竹内正道著作集

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ようこそ家族の源流 足立氏ものがたり丹波 妙法寺仏教と日本人雑著仏涅槃図 命尊筆メディア情報


丹波 妙法寺 中庭の白蓮 2005.7.5 10:49
第四集

仏教と日本人

Buddhism  &  Japanese

 

 

 

 62億(現在の世界人口の人々が水の惑星で生活しています。絶妙な地球の共生システムが、 
 
欲望中心の物質文明のため滅亡しそうになっており、殺伐とした世相になりました。 
 
仏の叡知に生きた日本人の生き方に学びましょう。

 

                                平成14年1月14日

                     竹内 正道  

 

 

C O N T E N T S

 

 


仏涅槃図 命尊筆 絹本着色 鎌倉時代 正中2(1325)年 丹波・妙法寺

   

 

                VOL.61         2002.1.20

 

        はじめに

 

 21世紀はイスラム原理主義者による「新たな戦争」で始まりました。平成13年9月11日におきました世界貿易センタービルとペンタゴンに飛行機が突っ込み、もう1機はホワイトハウスを狙ったといわれていますが途中で墜落したという大惨事です。
 これまでの戦争は国と国の戦争でしたが、これはアメリカを中心とする国際社会と、イスラム原理主義者に従った国家を超えた集団との戦争だといわれています。

 自由と平等な社会実現を世界共通のルールにしようというアメリカ中心のグローバリゼーションは、世界金融市場で富を獲得し豊かになった少数の成功者もいますが、食料も水もない貧困な十数億の人々はますます困窮し社会不安の原因となっています。
 アフガニスタンは20年間の内戦と厳しい旱ばつの続くなかでの今度の攻撃で難民が増えています。「憎しみは憎しみによって滅することはない。憎しみは慈愛によってのみ滅す」という仏教の智恵なくして世界の平和は実現しないでしょう。

 人間の基本的な欲望に、食欲・性欲・生存欲がありますが、飽食の日本では食料は充分すぎで肥満に悩むものが多いし、性欲も自由に解放された社会であり、生存欲も長寿高齢化社会で諸外国の水準に比較すると恵まれ過ぎの豊かな国が日本なのです。
 その日本がこの頃おかしくなってきたと思えてなりません。物質的には満ち足りて、戦中・戦後を経験したようなモノへの欲望は少ないにもかかわらず、窃盗、殺人、自殺が増加しており、理解できない事件が多発しています。
 家庭崩壊、学校崩壊、失業者の増加、地域の孤立、金融界の絶望、借金地獄、官僚の質の低下等々「末法乱世」の世相で、かつてなかった非道な社会になってしまいました。日本は、衣食住に満ち足りた自由な社会になったのですが、何か制約に縛られているので、それを破壊したいという欲望にかられるものがふえているようです。このままでは破壊願望にとりつかれた狂気の支配する乱世に突入するのではないかと思われます。

 心の時代と簡単にいいますが、「心のままに」生きるためには、自分の心の中にいる魔性をコントロールできなければなりません。仏というのは、自分の心の中にいる魔性を封じ込め、自己の欲望を制圧した状態で、他人の心の魔性を除去できる能力をもつということではないかと思います。
 金やモノ中心の社会にあって「目に見えないもの」=霊的世界=に価値を求め「聖なるものを求め」る生き方が大切であり、それなくしては自他の魔性を滅することはできないと仏は教えています。

 仏教は、他宗教と併存し共生し同化してきた宗教です。唯一絶対の神を持つキリスト教やイスラム教のように統一性もなければ、熾烈な宗教戦争の歴史をもっていません。仏教は許容性・多様性を具えた平和主義の宗教です。
 仏教の根本精神は不殺生と慈悲です。不殺生は、いかなるものも殺すなかれということであり、慈悲は、すべてのものに友情をもつことであり、思いやりの心をもつことであります。苦しんでいるものがあれば、すべては幸福に平和に生きる権利があるとして、その苦の原因を除去して平和のために祈り、努力するのが仏教者のつとめです。

 仏教はどういう教えで、何を説き、何を訴えてきたのか、多くの仏教者の主張を分かりやすく伝え、それが日本人の生き方にどのようにかかわってきたかをみながら21世紀に生きる尊い教えであることを究明していきます。

 

 

                VOL.62         2002.1.27

 

        宇    宙

 

 人間の一生は一回きりで、生命も一つしかありません。二度と手にはいらない生命を生きているのですが、生命はどこからきたのか不思議です。
 生命が母親の卵細胞で育まれ、人間として生まれたのですが、その母親もまた母から生まれていますので、どんどんさかのぼると地球の歴史にまで到達して46億年以前にその源があったということになります。
 父と母の縁で子供は生まれますが、その先祖も、父の両親、母の両親とさかのぼりますと4人、8人、16人と増加して、大化改新頃までということになると85億人の先祖の縁があって自分が生まれたのです。

 そのように考えますと生命は宇宙から与えられたということになります。
 宇宙のなかの、太陽系の小さな星に住んでいるのですが、今輝いている太陽は8分前の光であり、アンドロメダ銀河の光は、210万年かかって地球に届いたということですから無限の昔に無限に遠い世界からとどけられた光だということです。
 宇宙の生命は150億年といわれていますが、人類の歴史は数百万年でしかありません。仏教経典では「如来」とか「本仏」が永遠の過去に成仏された存在であるとされています。

 仏教の源流をしらべますと、古代インドの宗教的伝統に到達いたします。釈迦生誕のもっともっと昔に源があるのです。5000年前にさかえたインダス文明に、シバ神の原型や、ヨーガ、火葬の風習があり、悪霊崇拝とか、性器崇拝、蛇神信仰などがあったといわれています。
 インダス文明を滅亡させたのは、インドラの神を奉じていたアーリア人の侵入にあります。彼等は原住民の悪霊信仰から離脱して、太陽、月、空、曙、火、風、雷、水などの自然を神として崇拝し、その神々から恵みをうけてインドを支配したのです。
 そしていつか「ヴェーダ」とよばれる聖典で崇拝する神々に供物を捧げるようになり、バラモン教という民族宗教に成長したのです。

 「ヴェーダ」というのは知識のことですが、この知識は生活習慣的な知識であり「神聖な啓示」とか「霊験の知識」というようなもので、幾百年もの経過の中で成立し、口伝され伝承されたものです。
 それは悠久のむかしに全宇宙の太元であるブラフマンから、天啓で讃歌、歌詞、祭詞、呪文が吐きだされたものを口伝で伝えられた不滅の真理とされたものです。

 当然のことながら仏教も、古代インドの伝承をうけついでいます。仏教経典にある宇宙観もその一つです。「三千大千世界」とか「須弥山」あるいは「四劫説」にもインドの伝統的宇宙観、自然観が表明されています。
 世界は最初に器世間と衆生世間が生成されます。器世間は大地や山川草木のことで、衆生世間は人間界のことで、これを成劫といい、その状態が安穏に続くことを住劫といいます。しかし、それはいつか破壊され壊劫となり、滅亡して空劫となる。そしてまた新たな生成が始まり成劫と流転するというのです。

 須弥山は世界の中心の高い山で、まん中まで海中に没しており、中腹の四方に四天王の宮殿があり、この山のまわりを、日、月が廻っているとされます。しかし、これは小世界であり、この千倍の小千世界、その千倍の中千世界、さらにその千倍の大千世界があり、宇宙には百億の世界があり、それを三千大千世界といい、その世界を法身仏の「久遠の本仏」が守護しており、すべての小世界にも本仏の化身が常住しているというのです。
 現代科学で太陽系が属している銀河系宇宙は、端から端まで15万光年の広さをもつといわれており、この銀河系宇宙と同様のものが無数にあることが発見されています。仏教の三千大千世界はそのことを表現しています。

 

 

                VOL.63         2002.2.11

 

        インドの神々

 

 3500年前に「ヴェーダ」を聖典とする宗教が成立しますが、これがバラモン教です。このバラモン教に民間の信仰や習俗が混入して、ヒンドゥー教が成立したのです。
 日本では、仏教やキリスト教ほどにヒンドゥー教のことは知られていませんが、ヒンドゥー教の神々は仏教とともに日本にはいってきまして、民間で広い信仰を集めていますし、その考え方は現在の日本人に深くかかわっているのです。

 バラモン教の神々のうち最も偉大な神はインドラで「リグ・ヴェーダ」聖典の4分の1の讃歌がこの神に捧げられています。
 インドラは天界を支配する神で、地上の生産のため雨を降らせたり、金剛杵=稲妻を武器としており武勇と奸智にあふれた神です。阿修羅と闘争したりしましたが、のちに仏教の守護神となります。インドラは釈尊の修行中にしばしば身を変じて、その求道心を試したのですが、釈尊成道ののち帰依して帝釈天となり仏教の守護につとめます。
 法華経序品には、帝釈天が2万の眷属をつれて釈尊の説法の座に連なったとされています。

 柴又の帝釈天は庶民に親しまれ、庚申の日の縁日には参詣者がたえず、信仰をあつめています。帝釈天は「神々の帝王」といわれ、飢饉と疫病の神として不思議の利益をもたらすといわれています。庚申は60日で一巡するカノエサルの日のことで、この日に人間の体中の三尸虫が睡眠中に天にのぼり罪悪を天帝につげるというのですが、この天帝が帝釈天だということです。

 インドでは、魂の輪廻が信じられていますが、多数の神々を祭り、よい世界への転生を祈ります。神々は数は多いですが、唯一なる神の副次的な神が多くあり、それはなにものも除外するより同化させることを考えた結果です。
 「あなたは、私のほかに何物も神としてはならない」という掟をもったユダヤ教や、西欧型の一神教とは根本的にちがうのです。ヴィシュヌの化身クリシュナが「人がいかなる神をあがめようとも祈りに答えるのは私である」とヒンドゥー教聖典で宣言しています。

 正しい人間は死後天界におもむきますが、悪い人間は暗い世界におとされると信じたインドの人々は、悪事を行ったものは不幸な状態に転生するという基本的な因果の法則により生死輪廻を信じました。
 このような死後の輪廻から逃れたいという願いは、2500年前頃より急速に広がり、新しい宗教を期待するようになり、仏教、ジャイナ教などが誕生したのです。
 神々に供犠する宗教から、道徳や宗教的戒律を守ることにより、良いところに再生できるとするもの、さらには精神の完全な解放を願うことから出家修行したり、神秘的直観が重視されたりします。そして新たに神々も出現するのです。

 インドラ、アグニ、ヴァルナ等の神々から世界を創造するブラフマー、その創造された世界を維持するヴィシュヌ、そして破壊するシヴァの三神が中心となり、これらの神々により宇宙も人間も支配されるというのです。
 火の神アグニは「火天」、水の神ヴァルナは「水天」として仏教の守護神になります。また、死者の神ヤマは南方の地獄にすみ、罪を犯した者を罰する神として「閻魔」となりました。

 こうした神々は仏教の十二天、十王等となり仏教を守護します。
 ブラフマーは梵天のことで帝釈天とともに天界を支配し、その孫クベーラは「毘沙門」と漢訳されています。ヴィシュヌは神々に不死をもたらし、吉祥天を妻にし巨鳥の迦楼羅に乗る偉大な神です。シヴァ神は大自在天、大黒天、千手観音として仏教守護神となり、その子が韋駄天と聖天だといわれています。
 このようにインドの偉大な神々は、仏教の守護神となり日本にきて民間信仰の神として多くの大衆より礼拝され信仰されてきました。

 

 

                VOL.64         2002.2.23

 

        輪廻転生

 

 人間の霊魂が死後、他の動植物や、生まれてくる人間のなかに転生するとか再生を繰りかえすという輪廻転生説は、世界各地の原始文化のなかにあります。霊魂は肉体から遊離することができ、人間の霊魂も動植物に宿る霊魂も同性質のもので、非常に小さなものだと考えられています。

 古代ギリシアのピタゴラスや、エンペドクレスも霊魂の再生を説いていますし、それを受けてプラトンも霊魂は不滅であり、霊魂の数は一定で輪廻は規則的に行われているとされています。
 プラトン哲学は、霊魂のなかの神的要素を浄化、解放して神々の世界にある本来の自己のすみかに帰ることが人生の目的だとしています。

 インドの古代からの宗教・哲学は輪廻転生を基本にしており、アーリア人到来以前の先住民族が生殖力崇拝、祖先崇拝の風習を通して輪廻転生を信じていたとされています。
 3000年ほど前に成立した「リグ・ヴェーダ」によりますと、人間は生きている時は体内に生気と霊魂があるというのです。生気は意識とは関係なく生命の源であり、霊魂は思考力や意志、感情を起こさせるものだといっています。
 気絶したり、睡眠中は霊魂が遊離した状態であり、死は生気も霊魂もともに身体から永久に離れてしまった状態だというのです。

