりつつあるのを見ぬいて、その権力者北条政子に布教したことによります。
 京都に建仁寺を建立したのち鎌倉に帰り建保3年(1215)に75歳で遷化されました。

 道元禅師は源通親の子でありましたが、幼いときに父母に死別し、比叡山で剃髪し天台宗の僧として修学し、さらに宋に渡り天台山万年寺で、次いで天童寺如淨に禅を修学して、安貞元(1227)年帰国して曹洞宗を開きました。新しい宗派に叡山からの圧迫があり、波多野義重の招きで越前に移り永平寺できびしい修行に打ちこみ在家仏教や女人成仏を否定し、出家至上主義をつらぬき、北条時頼の招きで鎌倉へ下りますが、すぐに越前へ帰っており、建長5年(1253)京都の宿で高潔な生涯を閉じます。享年54歳。

 この時代元が宋を侵略するようになり、戦乱をさけて日本に渡来する禅僧が多くありましたがその中の一人に蘭渓道隆がいます。この僧は南宋に生まれ、12歳の時禅僧となり明州天童山にいましたが、数人の弟子と共に寛元元年(1246)に博多へつき、のち鎌倉に下り寿福寺にいました。
 この道隆の学識と見識により広い世界を知った北条時頼は、鎌倉の浄土宗常楽寺を禅宗に改めさせて道隆を住まわせ、常楽寺に通い師事します。さらに建長寺を創建して道隆を開山としました。

 中国直輸入の禅院を鎌倉に開いた時頼は、そこに精神的支柱を得て、道隆を戒師に出家して最明寺入道道崇を名のります。
 日蓮聖人はこの最明寺入道に「立正安国論」を文応元(1260)年に進覧します。正嘉大地震以来の天変地異で民衆が苦悩にあえいでいるのは、法華経にそむいて念仏禅宗の邪悪を信じているからである。諸寺に除災の祈祷をさせるだけで、禅寺等の建立にうつつをぬかしている時頼に「信仰の寸心」を改めて「実乗の一善に帰せよ」とせまっています。
 また日蓮を無視する最明寺入道時頼は存命中に「地獄におち」「死後も無間地獄」だと辻説法する日蓮聖人に対し、鎌倉幕府が弾圧を強めるのは無理からぬことで、竜の口、佐渡流罪等の受難の歴史がまっていたのです。

 

 

                 VOL.34       2001.6.1

 

        安達泰盛と時宗

 

 北条時宗は北条氏得宗政治を強化した、蒙古の侵略という民族的国難を救った青年政治家としてよく知られていますが、それをささえていたのが時宗の妻堀内殿の兄安達泰盛でありました。
 安達義景の妹が松下禅尼で4代執権経時と5代執権時頼の母であったことはすでにみたとうりでありますが、この義景の子息には次郎頼景、三郎景村、四郎時盛、五郎重景、六郎顕盛、九郎泰村、十郎時景らがおりますが、このうち5人が引付衆となり、時盛、顕盛、泰盛は評定衆にまでなっています。
 このような一族の繁栄は幕府政治の中枢を安達氏が握っていたことによりますが、北条氏との姻戚関係によって強いものとなったのです。

 安達泰盛は若くして将軍藤原頼嗣の近習となりましたが、続いて引付衆、引付頭、評定衆となり、さらに越訴奉行にもなりました。泰盛の名が「吾妻鏡」に最初にでているのは寛元2年(1244)6月に大番番頭を勤めていたとされていますが、14歳の時にすでに鎌倉市中の警護役の頭をつとめ武術もすぐれていたといわれています。文永9年(1272)以後は肥後守護となり、執権の北条政村、時宗の政局に加わり「威勢先祖に越えて人多く随いき」といわれております。
 北条一門に限られていた陸奥守にも任じられていますし、蒙古襲来の時には子息の盛守を守護代として九州に下しています。弘安5年には秋田城介を子息宗景に譲っており、時宗が弘安7年に逝去しますと出家して覚真と称していました。

 時宗が執権となりましたのは文永5年(1268)で18歳の時ですが、庶兄の北条時輔の陰謀事件や、蒙古国書の到来など幕府をゆるがす事件が相つぎ「当世は乱世、去年より謀叛の者国に充満せり、今年2月11日合戦、其より今5月のすえ、いまだ世間安穏ならず」と二月騒動を予言された日蓮聖人の御遺文にもありますが、この社会状況をのりきり、九州の非御家人まで動員して異国警固番役を命じ、九州の防禦体制を固めるのに、安達泰盛をはじめ足立一族が青年時宗をささえて国難に対処したのです。
 時宗は10代の少年時代より、南宋から来た建長寺の蘭渓道隆について中国直輸入の禅宗を学び精神的支柱としていました。道隆が京に去りましてから、文永4年大休正念が来日し鎌倉に来ましたので、建長寺、寿福寺などに住まわせ熱心に参禅したのです。

 文永11年(1274)文永の役がおこります。御家人の奮戦で殺戮戦が続き博多は占領寸前でありましたが、夜半の強風で元軍は撤退しました。翌年また元の使者が来ましたが時宗は、5人の使者を鎌倉竜の口で斬り断固戦うことを内外に示します。
 南宋はこの後元に滅ぼされますが、時宗は無学祖元を招き鎌倉に迎えます。時宗は熱心に無学に参禅し、円覚寺を建立、弘安の役を前にして、金剛経、円覚経などを自らの血で書写し、仏、諸神の加護を祈っています。

 また安達泰盛は祖父景盛の影響もあり早くから高野山を信仰していました。一族の玄智は金剛三昧院の長老でありましたが、泰盛は奉行をつとめて金剛三昧院に勧学院、勧修院を造立して学問と修法の道場にしたり、印刷事業を推進して高野板開板を外護しています。特に石造町石を寄贈し先祖の菩提と時輔らの霊を供養しています。金剛峰寺の過去帳には前陸奥守入道覚真の名がみえるとのことです。

 

 

                 VOL.35       2001.6.8

 

     弘安合戦と平禅門の乱

 

 安達泰盛は妹が時宗に嫁してのちの執権貞時を出生してから幕政の中枢にありました。時宗は弘安7年に急逝したのですが、その時の評定衆は泰盛父子のほかに北条顕時、北条政長などの安達家の姻族が6名もおりましたし、引付衆にも泰盛の弟が2人(長景、時景)のほかに二階堂氏、大江氏などの姻族が4名おりました。
 このように安達氏とその姻族は幕府の最高職の半数以上に就任しており、施策の決定は泰盛の思いのままで、その権勢は強力なもので、得宗中心に北条一門と安達氏一族の有力御家人による政治が運営されていたのです。

 しかし幕政の実態は、蒙古の襲来以来戦時の総動員体制は継続しなければならないし、異国警固番役の負担は重く、恩賞に対する不満もあり、御家人困窮は深刻であり、御家人の利益を守ることにも限界があり、御家人との合議で幕政運営をすることに反対である御内人の平頼綱とするどく対立していました。
 侍所所司をしていた頼綱は、その地位を利用して兵を動かし、弘安8年(1285)11月17日、出仕してきた泰盛を捕えて斬殺し同時に安達邸を襲い一族を殺害、安達氏一族のみならず泰盛についていた御家人を捕えて斬首するという恐怖政治を展開し、得宗専制政治を開始しました。
 武蔵、上野中心に五百を越える御家人が斬首され、自害してはてることとなり、争乱も常陸、信濃、播磨、筑前にまで波及し、多くの御家人の所領が没収され、文永、弘安の役の恩賞として配分されました。

 足立氏も遠元の孫遠親の子の時代となっていましたが、足立宗家の太郎直元左衛門尉は敗北して足立郡の所領も没収され、自害しました。自害者の中に和泉六郎左衛門尉もいますが、天野景村のことで、遠景の子孫までこの事件に連座していますので、足立、安達同族のすべてをまきこんだ争乱でありました。
 しかし、足立の本家遠親の三男元氏の子孫は逃げのびて、後に北条貞時13回忌法要に円覚寺へ参詣し、足立家の惣領足立左衛門入道として供物を進上しています。北条氏の被官となって得宗家で活躍していたのです。
 同様のことは安達家にもあり、泰盛の甥宗顕は21歳で泰盛の一件で殺されましたが、息子の時顕は救われて後に秋田城介となり執権北条高時の外戚として幕閣で重きを成しました。

 平頼綱は恐怖政治で独裁し、ついには次男の助宗を将軍にしようとしました。永仁元年4月13日関東に大地震があり、将軍御所をはじめ諸大寺が倒壊、炎上し、死者2万3千余という大惨事となりました。
 この世情不安の中、22日未明、執権貞時の兵が経師ヵ谷の平頼綱邸を襲い、頼綱、助宗父子をはじめ一族を滅亡させます。この一族90余人が自害しますが、世人は泰盛を討滅し、日蓮聖人を迫害した報いとうわさしたとのことです。

 日蓮聖人と頼綱は何度も対面していますが日蓮聖人をにくみ、徹底して迫害し、法華門徒を全滅しようとしたのが頼綱です。文永8年9月10日に対面した時も、聖人に「理不尽なあやまちによって同志討をくりかえし、外国より侵略の難を受ける」と諫言され、「物に狂う」ようになったのです。
 松葉ヶ谷庵室を襲ったのも、竜の口で斬首しようとしたのも、佐渡流罪で殺害しようとしたのも頼綱です。文永11年4月8日にも対面しますが、聖人に「権力によって心をば随えられたてまつるべからず」と精神の自由を説教されたのですが、理解できず「物に狂」うたような恐怖政治で法華門徒を弾圧し続け、自滅した得宗御内人だったのです。

 

 

 

 

 

 

第 四 章

足立氏列伝

 


丹波 山垣 万歳山 山垣城址  2002.4.27

 

 

VOL.37       2001.6.22

 

        足立遠政

 

 丹波氷上町の郷土史家細見末雄氏が昭和53年の電話帳で調査したところ、氷上郡内の足立姓は1,576、多紀郡44、京都府天田郡785、綾部市54、船井郡19、亀岡市21、更に朝来郡336、養父郡50、豊岡市62、三田市19、多可郡157、西脇市59となっており計3,182と報告されています。

 その中心は青垣町佐治郷でありますが、足立遠元の孫遠政が承元3(1209)年丹波氷上郡佐治郷の地頭職に任ぜられて、武蔵国桶川郷より丹波へ来たことによります。源頼朝没後約10年、実朝将軍の時代のことですが、この頃は関東武士が守護、地頭として関西地方に多く任命されており、遠政が来たころには地頭や庄官として氷上郡内各地に武士団がいて、それぞれ勢力を拡張しようとしていました。

 「氷上郡志」によりますと遠政が最初に住居としたのは小倉の太夫殿屋敷であったとされています。青垣中学校の上で「一町四方左右に谷川あり、近世光明寺境内となりしところ」とされ、これより東五町餘のところに「遠政下屋敷」があり、「面積六反、今は妙法寺の境内となれり」とあり、筆者が住職をしています妙法寺です。
 遠政は先祖の鎮守でありました諏訪明神を移して小倉、佐治二村の産神として祭祀しましたが、この神社は「中古此境内へ黒尾大明神を移し産神とし、諏訪大明神は末社」となったようですが、この黒尾神社は岩本毘沙門庵にあったものを移したということですから小倉に岩本城が設置された時に北方守護の毘沙門天を岩本に鎮座させ、そこの黒尾明神を小倉に移したのでしょう。遠政は山垣の万歳山に山垣城を築き、その山頂には報恩寺を建立し祖父遠元、父遠光を祭り供養しました。

 佐治庄は延喜の出雲路の駅があったところですが、石高三千石程度でありました。遠政は敬神、崇祖、よく関東足立氏の家風を遵守し、武勇にすぐれ、礼節を重んじて、質実堅実な政策をとり、一族と共に新田を開き仁政を施して豊田開発をしています。
 前に記したように足立遠政は丹波国佐治庄の地頭であり在京御家人の一員でありましたから六波羅探題より御家人動員命令が下ると先陣を勤めるほどの武勇の有力武士であったことは嘉禎元年(1235)7月29日叡山の強訴阻止で日吉神社の宮人負傷問題で8月8日、備後へ一時配流された一件にもうかがえます。

 遠政には政基、遠信、遠高、慶範、遠堅、政仁、遠尚と7男あり、孫12名、曾孫は多数でありましたが、そうした一族を数里四方の山里分住、また遠阪、岩本、稲土、田ノ口、小和田等に城を築き一族を配し山垣城の支えとしました。足立遠政の二男が小和田城を築いてこの地を領有したとか、佐治、小倉、市原は岩本城の領下とかの古記録もありますが、佐治の集落支配のことであったようです。
 小和田城の初代城主は遠政二男の遠信で3代までここに住すとなっています。足立遠政来丹以後百年間は平和でありましたが、鎌倉幕府滅亡後、南北朝が対立して、足利幕府になりましたが、守護の荘園支配から群雄割拠の時代へと移りますが、山垣城でも政変のたびに兵火にまきこまれました。

 

 

                VOL.78         2002.8.16

 

        後醍醐天皇と丹波の足立氏

 

 弘安8年(1285)11月将軍の公邸まで焼失させるという激闘の中で安達氏が全滅しましたが、幕府の政治は最高の指導者として、御家人体制を維持しなければならない得宗が、北条氏の惣領として御内人にささえられながらその頂点に君臨しなければならないという矛盾にあります。得宗専制にしようとすると御家人との対立はさけられません。強い権力をもって恐怖政治により御家人を支配しようとした平頼綱は執権貞時に討たれてしまいました。
 北条貞時はその後出家し、師時、宗宣、煕時、基時と短期で変更される執権が続き正和5年に貞時の子の高時が執権となりましたが年は9歳でしたから、また内管領の頼綱の甥が幕政の実権を握りました。

 この幕府の混乱を見極めた後醍醐天皇は倒幕を決意されます。無礼講という遊宴で密かに計画を討議していたことを密告され主謀者を自刃させたのが正中の変で、20万騎の幕軍が都におしよせて「日本国動乱の始まり」といわれたのが元弘の変です。
 しかし翌年5月には東国の御家人として有力であった足利高氏や新田義貞が反旗をひるがえし、六波羅探題を攻撃します。敗北して逃亡する北条仲時らは野伏の攻撃にあい力つきて430余人の武将が自刃しましたし、新田義貞は鎌倉を攻撃し、いたるところで放火しましたので鎌倉の街も火の海につつまれ北条一族は滅亡しました。この時に六波羅に仕えていた足立長秋、足立則利、則惟らも近江国番場宿で自害しています。

 一方「太平記」によりますと「丹波の住人荻野彦六と足立三郎は、五百余騎にて四条油小路まで責入たりける」とあり丹波の足立三郎が千種忠顕の指揮のもと六波羅勢と闘っています。このように足立一族も北条の御内人となったものと、丹波の足立一族として後醍醐天皇側についたものとに別れており、関東から足立の勢力が消滅していったのです。
 さらに「太平記」には、『山徒寄京都事』のなかに丹波足立氏が佐治姓で登場している話があります。「丹波の住人、佐治孫五郎が六波羅方として法勝寺の西門の前で、五尺三寸という長刀をふりまわして、山門の大衆を追い払う」という武勇伝が記されています。これが遠政の曾孫の孫五郎政家かどうかはわかりませんが、丹波の足立一族も戦闘では刃を交えていたのでしょう。

 さて丹波の足立氏は、遠政が承元3年(1209)地頭として佐治庄を拝領して東国から来たのが最初です。遠元の子が遠光で、その二男が遠政で久保田左衛門尉と号していますし、母は源三位の女ということです。源三位というのは源頼政のことで清盛につかえましたが、以仁王の挙兵に加わり平等院で敗死します。
 遠政が丹波に来たのは功によりとありますが頼朝の死後10年ですので、北条氏が政権争いを強めた時であり、北条氏の他氏排斥をさけて丹波を望んだものとも思われます。あるいは丹波守護職との関係かも知れません。70名の家人を連れて佐治庄小倉に住んだのですが山垣城を築城、更に翌年50人の一族郎党を呼び寄せたようです。そして、小和田城、遠阪城、岩本城、稲土城などを築き一族のものを配置しています。

 「吾妻鏡」文暦2年(1235)に田中郷の地頭佐々木高信の代官と日吉(ひえ)神社の神人が喧嘩したことから僧兵が強訴した時、足立遠政、遠信父子ら官軍と僧兵の乱闘になり宮人が重傷したとのことで遠政父子は流刑と決められたことに対し幕府が反発した話があります。
 幕府は天台座主に対して、処分は糺明してから行え、また朝廷に対して一方的に御家人だけを処罰すると将来に山徒(僧兵)の理不尽な行いを許すことになると奏請しています。遠政父子がなぜ在京していたか、流刑地がどこか記されていません。

 


足立遠政の墓

 

                VOL.38       2001.6.29

 

        遠谿祖雄

 

 足立遠政の孫光基の子に又三郎基継、四郎基明、遠谿禅師祖雄、基景、四郎九郎基綱等がありますが、この光基の第3子が傑出した禅僧として有名な祖雄で、丹波氷上郡佐治庄で弘安9年(1286)に生まれています。
 13歳で仏道を志して、「常に松樹に上り座禅をした」とあり、幼少のころより謙虚で信仰心があつく、父も性天然の法器と認めて19歳のとき出家を許しました。祖雄はすぐに寺に入り僧侶としての法式を受けました。

 この時代は蒙古襲来以来社会の混乱期で元に追われた宋の僧侶も多く来朝していました。臨済宗の宋僧蘭渓道隆、無関普門、無学祖元等が北条氏の外護をうけ諸大寺を残していましたが、祖雄は中国へ渡って本格的な仏教を修得しようとしました。
 21歳の徳治元年(1306)3月5日祖雄は九州より船出して浙江省に上陸、抗州の天目山に登りました。そこには徳望の高い普応国師がいたのです。これより10年の間近侍してついにその印記を受けました。

 普応国師は中峰明本のことで幻住道人と号していました。五戒をまもり毎日法華、円覚金剛等の経典を読誦、多くの信徒あり常に名利をさけて隠棲しようとしますが法席に学徒が集まりました。嗣法にも多くの僧がいますが祖雄もその一人です。
 祖雄はある夜、故郷の山河の夢を見て、その中に天目山に似た名山に観音像が立っている姿を見て、普応国師にそのことをつげますと、国師も同じ夢を見たといわれ、1316年帰国することにしました。国師は道友趙子昴に自画像をかかせ、自ら賛文を書き、法衣一領とともに祖雄に与えました。

 博多に上陸してみると老母の逝去の報せがまっていました。九州に10年間隠棲していましたが帰朝したことが伝えられ多くの人々が参集するようになりましたので弟子にあとをまかせ、正中2年(1325)郷里に帰って来ました。
 天目山にいました時霊夢を見た山とは小倉にある岩屋山のことでありました。この山頂近くに一寺を建立しましたが、これが岩屋山に建立されました瑞岩山高源寺です。

 遠谿祖雄のうわさは近隣を超え、その道風をしたい集まる僧たちも多く、中峰派、幻住派としての宗風を慕い法席はさかえました。このことは後醍醐天皇にも達し、高源寺号と鉄鉢、龍頭杖を下賜され、京都に召されもしましたが、中峰明本の教えを守り固辞して山を下りず、中峰派の根本道場として僧侶の養育につとめました。
 岩屋山の瑞岩山高源寺は甲斐の天目山栖雲寺と並び称され西天目山と呼ばれ、幻住派の本山として宗風さかんになりました。しかし康永3年(1344)6月27日幻住庵で「悟了生死、五十九年、来々去々、白日青天」と遺偈を書き、結跏趺坐のまま入寂されたとのことです。

 遺体は壺に納め松樹の下に葬ったとのことで、その地には霊光殿という小院が建立されました。現在の観音堂のところといわれています。遠谿祖雄禅師は平素から「わが肖像を画くな、安牌も不用」といわれていましたので、霊光殿には観音様を祀ったと思われます。
 その後高源寺は後柏原天皇の勅願所となったり、紫衣大和尚の寺の宣旨を受けたり、大内氏、毛利氏の帰依を得たりで繁栄しましたが、丹波の兵乱で一山悉く焼亡し、荒廃してしまいます。近世初頭にこの寺を再興したのは、天岩明啓で小倉の地を離れ桧倉に再建されました。

 


瑞岩山 高源寺

 

                 VOL.39       2001.7.6

 

        足立宗次入道左衛門尉基高

 

 丹波青垣町小倉に瑞岩山高源寺を建立し僧俗の信仰を幻住禅に帰依させた高名の僧遠谿祖雄禅師が遷化されて20余年が過ぎた頃、小倉にあった岩本城主でありました足立宗次が3万石の大名として活躍しています。

 「朝来郡史」によりますと、月庵宗光は正平22年(1367)秋に但馬の黒川にきて其の幽奥を愛し錫を駐めて石上に坐すること数ヶ月、僧俗つたえ聞いて帰依するもの雲の如しであったとのことです。
 丹波の山垣城主、岩本城主足立治郎左衛門尉宗次もその一人で、月庵を尊崇し、黒川郷五里四方の地を寄進しました。月庵禅師もこれを喜んで「かつて大元に学んで温州大明寺に居た時、祇園精舎の霊土を得て日本へもち帰って秘蔵していたが、この土を寄進された土地に放下して善男善女の参詣するものに佛果を証しましょう」といわれたので宗次も感泣したとのことです。

 このことを主家の山名氏に話したところ、但馬山名氏の祖となった山名時義も月庵禅師を援助して大名寺建立を寄進し、千石千貫の地を寺領とします。山名時義の父は関東の一介の農民でその生涯は戦争に明けくれしていましたし、時義も晩年に月庵禅師に帰依していましたが、学問とか教養を身につける文化生活は無縁で、3代目の時に至って幕府の四職に就任していますので、若き日の時が月庵から得たものは大きかったと思えます。
 それを足立宗次が導いていますので「朝来志」の「宗次は足立氏、左衛門尉と称す丹波国山垣の城主なり、山名時に仕へ尤も器重せらる食禄3万石、応永14年(1407)5月3日歿す」の意味は深いものがあり、何より、大名寺の祖堂の中に月庵宗光禅師、巨川時公大居士と共に宗次入道も祭祀されており、どれほど時に重んじられた家臣かがうかがえます。

 月庵宗光禅師の遷化が康応元年(1389)であり、同年に父時義が逝去していますので23歳で山名宗家を継ぎ、山名家の内紛で長男時長も敗死するし、領国はうばわれ敗走します。のちに明徳の乱で奮戦し、やっとのことで時は但馬の守護となりましたが、さらに大内氏を滅亡させるのにも丹波の久下、長沢、荻野を味方につけるのにも宗次入道の助力は大きかったと思われます。

 「青垣町誌」には「岩本城主足立宗次入道と申すは3万5千石の大名にて、今その城跡の本丸の所は小倉黒尾大明神宮下前なり、市原、小倉、佐治は以前一所にて岩本の城下なり。御在職の間但馬餘部庄黒川村の所領地を大明寺へ寄進致し候故置文、寄進状、御位牌由緒書あり」と記されていますが、この文書に寄進したのは貞治6年(1367)3月26日沙弥宗次、嫡子次郎左ヱ門藤原実基の名があり、又置文には永和4年(1378)12月12日忠基、政連の名があります。
 忠基が山垣城主6代目でありますので、宗次入道はその父であり5代目城主基高です。この時代は山名氏の家臣となっていましたので、但馬にも所領が多くあったのです。

 そのことは、和田山町の足立節治家に伝わる「足立氏家系略伝」にも記されています。「山名宮内少輔時の家臣に足立宗次なるものあり、丹波氷上郡に食邑す。三万石を領す。山名の衰ふるに及びて足立の族、東西離散して其の居を一にせず」とあり、足立姓を名のる古い歴史の家が但馬各地にあることを「ああ、足立の系、何ぞ其の昌んなるや、蓋し是れ宗次忠誠の遺徳遠く子孫に被ふものか」とされ、宗次を但馬、丹後の足立氏の祖としています。

 

 

                VOL.79         2002.8.18

 

        南北朝時代の足立氏

 

 足立遠元の嫡流は先祖の遺風をついで武勇と礼節を重んじて幕府の中枢にいましたが新田義貞に攻撃され、六波羅につかえていた足立長秋、則利、則惟らは近江国番場宿で自害しましたが、足立遠元の六世子孫でありました安芸守足立遠宣は足立一門を率いて足利尊氏に従い六波羅攻めに加わっていました。足立遠政の孫、三郎光基も千種忠顕の指揮下に六波羅攻めをして北条氏を亡ぼしました。

 建武中興により足利尊氏が後醍醐天皇に反旗を翻しましたので、後醍醐天皇の守護の任にあたっていた足立遠宣は南朝を奉じて後醍醐天皇に忠節を尽くし、関東に帰ることなく南朝と運命を共にします。ところが延元元年(1336)5月25日湊川で楠木正成が戦死し、後醍醐天皇は比叡山へ逃れ、6月5日には千種忠顕が西坂本で、30日には名和長年も京都で戦死してしまい、天皇と共に比叡山に登った足立一族も厳しい状況となってしまいました。その上比叡山の兵糧が底をついたのを知った後醍醐天皇は10月10日に足利尊氏と和睦されてしまいます。