 死後霊魂はあの世へ行くとされていますが、遠いところなので、迷わずいけるように火葬の時、羊も道案内に一緒に火葬する習慣がありました。羊は道祖神プーシャンの車を引くといわれており、プーシャンは神の国につくまでの守り神として信じられました。
 そして、善人の霊魂は遠い先祖の住む「父祖の世界」=死の神ヤマが支配している世界=に旅立ち、そこで永遠の生命を得て、あらゆる楽しみを享受できるとされていますし、悪人は暗黒の深坑におちてしまうとされています。

 輪廻転生を体系的に叙述したのは「ウパニシャッド」です。生前中に戒律の遵守、布施、信心の生活を送っていたものは、死後「父祖の世界」に行き、そこから月の世界に渡って生存中の果報を享受し、その後、雨となって地上に戻り、食物となって人間に食べられ、それから精液となって母体の胎内に入り、新しい肉体の中に再生するといわれています。
 生前に悪の生涯をおくったものは、動物、または昆虫となって再生するとされています。

 こうした輪廻転生の考え方は、業思想をもたらし、人は現世でまいた種=業=を来世で刈取らねばならないとされ、善業はよき来世を、悪業はあしき来世をもたらすことになります。生きるということは、前世の善悪の行為の結果を生きることになり、その結果を清算する場であり、未来の生を予決する場だというのです。
 戒律を守り、神を祀り、坐して息を調え、感情を制御して念を集め、三昧に達すると自由な境地がひらけ、超能力者となり、神に祈れば神の声がとどくとされます。

 そして、個人の霊魂=自我(アートマン)=と宇宙の絶対者=梵(ブラフマン)=とが一致するという梵我一如になる解脱を成就することができれば、輪廻のない不滅の光明の天の世界に安住することができるというのです。
 つまり人間のアートマンと梵=ブラフマンとが合致できれば、業の束縛から解放され生と死のくり返しの苦悩から永遠に離脱できるというのがヒンドゥー教の基本的な教義なのです。そして、この転生の考え方はのちのジャイナ教でも、仏教でも導入されているのです。

 仏教はほとんどのインド人が輪廻転生を信じていたので、この考え方を採用していますが、仏教は個人の人格的主体を認めない無我の教えなので、霊魂や、アートマンなどの存在を積極的に認めてはいません。
 しかし、人間の行為の結果である業そのものは輪廻すると考えました。衆生が迷いの世界にいる限り、三界六道の迷いの世界に生まれかわり死にかわり果てしなくめぐりさまようとされています。

 

 

                VOL.65          2002.3.7

 

        自業自得

 

 自分がなにかを言ったりしたりする言動には、かならずその結果が自分にもたらされること、逆に、なにかが起きると、それはかつて自分のした行為が原因になっているというのが自業自得、つまり自分のしたことの結果をうけとるのは自分であり、けっして他業自得とか、自業他得とかではないという古代インドの業(ごう)という考え方があります。

 輪廻転生というのは、自分の行いの報いはかならず自分が受けるという自業自得を基礎にした因果応報の法則と、生きとし生けるものが現在このように生存しているのは前生の行いの報いであるという考え方で、来世どんなところに転生するかは、今生の行いの良し悪しによって決まるとするものです。
 運命論とか、超越的な神の意向ではなく、自分にかかわる一切のことは、自分の責任として結果を受けもつ自律的な自己責任の主張で、人間が精神的に成長するのに絶妙の信仰でありました。

 業はカルマの訳語ですが、造作、作用、行為などを意味しており、身体、言葉、意識のすべての働きと、それによって生ずる潜在的な力のことだといいます。この身、口、意の三業の中で一番大切なのは意業とされました。
 その業には善業と悪業と、善悪いずれでもない業(無記)がありますが、輪廻転生を決定する業は、善業と悪業だとされています。

 生きとし生けるものは、死んで何かに生まれ変わり、また死を迎えるという再生と再死を延々とくりかえすのですが、その転生と人間のこの世での行為を結びつけて、バラモンの祭祀の実行が死後の運命を決定すると信じたのが、インドの教えなのです。「人は善き業により、よき人となり、悪しき業によりて悪しき人となる」とされて、世俗的な欲望を離れて出家遊行する生活が求められました。
 人間は欲望をもつかぎり、その行為は業として現われ、その結果として苦楽を感じますがすべての業を滅尽すると、自我は輪廻を離れて絶対の自由、すなわち解脱を得ることができるとされています。しかし、少しでも業がある限り輪廻を脱することはできないのです。

 輪廻は再生をくり返すことですが、この世は望みどおりに生きられないし、死が必ずやってくることから輪廻転生は苦しみ以外のものではないので、そこからの永遠の脱却をもとめ解脱を願いました。
 バラモンはそうした人々の願いを神に祈り人々の境遇や、死後の運命をよりよいものにすることにつとめました。この神々は神殿や神像も必要なく、神々を勧請し、正しい方法で祈ることにより、神の威力は増し、その力を顕示するので祭式を完全にとりおこなえる能力をもつバラモンが尊敬されました。
 神々と交わり、神と一体感をもって祭礼をはじめもろもろの行為をすることが将来の報いをもたらすと教えたのです。

 無我、あるいは非我の教えである仏教もこの業の思想を伝承しています。仏教もまた、前生から今生、さらには未来世にわたり自己同一性のある心身の要素=名色(みょうしき)=を説いています。
 われわれの心身の諸要素は今生から未来世へ、不連続ながら連続していくとされます。連続する名色とはなにかといいますと、「名」というのは心と心の作用からなる心的要素であり、「色」というのは身体的要素だといいます。名色が再生するのではなく、名色によって善または悪の業がつくられ、その業によって名色が再生されるというのです。

 「死に終わる名色と、再生された名色とは異なるけれども死に終わる名色から再生する名色が生まれる」とされており、その関係は同一でもなく、他のものでもないというのです。
 大乗仏教では、三業を善、悪、無記にわけていますが、業の結果として現世における生が起こるかぎり輪廻を脱することはできないとしています。したがって前生に善業があったとしても結局は輪廻することになりますので、これを宿業と呼んでいます。

 

 

                VOL.66         2002.3.21

 

        霊魂不滅

 

 生存していた人がなくなりますと霊界にたびだちましたとか、御冥福をお祈りしますとかいいますが、これらは霊魂不滅であり死後の世界を前提としています。
 霊魂はあらゆるものに宿るとされています超自然的なもののことですが、霊といわれているものには、人間の身体に宿る霊魂と死霊とか精霊とかいわれている人間以外のものに宿る霊と浮遊霊とがあります。
 そして、霊魂や精霊で神としてまつられているものや、霊魂が遊離したとか憑依することにより、夢、幻覚が起ったり、病気の原因となるとされたり、予言ができたり、幸、不幸がおこるとされたりで霊能者が活躍しています。

 生者の霊魂が遊離することを生霊(イキリョウ)といい、死者の霊が死霊といわれています。死霊は子孫より祀られて供養されると清らかな霊となり、祖霊に昇格しますが、さらに祭祀を重ねていると子孫を守護する霊になるといわれています。
 また非業の死をとげた霊はこの世に未練を残して死にますので、この霊は怨霊となり、この世に災厄をもたらすといわれており、この鎮魂のため祭祀をするのが御霊会です。
 お盆には先祖の霊がかえってくるので迎え火で迎え、お盆がすぎると送り火で送る年中行事もあります。こうした観念は何時頃から信じられたのでしょうか。

 猿人(アウストラロピテクス)が出現したのは400万年前で、明石原人は100万年前といわれていますので随分古い話です。日本人の先祖とされています沖縄より発掘された港川人は約2万年前と推定されていますが、抜歯の風習があり霊魂観念をもっていたとされます。
 最近の研究では、日本人の先祖はインド南部、東南アジアの人々が沖縄を経由して日本に定住したとされていますが、この人々が霊魂不滅を信じていたようです。

 人類の起源はアフリカにあり、アフリカの中央部のビクトリア湖から流れ出しているナイル川はエジプト領内を通って地中海に流れこんでいますが、このビクトリア湖から川を下ってエジプトへ入り、ナイル川流域に住みついた人々が、太陽崇拝をしており、神の国は東方にあると考えて移動し、ついに日本へたどりつき定住したともいわれています。
 古代のエジプト人は来世に強い関心をもっていたようで、権力者たちはピラミッドや葬祭殿の建設につとめ、死後はミイラにされて神の国へ行くことを願っていました。沈む夕日に人間の死を想い、昇る朝日に人間の誕生を夢みて、死後の再生と霊魂不滅を信じていたのです。

 日本人も古来昇る太陽と沈む夕日を拝んで、死後神の国に往生することを願っていました。
 またエジプトの王家のシンボルは蓮の華で、家具にまで蓮をつけていますが、蓮の華は汚泥の中で育ち汚れた水面で美しい華を開花させます。どこにいても汚染されず清純な状態を蓮に託して神の華とし、王の華としたのですが、この蓮はインドでも大切にされ、仏教では更に重要視されます。
 蓮華の花の上に仏像を安置し、仏前には蓮華をお供えした蓮華は、エジプトのナイル川畔に自生した植物だったのです。

 エジプトでは死が訪れると肉体から「バァ」という霊がぬけ出し、「カァ」という霊は肉体にとどまり墓に供えられたものを食べて死体を守るとされています。そして「バァ」は太陽神「ラー」のもとで安楽な生活をするというのです。
 しかし後に、現世で善行のあったもののみが死後神の国へいくことができ、「バァ」はオシリスの法廷で裁判を受け、悪行が多いと怪物アメミットに食べられ再生はできないとされました。

 輪廻転生のルーツはエジプトにありました。数多くの神々が「ラー」の化身という本地垂迹説も5000年前のエジプトに端を発しています。
 仏教はエジプトを始原とするインドの古来の観念を伝承しますが、日本でも仏教が流入するもっと前にエジプトを始原とする習俗信仰が渡来人によって伝承されていたのです。

 

 

                VOL.67         2002.4.18

 

        イランの神々

 

 アーリア人はもと中央アジアの高原に居住して、西インドからイランにかけてのステップ地帯で牛や羊の牧畜でくらしていましたが、前15世紀頃に二つに分別して、西北インドのパンジャブ地方に侵入してインド人となったものと、東北イランで半遊牧民となったイラン人とに分かれました。

 イラン人ゾロアスターは前630〜前553頃の人ですが、人類の歴史の不思議で、古代文明世界の東西各地に時を同じくして大宗教家思想家が輩出します。
 イスラエルの預言者とか、古代ギリシアの初期哲学者、中国の孔子などと共に釈尊、ゾロアスターもその一人で偉大な宗教家でありました。
 インドの釈尊の教えはヒンドゥー教世界の基盤の上に仏教として成立しましたが、やがてヒンドゥー教世界へ埋没したように、ゾロアスターの教義も、イランの旧来の信仰から成立したものですが、旧来の信仰との対立はいつか融合したものになっていきます。

 イランの旧来の信仰では、先ず原初の神があり、神は宇宙を創造します。そして次に水をつくり、大地をつくり、大地の上に植物、動物、人間を順につくり、7番目に火をつくります。火は植物と動物、人間を殺し、天上の神に捧げました。神はそれにこたえて大地を潤し、動植物をこの世に増繁させてくれます。
 さまざまな自然現象にはそれぞれの神々があり、正義の神・戦いの神なども祭られました。
 人が死ぬと魂は3日間遺体の頭上付近にとどまり、4日目にあの世に旅立つとされ、魂に悪魔がとりつかないよう、あの世に行く力をつけるため、家族は喪に服し、祭司にマントラ(真言)を多く唱えてもらい、火を燃やして悪魔払いと再生をもとめていました。

 この世から離れた魂は、あの世に着くまで暗い河を渡らなければなりませんが、生前に正しい行いをしていて、多くの供養をされたものは河を渡れますが、それ以外は地獄に落ちるとされています。
 河を渡った魂は、「ヤマ」が支配する黄泉の国にいきますが、新入りの魂は淋しい思いをするので毎日供養し、1年を過ぎると命日だけでよいが30年間続けなければならず、それにより魂は「フラワシ」となり先祖霊となって家族を守護し、子孫を繁栄させる守護霊となるとされました。
 この宗教では魂のぬけた遺体は荒野の岩の上などに置いて鳥や獣に食べさせる葬法がとられています。