 南朝の忠臣でありました足立遠宣は同志と共に後醍醐天皇と離れて南都へ落ち、「足立遠宣、南都で出家す」ということになってしまいました。かくして北条氏を滅亡させ、南朝に最期まで忠節をつくした足立遠宣一門も四散し、播州、備中、備前に逃れ南朝の再興を期したものがいたのです。
 ところが、足立遠宣の一族の中にも南朝についた足立一門と離れて足利尊氏に忠誠を誓った人物もいました。足立信政です。湊川戦で足利直義が苦戦していた時に楠木方の名将でありました箕浦兵衛尉を討取って功をあげ、湊川戦勝に導いたとして、足利尊氏より播磨守に任ぜられています。

 この子孫の足立信則は備中守となり備中草間の川崎城主となりました。足立信則は尼子経久に従っており、その子の足立右馬允久信は出雲の十年畑高尾城主となり、更に島根半島の葛籠尾城主も兼ねています。最後まで南朝忠臣として節を重んじ、出家してしまった足立遠宣の一族も、北朝方で栄えた足立信政を頼って備中や、山陰方面に流れ、尼子の配下になった者も多かったようです。

 一方丹波の足立光基も、荻野彦六朝忠等と丹波高山寺の城にたてこもり「今更人の下風に立つ可きに非ずとて」児島高徳と共に南朝の錦の御旗を奉じて立ちあがりますが時すでに利あらず、足利尊氏の命によって出陣して来た山名時氏に敗北してしまいます。
 この荻野氏というのは、芦田氏と同族であり、足立遠政が丹波へ来る相当前より芦田庄に移り住んだ井上丈炊介判官代家光の子孫です。家光は信濃国高井郡上村から丹波に流されていたのです。家光の子道家はすぐれた実力者で丹波氷上郡のみならず、天田、何鹿、船井郡へも勢力をのばして丹波半国の押領使となっていましたので相当な実力をもっていたと思えます。

 鎌倉幕府から氷上郡に派遣された地頭は市島町鹿集(カタカリ)庄へ吉見資重が、山南町栗作郷へ久下直高と青垣町佐治郷の足立遠政ですが、芦田氏は保元3(1158)年ということで、その一族は丹波で優位にたっていました。
 久下氏は武蔵国大里郡久下郷に居住していた開発領主でありましたが、久下重光が石橋山挙兵や源平合戦で戦功があり山南町栗作郷に所領が与えられ、承久の乱後直高が地頭となっています。久下時重が南北朝動乱期には足利義詮を山南町井原岩屋の石龕寺に守護しています。
 また、市島町上鴨阪の余田城の古城主余田左馬頭も関東から丹波に来た地頭だということです。

 

 

                VOL.41        2001.7.20

 

        足立権太兵衛基則

 

 「丹波史年表」によりますと足立権太兵衛基則は天文22年(1553)に佐治妙法寺を建立したとあります。また「丹波志」によりますと「立正山妙法寺、法華宗」「開山権大僧都智願院日上人、京の本山より弘通に下向して、則ち岩本の庵室にて毎日説法せり。当所の郷士足立氏左衛門太夫という者、真言宗の仏音にて、智願院を招き、三日三夜宗論問答し、終に帰依して改宗す。其上足立氏の下屋舗を開山に寄附す。故に建立一寺ものなり」とあります。

 また「妙法寺文書」によりますと「遠基十三代蔵人次郎勝秀を堀殿と号す、居は丹州氷上郡小倉村、先祖より当国十余箇村を領す。長男権太夫長秀堀殿と号す。其男基秀左京太夫という。其子基則権太兵衛と号す。後に左京太夫、氷上郡小和田に居すの時…・」とあり、さらに信長公にいささかの意根あり、日向守光秀謀叛の時に日頃の素懐をとげるため天正10年6月2日本能寺の変に参加したとあります。
 この時舎弟弥七郎宗立、子息左近進宗忠も加わっており、天正11年(1583)1月18日に亀山(亀岡)で自刃したとのことです。また基則の三男孫兵衛尚秀は父自害後伯父碓井重兵衛守良により紀州の桑山治部郷法印守良に推挙され家臣となっています。

 天正初年頃、戦国の平定もその緒につき上洛してきた信長は、京都の後背地の安定をはかるため丹波攻略にのりだします。天正3年(1575)春に明智光秀を丹波に封じ亀山城を落城させたことから始まる丹波の大動乱が延々とつづくことになります。

 丹波では天文23年(1554)正月2日、朝日城主荻野直正が謀叛をたくらんで叔父の黒井城主荻野伊予守秋清を刺殺して黒井城を乗っ取り、名を悪右衛門直正と改めました。直正は父の時家を中心に、兄の家清を高見城に、弟の幸家を三尾、長谷の両城に、父の時家は後屋、穂坪の両城に配置し氷上郡の全域を支配しようとしました。
 山垣城も沼城も赤井一族の幕下におかれそうになりました。そこで山垣城主足立基則や沼城主の芦田光遠らは丹波守護代の内藤国貞に助けを求めました。当時国貞は三好長慶の幕下にいて丹波第一の実力者で一挙に赤井一族を討伐しようとしていました。

 弘治元年(1556)三好長慶党の松永、内藤両氏の連合軍が赤井一族を討つため香良に結集、これに芦田、足立軍が加わって赤井一族総攻撃を画策しました。そこで赤井時家、家清、幸家、直正らは香良に奇襲をかけました。長慶党は赤井の奮戦により口丹波へ敗走、芦田光遠も直正に討たれ足立基則は敗北しましたが、直正も手傷を負い、赤井信家討死、家清も深傷、直正も坂兵衛に背負われて帰城し「敵、味方の死骸かさなり」と多数の兵士を戦死させた勝敗のわからぬ合戦だといわれています。

 足立基則は山垣城を去り、悪右衛門直正が丹波半国と但馬の一部までその勢力圏を伸ばしたので山垣城も赤井の幕下となりました。天正3年以来の明智光秀、羽柴秀長、丹羽長秀らによる丹波攻略で丹波の城は落城、赤井氏の本拠保月城も落城し一族郎党戦死、残ったものも路頭に迷い諸国に散っていったのです。
 ところが不思議に足立基則は光秀についていました。基則の建立した妙法寺は光秀の陣屋だったともいわれており、香良合戦でこりた足立の武将は自分の生命を守り帰農したものが多かったのですが、生き残る保障をしたのは足立基則の尽力があったと思われます。

 「山垣城主足立彦助の代に、明智光秀の攻伐により一旦落延び、其の後彦助此所に立帰り山垣殿と云えり」「牛河内村先祖山垣城主の長男四郎左衛門基依、山垣村没落後此所に住す」と「丹波志」にありますが、激戦の敗軍の将としては不思議です。赤井氏等の弾圧で足立一族は早くから帰農していたのですが、かつての山垣城主だった足立基則の信仰とも関係があったのです。天正11年に一族の安泰のため基則は切腹したのです。

 


丹波 妙法寺

 

                VOL.42        2001.7.27

 

        足立基則の子孫

 

 足立基則は遠元13代勝秀堀殿の孫であり勝秀が先祖から継承した当国拾余ヵ村の所領を領有していたとされていたり、「丹波戦国史」では、山垣城主足立権太兵衛基則とされていて、正当な足立家本流とされています。
 それでは、黒井城主の荻野悪右衛門直正の指揮下にあって、但馬朝来郡の竹田城の守りを援けたり、但馬の山名氏の氷上郡進入をくいとめていた天正時代の山垣城主足立弥三郎基助や、遠阪峠近くの遠阪城主足立光永とはどのような関係にあったのでしょうか。

 遠阪城、山垣城が焼け落ちたのは天正7年(1579)5月のことで、織田信長の連合軍による第2回目の丹波攻めの時で、但馬からおしよせた明智光秀、羽柴秀長の大軍が遠阪峠をこえて遠阪城、山垣城を半日足らずの戦いでもみふせ、足立遠政以来370年の足立一族による佐治郷支配の拠点は消滅します。この時遠阪城主の足立光永は自ら城を焼いて自刃したといわれています。
 ところが、本家山垣城の足立弥三郎基助(彦助)は山垣城落城の時逃げのびて黒井の保月城が落城し、丹波攻めが終わると再度山垣に帰って来て「山垣殿」とかつての領民に呼ばれながら帰農しています。また長男の四郎左衛門基依も「山垣城没落後」市島の牛河内村に落ちのびて、子孫が足立本家を名のっています。

 数年にわたり幾度もくりかえされた戦乱に対抗して足立一族は、本拠山垣城が落城しても、足立氏ゆかりの諸寺焼亡し、家屋焼失するという戦禍の中で祖先墳墓を守りつづけ生きるために労苦をいとわなかった姿があります。
 八上波多野や氷上波多野は一族郎党全員戦死という悲惨でありましたし、赤井一族は路頭に迷い郷里をすてましたが足立氏は、丹波志によりますと本家42、分家273軒を数えるという家系を残しています。

 このことは足立基則の存在を無視して考えられないと思います。先にみましたように、山垣城主であった足立基則は、弘治元年(1556)に沼城主芦田上野介光遠とともに由良庄香良村で赤井一族と激烈な戦いをしています。この戦いは氷上郡全域を支配しようとした赤井一族に対抗し、芦田光遠と基則が丹波の守護代内藤国貞に助けを求め、三好、内藤軍と芦田、足立軍が香良に結集していたところを赤井軍の奇襲をうけ猛攻撃にあい、芦田光遠も戦死、基則も敗走した戦闘です。
 この合戦により基則は赤井悪右衛門直正からのがれる為に山垣城は一族の基助にまかせたと思われます。そして何時か赤井氏を滅亡させたいと考えていましたので明智光秀に加わったということです。 

 岩本系足立氏の「生命は第一の宝」という信仰が天正の乱で足立一族を救ったのです。しかし光秀の本能寺の変に加わった基則は秀吉の残党狩りに自分の死が足立一族を救うと悟って亀山城で天正11年1月18日養子宗忠と弟宗立と共に自刃しました。

 娘婿の宗忠の子に理右衛門宗秀、源六左衛門正秀、孫兵衛尚秀の3人がいますが、いずれも伯父の碓井守良をたよって紀州へ行き、桑山宗栄公の家臣となりました。また、尚秀の子の定秀は桑山家につかえ文禄の役では朝鮮に出兵して感状を受けており、慶長の役では軍功があり有力な武将として活躍しています。
 基則の弟宗立の子の宗行弥太郎は父が亀山城で自害したのち足立家累代の家録等を伝承していましたが洪水で水死し、足立家の記録も失ってしまったということです。

 

 

                VOL.43         2001.8.3

 

        足立氏と赤井氏

 

 弘治元年(1555)に氷上町香良でありました足立氏と赤井氏の戦闘は、源平合戦以来繰り返された丹波の合戦の中で最も激烈をきわめたものといわれています。この合戦で赤井信家、芦田光遠は討死、悪右衛門直正の兄の高見城主赤井五郎家清も深傷を負い、のちに32歳で息を引きとります。この合戦で敗北した沼城の芦田、山垣城の足立は赤井に服し、荻野直正の幕下になりました。
 ただ、この死闘にもかかわらず岩本城の足立基則とその近親者は敗走しますが、直正にはしたがわず、足立一族から造反して明智光秀について赤井攻略に手を貸しています。諸国の動向、天下の情勢をみながら地方郷士として隠然たる勢力をもっていたのでしょう。

 このことは山垣城が落城し、足立一族が各地へ亡命したのですが、基則は近親者と共に斉藤利三の配下になり明智光秀にしたがって本能寺へ攻め入っていることでも明らかですが、足立一族が郷里の先祖伝来の土地で帰農することにかかわり、家の存続を保障させていることにつながっています。
 足立一族の造反者として基則に反感をもつものがなく、基則の末流を主張する家が現在まで続いています。

 さらに足立基則に攻撃された赤井一族にも、赤井姓を改めて足立姓を名のったものもいます。足立一族の生命を保障し、落城後も先祖伝来の土地に帰農させたのなら山垣城が焼滅しても足立氏は城と運命を共にしなかったということです。
 これと同様に天正7年8月9日に保月城は落城しますが、城主以下の赤井一族は若狭、但馬、近江、伊賀、大和などへ縁をたよって落ちのび、それぞれ赤井家を再興して江戸時代旗本として活躍するものが多かったのです。

 黒井保月城開城は足立基則が和議をすすめて赤井一族の生命を救ったと思えます。それは当時赤井一族の長兄家清は先年に香良の戦いがもとで32歳で死去、悪右衛門直正も「痬」で前年に病死しており直正の嫡子直義が城主となりましたが、9歳の少年で、叔父の赤井刑部幸家が総指揮をとっていました。
 光秀が黒井城を攻める総勢は「太閤記」によると1万であり赤井勢は5百であったが「兵糧つき合戦かないがたく城に火をかけ、大手の門を開き敵陣中を打破り」と落ちて行きましたが「跡を求めて追かけ近附く者これなく」と「赤井先祖細記」に書かれている様に落城というより開城であったし、城主の赤井直義は、藤堂高虎の家臣となっているし、赤井幸家は篠山市の宮田で後妻に足立基則の孫娘をむかえ久基が誕生していますし、慶長11年70歳で逝去するまで平穏な暮しをしています。

 幸家の死後久基は父幸家の弟赤井弥平衛時直をたよって大和宇智郡犬飼村で養育されますが、時直は千5百石の旗本であり、久基ものちに赤井本家の旗本忠泰の女と結婚しますが、この際改姓して赤井から足立にしています。
 赤井一族で幸家の孫正次も足立喜右衛門と足立に改姓していますが赤井一族で足立基則を敬愛していたのではないかと思えます。黒井保月城を赤井最後の砦として徹底抗戦したら全滅しており「寛政重修諸家譜」の赤井一族はなかったでしょう。

 足立基則の養子は、基則の弟香良の二男宗忠ですが、岩本城で生まれた宗忠の三男足立孫兵衛尚秀は父の自害で叔父碓井重兵衛守長を頼って紀州へ行きます。この叔父は和歌山城主4万石の桑山宗栄公の家老をしていましたので尚秀は町奉行を命ぜられました。
 その子の足立三太夫定秀は桑山家2代城主の家老となり和州新庄村に住んでいましたが、赤井系の久基の子足立三郎右衛門久貞を桑山家の中老職に推挙していますのも基則につながる先祖の縁でありました。

 

 

                VOL.80         2002.8.20

 

        足立正興とその兄

 

 本能寺の変に明智光秀に加わり、織田信長を倒しました足立基則の孫に尚秀がいますが、孫兵衛尚秀は祖父の自刃後伯父、碓井守良をたよって紀州に行き、のちに桑山宗栄公の家臣になりました。この尚秀の子に定秀(正興の兄弟)があり、定秀は幼名勝三郎といい、後に三太夫と改めていますが、大和の新庄一万六千石の桑山家家老となっています。
 三太夫定秀は、文禄2年(1593)に朝鮮へ出兵しました。当時17歳の少年でありましたが、朝鮮で活躍したようで強敵を討取った感状がそのことを伝えています。また慶長19年(1614)大坂冬の陣の時には道明寺表で一番首を討取るなどの軍功がありました。

 孫兵衛尚秀の二男に兵庫正興兵助がいます。正興が生まれたのは氷上郡青垣町小和田とされていますので、小和田城に基則を中心に子、孫の大家族で住んでいたことになります。そして天正11年(1583)5歳の時に兄とともに紀州の碓井守良をたよって落ちのびたのです。尚秀につれられ7歳と5歳の兄弟が丹波から紀州へ、そして大和へとつれていかれ厳しい環境の中で幼少期をおくっています。
 「足立兵助、正興伝」には、正興のことを「天性元来質直、義を好み道を重んじる」人物であったとしています。朝夕武芸に精励して文武両道を学び、忠と孝を最も大切な徳目として精進していた武将でありました。

 慶長19年(1614)10月中頃に大御所家康公は将軍秀忠公とともに戦闘を開始します。大坂冬の陣で11月1日にこの合戦に加わっていました桑山左衛門佐の軍勢は小山表で大野主馬軍勢に出合い戦闘が半時あまり続きまして桑山軍が勝ち敵多数を討取り一息ついていましたところへ、大坂勢の中より花やかな鎧の武者一騎が桑山左衛門佐一直公をめがけて馳せ来て、一直公に切りかかりました。
 足立兵助正興はこれに気づき、馬から飛びおりて一直公の馬の前に立ちふさがり、敵の馬の足を薙ぎ切りました。馬はたおれ馬上の武士は真逆さまに落馬しました。その敵に走りかかり、首を取ったと「正興大坂合戦記」にあります。
 このことはその日に戦の次第書と敵将の首とが戦奉行の本多上野介に届けられました。家康公にも達し、上野介より返翰の御感状に一直公自筆の感状も添えられ正興に伝えられました。

 翌年4月にまた大御所家康公は将軍と共に大坂を攻め大坂夏の陣がはじまりますが、その軍勢の備に松倉豊後守と桑山一直公の軍が前後の備として進軍し、国分峠に陣を取っていた時、大坂方の夜うち奇襲にあい伊達政宗公の軍へ鉄砲を打ちかけられ大坂勢山野に満ち、伊達政宗勢の旗色が悪くなって来ました。
 その時正興軍が敵、身方両軍の真中へ乗り込み、足立三太夫も続いて右往左往に攻合っていました。大坂勢の中に三輪采女が名乗りをあげて正興と一騎打をしようとしましたが桑山一直公が無二無三に切りまくり、大坂勢は敗北しました。足立三太夫、足立九兵衛なども一騎当千の武将として活躍し、家康公御感あって「桑山左衛門佐一直は大坂表五人の内なり」と加増を将軍秀忠公に命じられたということです。

 桑山家は和歌山城主でありました治部郷宗栄公修理太夫重晴を祖としています。宗栄公は秀吉に仕え賤ヶ岳の戦功で但馬竹田城を与えられ、天正13年(1585)和歌山城代となりました。その孫一晴が関ヶ原戦功で二万石を分与され大和に移りますが、一晴歿後弟の一直が襲封し新庄村に陣屋をもち、新庄藩と改称していました。足立兵庫正興は一直公とその息子一玄公に仕え、万治2年(1659)8月に82歳の生涯を了えています。

 久基半左衛門については赤井系図に次のことが記されています。久基は赤井幸家の八男で文禄4年丹波で出生、慶長11年父死去の時には12歳であったので、大和犬飼村の叔父赤井弥平衛時直に養われていましたが一家を立てたとき赤井姓を足立姓に改め赤井知行の千石を托され、時直より百石の配分を受けた。その子の久貞も一直公に仕え中老となっています。

 

 


桑山修理亮重勝の制札 天正十年(1582)

 

                VOL.81         2002.8.22

 

        足立氏忠臣蔵

 

 丹波妙法寺の創立者で岩本城主だった足立権左兵衛左京大夫基則のことについて、もう一度「大和曽大根足立家系図」によって整理しておきたいと思います。
 基則の兄弟は碓井家の養子となった香良と宗立の2人です。香良は、秀吉につかえて賤ヶ岳の戦功によって但馬の竹田城を与えられていた修理太夫桑山重晴の家臣碓井氏の養子となりその子孫が碓井氏を相続しています。

 天正13年(1585)に秀吉が和歌山城を征服し、秀長に与えましたが、秀長は和歌山城の城代に桑山重晴を用い和歌山三万石に和泉の一万石を加えて四万石を領有させました。碓井香良の子の守長は、主君の桑山重晴に従って紀州和歌山に住んでいました。この碓井守長の弟の香良の二男が宗忠で、足立基則と妻の大内夫兵衛の娘との間に生れました女子の婿養子となっていました。
 足立宗忠左近進には3人の子があります。理右衛門宗秀、源六左衛門正秀、そして尚秀です。前述の天正11年1月18日に宗忠が亀山城で自刃しましたので、母子は宗忠の兄碓井守長のもとへと紀州和歌山へ落ちのびたのです。足立尚秀は桑山宗栄公に認められ家臣となっていますが、その子の三大夫定秀と兵庫正興は桑山一直公、一玄公の家老職をつとめています。

 桑山家は紀州和歌山城主でありました桑山重晴の嫡孫一晴が関ヶ原戦で新宮城主堀内安房守氏善を攻略した功により、重晴より二万石を分与されまして、大和国葛下郡に陣屋を構え新庄藩をつくりました。桑山一晴はのちに重晴に養老料として四千石を分知していますので一万六千石となっています。そしてこの新庄藩は一晴から弟の一直、一玄さらに一尹と継がれています。
 桑山一直は大坂の両陣で大活躍をしていますが、それには家臣の足立定秀や足立正興の働きがあったことはすでにみた通りであります。ところが桑山一尹の時に大事件が起きました。天和2年(1682)5月東叡山寛永寺で将軍家綱の法会がありましたが、一尹が勅使に対して不敬をはたらいたということで桑山家は廃絶されてしまいました。浅野内匠頭が勅使接待で切腹した20年前のことです。

 この時桑山家の家老は足立尚秀の三男瀬兵衛正吉や、足立定秀の孫の純基、さらに、足立三郎右衛門尉久貞などでありました。将軍綱吉の時代で大名取りつぶし政策の犠牲になったのです。主家の改易で新庄城開け渡しの大役が彼等の責務となりましたが、その時やはり足立一族を救済したり、赤井保月城落城の時に赤井一族を救済した基則の意志が伝承されていたのか、家中の武士達の仕官を世話したり、浪々する者には内蔵金の配分を厚くして一触即発の暴動をおさえています。
 仕官のめどのない足軽たちには新田開発をはかり百姓として生きる道を選ばせ、安住の地と定職を与えたといわれています。

 赤穂藩の大石良雄はあまりに有名でありますが、桑山藩で足立氏の家老達が取りました処置も決して武士道にはずれるものではありません。主家改易による処置として家臣一同に生活設計を企画した人道的な指導理念としては大石内蔵助より勝っていたと思えます。しかし、碓井氏をたより大和へ落ちのびた足立氏の一族もこれにより、帰農するもの、医業で身をたてるもの、離散したもの等で数奇の運命をたどることになりました。
 桑山家が廃絶となった翌年足立久貞は相谷村に天女山隆霊寺を建立して梵鐘を寄進しています。久貞が納めた梵鐘には大願主本国丹波氷上郡、生国大和宇智郡、足立三郎右衛門尉久貞、天和三癸亥三月吉日とあり、この梵鐘は現存されています。

 


桑山重晴が足立基則の供養に妙法寺へ納めた
鎌倉時代の南都絵仏師、命尊筆涅槃図

 

                VOL.46        2001.8.24

 

        足立権九郎基兼

 

 足立遠政が地頭として丹波佐治庄を領有してから370年間、足立一族でこの地を支配していましたが、永禄2年(1559)には但馬の山名祐豊が山垣城を攻めたのを足立丑之助政之がこれを守り、また元亀2年(1571)に但馬守護の山名裕豊が山垣城を攻めたのに対し、足立基晴がこれを守っています。
 しかし、天正7年(1579)羽柴秀長が丹波攻めをして遠坂城(足立光永)、芦田城(芦田国澄)、栗住野城(栗住野治朝)さらには、成松城、母坪城を落し、高源寺、報恩寺、胎蔵寺を兵火にかけ、柏原八幡宮を焼き、西芦田、栗住野、口塩久の土豪36人を斬り栗住野に鳧すという手段にでましたので、黒井城も落城しました。
 この時山垣城をまもっていたのは山垣城主の足立弥三郎基助でありましたが、長男の足立基依は牛河内にのがれ、その地で足立本家として子孫が増えています。

 さて、弥三郎基助には弥八郎基時と与三郎基徳との兄弟がありました。弥八郎基時の子が左衛門尉基則であり、与三郎基徳も葛野先祖としてその地で子孫が繁栄していきました。
 足立基則には、さきにのべました左近進宗忠のほかに「丹波副谷、足立平兵衛系図」によりますと足立権九郎基兼がいました。天正11年(1583)1月18日に明智光秀について本能寺を襲撃したことで自刃した父基則、兄宗忠、叔父宗立の石碑を妙法寺に建立し供養して、この寺を護持したのが権九郎基兼です。青垣町の市原に住居を定め農業をいとなんでいます。

 慶長2年(1597)3月18日に逝去していますが、帰農してからの14年間に5人の息子達を分家させ、生業を与え先祖伝来の土地で一族が隆昌する基礎をつくったと思えます。市原の加門田に墓があり宗立院入道基兼が法名で、400年を経過していますが、その子孫が先祖講を毎年おこなってその遺徳を供養しています。
 その嫡男は仁助基康、その子久右衛門兼基、その没年と法号は元和5年(1619)8月18日宗忠院正道基康、延宝元年(1673)11月21日岩霊院久斎日栄信士です。