 ゾロアスターは東北イランの半遊牧民の祭司の家に生まれたとされ、成人してから真理を求めて各地を放浪していました。ある時河の流れに身を入れて水を汲もうとしたのですが、その河岸に輝く7人の神々を見たのです。
 その中央にいたのが、最高神アフラ・マズダーでこの神から啓示を受けたのです。アフラ・マズダーは始原から宇宙にあり、永遠に存在する全知全能の正義の神であり、他は慈悲深い諸々の神の創造者である。
 この世にはアンラ・マンユがおり世に悪をおよぼすものは全てこの悪霊のしわざであり、正義に従うものは最高の生活ができ、悪に従うものは最低のところへ行くことになるというのです。
 病気、不正、奸悪、災い、争いは全て悪霊アンラ・マンユのしわざで、多くの悪霊を支配下におき、人間をねらっているとされます。
 この世は、アフラ・マズダーの創造した多数の善神と、アンラ・マンユの創造した多数の悪魔とが戦う戦場であるとされています。

 ゾロアスター教の教えも仏教の成立に大きく影響しており、天国・地獄の観念(二元論)はこのゾロアスター教からもたらされました。
 またゾロアスター教の子供の入信儀式は日本の宮参り(七五三)とよく似ていますし、祓いの儀式も古代日本の神道の儀式に似ています。
 不浄観は日本にも古来あるもので、これらもエジプト同様、古代イランを始原とする習俗信仰がゾロアスター教を奉ずる渡来人によって古い時期の日本に伝承されていたのです。

 

 

                VOL.68         2002.5.14

 

        再    生

 

 人間が死後霊となって人間に再生するという考えは、世界各地に古くから存在していました。
 古代のエジプト人の来世観は、「オシリス」に正義と判定された霊は、自分の意志で神の国に止まることもでき、現世に人間として再生することも自由であるとしています。人の死後のことについての願望を書いた「死者の書」には、「日の下に出現することの諸章」というのがありますが、日の下に出現するというのは再生を意味しており、人間の胎内に再び宿り新生児として誕生することですが、当時のエジプト人は人間だけでなく、動物に生まれ変わることも望んでいました。
 古い時代の人々は人間と動物の間に優劣があるとは思わなかったので獣頭人身の像などでそのことを表現しています。

 エジプト人は現世の生活に満足していたので、現世に再生することを望んでいたといわれていますし、死者から離れたバア(魂)は神の国に行くことになりますが、神の国に入りますと、そこで再生し大神の祭壇に供えられているパンや葡萄酒、ケーキなどを食べ現世とあまり変らない生活をするといいます。
 ヘロドトスは「歴史」に次の記述をしています。「また人間の魂は不死であり、身体が滅びると次々に生まれてくる他の動物の中に入って行き、陸に棲むもの、海に棲むもの、空飛ぶもののすべてを一巡すると、またふたたび生まれ出てくる人間の身体の中に入って行き、3,000年で魂は一巡するという説をはじめて唱えたのもエジプト人である。」

 さて、インドでは、人間は生きている時は体内に生気(スス)と霊魂(マナス)があり生気は生命の源であり、霊魂は思考力や意志や感情を起させるものであるとしています。霊魂は心臓の中にあって小さく早く動く羽根のあるものとされています。
 死は生気が離れ遺体には霊魂が残るとされていますが、火葬すると、霊魂も生気も離れますので、遺体は抜け殻となってしまうというのです。「ウパニシャッド」では、現世で戒律を遵守し、布施、信心の生活を送った人は、死後「父祖の世界」に行き、そこから月世界に渡って、そこで現世の果報を享受し、楽しい生活を送りますが、やがて雨となって地上に戻り、そこで食物となって人間に食われ、最終的には女性の胎内に入って新しい肉体に再生されるとされています。

 古代の人々は、あの世に行った霊は祭礼の日に子孫のもとに帰ってくると信じていました。霊の帰る場所は墓などの他、岩くらとか突き出た岩、山中の男根石や女陰石に帰ってくると考え、男根石を御神体としたりしています。
 日本でも縄文人は炉のそばとか、広場の石棒、ストーン・サークルの石柱に先祖霊が帰ってくるとしていました。先祖霊は懐かしい家族や子孫の消息を伺い、これを護ると同時に、自分の精霊をこの世に再生させる目的もあると信じられたようです。
 「男性のシンボル」を祀ったのではなく、先祖の精霊を求め、その再生を願う儀式が性器崇拝だったのです。

 仏教は無我と無常を基本としたもので、形あるものは必ず滅し、永遠の自己は存在しないとしています。愛する人が死んだとしても生まれたものは死なぬということはないので亡くなったからといって嘆き悲しむことはない。むしろ無常を観ずることによって心の平安をたもてと説いています。
 しかし、人の死は中有の状態となり、幽体が離脱して、身体からぬけ空中を自由に飛行するといいます。幽体のからだは微細な要素からなっており肉眼ではみえないが、原子的身体であるので自由にどこへでも移動できます。中有はこの世が終って次の世に生まれるまでの中間的存在なのです。

 無常は花が咲いて散りますが、また次の年に開花するように人は死んでも、「よみがえる」ことができるので嘆き悲しむことより心を養えと説いています。

 

 

                VOL.69         2002.6.26

 

        前生の物語

 

 仏教の開祖、釈尊が誕生されたのはルンビニーとされていますが、生誕の地にアショーカ王の石柱が建てられており、「ここに仏陀、釈迦牟尼が誕生された」と刻文されておりますので、ネパールのタラーイ地方であったことは歴史的事実であります。ヒマラヤ山麓に建国していました釈迦族の王子として西紀前六世紀ごろにお生まれになりました。

 「釈尊」というのは釈迦族の尊者という意味の尊称で釈迦牟尼世尊を縮めた語です。釈尊のことを仏陀ともいい「めざめた人」のことをいいますが、原始仏教では釈尊以外に六人の仏陀の存在を説いています。これを過去仏あるいは古仏(燃灯仏など)といい釈尊は第七番目としています。そして未来に顕れる仏として弥勒仏があり、現在は釈迦仏と弥勒仏との中間で無仏の世と小乗では考えていますが、大乗では東方に阿閦仏あり、西方に阿弥陀仏というように無数の仏が存在すると考えました。

 仏陀としての釈尊の偉大さを讃える立場から釈尊の伝記が「仏伝文学」といわれているほど多くあります。釈尊は釈迦族のスッドーダナ(浄飯王)を父とし、マーヤー(摩耶)を母として生まれました。どの民族に属していたかは明らかではありませんが、インド・アーリア人の多いネパール中部の南辺のインド国境に近い小部族の国でカピラヴァットを首都としていました。
 一族の共和制政治をとる自治共同体であったとされていますが、政治的にはコーサラ国に隷属していました釈迦族は農耕生活を営み牛を重要な労働力として稲作をしていたと推測されています。

 偉大なる人の伝記は、古来その人の前生について書いているものが多くありますが、何度も生涯のあいだに献身的な努力を重ねてこられたので「仏陀」になられ、その教えはインドや東南アジア、中央アジアから中国、朝鮮、日本など世界中で信仰されるようになったとされる立場から「前生物語」が世界各地に伝えられ、仏教彫刻絵画の主題となり文化遺産として伝えられています。
 仏教では、仏陀は遠い過去の世にも久しい間隔をおいて次々と出現されていますが、釈尊は、遠いむかしに燃灯仏という仏陀から使命を授けられ、のちに仏陀となる約束をされています。

 むかし燃灯仏(定光仏ともいう)の時代に、儒童という青年がいました。この青年は一心に仏道修業をしていましたが、仏陀が現われたことを聞き、鹿の皮を着て山から下り、途中修業者五百人に遇い、仏道について論議しました。そして修業者達から銀貨一枚ずつを餞別されて都へやってきました。その日に燃灯仏が都へ来られるとのことで、儒童は大喜びで仏陀にあいに行きますが、その途中王家の女が七本の青蓮華を水瓶にさしているのを見て、五百枚の銀貨を渡して、五本の青蓮華を手に入れ燃灯仏にささげました。

 ところが儒童のささげた青蓮華は空中にとどまって燃灯仏の頭上を飾りました。この時燃灯仏は「おまえは過去久しい間、多くの生涯で修行を続け、身命をなげうって人々のためにつくし、欲望を捨てて慈悲ぶかい行ないをして来た。将来において仏陀になってシャーキャムニとよばれるであろう」と授記されました。
 青年は自分の着ていた鹿の皮をぬいで道にひろげ、更に自分の髪の毛を解いて地面にひろげ、燃灯仏に踏んで通ってもらったということです。

 また猿王が釈尊の前身だったという話もあります。猿の仲間が皆殺しになりそうな時、自分の背中を橋にして対岸に逃した猿王は自分の身を犠牲にして猿王としての義務をはたしたという話です。法隆寺玉虫厨子台座の密陀絵で有名な太子の話もあります。
 山の下の深い谷底で七匹の子を生んだ母虎が雪の中で飢えているのを見て、太子が合掌して虎の目の前にとびこみ、虎が母子ともに、この太子の身を食べて元気になったということです。

 このように「ジャータカ」の物語は数百伝わっていますが、それらは自己犠牲の功徳を前生で積み重ねて来た功徳によって、今生では釈尊のような人格円満な世尊が生まれたのだとされています。

 

 

                VOL.83          2002.9.4

 

        過 去 世

 

 私たちにとって理解しがたいことですが、仏教では過去・現在・未来のことを時の流れとして考えなくて、「ものごとの流れ」として考えますので、三世といい、過去世・現世・来世といっています。現在の一生涯が現世でこの世に生まれでる以前の生涯が前世であり、死後の生涯を来世といっているのです。

 「ものごとの流れ」とは、「いまだやってこないもの」がやって来て、やがて「行ってしまう」ものとして三世をとらえています。つまり、時間を実体視せず、実在するものとみないのです。時間は変化する存在の変遷で、それを仮に区分しているにすぎないというのです。
 人は前世にやってきた自分のおこない(業)を原因として現在の結果があり、現在の自分のつくった業により未来のありようがきまるので、自分の責任により来世を生きるというように、因果応報の理は三世にわたるので三世因果といわれています。

 過去世のことは、過去・前生・前世・前際ともいっていますし、未来世のことは、未来・来世・来生・当来・後際ともいっています。そして重視していますのは、現在世と未来世で現当二世といっています。
 仏教の祈りは「現当二世諸願成就」を仏に祈ることですが、現世の行い(業)が来世のありようを予定するというのです。

 古代インドの社会では、人は何度も生まれ変わり輪廻転生すると考えられていましたことは前述のとおりですが、その輪廻転生は、善悪応報の因果律によって転生する世界がきまるとされていました。この考え方は、ギリシャ、アフリカの古代思想と共通であります。
 こうした因果律の信仰は釈尊の誕生にあてはめられ、偉大な釈尊ほどの人物が生まれたのは、相当のことを前生でされて、善業をつまれた結果であると信仰されました。釈尊は過去の無数の前生で、かぎりない布施と忍辱の行をつまれましたが、その自己犠牲の功徳によって仏陀となられたというのです。

 釈尊は前世において、菩薩として地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天の六道に次々と生まれられ、種々の姿・形をとって菩薩行をされました。菩薩というのは、自分の身をかえりみず、他人のために努力する人のことで、悟りを求めて修行の道に入っている人のことです。
 ジャータカ(本生話・本生譚)はもともとインド各地にあった民間説話をとり入れて、仏教の考え方である布施とか忍辱の思想を多くの大衆に教化したのですが、同時に釈尊の偉大なことを多くの説話で表現されたものです。

 35歳で仏陀となられた釈尊の教えはインドや東南アジア、中央アジアから中国、朝鮮、日本、チベットから蒙古、シベリアに伝えられ人類に大いなる指針を与えられ信仰されていますが、こんな偉大な人物は過去の永い世代を通じ、多くの生涯を通じて、献身的に不惜身命の努力をされた功徳によると教えられました。
 「ジャータカ」は数も多く、広い地域の国にどんどんひろまり、世界各地に拡大され、アラビアの「千夜一夜物語」とか、ヨーロッパの「イソップ物語」「グリム童話」にもとり入れられています。東南アジア諸国の聖典パーリ語の「ジャータカ」は547の説話があり、さらに梵語やチベット語、漢訳経典の中にもとり入れられ、日本では「今昔物語」などの物語文学にそれがとり入れられています。

 ジャータカは民衆の仏教でありましたから、彫刻、絵画の主題として、インド、東南アジア、中央アジア、中国などで多くの傑作が残され世界遺産として今に伝えられ、訪れるものに深い宗教的感動を伝えています。
 釈尊は過去無数の生涯でかぎりない自己犠牲の功徳を積みましたのでトソツ(兜率)天にのぼり、神々を教化しながら地上にくだる時を待っておられました。天上の音楽の調の中から声が聞こえて菩薩下生の時を知らせます。菩薩は獅子座につき下生の時機と場所を観察され、トソツ天からくだって摩耶夫人の胎内に入られたのです。この菩薩を守護する神々も菩薩についてきましたが、それは梵天・帝釈天・四天王などの神々です。

 

 

               VOL.84         2002.10.20

 

        釈尊のふる里

 

 ヒマラヤ山脈のふもと、ネパールとインドの国境に近いところに釈迦族の小国がありました。その国のひとびとは米作を生業として、政治的には共和制をしいていましたが、その国の主権者の子として釈尊は生誕しています。釈迦族の本拠はカピラ城でバスティ地方の北、ネパールの南の国境カトマンドゥの西方200キロのところです。

 インドは50万年前にさまざまな地域に人類が住んでいたことが知られていますが、5000年前にハラッパ、モヘンジョダロ中心にインダス川の流域に整然とした宏壮な諸都市を建設し、銅器時代文明を成立させています。この文明を残した人びとは、アーリア人よりも先にここに住みついてエジプト・メソポタミア文明以上の文明を発祥させ発展させていました。最盛期にはインダス川流域の南北1500キロにおよぶ広範な地域に高度な文明が成立しました。

 しかし、この文明はアーリア民族が侵入してきて完全に滅ぼされたようです。アーリア民族は紀元前1700年ごろから原住地を出てヨーロッパに定住するもの、東方に向ってアジアに侵入してインド‐イラン人となったものなどがあります。アーリア人がインドに侵入したのは紀元前1300年ごろとされています。原住民との戦闘の経過は「リグ・ヴェーダ」の詩のなかに表現されていますが、先住民はアーリア人の支配下に隷属し、インド社会最下の隷民階級となりダーサとよばれています。

 釈尊は釈迦族のゴータマ姓の家系に生まれ、父はスッドーダナで王とよばれていましたが専制君主ではなく、貴族会議政治の代表者であり民主的色彩の強い王国でありました。この釈迦国は、カピラ城を中心に釈迦一族が各村の首長となって、この首長の合同協議で共和政体をつくっていました。その面積は東西80キロ、南北60キロほどで現在のインドとの国境に近い地域にありました。
 しかし、この釈迦族の国は南の大国コーサラの支配下にありましたので完全に独立した都市国家ではなかったのです。当時ガンジス川流域にはコーサラ、マガダの他にも大小の王国や共和国があり、抗争をくりかえしていました。カピラ城の釈迦国もコーサラ国に滅亡させられましたし、コーサラ国もマガダ国に滅亡させられました。

 釈迦族がアーリア系の白色人種であったかどうかは不明で、アジア系の民族かもしれないともいわれていますが、農耕中心に平和を愛好する人々だといわれています。はじめアーリア人と被征服民ダーサ(非アーリア人)の2階級社会でありましたが、階級差別が複雑になりカースト制が成立します。釈尊は出家することによりクシャトリヤの身分を捨てられました。
 この頃には政治経済面で急激な変化があり、古来の階級制度も崩壊して王族の出身でなくても王位につき、バラモンでなくても聖典に通じるものもありましたので、バラモンがそれぞれの階級のつとめを定めているのにたいし、仏教はバラモンの虚偽であると反対しています。

 釈尊がお生まれになったのは、ネパールのルンビニー苑であり美しいところと仏典には書かれています。当時の風習で、妊婦は実家に帰ってお産をすることになっていましたから、母のマーヤー妃は実家に帰り、デーヴァダハ城の近くのルンビニー苑で4月8日に出産され、ゴータマ・シッタルタがお生まれになりました。それは紀元前463年のことです。
 このルンビニーには、釈尊入滅後200年ほどしてからマガダ国王として北インドの広大な領土を支配したアショーカ(阿育王)が碑を建立しています。この大理石の円柱には次のことが書かれています。
 天愛愛見王(アショーカ王)は即位20年ののち自ら来て礼拝し、ここは仏陀シャキ ャムニが誕生されたところであるから、石の柱を建てさせた。ここは世尊が誕生されたところであるから地租を免じ、8分の1税のみ課する。

 

 

               VOL.85          2002.12.6

 

        釈尊の降誕

 

 釈尊は釈迦如来ともいい、如来さんなのです。如来とは真理の世界から来たもの、真理に到達したもの、真如の世界から来られたこの上もなく尊いものということです。釈尊は如来さんの十種の徳をそなえたおかたで、この世にあって偉大な仏教により人類を救済されている仏さまですから、その降誕についても随分多くの伝説が残されています。まず如来の十号といわれています徳についてみていきます。

 応供    ― 阿羅漢のことで、ふさわしい者、つまり人・天から尊敬される資格ある者。
 正偏知  ― 完全な真理を覚った者、等正覚、正等覚ともいいます。
 明行足  ― 天眼・宿命・漏尽の三明の智慧と身体・言語・行いが共に完全である。
 善逝    ― 迷いの世界をよく超えて、再び迷の世界に還らない状態になる。
 世間解  ― 世間の因果をよく理解し、出世間のこともよく知っている。
 無上士  ― 最も尊い存在、三界独尊である。
 調御丈夫 ― 人々をよく調伏制御して涅槃に導くものであり、心の中をよく理解する。
 天人師  ― 天と人との師であり、地獄、餓鬼、畜生など迷いの世界にあるものを導く。
 仏     ― 仏陀でさとれるもの、目ざめたるもの。自らさとり、他をさとらせる。
 世尊    ― 多くの徳を具えて世間から尊ばれているもの。

 以上の十号の徳を備えるにいたる人物の誕生というので世にも不思議な奇瑞が仏伝には書かれています。

 釈尊の父は浄飯王(スッドーダナ)で、白飯、斛飯、甘露飯の兄弟がありましたが、浄飯が位につきました。母は摩耶夫人(マーヤー)といい、白蓮華のように清い心の持主でありました。この夫婦の間には長い間、王子がなかったのですが、摩耶夫人がある日、6つの牙のある白象が天から降りてきて、夫人の右脇から胎内にはいった夢を見て懐妊されたとのことで、すでに45歳でありました。
 摩耶夫人は出産のため郷里に帰る途中のルンビニー園で休息をとられました。伝説によると、アショーカ樹の花が満開であったので、その花房を取ろうと右手をのばされた時、右の脇腹から釈尊がお生まれになったということです。

 釈尊が誕生されますと、神々は天上から花の雨を降らせ、2頭のナーガ(竜)が産湯を注いだということです。生まれたばかりの釈尊は、東南西北を見わたし、北に向って7歩あゆみ、右手を上に左手を下に向け、「天上天下唯我独尊」と宣言されます。
 こんなことは信じがたいことですが闇黒の世界に智慧の光を与えて下さる釈尊の出現なのですからどんな表現でも表せないことではないでしょうか。
 更に雪山に阿私陀という仙人が住んでいましたが、太子の誕生を知り甥の那羅陀をつれて太子を占いにやってきました。そして「王子様は32の偉人の相を具えておいでで、家にあれば転輪聖王となって四天下を統一されるし、出家すれば必ず無上の正覚を成就し明行具足の仏陀となられるでしょう」と予言いたしました。

 

 

               VOL.86         2002.12.26

 

        釈尊の降誕 2

 

 母の摩耶夫人は釈尊降誕の7日目に逝去されてしまいます。これは「釈尊」となるために摩耶夫人は肉身の仏陀を産んだだけでなく、法身の仏陀を産むため、太子に堪えられぬ骨肉の死の悲しみを与えるため逝去されたのでした。
 かくして釈尊は母マーヤーにかわってその妹のマハーパジャーパティーに育てられますが、何の不自由もなく極めて幸福な幼少時代をおくられています。

 32相というのは全身にみられる身体の特徴であり、転輪聖王は輪の回転が武器で血を流さずに征服する王たちの王で非凡な能力のもち主であり、仏陀も神たちの神で、神々への信仰は人間の霊性を目ざめさせますが、その神々の指導者であり、人々と神々の幸福のために法を説くのが仏陀なのです。

 釈尊が育ったのは農耕地帯で米作中心の農業を生業としていました。農耕は大地・自然との関係で成りたちますので、大地の恵みを大切に、またその恐ろしさを身をもって感じるのが農民です。宗教としての宗教が成立する以前から敬虔な風習があり、世界中どこでも自然物や、名も知れない偶像が祭られています。
 ネパール地方でも大地の母神は威力ある神としてまつられ、さらに大小の地神が信仰されていたようです。

 また農耕の習慣として王が先に耕作をする行事があったようで釈尊も父王につれられて農業の苦しい労働、地中の虫の生命、弱肉強食を幼少の時から見ていたのです。「一切皆苦」の仏教の命題もそこからでていますし、自然崇拝の多神教もその風習から信仰されたのです。
 そして、その神々と人々の幸福を実現させる宗教を菩提樹の下に座りながら少年の釈尊も瞑想されたと思えます。経典には少年太子が樹木の下に座していると樹が影を移さなかったという話がありますが、樹に宿る神が太子を守護したのでしょう。

 さて釈尊がお生まれになった時代のインドは激動期を迎えていました。鉄の使用で農業生産が上昇して商業が生まれます。商人達は武力を持った王族と結んで部族都市国家を成立させますが、この部族中心の都市国家も統一される運命にありました。釈尊に期待されたのは、強力な君主として釈迦族の王国を守り、さらに発展拡大し強国にすることにありました。父の浄飯王(スッドーダナ)は、少年釈尊が立派な武将になるための教育を受けさせます。

 インドでは7歳になると文字や算数を習う習慣があったようですが、釈尊は7歳にして師をしのぐ能力をもっていたとか、8歳からの剣術、馬術、象術、天文、占い、呪術等の能力も抜群であったと仏伝に記されています。弓の競技会でも、誰も引くことのできなかった、祖父獅子王が使用していた鉄の弓で座したままで鉄鼓を射抜かれ、その矢は天高く舞いあがったという話もあります。
 つまり仏伝では釈尊ははじめから仏陀であり、あらゆる能力をもつものとして伝説が語られています。

 

 

               VOL.87           2003.1.25

 

        釈尊の太子時代

 

 釈尊の幼名はゴータマ・シッダッタ(悉達多)ですが、ゴータマは姓で「最もすぐれた雄ウシ」を意味しています。この姓は当時の部族社会での動物崇拝、とくにインドでは牛に対する崇拝の念がありましたのでこの姓を名のり、またシッダッタ(悉達多)は「目的を達成する者」という意味があり、その将来を期待する名がつけられています。

 当時のガンジス川中流地域ではクシャトリア階級が社会の実権を握るようになっていましたが、群雄割拠で小国が互いに勢力を競っていました。そんな状況のなかで悉達多太子は生まれましたので、理想の王となって国家統一をしてほしいと転輪聖王への期待がありました。
 しかし、釈迦族の勢力を考えますと国家統一することよりも、思想・宗教の混乱を解決し真理を悟れるものとなって人々の救済に努めてもらいたいという仏陀への期待もあったのです。

 父のスッドーダナ(浄飯王)はシッダッタの性格が沈思黙考型であったので、その性格を明るくするためにあらゆることをしましたし、太子もその期待にこたえて文武両道にすぐれた能力を発揮されたことはすでに述べたとおりであります。
 釈尊の太子時代の記述は多くありませんが、父のスッドーダナは太子のことを心配して早く結婚させようとします。妻を選ぶのに武芸で競い勝利の結果彼女を得たとか、多くの女性を集め、その中から太子が選んだとかの説話も多くありますが、太子が16歳のとき3人の妻があったとされています。

 多くの美女にかしずかれ、豊満な姿態を目のあたりにしながら恵まれた生活をしていたことが記述されています。当時のクシャトリアは妻を多数もつのはあたりまえの一夫多妻社会でありましたので、太子もそのような環境で日々を送っていたのです。
 早く太子が結婚することを願っていました父王は、太子に理想の女性をたずねますと太子は細工師に命じて黄金の女性像をつくらせて父王に渡します。早速その像に似た女性を探させますと、そっくりな女性がいました。

 ダンダパーニという富豪の娘ゴーバーで、稀にみる美人でありました。このゴーバーはむかしむかし、然燈仏の世に修行中の太子から仏にささげる青蓮華をわけてほしいと頼まれてその華を譲る条件に、のちの世で妻にしてほしいと願っていた王家の娘だったというのです。
 過去世の因縁により太子の妃となり、太子によくつかえ、太子出家ののちも第一妃のヤショーダラーを守護しました。早逝しますが生前の功徳によって三十三天(トウリ天)にのぼったといわれています。

 

 

               VOL.88           2003.1.30

 

        釈尊の太子時代 2

 

 第一妃となったのは釈迦族の一門でスプラブッダ(善覚)王の娘ヤショーダラーです。提婆達多や阿難陀の姉でのちに釈尊との間にラーフラ(羅睺羅)が生まれます。この女性と太子は前世でも夫婦でありましたが、一緒に山野で暮らしていた時、食べものの怨みから何をもらっても満足しなくなってしまった女性で、誇り高い性格だったとされています。