 仁助基康には基兼の他に五郎右衛門、太右衛門、三郎右衛門、五郎左衛門の四子あり、それぞれ農地を与えて分家させ市原に住んでいました。五郎右衛門弥三郎の子孫は繁栄し、市原村の庄屋として村政を数代にわたり掌握しています。五郎右衛門、市郎左衛門、五郎太夫と相続し、子孫は分家して有力な家系を形成しています。五郎右衛門は万治2年(1659)逝去しています。

 さて五郎左衛門のことですが、妻を黒川村より迎え嫡男甚右衛門が生れます。しかしこの妻は父子を残して若死にしてしまいました。そこで後妻に小倉村の長兵衛の娘と結婚して、また男子2人が生れていました。そうした縁で、小倉、佐治と西芦田の間で起きました山論にかかわってしまいました。山の入会権は村民の死活にかかわる重大事件でありました。市原の五郎左衛門は「小倉の訴訟状を誤認した」という京都奉行所の判決で、小倉村役人とともに五郎左衛門親子3人は承応3年(1654)に小倉村段ヵ端で打ち首になってしまいました。村人はその供養のため地蔵を段ヵ端川岸に建てて親子を祀りました。
 この時先妻の嫡男甚右衛門は黒川村に隠れてたすかり、後にこの家を相続しましたが先述の五郎右衛門も妻子をつれて岩代に隠居して、五郎左衛門の冥福を祈り生涯を了えています。

 


五郎左衛門親子供養の地蔵

 

                VOL.47        2001.8.31

 

        足立重信

 

 江戸時代初期の武将として有名な足立重信がいます。足立重信は通称を半助、のちに半右衛門といい兼清、元清ともいっていますが、文禄年間に美濃国に生まれています。
 若い時から加藤嘉明に仕えていましたが、加藤嘉明は秀吉につかえまして、股肱として活動し、天正11年4月の賤ヶ岳の戦には七本槍の一員として奮戦したのを始め、水軍を指揮して四国、九州、小田原等を転戦、また朝鮮へも出兵して文禄の役では舟奉行として壱岐に渡りました。

 ここでは朝鮮水軍のために苦戦しましたが、慶長2年(1597)7月の唐島の戦いでは明兵を討ちとり戦果をあげました。秀吉も加藤嘉明を重用しまして、文禄4年(1595)には伊予松前に転封して6万石の大名にとりたてました。この加藤嘉明が最も信頼した家臣が足立重信であります。
 めまぐるしい戦略家であった秀吉に服従し国内の征伐ばかりか、朝鮮まで侵略しようとした秀吉の命令のまま戦闘を続けた加藤嘉明と、戦術家としてそれをささえた足立重信の活躍は嘉明にまさるものであったことでしょう。
 加藤嘉明は文禄4年、朝鮮の役の功により淡路島の志智1万5千石から、伊予正木(松前)六万石に転封されました。

 足立重信は、文禄、慶長の朝鮮の役に従軍して戦功があったとされています。慶長3年8月18日秀吉が死にますと、無謀な侵略と大量殺戮を強要された加藤嘉明と共に家康に接近します。関ヶ原戦では東軍に加わり加藤嘉明は出陣しますが、伊予の留守居役を足立重信にまかせました。
 この時領内に毛利勢が侵入し、ここでも戦闘が開始されましたが、足立重信はこれを防戦して破り領内の安定をはかることができました。この功績により足立重信は家老職となり、5千石を給与されています。

 家老となった重信は土木行政に卓越した能力のもち主でもありました。荒廃地であった伊予川の下流に12キロにわたる新流路を開削して堤防を築き、5千ヘクタールの耕地の水防に成功、これにより20万石の良米を産出する良田ができました。人々はこの川を重信川と呼んで足立重信の名を今につたえています。

 嘉明が伊予・正木(松前)に転封になった時、足立重信は松前城の築城奉行を行って、築城にも手腕を発揮しましたが、嘉明が関ヶ原合戦で岐阜城・大垣城攻略に成功した功により、伊予半国の20万石の大名になりましたので、松前城では不便になり、松山城築城計画が企てられましたが、その築城奉行となっています。
 この時も西流する石手川の流路を変えて8キロにもわたる堤防を築いて巧妙な水利工事を完成し3千ヘクタールの耕地と松山の城下町市街を開発しました。単に松山城の普請奉行というだけでなく、耕地を拡大し10万石増収に成功していますので民衆の喜びも大きく、百姓一揆騒動も足立重信により鎮められています。

 土木・治水・築堤技術にすぐれた能力をもっていた人物であったようです。足立重信もまた、関東の足立遠元を元祖とする家系といわれていますが、美濃、木曽川沿岸で育ったという出自が明確ではありません。
 軍事・内政・土木・築城で大きな力量をもった足立重信を最も信頼していた嘉明は、重信の臨終を見舞い、望むことあるかと尋ねたところ「臣の望、他になし、城閣を観望し得る所を墳墓となし給へ」と答えたといいます。松山城の北の来迎寺後丘の地に墓が建てられています。寛永2年(1625)11月のことです。今の松山市の基礎をつくった人物だったのです。

 

 

                VOL.48         2001.9.7

 

        足立藤九郎保宗

 

 岐阜県可児市の可児郷土資料館の近くに柿下という村落がありますが、ここが一時は安芸・備後2カ国に49万8千石を領有していた大大名広島城主福島正則につかえていた足立藤九郎保宗の帰農した土地であり、その子孫はここに400年近くも居住し、一族は繁栄して分家がこの近在に数多く足立氏を名のり現在まで続いているということです。
 江戸時代の初期にはこの土地に居住した足立藤九郎保宗の先祖は鎌倉期に平貞時によって霜月騒動で滅ぼされた安達氏であります。この時もその子孫が生き残り北条氏の被官として活躍しますが、元弘3年(1333)5月7日新田義貞に攻略され、北条高時と共に足立時顕、顕高父子も自害してはてました。

 しかし、その子孫が後北条氏につかえ武将として活躍しています。宗瑞が北条早雲を名のり氏綱、氏康、氏政、氏直の5代続いたのですが、足立保宗の先祖も祖父の足立憲保まで北条氏につかえました。 
 武田氏が滅亡し、織田氏が滅亡すると北条氏は本格的に関東全域を支配しようとしましたので豊臣秀吉と対立し秀吉の小田原攻めで滅亡したのですが、この時足立憲保も討死にしてしまいます。

 足立保宗の父九郎保茂は小田原で憲保が討死しましたので、母の実家のありました尾張へ、横須賀の郷士永田氏家をたよって落ちのび、ここで養育され成人を迎えます。永田氏家は福島正則につかえていましたので、保茂も福島正則の軍勢に加わることになります。
 福島正則というのは、尾張の住人福島市兵衛正信の長男で幼時より豊臣秀吉につかえていました。天正6年にはじまる三木攻め、鳥取城攻め、山崎合戦、賤ヶ岳の戦等戦乱に明けくれの毎日を送りますが、秀吉に戦功が認められ清洲城24万石の大名となりました。
 豊臣秀吉が逝去しますと、正則は家康につき関ヶ原の合戦、大坂の陣でも抜群の戦功をあげ、家康から49万8千石の広島城主という大封を与えられました。

 しかし、こうした福島正則の戦功の裏には討死する武将も多くあり、足立保茂も関ヶ原では武勇の士として正則から指領の一刀を贈られるほどでしたが大坂の陣では元和元年(1615)炎上した大坂城とともに武運つき47歳で討死してしまいました。正則は剛直な性格で意のあわぬものに対しては著しく攻撃的でありましたが、気に入った人間に対しては厚情をかけていました。
 足立保宗も父保茂の跡目を相続して、福島正則につかえました。ところが間なしの元和5年に広島城を無届で修築したという理由で福島正則は信濃の高井郡高井野(長野県高山)へ蟄居させられてしまいました。用心深い徳川幕府から嫌われていました正則の晩年は不遇でありました。

 足立保宗もまた、正則について信州へ行き主人につかえていました。しかし、主家改易で浪人してしまったので、ついに美濃の柿下在で農地と居宅を求めて帰農してしまいます。これは徳川幕府の大名取りつぶし政策の犠牲になった武将たちの歩む道であったのです。
 しかし、平和な田舎で村民から敬愛され安泰な日々を過ごせて晩年の足立保宗は戦闘であけくれする戦国の武将でいることより喜んでいたことでしょう。この近在には足立氏を名のる保宗の子孫が繁栄しています。

 

 

                VOL.49        2001.9.14

 

        北九州の足立氏

 

 北九州都市高速四号線に「足立インター」があります。この近くに宇佐町があり、そこの小学校が「足立小学校」、萩崎町に「足立中学校」があります。また、ここには「足立森林公園」「足立山」があります。
 北九州市小倉地区になぜ「足立」の地名が残ったのでしょうか。「足立山」の由来については「小倉郷土史」に「足立山は小倉の豊前葛原村足立にあり、足立と命名された由来は和気清麻呂都より宇佐八幡宮参詣の途次、足を痛めて歩行困難となり、この地の温泉で療養、足が立つようになったのでこの地名が起った」とあります。

 和気清麻呂は奈良時代の政治家で女帝孝謙上皇に近侍していました。神護景雲3年(769)10月、九州の宇佐八幡神の託宣あり「道鏡を皇位につければ天下は太平となる」という内容だったのです。道鏡は河内の出身で、孝謙上皇の看病をした僧ですが孝謙帝の絶大な信頼により太政大臣禅師、法王となっていましたので、宇佐八幡宮と結託して神の名で即位しようとしたのです。
 そこで朝廷は和気清麻呂に神託確認のため宇佐八幡宮へ出張させました。清麻呂は皇室の秩序を乱す偽託と断言して決着をつけますが、清麻呂も処罰され、除名して大隅国に流されてしまいます。
 後の光仁天皇即位で召還され、更に桓武天皇の即位によって急速に登用されます。長岡京造営を建議したり、河内、摂津で大水利工事を起したりします。更に平安京の造営が決定されると平安京造営大夫となって平安京の基礎を築くなどの大事業を指揮した人物です。

 足立山の伝説では、道鏡に皇位を与えるかどうかということで勅命を受けて宇佐八幡の神慮を伺うため都から船で若松まで下って、宇佐に向って小倉まで来た時、山の麓で歩けなくなり葛の葉の中で寝ていたのですが、夢のお告げあり、この山麓に温泉が湧き出ているところがあるので、そこに足をつけると治癒すると教えられます。早速その温泉に浴していますと歩行できるようになり、宇佐八幡に参り神示を受けて都に帰り、道鏡の追放に成功したのです。
 和気清麻呂の足が立ったので足立山と名づけられ、足立の地名となります。福岡県には足立姓がかなりある様ですが、先祖を和気清麻呂とする系図があり、それによりますと、和気清麻呂―後承―散位―和気致輔―遠元となっています。遠元の先祖を和気清麻呂としておりますが、これは足立山伝説と足立遠元が混同されて書かれた系図だと思えます。なお和気致輔は源義家に従って安倍貞任征伐に参戦しており戦死した人物でありましたので、足立遠元と少しは関係あったと思えます。

 しかし、ここにも足立遠元から連綿として現在に至る系図が存在することを足立氏研究家の安酸睦博氏が報告されています。八女郡星野村一里塚の足立系図です。これによりますと足立遠元の子に定元、清恒があります。
 定元は長瀬判官代足立源左衛門尉のことで、後鳥羽上皇の承久元年に選ばれて西面の武士となったとあります。承久の乱後どうしたか不明で筑後まで亡命したのかも知れません。
 また清恒は新三郎といい、遠元の実子ではないのですが、頼朝が江州浅井比郡に落ちのびたとき老翁に助けられましたが、その孫を遠元が養子として養育したということです。清恒は頼朝の側近として吾妻鏡にでてくる人物です。

 

 

                VOL.50        2001.9.21

 

        南九州の足立氏

 

 平安末期以来の九州の雄族として知られています島津氏も足立遠元に関係があり、鹿児島県下に足立・安達姓が現在まで続いています。また、大分県では臼杵市、竹田市、三重町、清川村、大野町、久住町に足立・安達姓が多く、南九州方面に多く存在していますが、これは鎌倉時代の関東武士が下向したことによるものです。
 島津藩の初代藩主は島津忠久で、源頼朝の御家人として本領薩摩島津荘地頭職を安堵され、さらに薩摩、大隅、日向の三ヶ国の守護に補任されたので八千町歩を領有していました。この地方に足立氏があるのは島津氏とともに下向した関東武士団のうちに足立氏・安達氏がいたからです。