 王宮で不自由なく快楽に満ちた生活をしていた太子ですが、毎日が快楽であればあるほど、城外の悲惨な生活、生老病死に苦悩する人々のことを知り、この生老病死の苦悩を超越する出家の道にすすみたいと思うようになりました。
 そうした時に王子の出生の知らせを受け「私に新たなラーフラ(妨げ・障り)が生まれた」と太子は叫んだということです。それでラーフラ(羅睺羅)と名付けられましたが、この意味は障害とか悪鬼ということで束縛するということです。
 この子も後に釈尊の弟子となり少年僧として父のもとで薫陶を受け、よく学び怠らず精進し解脱します。

 さてラーフラが誕生し王家に継承者を得たことにより釈尊は出家の決意をかため7日目の未明に宮殿を出たといわれています。太子が出家して馭者と馬だけが戻ってきた時父母妃たちは嘆きましたが、ヤショーダラーの悲痛憤懣は大変なものであったと伝えられています。
 太子が1人で出家したことを恨んでいましたのに、のちに12歳になったラーフラまで出家して釈尊にうばわれてしまいましたのでヤショーダラーの嘆きは深刻でありました。

 第三の妃については、釈迦族カーラクシューマの娘でマノーダラーでありますが、父が釈尊に精舎を建て供養したことくらいで伝承がありません。早く離別したともいわれています。

 若き日の釈尊には3人の妃があり、それぞれ別の宮殿に住んでいて、各宮殿は三重の門があり武装兵士によって警護されておりました。釈迦族の生活水準はかなり高く太子は幸福な日々を送っておりましたが、ラーフラの出生をチャンスに出家してしまったのです。

 

 

               VOL.93            2003.6.6

 

        出    家

 

 釈尊は王族に生まれ恵まれた生活をし、欲しいものは何でも与えられ、ありとあらゆる快楽をほしいままに暮らしていました。三つの別邸があり、多くの侍臣にかしずかれ、美しい女性をはべらせ官能の快楽に酔いしれる優雅な生活をされていました。
 ガンジス河中流の地域は、上流からの肥沃な土が運ばれてきましたので農耕に適し、豊かな農産物を生産することができましたので人々の生活は豊かであり、王宮の恵まれた生活は満ちたりたものでありました。当時、インドの上流社会では四住期(アーシュラマ)といわれる四つの生活ができることを理想としたといわれています。

 学生期 ― 勉学の期間で古典ヴェーダを指導者について学習する。
 家住期 ― 結婚して家庭をもち、子どもを養育し後継者をつくり、先祖の祭祀を行う。
 林住期 ― 家の後つぎができると家を出て森林にはいり求道生活を送る。
 遍歴期 ― この世の執着を捨て聖地を遍歴し、一所不住の遊行で解脱を求める。

 こうした社会状況で出家の思想家が生まれ自由思想家といわれる人々が出現しますが、これらの人たちは「サマナ」(沙門)と呼ばれていました。沙門には王族出身の人もいましたが、家を捨てて出家し、一般の人々から施し物をもらって生活していました。出家の理念というのは、輪廻転生とかかわっています。つまり輪廻転生は苦しみであり、人生の苦から開放されるためには輪廻からの脱却が大切です。輪廻することのない解脱の道に進むことができれば、人生の四苦八苦より開放されるのです。
 輪廻転生の原因は毎日の行いの善し悪しによります。善(功徳)と悪(罪障)の行いを日常生活の中で意識的に、あるいは無意識にしており、善悪の行為(業)を積んでわれわれは生きているのです。解脱するには業を積むことを止めることなのです。それは日常生活から離れる(出世間)以外になく、出家して世間と違う生活にはいることです。そして衣食住を次のようにするのです。

 衣 初期ジャイナ教は衣をつけず全裸で修行したといわれています。ボロ衣を使用する。
 食 食べ物を購入したり、貯蔵はせず鉢をもって在家より乞食をする。野生の草を食す。
 住 一所不住でたえず遊行して大樹の下、洞窟などを宿とし、旅の空で過ごす。

 少欲知足を修行生活の根幹として、衣、食、住をきびしく制限するものでした。
 29歳の釈尊はこの道を選んだのです。夜中にこっそり王城をぬけ出て、愛馬カンタカと別れ、きらびやかな衣装を捨ててボロをまとい髪を切り落として、南にむかい、マガダ国にいったとされています。マガダ国はインド最強の国であり、豊かでもあり、有名な沙門が集まっていたからです。
 それにしても釈尊はなぜ出家したのでしょうか。恵まれた王宮の環境から一歩外へ踏み出すと目をそむけたくなる阿鼻叫喚の世界のはずです。乞食とも浮浪者ともつかぬみすぼらしい姿の老若男女の群が街をうごめき、まさに地獄のようなところへ、若き妻や子供を捨て、老いたる父母の恩愛をたち切ってなぜ出家されたのでしょう。

 釈尊が解脱を求め出家された動機について仏典は「四門出遊」を記しています。東門から出るとみにくい老人にあい、老苦を、南門から出た時には病人とあい病苦を、西門から出た時は死人をみておどろき、更に北門から外に出て沙門にあって、老、病、死の苦から逃れる道は沙門として生きる以外にないと決意されたというのです。
 はなやかで楽しそうな人々は生老病死の四苦や八苦の苦悩にうちひしがれて死んでいくと知った釈尊は、自分で解脱を考えるだけでなく、多くの指導者から教えを乞い納得のいく人生、真実を求める人生に生きたいという人生究極の道を求め、はたして運命から脱却して四苦八苦を超越して救われる道があるのかを知りたいと出家されたのです。

 最初にアーラーラ、カーラマ仙人を訪ね、無所有処という何物にも執着しない無一物の境地を得られました。次にウッダカ、ラーマプッタ仙人のもとで非想非非想処という無念無想の境地に到達されました。しかし釈尊は、この境地では老病死の苦悩を解脱することは困難とされ、煩悩を滅する手段として「苦行林」に入り、はげしい苦行に専心されるのです。

 

 

               VOL.94            2003.7.3

 

        解脱への道

 

 人生は四苦八苦だといいます。四苦は生・老・病・死で、生まれるということは「思い通りにならない世界に生まれる」という意味で《生苦》なのです。さらに日常生活にみられる愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦と人の身心から生まれる五陰盛苦の苦しみを加えて八苦といわれています。人生観、世界観の基本に人間の苦悩の真相を認識するのが仏教の教えです。どうすればこの苦悩から解放されるかで釈尊は難行苦行されたのです。

 人間には肉体と精神がありますが、人は肉体の欲望によって精神が悩まされ、悪徳や不幸にひきずり込まれてしまうのです。戒律によって行いを慎み、心の平安、清澄を不動のものにするため、心を鍛錬して禅定により肉体を束縛してその欲望を抑え、心を乱さないようにして正しいものの見方を体得すれば解脱できるとする修行の方法です。
 このことを古来戒定慧の修行といっていますが、釈尊が二人の仙人のもとで学ばれたのが禅定でありました。しかし、人間の欲望は強いので、禅定の坐で三昧の境地を得たとしても、日常生活に戻るとその境地を持続し続けることは困難なことです。

 生老病死の苦悩は禅定によって忘れることができたとしても、この世に生きる欲望(貪欲)とそれに対する嫌悪(瞋恚)が心を苦しめます。こうした煩悩を滅除する方法として苦行が行われました。釈尊も「苦行林」という森に入ってはげしい苦行をされました。肉体の欲望を制御し、心を制御するため端坐して歯をかみ合わせ、身も口も心も動かさないようにじっとしている。出入の息を制御して呼吸を止めるとか、断食して一日に麦一粒だけを食べて極限まで食を断つという極度の難行をされたようです。
 「一粒のゴマや米などで日を過ごされたり、まったく食を断たれたりされたので、体は極めて痩せ衰え、金色の身体は黒色になり、偉大な人物のもつ三十二相が隠れてしまいました。ある時には息を止める瞑想に入って大変な苦痛で気を失って倒れられた」と『ジャータカ』に記されています。

 釈尊は六年間苦行の日々を送られましたが、ついに「この難行はさとりに至る道ではない」と結論され苦行の無益なことを知り、新しい道を求められます。苦行が激しければ激しいほど、心の平静を失い気力がなくなり思考力が弱まることを体験され「健全なる精神は健全なる身体に宿る」という身心一如、中道主義こそが修行に大切であると悟られました。
 そしてついに釈尊は苦行を放棄し、河で身を清め、大樹の下で身を休めておられました。この時村娘のスジャータが、痛々しいほどに疲れ果てた釈尊を見て乳かゆを捧げました。

 体力を回復された釈尊は、ブッタガヤにある菩提樹の下に坐り、目的を達するまでこの坐を立たないと誓願され瞑想にはいられました。その固い決意に驚いた魔王は攻撃をしかけました。妖艶な魔女三人に誘惑をさせたり、鬼神に暴力をしかけさせたり、皇帝の坐を与えようと甘言したりしましたが、不動の釈尊は心静かに禅定にはいり人間の生死について、ついに正しい智を体得されました。
 人は生まれ、老い、死に、この世を去って生まれ変わる。身や心に悪行をなし邪悪に生きたものは地獄へ生まれる。善行をなし正しい心で生きたものは天上界へ生まれ変わるが、生まれ、老い、死の苦悩から逃れるすべを知らない。老死の原因は生にあり、生の原因は有(生存)にあり、すべての根本は無明(迷い)にある。この無明を止滅すれば、行が止滅し…・出生が止滅すれば老死も止滅する。これがあるときにかれがあり、これが生起するからかれが生起する縁起と因縁を覚られ「生ずることからのうちに患いを見て、不生なる無上の安穏、安らぎを求めてそれを得た」と大悟され再び迷いの生を受けることのない解脱の確信を得られ仏陀となられました。
 時に35歳でありました。

 

 

               VOL.95            2003.9.2

 

        釈尊の悟り

 

 釈尊の悟りはどのようなものであったかは種々の経典がありさまざまに説かれています。共通するものは、人間をありのままみつめることにより、苦の原因を知り、清浄な行為と瞑想を行って心の汚れを取りさることでありました。釈尊が追求されたのは人生の矛盾であり、人間の悩みをいかに解決するかにありました。
 人はだれも生まれ、老い、病み、死んでいく存在ですが、生きるとはどのようにすることか、死ぬとはどのようになることかという生死の問題を解決することでありました。

 ありとあらゆるもの、生きとし生けるものは刻々変化して、とどまることなく、水の流れは太古より流れていても、その水は同じではないように、人も時間の経過でしか変化に気づきません。昨日も今日も同じものが続いているように思うのは錯覚なのです。昨日の自分と今日の自分、そして明日の自分を考えてみても経験と記憶によって不変な存在だと思ったり、幸福の追求も、この世もあの世も同じ状態が持続すると考えたりもしますが、それらはとどまることはできず諸行無常なのです。

 そして、人間の欲望ははてしなくあり、その欲望によって憎しみや悲しみの連続の人生を送ることになり、自分の存在そのものが苦で、人生は苦か、苦の種となるものにみちていて、愛すべきものも、執着していることも苦の原因でしかないとされます。
 苦の原因は、人々の心の迷い=煩悩=から起こり、煩悩の原因はすべてのことを自己中心、自分本位に考えることにより執着心を起こすことによります。絶対に離すまい、絶対に別れまいと執着すると苦悩となります。この執着心のことを我見とか、身見といわれていますが、これをなくすることが必要なのです。諸法無我の真理を悟らねばなりません。

 釈尊が体験されたように修行することができれば、苦しみは消え静かな喜びの世界に参入することができるとされ、煩悩の火の消えた境地のことを涅槃寂静といわれています。五官の味わいえない新しい喜びの世界のことで、煩悩を止滅させると寂光の世界に到達することができるとされています。
 さらに、この真理の世界に到達する方法として八正道が説かれています。八正道は、正見、正思、正語、正業、正命、正精進、正念、正定といわれていますが、釈尊の教えを頭の中で追求するとともに言葉や動作をそれにかなうように務めることなのです。苦を滅する手段として、真理に対する追求と実践する生活の確立が大切だとされています。

 釈尊が六年の歳月をかけて苦行し、断食し、瞑想によって求められたものは、制御しがたい自己の欲望をどのようにして止滅するかであったのですが、その方法として十二因縁の説が説かれています。
 われわれは生まれた時から迷い、その迷いの上にいろいろな行為をして死んでいきますが、最初過去世に起こした迷い=「無明」=真理に対する智慧のない状態が説かれていて、この無明に基づいての所業が次の「行」であり、過去世の迷いと行によって今生に托胎した時に「識」があり、胎内で形体が整わない状態を「名色」、胎内で六根具わりますと「六処」といい、出胎以後の乳児の状態を「触」といい、成長して感覚が発達したものを「受」といい、少年期となって物欲が起って来たら「愛」となり、その後欲望が起こり執着するようになることを「取」といい、十番目の「有」は愛と取によっていろいろの業を造る状態をいい、未来に生を受ける状態を「生」といい、そのあとに「老死」がまっているとされています。
 過去、現在、未来の三世にまたがる因縁を説いています。

 人間は生まれながらに迷い、自己中心に物を見、愛憎の業を造っているので苦の原因を解明すると無明を打ち破らなければ、苦からの脱出はできないとされています。釈尊はこれらの真理を悟られ大悟して仏陀となられました。

 

 

               VOL.96           2003.10.7

 

        仏教のはじまり

 

 釈尊は苦行林で六年間修行されまして、ブッダガヤーの菩提樹のもとで悟りを開かれ仏陀(真理を悟ったもの)となられました。しかし、仏陀となられました釈尊は、自分のさとった真理「法」の内容を他の人に説こうとせず、ひたすら自分のさとり得た法の境地に浸って一人楽しんでいられたといわれています。「長い難行苦行をし、苦労してやっとさとり得たことを、貪りと憎しみにとりつかれているひとびとにさとらせるのは困難なことである」とされたのです。
 もし、この時釈尊が自分でさとられた仏法の内容を伝えられることなく、ひとり法悦に浸っておられたら、仏教は存在しなかったということになります。ところが、仏伝によりますとバラモン教の最高神である梵天が釈尊に仏陀の教えをひとびとに布教するよう勧請されたので仏教伝道を開始されたとされています。

 釈尊は菩提樹下での禅定から立ちあがり、数百キロ離れたバラモンの聖地として栄えていたベナレスに行かれました。ベナレスには、かつて苦行を共にした五人の修行者がいましたのでベナレス郊外のサールナートで旧友五人に最初の説法をされたのです。このことを初転法輪といい、サールナートこそ仏教がはじまった聖地なのです。

 五人の修行者は釈尊の教えと人格に帰依し、さとりを開き解脱することができ、阿羅漢となりました。阿羅漢というのは煩悩を完全に滅した人のことで、世の尊敬を受けるに価する人とされて「応供」ともいわれています。
 釈尊も阿羅漢の一人でありますので、経典には「ここにおいて世間に初めて六阿羅漢あり」とされ、六人は交互に托鉢に行き集団生活を始められ仏教教団ができました。この教団のことをサンガ(僧伽)と呼んでいますが、サンガには、出家者と在家者がいました。

 出家したものは家から離脱して、独身生活をつづけ世俗の職業にはつかず、経済行為は禁止され、托鉢で生活をするのです。また、在家者は家庭をまもり、正しい職業をもち、職業に精励努力して名誉や財産をもち、呪術や魔法は禁止され、犠牲を伴う祭祀を排除し、経済的に恵まれると他人の為に財貨を喜捨することが大切とされました。
 このサンガには国王、貴族、商人、手工業者、遊女にいたるまであらゆる階層の出身者が、釈尊のことばを聞くために集まってきました。

 当時の宗教家たちは解決できない形而上学的問題をとりあげて一方的な論争をしていたようです。世界は有限か無限か、身体と霊魂は同一であるか別のものであるかなどです。これに対し、釈尊はそんな議論は無益であるとし、人間が生きるための真実の道を説かれたのです。
 人生は苦にみちているが、人は思いどうりにならないことで苦しむ。思いどうりにならないのは、一切のものは因縁がよりあつまってつくられているからであり、つくられたものは常に変遷してとどまらず無常である。無常なものを「わがもの」とか「われ」とか考えることはできないので、真実は「無我」であることをさとらねばならないのです。

 苦行し、断食もし、瞑想されて求められた人生の苦からの脱出は制御しがたい自己の欲望をいかに止滅するかということでありました。苦悩の解決に人は最高神を求めたり、第一原因が存在するように考えて迷いますが、そうしたことの根本には自分の欲望に原因があるのでその自分の欲望を制御する以外になく、制御するのは自分しかないとさとることであるとされています。

 つまり諸行はうつろうので実体はなく、自分に内在する我も実体はないので、実体のないわれの欲望をすてない限り人生の苦悩からの離脱はできないのです。
 人生が苦であり、それは生まれながらにしてこの身についているものとするのはアダムとイブの話、ギリシャ神話にもあり、古代エジプト人も苦からの離脱と再生を希求していますし、この世を穢土として浄土を求めていましたので諸行無常、一切皆苦は人類の誕生と共にあった課題でありました。この人類の課題を解決されたのが釈尊であります。

 迷いの根本は欲望にあるので、戒律をまもり禅定をおさめ、束縛から脱して執着や愛欲を断たなければならない。苦行と欲楽の両極端を止めて中道を歩み、一切のものに慈悲をおよぼすよう生きることこそ理想の生き方と教えられています。 

 

 

               VOL.97          2003.11.29

 

        釈尊の教え

 

 釈尊は悟りをひらかれてより四十五年間仏教伝道につとめられましたが、その伝道は人生の苦からの離脱を多くの人々に伝えることでありました。菩提樹の下で悟られたことのうちで最も大切なのは、世間は縁起しているということを発見されたことです。縁起というのは、自然界の真理のことであり、すべては原因とそれに付随した条件との相乗作用によって結果があるということです。どんな原因も一定の結果を生むことはありません。原因は同じでも、それに付随する条件で結果は変わるという当然のことなのです。

 人の身体と精神の関係も相互に縁起しているのです。身体が健康でなければ、精神も健康でないし、精神が健康でなければ身体も健康でないということです。身体から生ずるものはすべて関わりをもっているとされ、迷いや悩み、安らぎなども身体から生まれる心の働きで、それらは縁起しているとされます。

 苦が生起する原因は愛着と歓喜したい欲望、享楽を求める欲望、生命を存続させたい欲望などによるとされ、苦を消滅させるには欲望を離れて完全にすてきり、執着をたち切ることをしなければならないとされています。欲望を離れるためには、快楽を追い求める生活をやめることですが、同時に苦行のような極限にまで肉体を苦しめる極端をさけて「非苦非楽の中道」に生きることが最善であるとされています。

 人は五つの要素からなりたっていると教えていますが、その五つというのは肉体と、感覚する働き、色や形を心に形成する働き、意志の働き、ものを区別して認識する働きのことで五蘊といっています。しかし、この五蘊というものはどれも本体のないものですが、それが人を形成しているので、もとは何もなかった五つの要素が縁起して人が作られているということから、身体は仮のものであり、自然界から一時のあいだ借りているとされています。このように人をみるとすべては空であり、執着するものも欲望するものも本来ないので、とらわれのない自由な人として生きることになるというのです。

 したがって、人の本性からいえば生まれによる差別もなければ、男女の差別もないのですが、インドの古代からの思想には、生まれによる差別を制度化し、不合理な信仰をする結果、社会をさらに暗くし苦悩多いものにしているというのです。人の差別は生まれによるのではなく、人の日々の行いが善であるか、悪であるかによって差別されるべきで、誰でも理想の存在になり、悟りを開くことができるとされ、人の本性に差はないとされます。

 そして、あらゆる対象に執着しないとする立場にたつと、真理(法)についても同様であり、真理であるからといって、それに執着する必要もないというのです。真理(法)、あるいは真理による教えは人に迷いの此岸から悟りの彼岸に導くためのもので、河を渡る筏にすぎないのです。彼岸に渡るのに筏が重要な働きをするからといって、河を渡してくれる筏を背おって陸路を歩むことはないのと同様に、河を渡ると筏をすてるように真理(法)もまた捨てなければならないとされています。このように私たちの執着の心を徹底して否定し、とらわれのない自由な人になることが説かれています。釈尊が目指されたのは人間のはたらき、あり方にあったのです。

 大切なのは、空の心で生き、世界はこころによって造られていることを信じ、心を支配することの重要性が説かれたということです。心を制御できれば、身体には眼、耳、鼻、舌、身、意の六つの感覚器官がありますが、それを制御できるのです。六つの感覚器官もまた捉えがたいものでありますが、心を制御しなければ、あらゆる欲望を制御することはできないし、ものに執着して起こる欲望は感覚器官に関係するので、その根は心にあるということです。ものに執着する欲望をその根でたち切るのは自分の心しかありません。自分を律することができれば、心は制御され家庭はもとより、世界の平和をもたらすことができるとされています。釈尊が身をもって行じられたのは、衣食住のすべてについて貪りを離れ、心を制御し一切の苦から解脱し仏道に生きるということでありました。

 

 

               VOL.98          2004.2.19

 

        仏教教団のはじまり

 

 釈尊は五人の聖者と鹿野苑に滞在されて、托鉢されていましたが、ベナレスの街でヤサという青年に出あわれました。ヤサは富豪の一人息子で、妻や侍女たちに囲まれ不自由のない愛慾の日々を送っていましたが、その生活に嫌気がさしていた時に釈尊にあい鹿野苑で説法を聞きます。
 常に慈悲心をもって困っている人や宗教家に布施をして戒律を守る生き方に感動して出家を希望しました。ヤサが仏弟子となりますと、親、友人など五十人が続いて仏弟子となりました。また、釈尊がベナレスからマガダ国に行かれる途中で三十人の青年に出あわれますが、この三十人も出家して弟子になりましたので九十人の弟子にふくらんでいます。

 マガダ国ではカーシャパという姓の三人兄弟のバラモン修行者がいました。それぞれ、五百人、三百人、二百人の弟子をもって林間で火神を祭り苦行を続けていたのですが釈尊の威厳にみちた指導により三人の兄弟とも、その弟子とともに帰依し仏弟子となりましたので出家者は大集団となりました。
 マガダ国の首都に向う途中、この集団は象頭山にしばらく住していましたが、釈尊はここで執着を離れて解脱することを比丘たちに説法されています。人の心の中の貪欲(むさぼり)、瞋恚(いかり)、愚痴(おろかさ)などの煩悩の火を消さなければならない。それは、生まれ、老い、病み、死にうれい悲しむ苦悩を正しく観察することにより、誤まった知覚、思念を離れることができ、それによって貪瞋痴の三毒が消えるとされています。

 当時インドで最も強国でありましたマガダ国での教化は進展し、弟子となる人も多くありましたが、国王のビンビサーラ王は進んで教団のために竹林精舎を寄進しましたので、ここに仏教教団が成立しました。かつてのマガダ国の首都ラージャグリハ(王舎城)は五つの山に囲まれた盆地であります。ビンビサーラ王が寄進した竹林精舎もここにあり、晩年に釈尊はこの地の霊鷲山の山頂に住んで法華経を説かれていますし、釈尊入滅ののち第一回目の結集が開かれた七葉窟もこの地であったことから仏教教団の宗教活動の中心地となります。

 この頃に舎利弗や目連、摩訶迦葉の三人が釈尊に帰依して仏教教団の充実に貢献します。舎利弗(サーリブッタ)は少年時代に四つのヴェーダ聖典を学び奥義をきわめ、学芸に通じていたといわれるほど聡明であり、竹馬の友目犍連とともに六師外道の一人として有名でありましたサンジャヤに師事していました。
 その教えは真理をあるがままに認識することは不可能であり、形而上学的問題は判断できないという懐疑論でありました。この教義では心の平安は得られないと考えました二人は仏弟子アッサジとの縁で釈尊の存在を知り、二百五十人の修行者をつれて竹林精舎に釈尊をたずね入門しました。竹林精舎ではこの二人は釈尊の代講をしており教団の中核となり智慧第一の舎利弗、神通第一の目連といわれております。

 初期の大乗経典は釈尊が一切皆空を説かれていますが舎利弗に対してであり、般若の智慧は慈悲として現実に働くものであり、舎利弗は般若の実践者でありました。法華経でも方便品で釈尊は舎利弗に仏の智恵は難解難入であって、仏と仏のみに諸法の実相が理解できるといわれています。残念なことに舎利弗、目連とも釈尊に先立って遷化しましたが、釈尊もその一年後にクシナーラーで入滅されました。
 釈尊の入滅後、教団をまとめ王舎城での第一回経典結集を主宰したのは摩訶迦葉です。王舎城郊外のバラモンの名家に生れ、二十歳の時親の決めた娘と結婚しますが、両親が死去しますとともに出家して修行の道に入ります。

 釈尊に弟子入りを請うた迦葉は八日目に阿羅漢の境地に達し、釈尊の着古した袈裟を譲りうけ衣食住のすべてを最も粗末に生活する頭陀行に励み、頭陀第一と称せられ、晩年は阿難を後継者として鶏足山で入定しました。