 このことは平田信芳氏の「島津一族、家臣団と南九州の地名」に記されていますが、関東武士団三十氏がこの地に来て、島津忠久が京、鎌倉へ帰った後も定住したことによります。
 島津氏は在地豪族惟宗基言の子広言が近衛家領島津荘下司となり島津氏を称したのが初めと伝えられていますが、広言の子といわれている島津忠久八歳に、どうして広大な島津荘地頭職を任じたのか不思議ですが、これには出生の秘密がありました。

 島津忠久は「島津氏系図」によりますと源頼朝の子で母は比企能員の妹丹後局とされています。丹後局は頼朝の寵愛をうけましたが、頼朝の妻北条政子の嫉妬が恐ろしくなり、西国へ逃げ出します。その途中大坂の住吉神社の境内で産気づき、夜間雨の中狐火に守られて男児を出産します。
 たまたま参詣していた近衛基道公に助けられ、母子ともに近衛家で養育されました。近衛基道公は密かに頼朝にこの事を知らせます。後にこの母子は関東に帰り、近衛家の下司惟宗広言に嫁ぎます。惟宗広言の妻は畠山重忠の姉で早く逝去していますので丹後局は後室となります。畠山重忠の正室は、足立遠元の娘ですから忠久と遠元の関係があったのです。

 忠久は元暦2年(1185)7歳のとき初めて父の源頼朝に対面しますが、畠山重忠の「忠」をもらって忠久と名のり、翌年には島津姓を与えられ、島津荘の地頭職を任じられました。このことから島津家初代となり、忠久は源頼朝の子であり、足立遠元の外孫が島津初代薩摩藩主忠久室であったのです。
 島津忠久は島津荘地頭職だけでなく薩摩、大隅、日向三国の守護に補任、さらに越前守護にもなっています。この地方を実際に支配していたのは、九州へ下向した鎌倉武士団でありましたが、足立氏もこの地で活躍しましたので、足立姓があるのです。

 大分県にも足立姓が多いのですが、安達泰盛が肥後守護でありましたので、これまた肥後へ足立・安達一族が下向したのですが、霜月騒動で安達氏が追放されましたので、足立氏を名のり、また関東からこの地の足立氏を頼って来た人も多かったので、足立氏が増えたと思えます。
 安酸睦博氏の調査によりますと清川村には県指定有形文化財となっている立派な足立家宝塔があったり、「安達盛長十二代之裔、足立盛親之墓」があったり、竹田市明治地区には40戸の足立姓が集中してある地域もあり、九州にも足立氏が多いのです。

 

 

                VOL.51        2001.9.28

 

        中国地方の足立氏

 

 鳥取県の西北端に米子市がありますが、米子市から境港市にかけての弓浜半島地区には足立姓が多く、米子市だけでも足立・安達姓は200数十戸はあり、境港市に行くほどこの地域の足立姓の密度は高くなるといわれています。
 米子市は海上貿易が発達し、江戸時代の西廻り航路の港町として活気のある街となったのですが、中世は加茂と呼ばれていた小漁村であり、東部には尾高城がありました。尾高城は大永4年(1524)出雲の尼子経久に攻落され、のちに吉川氏の居城となった時期もありますが、関ヶ原戦後中村忠一が17万5千石の領主として入部し、米子城を築いたことにより廃城となりました。
 米子城主中村家も断絶し、池田氏が因幡、伯耆の領主として入部しています。こうした城主に従って米子へ来ました足立・安達氏がこの地に帰農して、その子孫が増えていきました。

 鎌倉末期、足立遠元の嫡流でありました6世孫、安芸守足立遠宣は足立一門を率いて武蔵の足立郡桶川郷より、足利尊氏に従って西下してきました。足利氏の先祖は八幡太郎義家の孫にあたる源義康であります。新田義貞の先祖もまた源義重で、義康、義重は兄弟であり、鎌倉幕府創立の源頼朝と先祖を同じくする鎌倉幕府内の名門であり、足利荘、新田荘をそれぞれ領有していましたので、その地名を家名としていました。
 新田義貞が鎌倉幕府を滅亡させた建武の功労者ではありますが、部門の棟梁として信望を集めたのは足利尊氏で、建武2年(1335)には早くもこの2人の武力衝突が起こります。

 急進的に独裁政治を展開しようとした後醍醐天皇に足利尊氏は離反し、光明天皇を擁立して室町幕府を開設したわけですが、関東から西下していた武士団もどちらかに分裂して抗争せざるをえなくなったのです。
 足立遠宣の一統は後醍醐天皇に従って運命を共にしますが、南朝ふるわず、悲運の中で足立一門も次第に衰微し備前、備中、播磨方面に四散していきました。しかし、武門の名門を大切にし帰農、各地に土着していたようです。
 関東から西下した足立一門の中には足利尊氏に従っていた足立信政もいました。足利尊氏ははじめ敗走して九州に落ちのびますが、それに従った中には、徳山大津島に土着して帰農した足立氏の姿もみえます。

 足立信政は延元元年5月25日(建武3年)湊川にて足利直義が苦戦していた時、楠木方の豪将、箕浦兵衛尉を打ち取り、その功により播磨守に任ぜられています。また信政4世孫の足立信則は備中守に任ぜられ、備中英賀郡草間の川崎城主になっており、尼子経久の家臣となりました。
 足立信則の子の久信は尼子晴久について十年畑高尾城主であり播州攻めでは活躍していますが、尼子晴久が毛利氏と戦い月山城で滅亡しましたので、足立久信は高尾城出丸跡に庵を結び余生を送ったといわれます。その庵跡に城福寺が建立され、久信の墓も寺内にあり、足立右馬允久信を祀っているということです。

 足立久信の長男長良次郎左衛門は出雲尼子十三人衆の一人とされていますし、次男の足立宗兵衛久純は草野にのがれ鉄山師となっています。また旧尼子家臣が吉川広家に臣従したものに足立治兵衛、足立八右衛門、足立長太夫、足立藤兵衛、足立又兵衛、足立市右衛門がいました。
 吉川家が米子より岩国へ移封されたのに従って、岩国へ移った足立氏もあり中国地方一帯に足立遠元を先祖とする子孫が多くいますが、鳥取県、島根県、岡山県、山口県には足立姓の多い地域があります。

 

 

                VOL.52        2001.10.5

 

        岐阜県郡上の足立氏

 

 美濃国の土岐氏は管領につぐ格式で室町幕府に迎えられていましたので、在京の機会が多くその一族も京都に住んでいました。南北朝時代に岐阜県揖斐荘に揖斐城を築き、荘内に大興寺を創建して勢力をもっていました土岐頼雄も、在地武士の力が強くなり、郡上八幡を拠点に有力となった斎藤妙椿のため一族が分裂してしまいます。
 応仁の乱ののちにはこの地も戦場となり、斎藤の家臣であった西村勘九郎に攻略され、斎藤道三に仕えていた西尾光教に揖斐城もうばわれてしまいまして、土岐氏は美濃から追放されてしまいました。
 この揖斐城を築いた土岐頼雄の娘と足利義教の間に生まれたのが童名千太郎で嘉吉2年1月22日に誕生し、のちに足立頼直と改名して郡上郡口明方村に帰農したというのです。

 足利義教は、室町幕府第6代の将軍で3代将軍義満の子であります。応永元年(1394)6月に生まれていますが、4代将軍義持の異母弟でありましたので、生まれて間なしに青蓮院に入室していましたが応永15年に得度して義円と称し、応永18年に大僧正となり、応永26年には天台座主となっていました。
 ところが正長元年(1428)正月義持が没しますと還俗して義宣と名のり、永享元年(1429)3月9日に征夷大将軍となり、義教を名のります。

 ところが6代将軍義教は将軍専制を志向するようになり、管領の権力を抑止したり、公家に対しても圧迫を加え、延暦寺も弾圧、鎌倉府を滅亡させるなど、その性質は残忍峻烈で、土岐持頼も殺されており、ついに嘉吉元年(1441)6月に赤松満祐に誘殺されてしまいました。この義教には側室が多く、男子11人、女子8人の子がありました。土岐頼雄の女も側室の一人であったとされています。
 嘉吉の乱の時に懐胎していましたが、身に危険が及んだので美濃に逃げ、正月に若宮を安産しました。しかし連年戦乱で不穏の世情であったので、郡上に忍び来て農民となって千太郎を養育しています。

 土岐蔵人頼雄が祖父でありますので、その一字をもらって頼直とし、足利姓も隠して足立を号します。この足立はおそらく祖母の実家姓であったと思われますが、この郡上郡口明方村の旧家は今も続いていますが、代々の分家が多くあり、美濃地方の足立家の祖となっています。
 この足立氏は吉兵衛を襲名していますが、吉兵衛義兼の時代に漢方医となって、それを家業として世襲しています。

 足利将軍と足立が深い関係にあることは、足立信政が尊氏に従っていたことでも明らかです。そして郡上郡口明方村の足立氏は直接足利氏と血縁でも結ばれていたのです。
 しかし岐阜市の足立氏は安達盛長系で、霜月騒動で美濃に来て土着したとか、瑞浪市の足立氏はもっと古い家系であるとか、口明方村の足立氏の中には丹後より青山藩主入部の時に従ってきた足立氏とかの伝承があります。

 

 

                VOL.53        2001.10.12

 

        三河の足立氏

 

 南北朝の動乱で足立遠元の遺風を家風としていた足立氏は、南朝の衰微とともにその勢力は衰退していきましたが、戦国時代になると更にその傾向が強くなっていきました。
 足立遠元の猶子の天野遠景が伊豆の地頭でありましたし、安達氏が三河守護でありましたので、三河地方に足立姓の豪族もいましたし、戦国末期に信長・家康につかえていた足立氏もありますが、足立遠元の子孫というのは確かでも、そのつながりがわかっていない足立氏があります。

 江戸幕府が編纂しました大名・旗本・幕臣の系譜を集めた「寛政重修諸家譜」という本がありますが、この本にでてくる足立遠元の後胤とされる右馬允遠正という広忠卿につかえている三河武士がいます。
 徳川家は三河松平郷の小さな豪族でありましたが、家康の祖父清康の代には岡崎城に移り、三河一国を支配していました。しかし家康の父松平広忠の時代には、東に今川、西に織田が強力になり苦しい立場になっていました。
 しかも家康の祖父清康は24歳で部下に殺害されますし、父の広忠も10歳で父を失い、織田氏との戦いに敗れ伊勢、遠江を流浪していましたが今川義元に助けられ岡崎城へ帰って来ています。

 三河の武士は、あがる年貢は今川氏に取られ、今川家から来た城代たちに使役され、新田を開墾して食うことに追われ、戦争になると先陣をつとめていましたので、その家臣であった足立遠正も大変な苦労をしていましたが、更に松平広忠の子家康は5歳で人質として今川に差し出されていますし、広忠も26歳で織田方の刺客に殺されるという状態で、主のいない三河は今川の保護領となり家臣団は苦闘と忍従の生活でありました。
 足立遠正の妻は「東照宮につかえたてまつり永禄元年2月駿府より岡崎にわたらせ」たようで人質となった家康について駿府にいっており、16歳になった家康が築山殿と結婚したので、やっと岡崎に帰れたようです。

 永禄3年(1560)5月18日桶狭間で織田信長の奇襲にあい今川義元が戦死しましたので12年の人質から解放された家康は岡崎城へ帰ってきました。
 足立遠正の子は弥一郎遠定、その養子が善一郎政定で家康につかえています。ところがこの善一郎の弟が大久保荘左衛門を殺害して逐電するという事件を起し、秀忠の憤が強かったので善一郎政定も退身して、越前の青木直重に身をよせていました。

 慶長5年石田三成と家康が挙兵いたしましたが、青木紀伊守直重が家康に従うということで、その使者に足立政定が小山の陣へ行ってこの事を言上すると、家康は非常に喜んで呉服五領を政定にあたえました。
 これよりのち足立家は旗本となり、政定の子善一郎正義、その子長十郎遠清と将軍秀忠につかえ、大番に列して二百俵の俸禄を受けています。大番というのは江戸城および江戸市中の警備役で番頭は旗本・大名の中より選ばれています。

 遠清のあとは又市郎遠重、そして伝七郎遠広、伝之助遠綱とこの旗本家系は明治維新まで世襲され続いています。
 新宿の西迎寺に墓があったようですが、この寺は空襲にあって墓も古記録も失いました。幸いに過去帳のみは残ったようですが、その子孫は不明です。

 

 

                VOL.54        2001.10.19

 

        足立氏の家紋

 

 家紋は、平安後期に発生し、家の印として用いられました。苗字を紋にしたもので、氏の印ではありません。公家社会では印として調度品や牛車につけていましたが、家長を中心とした家族を中心に、その家の名称を家名といいますが、この家名を図柄で表わしたものが家紋です。そしてこの家紋は自然に世襲されるようになりました。
 それが源平時代になると、源氏が白旗、平氏が赤旗を用いましたが、同じ源氏でも、各陣営にも目印が必要で、敵味方を識別しなければ戦場で動けないし、自家の戦功をはっきり認識させるために家紋は必要でありました。

 さて足立氏の家紋についてでありますが、武蔵国足立郡在住の足立家の遠祖である遠兼の家紋が「日の丸五本骨扇紋」でありました。足立遠元もこの紋と替紋として「カタバミ紋」を使ったということです。12世紀のことですが、播州杉原の「藤原支流足立氏系図」にそのことが明記されています。
 このことは桶川市総合福祉センターになっている足立右馬允遠元館跡にかつて一本杉があり、老杉の根元に安置されていた石の神明宮(高さ70センチメートル)があり、現在小高家に保管されている神明宮には「建久三歳城主足立右馬允建之」とあり、足立右馬允の家紋、即ち日の丸五本骨扇紋、カタバミ紋が刻されています。

 また「丹波志」の足立左衛門尉遠政正流の項に、足立の定紋は、丸に五本骨扇子金地にして日ノ丸、舞鶴の紋、替紋丸に剱カタバミとあり、その紋の由来が記されています。
 五本骨扇紋の由来は、祖先が禁裡より賜扇され、佐竹候と扇を半分わけにして家紋としたとのことであり、カタバミ紋については、祖先が京軍に赴いて傷つき、鳥羽縄手に臥していたところ「いたち」がカタバミの葉を喰えて来たので、この葉を傷口につけると出血が止まり、従軍して戦いに勝つことができたので吉祥紋としてもちいたとされています。

 青垣町山垣の報恩寺は、初代足立遠政が万歳山頂に建立し、祖父遠元、父遠光を祀ったとされていますが、天正の乱にて焼失、慶長3年(1598)再建され現在地に移っています。足立右馬允遠元、足立左衛門尉遠光、足立久保田左衛門尉遠政の大位牌があり、この位牌には、「日の丸五本骨扇子紋」と「カタバミ紋」が鮮やかに数個刻まれています。
 「日の丸五本骨扇子紋」「カタバミ紋」を家紋としているのは武蔵大宮市植田郷の小島氏=昔は足立=で、同家の祭神足立神社の什器にもこの紋を用いています。

 大和五条市の足立氏、大和高田曽大根の足立氏、丹後、中郡峰山町の安達氏、春日町歌道谷山王権現の安達氏、但馬和田山町宮田の足立氏、竹田町藤和の足立氏、青垣町山垣の本流足立氏、遠坂今出権現の社家、野上野の足立氏、市島町牛河内の足立氏等で、同じ足立氏でも五本骨扇紋を家紋としている足立氏が多く青垣町のほとんどの足立氏の家紋は「日の丸」なしの「五本骨扇子紋」です。
 関東から来た足立氏の家紋としては、かたばみ紋が最も多く、替紋として、木瓜袴、鷹羽違、茗荷紋を家紋ときめています。

 「丹波志」畑中足立氏の項に、いにしえ、兄弟四人あり、嫡男足立西殿、次男堀殿、三男土田殿、四男少補殿、今は日の丸五本骨扇紋なれど、古くは、剣カタバミ、鷹羽違、茗荷紋なりとあります。
 足立遠元系の足立氏の紋も地域によってかなり違っています。山陰、東海では花菱、木瓜が多く、鳥取では九枚笹、二引紋、筑後の亀甲紋等雑多です。遠元系以外の足立、安達氏の家紋になると更に複雑になります。

 

 

                VOL.55        2001.10.26

 

        姓氏大辞典と足立氏

 

 姓氏家系大辞典は太田亮氏が昭和11年に全稿完成したもので、著者が諸家の系図を集めてから30余年を費やして完成されたものであります。
 「本書は根源に於いて詳かにし、各氏については分派以来を筆にする」と述べられていますように、姓氏の歴史的根源、豪族の分布、盛衰を明らかにすることに力点が置かれています。大正9年に発刊されました「姓氏家系辞書」が基本になっていますので、80年を経過していますが、姓氏研究としては最高のものです。
 おおたあきら氏は立命館大学教授で古代史の専門でありますが、法学博士でもあり昭和の歴史学者です。

 この辞典の足立氏の項には、1.武蔵の足立氏、2.丹波の足立氏、3.尾参の足立氏、4.河内の足立氏、5.常陸の足立氏、6.源姓の足立氏、7.坂上姓足立氏、8.其の他、に区分されており、安達氏については、1.陸奥安達連、2.坂上流、3.藤原姓、4.東鑑、5.安達太郎、6.讃岐の安達氏、7.芸備の安達氏、8.丹波の安達氏、9.若狭の安達氏、10.三河の安達氏、11.その他となっています。

 武蔵の項によりますと、足立四郎遠基と右馬允遠元は同人であり、尊卑分脈の安達氏というのは足立氏であるとし、東鑑でも安達と足立を区別しているが、平家物語では安達新三郎を足立としているので、安達氏も足立氏にほかならないとされています。

 安達氏を陸奥安達郡より発祥するかの如きは後世のこととされ、平治物語に足立四郎遠基の外に足立新三郎清恒、平家物語に足立新三郎、源平盛衰記にも同人が記述されていると紹介されています。
 安達氏の藤原姓についても武蔵足立氏と同じとされており、丹波の安達氏も、丹波志の安達氏の古城遠坂城のことについて山垣城足立氏と同族とされています。

 丹波の足立氏については丹波志中心に書かれていますが、遠元の子遠光が東鑑に見えないことにふれながらも、小和田城は遠政の次男左衛門尉遠信の居城とも、左近大夫の居城ともいう、又三原城も足立氏の居城で、足立広成、政成あり、稲土城は足立修理大夫政家(大灯寺殿)の居城等がふれられています。

 安達氏については、奥州安達郡より起った安達氏と、足立・安達と音通ずることにより本来足立が安達と書かれているにすぎないという二流のあることが書かれています。陸奥安達氏は高麗の帰化族が、姓を安達連といい、その子孫が安達氏を称したというのであります。
 坂上系図によりますと「坂上田村麻呂の子安達五郎始めて陸奥国安達郡に住む、子孫奥州に繁栄し、坂上党と号す」とありますが、この子孫が安達を姓名としたというのです。帰化人の安達か、坂上の安達かは判明できないということです。
 讃岐の安達氏は「石清水讃岐国本山庄、足立木之助遠親の知行地頭職を止める」という東鑑の記述から、その子孫が安達氏を用いているが足立氏であるとされ、芸備方面の安達氏も足立であるとされています。

 その他の足立氏には「太平記」の足立源五、足立新左衛門、足立五郎左衛門、足立又五郎、「応仁記」に丹波の足立、「安西軍策」に足立治兵衛、足立十郎兵衛国徹、徳川時代になって足守木下藩、浜松井上藩、水口加藤藩等に足立姓の重臣のあること、鯖江家臣に足立氏の多いことなどが書かれています。
 いずれにしましても、そうした子孫は九州から奥州にまで分布していますので本格的な調査が必要です。

 

 

                VOL.56         2001.11.2

 

        二つのあだち郡

 

 苗字と地名とは深い関係があります。地名が苗字となっている数を特定することは困難なことだといわれていますが、苗字の80%以上が地名姓ともいわれています。苗字は二重性をもっています。有名な「藤原」姓も、もともと大和国の藤原の里を中臣鎌足が下賜されたので、藤原鎌足となったことからはじまります。その後も、古代の「氏」の藤原の子孫の苗字と、藤原という地名に住んでいて藤原姓となったものとがあり、地名姓の方が多いといわれています。

 足立、安達の苗字についても地名姓であったことは、まちがいないですが、同じ発音から両姓が混同されて使用されたとしか考えられない場合もあったのです。
 「あだち」には古代より武蔵国にあった足立郡と、陸奥国にあった安達郡とがあり、そこの住人が足立、安達姓となったのです。神戸新聞出版センター刊行の「兵庫県大百科事典」には、足立氏の項で次の記述があります。

 中世丹波の土豪。「丹波志」には、武蔵国足立郡領家職本主であった藤原遠兼の子遠元が、足立郡地頭職を拝領して足立氏を称し、その子遠光が丹波国氷上郡佐治郷を賜って下向土着し、一族が丹波に繁延したという。佐治郷の山垣城を居城とし、鎌倉中期の禅僧遠谿祖雄は山垣城主足立光基の子、室町、戦国期にもその子孫が丹波の国人として活躍したが、荻野直正に圧迫され、ついで明智光秀の丹波制圧にあって滅ぼされた。遠坂城の安達氏も足立氏と同族という。

 足立郡は、現在の埼玉県南東部と、東京都足立区全域にあたる地域であります。また、安達郡は福島県の中央部ニ本松市中心で、東北本線には「安達駅、二本松駅」があります。足立については、武蔵国分寺に使用されていた古瓦に「足」の字があるものが出土しています。「続日本紀」にも足立郡名がでていますし、足立郡の人丈部(はせつかべ)直不破麻呂が武蔵の国造になったとあり、「西角井系図」には西角井家が大化改新以来代々足立郡の郡司の家であったとあります。

 一方の安達については「延喜式」に安積郡から分立した「安多知」が「安達郡」となったとされています。仁平元年(1151)に惟宗定兼が本領主として太政官厨家に安達郡を寄進しましたことから「安達荘」が成立していますし、その安達荘地主職は、定兼から小槻(壬生)隆職に伝えられ、代々壬生家が伝領されています。建武3年(1336)に北朝の光厳上皇より壬生匡遠に安達荘の領有が安堵されていますので、のちに二本松に本拠をすえた畠山氏が奥州管領となるまで壬生家の支配地でありました。

 この安達郡の安達姓は高麗系安達氏と坂上姓安達氏があるといわれていますが、「尊卑分脈」にのせられています小野田三郎兼盛は奥州安達郡に住んでいたので、その子孫が足立郡に来て安達氏を名のったというのは無理があり、鎌倉御家人の安達氏はもともと足立氏であり、陸奥国の安達郡とは無関係だったということです。

 鎌倉御家人の安達氏は北条氏との姻戚で栄えましたので、足立氏と区別され安達の字が使われます。安達景盛の時代に秋田城介となり、その職は世襲されましたので、城氏ともよばれています。また安達泰盛の時代には、引付衆、秋田城介、評定衆となり、更に弘安5年(1282)には陸奥守に任ぜられています。このことから陸奥に関係のある人物として、安達氏の出身を陸奥安達郡とされたか、霜月騒動で権勢をふるっていました泰盛を、内管領平頼綱が策謀によって全滅させてしまいますが、安達氏の出身まで陸奥国にされてしまったということなのでしょうか。安達氏は足立氏だったのです。

 

 

                VOL.57         2001.11.9

 

        関ヶ原の合戦と足立氏

 

 関ヶ原の合戦は天下分け目の戦いと呼ばれています。一方の主将はいうまでもなく有力大名からなる五大老の筆頭であります徳川家康であり、豊臣秀吉なきあと徳川政権樹立を狙いました。これに対したのは五奉行の筆頭であります石田三成で、豊臣秀吉なきあとの豊臣政権の維持と自分の地位を守ることにありました。
 この関ヶ原の戦い(1600年)の主戦場は関ヶ原(岐阜県)でありましたが、戦いは九州から、奥州までの全国的な戦いでありました。諸大名は、それぞれ思惑を秘めて一方に味方したり、中立をたもっていたり、親子が敵味方に分かれて戦うというものもありました。

 東軍は7万4千、西軍は8万2千の兵数で戦いは始まりましたが、西軍の戦闘力は3万5千だったといわれています。西軍はこの兵力でもちこたえていましたが、西軍で傍観していた小早川秀秋など1万7千が東軍について奇襲してきましたので西軍は敗退しました。
 戦国の動乱期を生き抜いて来た足立の武将たちも、この戦いにまき込まれて東軍、西軍に分かれ戦闘をくりひろげ、多くの犠牲者がでたのです。すでにみてきましたように松山城主加藤嘉明の家老でありました足立重信、福島正則の家臣足立保茂、安房里見氏の家臣足立隠岐一族、などは東軍として活躍しますが、その後の徳川幕府の大名取りつぶし政策の犠牲になっています。西軍に加わった足立氏はもっと悲惨であったことはいうまでもないでしょう。