 さて、釈尊が成道され多くの弟子ができたことは故国のカピラ城にも伝わり、父の浄飯王は釈尊に帰国を促がします。成道六年頃に帰国され、ここでも出家者がありました。異母弟の難陀、実子の羅睺羅、従兄の跋提、一族の阿難、提婆達多、阿那律、難提迦、そして理髪師の優波離、さらには婦人達の出家も多くなって来ました。

 

 

               VOL.99          2004.4.14

 

        仏涅槃と仏教興隆

 

 宗教的聖地とされていたベナレスのサールナートで最初の説法(初転法輪)をされてより釈尊は四十五年間にわたりガンジス河流域で布教をされました。国王、大臣、貴族、商人、労働者、さらには遊女にいたるまでのあらゆる階層の人びとが釈尊の説法を聞きに集まりましたが、特に商人と手工業者が多かったようです。
 釈尊は種々の方便、手段をつくして対手の能力に応じて比喩や因縁談をとり入れて理解できるように説法されています。当時の社会一般の信仰や慣習を尊重されながら、仏教の信仰を説かれてあらゆる人々を仏弟子にされました。

 その中には、釈迦族が従属していましたコーサラ国の首都舎衛城に住んでいた長者スダッタ(須達多)もいました。釈尊に帰依しましたスダッタは舎衛城の南方郊外にあったコーサラ国の太子祇陀の園林をゆずりうけ、これを釈尊の教団に寄進していますが、これが有名な祇園精舎です。
 この精舎のことは「平家物語」の最初にでてきますが、「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり、娑羅双樹の花の色、盛者必衰のことわりをあらわす。おごれる人も久しからず唯春の夜の夢の如し。猛き者もついには滅びぬ、ひとえに風の前の塵に同じ」の名文で知られております。

 釈尊の教団では、舎衛城の祇園精舎と王舎城の竹林精舎が布教活動の拠点となり毎年の雨期三ヶ月出家者を集めて修行する場として使用されています。さらに釈尊の晩年にはコーサラ国王のパセーナディ(波斯匿)も帰依して釈尊の信者として布教に協力しましたので仏教教団は壮大な僧院のなかで、修行と並行して教学研究の進展をみるようになりました。
 しかし、そのころから釈尊が活躍されていたガンジス河中流域では諸国家の勢力均衡が破れて戦争が多発するようになりました。コーサラ国では波斯匿王の王子毘瑠璃が父王をしりぞけて王位につき釈迦族のカピラ城へ攻め入ります。そのコーサラ国もマガダ国王となりました阿闍世王によって滅ぼされてしまいますが、かくしてマガダ国はガンジス河中流域諸国を制圧して本格的な統一帝国となりました。

 阿闍世王が活躍していた頃、釈尊は王舎城郊外の霊鷲山に滞在されていましたが、釈迦族の滅亡や提婆の反逆など悲しむべき事件が起こっています。釈尊はマガダ国が諸国を攻撃して緊迫した状況でありましたが、侍者阿難と共に王舎城をあとにして、ガンジス河をわたられ西北のヴェーサーリからクシナーラーに行かれましたが、この地で重い病にかかられました。
 娑羅双樹の間に横たわり、北を枕にして西面して臥され、数人の弟子と信者たちに見守られながら安らかに息をひきとられました。現在この地に釈尊の御遺体を火葬にした跡と石刻の仏涅槃像があります。臨終を見守った阿難にたいし、最後のことばは、「法を師とし、つねに精進努力して懈怠の心を起してはならない」ということでした。

 菩提樹の下で一切の苦悩を解脱された釈尊も生身の肉体の死によって完全な寂静の境地にはいられ、釈尊のような偉大なる聖者でも肉体の老・病・死はさけられなかったのです。諸行無常、是生滅法、生滅滅己、寂滅為楽の詩頌でそのことを示されています。釈尊の御遺体は火葬にされ、マガダ国、釈迦族などの八ヵ国の人が八つに分け、それぞれの国に塔を建立して供養をすることになりました。

 紀元前五世紀に起った仏教は釈尊の御入滅された紀元前三八三年ごろにはまだガンジス河中流域の中インドにひろまっていた地方教団でありましたが、紀元前三世紀のアショーカ王の出現で釈尊御入滅の百年後ごろから全インドから国境をこえ、民族をこえて流布されていきました。アショカ王は仏教に深く帰依していましたので、国内統一を成しとげてから、武力の勝利よりも「法」による勝利こそが大切であるとして、積極的に仏蹟巡拝を行い、隣国のシリア、エジプト、マケドニアへも仏法宣布の使をおくり仏教信仰をすすめています。セイロン(スリランカ)へ伝えられた南伝仏教、ガンダーラに栄えた説一切有部の仏教などであります。

 仏教はマウリア王朝の統治政策や、アショーカ王の積極的仏教興隆策、さらには貿易商人の活動もあって世界宗教へと成長していきました。

 

 

              VOL.100            2004.6.8

 

        アショーカ王  (阿育・天愛喜見王)

 

 釈尊の時代はマガダ国が大きな勢力をもっていましたが、ナンダ王朝の時にマケドニア王のアレキサンダー大王がギリシャを支配し、シリア、エジプトを征服し、インドまで侵攻してきました。しかし、アレキサンダー大王はインドを征服するまえの紀元前三二三年に亡くなりましたので、今度は逆にマガダ国のチャンドラグプタによりインドのギリシャ領は征服されてしまいます。
 チャンドラグプタはインド亜大陸を統一してマウリア王朝をたて王位につきました。さらにデカン高原の全域、南インド半島までを領土として歴史上初のインド全域を支配するマウリア帝国が実現されました。そのマウリア帝国の王チャンドラグプタの孫がアショーカ王です。

 アショーカ王は性質狂暴で長兄や兄弟をことごとく殺害して紀元前二七〇年に王位につきました。そんな人物ですから領土欲・支配欲はつよく、対外積極策をとり、さらに領土を拡大しようとしましたが、紀元前二六一年に東部のカリンガとの間で戦争を起こしました。この戦争は悲惨を極め、多くの人命を奪ってしまい、戦後アショーカ王は戦争の悲痛に深く心を痛め、二度と戦争はしないと誓ったといわれています。
 アショーカ王は仏教に帰依し、熱心に仏道修行をし釈尊の教えと慈悲を規準とした法による支配により武断政治を転換したのです。四姓制度を公的に認めず、人材登用し各地に施療院を設け、薬草を栽培したり、街路樹を植え、井戸を掘らせるなどの福祉事業もおこします。特にインドの各地に仏塔八万四千を建立して釈尊の遺骨を分骨して納め、聖地への巡礼を企てて世界中に仏教を布教することに余生をささげたということです。

 伝道師たちはインド全土のみならず西アジアからアフリカ、ヨーロッパの各国の布教にその生涯をささげました。アショーカ王の息子と娘はセイロン(スリランカ)に派遣されています。またこの頃より誕生の地ルンビニー、成道の地ブッダガヤー、初転法輪の地サールナート、涅槃の地クシナガラや、法華経が説かれた霊鷲山のあるラージャグリハ(王舎城)、祇園精舎のあるシュラーヴァスティー(舎衛城)などの中インド中心の霊場参拝もさかんになりましたが全インド各地に建立された仏塔はより多くの人に崇拝され、釈尊の教えを信仰する人びとも急増しました。
 この仏塔を守った在家信者の人たちは釈尊の一代記を語り、仏塔には神格化された仏伝を描いたレリーフが刻まれるようになりました。

 インドでは「輪廻転生」という何度でも生まれかわるということが信じられていましたが、釈尊もまたこの世に出現されるまで前の世があり「菩薩」として仏道修行をつまれていたのです。その仏道修行は「六波羅密」で布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧の完成を目標とするものでありました。このようにアショーカ王の仏教保護政策により仏教は全世界へ広まっていきますが、同時に釈尊の偉大さも超人化されるようになりました。

 紀元前三世紀ごろに釈尊の前世物語がジャータカ物語として成立し南方に伝わっていき上座部のお経として収められ世界各地に伝えられていきました。イソップ物語とかアラビアンナイトにもこの説話があり、日本でも今昔物語や宇治拾遺物語などにもでてくる説話です。仏教信仰はこのようにアショーカ王の仏塔建立により全インドに広がり、発展していきます。当時のインドは経済発展期であり多くの王侯貴族や長者と呼ばれている大商人たちが仏教教団を外護し金品を布施しましたので僧院は豊かになり充実していました。苦からの解脱と中道を説く平和主義の仏教に帰依し社会の安定を祈る人が多くいたのです。
 しかし、出家者は僧院の中にいて「アビダルマ」とよばれている仏教理論の研究につとめ仏道修行よりも仏教の専門家として多くの部派に分裂して、教義中心の仏教を主張するようになり自己中心的で阿羅漢になることを目標として自己の悟りを求めるようになりました。

 釈尊が悟りを開かれてから入滅されるまでの一生は大衆の苦悩を救済することであり、ジャータカの主張も他のために自己の生命すら布施する菩薩の利他行でありました。すべての人とともに悟りを開き、苦しみから解脱するという「自利」のためには「他利」の修行なしでは完成しないとする「自利他利」こそ自分も仏になり他者も仏になってもらうとする菩薩行を理想とする仏教者が出現します。
 「上求菩提下化衆生」=自分の悟りを求め修行すると同時に、その悟りで衆生を教化しよう=とか、「一切衆生悉有仏性」=すべての人は仏になる可能性をもっている=という考え方を仏教の中心とする大乗仏教が出現したのです。この立場の仏教信者は部派仏教の人を声聞とか縁覚として他利の修行なしでは自利も得ることはできないと批判しました。

 

 

VOL.101           2004.7.27

 

        大乗仏教の菩薩と経典

 

 紀元前二世紀の終りにヒンドゥー教が西インドを中心に広まりつつありましたころ、部派仏教の分立が進行しました。またこのころ仏教信奉者の寄進で、塔や寺院の建立が盛んになり、新しい仏教の推進がたかまって大乗固有の経巻を成立させました。

 大乗というのは、智慧と慈悲の法で無上の自他の利益を成就するから大であり、実りある菩薩の道へすべての大衆を導くので乗であるというのです。「上求菩提下化衆生」の旗をかかげたとして徳川家康は有名ですが、「上求菩提」というのは、自分の悟りを求めることで「自利」であり、「下化衆生」とは、衆生を教化することで「利他」のことです。
 部派仏教の僧は僧院でアビダルマ(経・律・論の三蔵)を研究することが中心となり、衆生の救済を忘れ、自己の煩悩を断ち「阿羅漢」になることを目的として修行していたのに対して、釈尊の教えは一切衆生の救済にあり「自利」は「利他」の修行なしでは得ることはできないとする大乗仏教がおこってきました。

 自利(悟り)を求め、他利のため活躍することを菩薩行といい、これを実践することで阿羅漢の世界を超えて仏になれるし、「一切衆生悉有仏性」とし、一切のものは生まれながらに「仏性」をもっているので、すべてを仏の位に導くことができるとしています。
 すべての人々が仏性にめざめ菩提心を起して、布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧の六つの規範を実践すると、その功徳により菩薩となり、仏陀となると説かれています。こうした釈尊の壮大で深遠な教えを文章にしたのが大乗経典なのです。

 大乗経典が成立したのは釈尊滅後三百年ころのことで「般若」「華厳」「法華」「浄土」等の経典ができますが、その数は一二六〇部三五二七経もあることが確認されています。

 「般若経」は六百巻ありますが、その中心は「空」にあります。すべては「原因」と「縁」からなりたっていますが、因と縁が変わればすべては変化するので、絶対的、固定的な存在はなく、あらゆるものは本体「空」である。したがって自分のもの、自分の考えに執着することは無駄であると説かれています。
 「華厳経」は釈尊の悟りの中身を示したもので、その悟りを開くための菩薩行が書かれており四十段階の修行を経て、次に十地の階梯に進み聖者と呼ばれるようになり、利他行を積んで菩薩になれると説かれています。

 「法華経」は妙法蓮華経の略称で、アジア諸地域でもっとも信奉され、だれでも仏になれるという一仏乗と、釈尊は永遠の存在であり久遠実成の釈尊であることを説いています。法華経では小乗と大乗を法華一乗に帰一させることを主張しています。日蓮聖人はこの経典に帰依して法華宗を興しました。
 「浄土教」は無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経で浄土三部経とよんでいますが、宇宙の西にある「極楽浄土」に阿弥陀仏がおられ、一心不乱に阿弥陀仏の名号を唱えていれば、臨終の時に心が顛倒することなく往生すると説かれています。

 このように大乗経典が多数生まれましたので、そのどれを所依の教典とするかで多くの宗派が生まれることとなりました。また仏さまも多数あり、三世十方の諸仏と呼ばれています。三世とは過去・現在・未来のことで過去に七仏あり、未来仏は弥勒菩薩が五六億七千万年後に弥勒仏として出現されることになっています。現在仏には地蔵菩薩や観世音菩薩などがあてられています。
 また「法華経」では釈尊がクシナガラで亡くなられましたが、それは非滅現滅で凡夫の目をさまさせるためで本当は久遠実成で永遠の仏として存在されていると説いています。