 千葉県安房郡に里見氏がいましたが、里見義康のときに豊臣秀吉の配下となり、関ヶ原の戦では徳川方になり生き伸びた大名です。この里見氏の家臣団の中に、慶長11年(1606)に知行50石を与えられた足立小右衛門、慶長15年に知行150石を与えられた足立隠岐、小納戸衆、小姓頭で蔵米百俵を与えられた足立庄三郎がいました。領主が豊臣家臣から、徳川方についたので関ヶ原の戦では勝組になり大成功だったのです。

 ところが主君の里見義康の嫡男忠義が、小田原城主大久保忠隣の孫娘を迎えて正室としたことから大久保忠隣の改易に連座して、里見一族は滅亡してしまいます。慶長19年のこの事件は、忠隣が老中に就任し権勢をふるっていましたが、家康や秀忠に無断で、養女を山口重信に嫁がしたことから、一族は滅亡したのです。
 里見氏は源頼朝の御家人で、その末流が房総の戦国大名となっていましたが大久保忠隣の改易に連座し所領を没収されてしまいました。家臣の足立氏一統がどのようになったかは不明です。

 天正6年(1578)に尼子勝久のこもる播州上月城攻めに宇喜多直家の家臣で足立太郎左衛門が大活躍しています。宇喜多氏は天正元年に岡山城を築き、備前、美作を領する大名ですが、秀吉に帰順していました。直家歿後嗣子宇喜多秀家10歳が父の遺領を相続しますが、足立太郎左衛門は千石を与えられ重臣として参画しています。
 宇喜多秀家は前田利家の娘を妻に迎え、備中東半、備前、美作併せて50万石の大名となり、岡山城下に山陽道をとり入れ、商工業の育成にとりくみ、五大老の一人として豊臣政権をささえていました。しかし西軍の敗北により、島津氏を頼って薩摩に落ちのびます。慶長11年八丈島流罪となり、この島で50年間流罪人として生涯を送っています。重臣であった足立太郎左衛門のその後は不明です。

 

 

 

 

 

 

第 五 章

先祖の生き方を学ぼう

 


丹波 妙法寺 奥座敷 五月人形  2002.4.28

 

 

VOL.58        2001.11.16

 

        足立氏と経験科学

 

 江戸時代の足立氏は各地で活躍しますが、その数が増えると同時に世襲の封建社会ですから、武士として成功者となったものは少なく、むしろ実学面で活躍した人が多くいたようです。

 寛永の鎖国以後、外来文化の流入は制約されていましたが、農学や、鉱・工業などの産業技術にすぐれたものが生まれます。天文学、暦学、測量学、本草学、医学などの自然科学や、人文科学でも体験を通して蓄積された知識を土台に、儒教的訓詁学を離れて経験科学がさかんになって来ましたが、足立氏の中にも実学で活躍する人がいました。
 足立氏は各地で漢方医となり、医者を世襲して地域で信頼された人が多くいます。江戸時代の世襲された職業の中で一番能力を要求されたのが医者であることは現代とかわりません。

 大阪の医者で足立伊右衛門がいましたが、その養子となった足立信頭が有名です。左内、子秀とも号していたようですが、はじめ大阪御鉄砲奉行の久留勘右衛門組の同心をつとめていましたが、麻田剛立の門下に暦学を学び、寛政8年(1796)には、幕府天文方であった高橋至時(梅軒)の下役となりました。
 高橋至時は、西洋暦法を加味して誤りが多かった宝暦暦を改暦し寛政暦をつくられましたが、それに参画しています。その経験から足立信頭は天文方に任用され、天保暦をつくりました。この暦は明治5年の太陽暦採用まで正確な暦としてつかわれています。

 また、足立信頭は語学に優れていまして、文化10年には松前にいき、ロシア語を学び、文政元年には異国船の通弁をしています。ロシア語の学習は、文化8年に捕えられたロシア海軍中将ゴロウニンから学んでいます。
 このことは「ゴロウニン日本幽囚記」に書かれていますが、松前において足立左内、間宮林蔵、馬場貞由らの知識人に接し、ロシア語とロシアの国情を伝え、日本の国体、学問水準等を聞いたとあります。
 足立信頭は天保6年に「魯西亜語辞典」を著わしています。

 足立長雋(ちょうしゅん)は薩摩藩の藩医足立梅庵について漢方医学を学びましたが、梅庵に望まれて養子となり、足立姓に改めます。そして吉田長淑についてオランダ医学を研究しています。
 吉田長淑はオランダ語に通じていましたので医学書を原語で読むうち内科を専門とすることに決意して、江戸上槇町で開業した最初の西洋内科専門医です。
 足立長雋も藩侯の侍医となり、西洋医学書の翻訳に従事しています。天保2年(1831)には「医方研幾方剤書」を著わしており、西洋産科専門医として有名で産科医の祖といわれております。

 安達幸之助は加賀の金沢藩士安達の養子となった人物で、江戸藩邸に在勤して、オランダ語を村田蔵六(大村益次郎)に学びました。万延元年(1860)幕府の講武所で西洋兵学を教え、のちに帰藩して藩校の教授となっています。大砲鋳造に従事しますが、大村益次郎に用いられ、京都伏見の兵学校で兵学、英語を教えていましたが、大村の身がわりとなり刺客と闘って46歳で死んでいます。

 こうした足立氏の動向をみると幕末維新に日本の将来のため一命を捧げて、自己の使命に生きた人物が多くいたのです。足立遠元以来の鎌倉武士の品格のある人がいたるところに居たようです。

 

 

                VOL.59        2001.11.23

 

        名字と苗字

 

 足立家は武蔵の国足立郡に祖父の代より住んでいました足立遠兼を元祖としていますが遠兼は源義朝の家人でありましたから平安末期ということになります。
 この頃に名字が使用されるようになり、そのほとんどは地名にちなんだものであり、現代までその名字が継承されていますが、名字にちなんで地名をつけられたということは少ないといわれています。

 中世の武士の名は、自分が支配した名(みょう)とよばれている領地の地名を名字として使い、その名字が主従間で広まり、一族の結束をかため、その一族が分裂したり、移動等により他の地方に拡大されたのです。
 「名字は人とともに動く地名」といわれていますが、本拠であった居住地の地名を名字とする、土地に対する利権から特定の地名に対する強い愛着を示した武士たちの間に、名字が生まれ「家」ができたのです。

 一般に武士は、有力農民が新たに土地を開発し、開発した土地に地名をつけましたが、この名前のついた土地が「名田」であり、かなりの面積をもちましたので、これを自衛する必要から武装して武士が発生しました。この武士の一族のものを家子とよび、従者たちのことを郎党とよびましたが、武士たちは、自分の支配地を拡大するため、家子、郎党をひきつれて戦闘集団となり争いをくりかえすようになります。

 そして権力を世襲するようになり「家」が成立したのです。「家」が成立するまでの社会は、夫婦生活をともにすることなく、夫が夜になると妻のもとに訪れ、夜明けに帰っていくという「通い婚」が一般的で、女性は7、80人の血縁集団の中で生活しており、女性が出産すると、その子は誰の子ということに関係なく、その集団の中で養育されました。
 平安末期までは、このような集団が生活単位であり、通い婚をくりかえし、集団と集団の間に親戚関係が形成され農耕中心の地域社会を形成していたのです。

 ところが、武士が発生しますと子供は特定の父の後継者となり、その財産、地位を受けつぐようになり、女性の嫁入婚が成立します。父を家長とする「家」ができ、家は名字や家紋、先祖を重視するようになり、同族意識をもって、同族の長や、本拠地の名字を共通にする同族集団ができます。
 このように「イエ」の名は血縁の同族に継承され、名字は南北朝から室町時代にかけて定着します。そして、鎌倉武士の西国移住や、本拠地を戦乱で失ってしまっても、他の土地に土着しても、その名字は受けつがれましたので、名字は全国に拡大しました。

 江戸時代に苗字帯刀は武士の特権であり、武士でないと苗字の使用を禁止しました。しかし、百姓・町人も私的に先祖伝来の名字は使用しており、公的文書以外の使用は禁止できなかったので使われていたのです。また村役人として業績のあったもの、孝行とか学術的に奇特のあった人、多額の御用金を提供した町人等に苗字帯刀を許可しています。
 この特権をもった百姓・町人は、町村内では名主の上席で名誉なこととされましたが、足立氏は全国的に苗字を許された有力農民や、医師御用達町人が多かったようです。そしてその一族も足立遠兼以来の先祖を崇拝し、足立姓を私称したり、先祖からの同一名前を世襲したり、先祖との通字を代々名前につけたものも多く、家紋を継承してきました。

 江戸時代は、武家には系図が必要でどの家も系図を備えようとしていました。この傾向は元禄の頃から農家や商家でも、武士の家系図をまねてつくるようになりましたので、「系図の売買」や「偽系図」売りが活躍するようになります。
 江戸時代中期から継承されている系図にはこの種のものが多く信じられないものもありますが、家紋・墓・仏壇・祭具家風などから先祖が判明します。現代でも先祖の生き方を知って自分の存在基盤を確かめようとする人も多いです。

 

 

                VOL.82         2002.8.24

 

        生き方を歴史に学ぶ

 

 世の中の変遷が激しい時代になりました。地球の誕生が46億年前、人類が誕生したのが500万年前といわれていますが、人間が人間らしい生活をはじめたのは3000年前で、人口が増えるようになったのは200年くらいなのですが、この100年間の変化は歴史上かつてなかったものであり、現在はあらゆる分野で10年前には考えられないような現象が起っています。
 その中でも、私達が生きていく最も基本的な家族の変化が急激だと思えます。鎌倉武士の発生と共に成立した家の源流を考えてみようと思ったのもそこにあります。

 農業中心で生活していた時代は大家族であり、家長も子供も共に田圃で一緒に働き、共生して、農村の中では家族は同志でありました。それが地方から出て都市労働者となり、家族意識はなくなり、核家族化しました。そして現在の社会では単身志向で家族をつくらないものが増え、離婚も多く、子供も少なくなりました。

 成熟社会の現在では、大切なのは個性であり、創造性、独創性なのですが、夫婦共かせぎで、学校まかせの子育てになり、学校もできる子供を伸ばすこともせず、できない子供を特訓することもしない競争原理を全面的に否定する「負けた子がかわいそうだ」という中途半端な公教育がまかり通ってしまっています。
 茶髪の中学校へもいかない女の子が携帯電話をもっており、援助交際して子供が子供を生んだり、性的なことが原因で殺されたり、殺したり、子供ができれば捨てたり虐待したりの事件は毎日起っています。かつての小、中学生の目の輝きはなく、うつろな顔で生きる基本を放棄した子供が増えています。

 老年になったものにとって、子供を育てるのに苦労した人も、独りも子供を育てなかった人も同じように養老院か病院で独り淋しく死んでいきます。昔は子供がいたら老後は心配しなかったのですが、現在では老人が40歳の子供の面倒をみるとか、孫を老人が育てていることも多くなりました。社会保障は権利であり、「快適な生活を保障する」ことが国や市町村の責任であり、老後の保障もあたりまえという考えの人が増えてきました。
 したがって、子供のことも親のことも考えないし、自分勝手な生活を楽しむ人間にとって先祖のこととか、家の存続など考えるはずがありません。霊性を否定し無神論が教養人であるという態度で利己的に生きるものばかりになれば、家庭どころか社会も崩壊します。

 一生を豊かに生きるには自己教育をし続ける以外なく、生涯教育、生涯学習が大切ですが歴史を主体的にとらえることにより、歴史認識をもって生きることが「心」の時代には必要不可欠です。高齢化社会では、負担できる人から取って必要な人に分配するやり方に限界があり、できないことはできないという時代になったのです。

 もう一度先祖の生き方を学び、何が大切かを考える一助になればと「足立ものがたり」を書きました。
 立正山妙法寺は450年前に足立基則によって創建されました法華宗の寺院です。約100戸の檀家が足立姓でその他の檀家も足立氏と婚姻関係で深く結ばれています。そんなことから足立の先祖に深いかかわりをもちました。40年前に神戸の足立節治氏が来訪されましてより足立氏研究にかかわり、昭和46年5月、神戸市相楽園会館で「足立氏の先祖を語る会」に参加させて頂き、更に足立節治氏の足立氏資料を妙法寺に御寄贈いただきました。

 以来実に多くの研究家と交流させて頂き、御好意で提供されました資料を基礎として足立氏をまとめております。御縁を頂いた諸先生に感謝申します。




 







 



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