 十方というのは東・西・南・北・東南・東北・西南・西北・上・下のことで無限の時間、無限の空間の中に無数の仏さまがおいでになるとしています。そして、さらに宇宙の真理・宇宙自体が仏だという「法身仏」として毘盧舎那仏、密教の大日如来などの仏さまとか、無限の期間の修行によって仏となった「報身仏」として阿弥陀如来や薬師如来があり、釈尊のように人間世界に生まれ、悟りを開き、涅槃の世界に入られた「応身仏」が考えられました。菩薩も仏智を持ちつつ衆生救済の願のため菩薩行をされているとしています。

 

 

             VOL.103            2004.11.10

 

        法華経の成立

 

 歴史上の人物としての釈尊が伝道された「ことば」は多くの人びとの記憶によって語りつたえられましたが、完全なかたちで釈尊の「ことば」が残されたというものはどこにも存在しておりません。釈尊の「ことば」が記述されたのは随分の時を経過したのちのことで、釈尊滅後百二十年もすぎてからのことでありました。
 それはアショーカ王の時代になってから、紀元前二七〇年以降に「原始経典」とよんでいるものが成立しています。大勢の出家修行者が集会をもち、釈尊の「ことば」をあつめ聖典として編纂され経典がつくられましたが、この結集は何度もおこなわれ数多くの経典が成立しました。そして、この経典を中心に教団が運営され、この経典を至上のものとして尊重する保守的立場の上座部の僧たちと、時代の推移とともに経典の解釈や戒律のあり方をめぐり、新しい思想を展開する僧や信仰者が出現して仏教教団は分裂しました。

 上座部のことを部派仏教とよんでいますが「阿含経」を仏説として信奉し、煩悩を滅しつくして自己の解脱をすることこそ仏教修業の究極の目的であるとしましたのに対し、大乗仏教を主張する立場では「六波羅密」つまり、布施、持戒、忍辱、精進、禅定、般若の徳行を完成し、他者の救済に徹することが釈尊の大慈悲であり仏道修行の目的であるとしています。

 最初に成立した大乗経典は「般若経」で、部派仏教の教理を声聞乗とよび、自利・利他のちがいを明らかにしていますが、「阿含経」の仏説としての価値を否定するものではなく、戒律のちがいが争点でありました。
 しかし、そのうちに「般若経」や「阿弥陀経」の信奉教団が大勢力をもつようになり、紀元百年頃になると、出家者中心、出家者本位の部派仏教を小乗として、一切衆生に成仏を教え、大衆の救いを強調する菩薩信仰を尊重する大乗仏教が部派仏教と対立するようになりました。それは釈尊滅後五百年を経た頃のことです。

 僧団中心の保守的な権威を保持する部派仏教にも満足することができず、また「般若経」や「阿弥陀経」の主張にもついていけない思想をもった両者の対立を越えて、両者を統一しようとする動きがインド文化圏の中で出現します。
 一切衆生悉有仏性という「仏性の平等授記」を信奉し、釈尊を渇望して、その功徳は釈尊滅後の世界にも普及し、一切衆生を救済すると信じる仏教修行者たちがあらわれたのです。深い瞑想の中で教主釈尊の非滅現滅=永遠の存在=を体得し、「諸法の実相」は誰でも何でも「平等に仏性」をもつと感得した人びとによって「法華経」は成立したのです。

 「諸法実相」=何でも誰でも平等に「仏性」をもっていると説く法華経は、「法華経薬王品」に「後五百歳」という文字がありますが、釈尊滅後の五百年(一一四頃)から竜樹の時代(二五〇頃)までに成立しています。
 法華経はインドで成立しましたので、サンスクリット語で記述されています。これを梵本法華経といっていますが、梵本もたくさんありそれぞれ差異があります。さらにネパール本、ギルギット本、中央アジア本などあり、また漢訳も多く、漢訳は意訳されており、その原本は残されていないようで多数の「法華経」が存在しています。また法華経は二八章からなっていますが、その成立年代についても種々の学説があります。

 「法華経」の一章から十章までには「仏性の平等」「諸法の実相」を巧みな譬喩で、声聞、縁覚、菩薩の三乗が釈尊の教化の手段として機根に応じた方便で、いずれも成仏への一仏乗の道に帰するとされています。これは仏教には考え方、思想、信条等いろいろあり理想実現にさまざまな方法が説かれているが、それなりに存在意義があり、すべて仏の慈悲により救われると説いているのです。
 「法華経」の中心は十五〜十七章、二一〜二二章の五章で「本仏の実在」の真理が説かれています。釈尊は永遠の昔にさとりを完成されて、大慈悲心により絶えることなく衆生を教化される久遠の本仏であり、一切衆生を救済される常住不変の本仏であると説かれています。

 「法華経」の十二章の提婆品と二五章の普門品偈は五世紀の羅什訳にないので後から加わったとみられています。後五百歳の意味に深いものがあります。四〇六年に亀茲で生まれた鳩摩羅什の訳した「妙法蓮華経」は漢字文化圏で今日まで読誦され、この漢訳法華経を信奉する人びとの聖典としてこれからも信仰され続けることでしょう。

 

 

             VOL.111             2005.3.29

 

        カニシカ王

 

 アショーカ王の仏教宣揚以来約三百年、仏教は中央アジア諸国に根拠地をもって栄えます。東漸して中国へも伝えられましたが、インドで成立したシュンガ王朝がバラモン教を崇拝し、仏教を排斥しましたので、仏教徒の多くは西北インドや南方に逃げてしまいます。
 このことが北方仏教や南方仏教の発展の原因となり、北インドを統治していたのはバクトリアのミリンダ王ですが、仏教に帰依していましたので、ガンダーラ仏教美術がこの時期より興隆していきます。

 南方仏教については、アショーカ王が南インドに派遣した僧侶が大衆部の信奉者でありましたから、大衆部の学説が南方で盛んになりました。しかもドラヴィダ人のアンドラ国で受け入れられましたので仏教はさかんになります。
 一方西北インドではクシャーン王朝が創立され、二世紀頃のカニシカ王の時仏教が保護され、多数の仏塔や僧院が建てられ芸術的にも高度な仏教文化がおこりました。当時のインド美術は建築も彫刻もすべて仏教美術であり、熱心な仏教徒たちが群集して寄進をしましたので「仏教インド」といわれているようにインド各地に質の高い仏教文化が興隆することになりました。

 クシャーナ王朝のカニシカ王は東西貿易で富を手にすると同時に東西文化の交流融合の面でも大きな役割をはたしています。インドとパキスタンの北部、アフガニスタンからカシミール北方地域まで支配していますし、その統治は二十三年続き、後継にカニシカ二世がいますので彼等の築いたクシャン王国はローマと中国を結ぶ東西貿易路上の諸都市を支配し、その地に仏教文化を育成しました。
 
 カニシカ王の名声は仏教保護によるもので漢訳仏典や説話集で伝えられています。カニシカ王がインド中央部を侵略し、マカダ王を降伏させたとき、馬鳴(めみょう)という高僧と仏鉢をもらいうけ、カシミールへ連れ帰って仏教の布教をさせ、仏教徒会議を招集させています。
 莫大な費用で仏塔を建立したり、広大な寺院を建設したりしていますが、馬鳴が説一切有部教団の僧であったことから、カニシカ王が保護したのは、その教団中心でありました。「大毘婆沙論」の編集を勅命していますが、この経典により説一切有部の基礎が確立しています。

 カニシカ王は宗教に寛容でありましたから彼の貨幣にはブッダの他にゾロアスター教やギリシャ、バラモンの神々もあることから、支配した民族の多種な宗教的信仰も尊崇したといわれています。

 アミダ仏とその西方極楽浄土の思想はゾロアスター教の影響をうけて成立していますし、極楽が西方にあるという発想や、豊かな宗教的普遍性も西方の宗教思想によるとされています。
 また弥勒仏の救世主的性格は西アジアの宗教思想と関係がありますし、特にこの時代より造られる仏像は東西文化の融合による造形美術で、そのことはガンダーラ美術に代表されていることはいうまでもありません。
 当初仏像不表現であった伝統の仏教徒たちも美しい彫刻や、大乗仏教の主張を内包する仏教美術に感動し、そうした仏、菩薩、守護神の仏像を崇拝するようになりました。

 カニシカ王の統治により、ローマ帝国との接触、中国へ通じるシルクロードも延び、東地中海の通商路も延び、商業の興隆のみならず思想、文化交流、多民族の宗教文化、信仰までが融合したのです。
 こうした時期に成立しました大乗仏教は東西文化融合の宗教であり、多神教的性格と同時に世界の宗教を統一する使命を内包するもので東西文明の粋を結集して経典が創造されたことを再認識すべきです。

 

 

             VOL.116              2005.8.2

 

        八宗の祖 竜樹(ナーガールジュナ)

 

 大乗仏教が華々しく展開されて、多数の経典が生まれましたが、大乗思想を哲学的に理論づけたのが竜樹であります。以後の大乗思想は、その理論の基礎のうえに展開され、無着、世親、陳那などの有名な思想家にうけつがれ大乗仏教が世界に発展していきました。

 竜樹のことは、鳩摩羅什訳「竜樹菩薩伝」に書かれておりますが、南インドに生まれ部派仏教の伝統の中で学んでいましたが、のちに大乗に転じ、大乗経典のあらゆる思想を研究しました。しかし、「竜樹菩薩伝」には若き日の奔放な生活が記されているだけで正確な年代は不明ですが、二〜三世紀ごろの人物であり大乗仏教の理論を大成、空思想を哲学的に基礎づけ、後世の仏教に大なる影響をあたえましたので、中国や日本では「八宗の祖師」とされています。

 著作と伝えられているものは漢訳のものばかりでなく、チベット大蔵経の中にも百部ちかいものがあり、特に有名なのは「中論頌」「大智度論」「十住毘婆沙論」などです。

 竜樹は「中論頌」で「一切法は、起の道理に基づいて成立している。縁起とは、ある法が他の法との関係において成立するということであるから、いかなる法も、他と無関係にそれ自体、独立した性質のものとして存在することは不可能である。ゆえに、自性がない。自性がないから、一切法は空である」としていますが、これは「般若経」の思想を更にすすめて、空の根拠として縁起の論理的意義をあきらかにしたものです。

 空とは一切法が因縁によって生じたものであるから、そこには本体とか実体というべきものがない。それを「一切皆空」「一切法空」「諸法皆空」といわれているのです。
 「空たること」という空の本質のことを「空性」といい、空と空性は同じように使われていますが「空性」がより原意であり、空観といわれるのは一切を空であると見る実践的観法をさしています。

 ところで縁起は因縁生起でありますから、業の因果律と輪廻に束縛されています。これが迷いの原因ですから、仏教ではこの束縛を解脱して無限の悟りの世界に入ることを目的としていますので、縁起の諸法も、それ自体が迷いとして否定されなければなりません。
 このことについて竜樹は「輪廻と涅槃はいささかも相違なし」とはっきり断定しています。つまり、涅槃という特別な実体があるわけではなく、一切法が空であり、不生不滅であることが涅槃であるとしており、縁起によって迷悟不二を理論づけているのです。

 さらに諸仏は二諦によって法を説くとして、最高の真理である真諦(勝義諦)と世間的真理である俗諦があり、仏教の究極の真理は「空」であって、ことばの表現を超えたものであるが、「空」を表現する手段として俗諦である言語が必要だとされています。
 竜樹の確立した教学は大乗仏教全体の基礎となる教学で「八宗の祖師」とされました。

 さて、竜樹以後四世紀ごろに「解深密経」が作成されております。この経に三時教といわれております学説が述べられております。
 第一時は小乗の徒のために四諦などを説き、小乗仏教がさかんとなるが、複雑な法の体系ができ、自性説をたて諸法の本体を実在視して未完成な教えを説いたので論争が起きた。
 第二時は「般若経」、竜樹は空の思想で小乗を批判し、法の自性を否定したが体系を構成しなかったので虚無論の論争が起った。

 第三時は「解深密経」で空の思想を根底に、小乗仏教の教義を採り入れて大乗の教義を組織したので完成された教えであるとしています。竜樹の思想で実体のないものを仮といっていましたが、仮は空と同義語でありました。しかし、竜樹は言語的表現を便宜的なものとしていましたので教義の体系を構成しなかったのです。
 ところが「解深密経」では、真理の言語的表現の意義を認め、小乗仏教の教義も大乗の中にとり入れ、大乗の教義として再生されたのです。

 これより大乗仏教は中国、日本へと伝わっていきました。
 

 

 

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